私の町 吉備津

藤井高尚って知っている??今、彼の著書[歌のしるべ]を紹介しております。

「小雪物語」 お須香さん

2007-03-28 22:46:09 | Weblog
 「丁度、あの痛ましい事件が起きる前日だったと思いますが、浪速から京に上る船の中で、偶然、熊次郎さんの所の片島屋の万五郎さんに出会いました。万五郎さんも何か親分の大切なお役目があるとかで、遠くは陸奥の国辺りまで足を運んでいるという事でした。船の中ですので、あまり詳しいことも聞けませんでしたが、日々旅の連続で、今晩は京でお話をつけて、明日にはまた江戸へ行かれるとのこと、この宮内へは当分帰ってないと目を船床へやりながらお話されていました。まあ、そんなにお忙しい親分にですが、今、高雅さまは京に居て、大変な危険を押して、このお国のための大きな事業をやり遂げようとしているのだ、という事をお話して、もし、どこかでお会いするような機会でもあったら、なにくれとなく世話してくださいとお頼みもしました」
 それだけ早口に一気に言われて、林さまは大きく息をされて、冷めてしまったお酒の入っている備前の猪口をゆっくりとご自分のお口に、いやいやながらのように持って行かれるのでした。
 「その日も、何時もの通り、高雅さまは新之介さまをお供に連れてお出ででした。私とこの小雪と4人でお会いするのは、その日が、確か3回目ぐらいだったと思いますが。まあ、私はこの小雪に何時も京にいるときは身の回りの世話を頼んでいます。この娘の死んだ母親から続いてですがね」
 「まあ新之介と・・」と、喜智さまが驚かれた様子で何かおっしゃられようとした時です。廊下を、大急ぎでこちらへ突き来るような気配がしたと思った途端、障子がさっと開き、少々あわてた様子で、お喜智さまみたいに背筋のちゃんと整ったお年を召されたきりりとお顔の引き締まった、いかにも気の強そうなご婦人の方がお入りになり、いざよりながら喜智さまの前にお進みになられました。それから、そのお人は、林さまの前にいる私をじろりと、なにかいやらしい小薄れた汚らしいものでも見るように、私を一瞥されながら、喜智さまに向かって、甲高くやや声をひきつらしながら、言われるのでした。
 「まあ、奥様、ここを何処だとお心得でしょうか。ここは堀家の奥の間です。お屋敷で一番大切なお座敷です。そこへ、こんなけがらわしい見ず転のはしため女を、どんな了見です。」
 この「す」という言葉が、あまりの大きくて突飛で、部屋中に跳びはねているようで、小雪には、瞬間に、自分はとんでもない遠く離れたところに来ているのではないかしらと思いました。
 しばらく、その女の人を黙って静かに見つめていらした喜智さまが、ゆっくりとその人に向かって、襟に手をおやりになり、すっとを下げ正されます。その前後の場も、時も、すべてどこか違う処で起きているように、またしも小雪には思われました。そして、いくら招かれたにせよ、宿のお粂さんの、性急な追い出しによって、無分別にも飛び出すように此処へ来てしまった今の自分が、いやでなりません。ここにこなかった方がよかったように、今頃になって、しきりに思えるのでした。
 でも、そんな小雪の心を知ってか知らでか、喜智さまはその女の人に、一語一語噛締め確かめるように語り掛けられました。
 「お須香さん。今なんとお言いでしたか。」
 そのお声はどこまでも物静かで、どこか悲しさを懸命にかみ殺しているような、また、こみ上げてくる怒りをぐっと胸奥に押えているようなお声でお話になられます。
 「ここは、今、あなたがおっしゃったように我家の堀家の奥座敷です。なにも特別なところではありません。誰が入ったとしても別に穢れたり傷ついたりするものではありません。昨日のままのお部屋に変わりありません。部屋は部屋です。人が入って暮らすところなのです。ただの物なのです。穢れるとは何ですか。泥でも付いて汚れますか」
 一息大きくなさいまして、また、ゆっくりと言葉強く、きっぱりと言われました。
 「部屋に、どんな人がいようと、部屋は部屋で、何も以前とはちっとも変わりません。人の思いがこもるところではないのです。あなたは、今、この小雪さんに向かって汚らわしいとお言いでしたね。汚らわしいとは何です。その穢れているお部屋に座っている私も林様も汚らわしいのですか。部屋が穢れるのであれば当然人も穢れるはずです。人は人です。部屋と同じで穢れたりはしません」
 小雪も、この奥様は一体なにを言い出されるのかと不思議な思いで聴いていました。そのお女の人も、私と同じように奥様は何を言われるのかと不思議そうにお聞きになっていらっしゃいました。ただ、林さまは、奥様のお言葉がお分かりになるのか、いままでの堅苦しさが抜けたように、にこやかに静かにお耳を傾けられていられるようでした。
 「お須香さん、お前も知っての通り、おとどしになるかしら、残暑の厳しい長月に入ったばかりの頃だとと思いますが、洪庵の適塾の福沢さんというお人がお国の豊前中津へお帰りの途中とかで、おみえになり、家中、お前も入れて、豊子さんも幼い作之丞まで皆でお話を伺ったことがありましたね」
 ちょっと庭のほうを見られながら、又、
 「その時、福沢さんは言われました。あなたは覚えているかしら。侍、百姓、町人それぞれ、身分は違っていても、人としてはみんな誰も同じだ。『泣くし、笑うし、しゃべるじゃないか。天は人の下に人を作らず』と。そんな世の中を目指して、適塾の人達は学んでいるのだと」
 じっと移ろうような目をしながら説き聞かせるようにおっしゃられるのでした。
 「けがらわしいとはなんです。どうして汚らわしいのですか。所詮、此の世に生きているものは多かれ少なかれ、どんな人でも、みんな、人には話せないないような弱みや汚さや醜さを持って生きているのです。偽りの渦巻いている汚い世の中なのです。この小雪さんは薄汚れていますか。何処が穢れていますか。あなたが言う見ず転芸者ゆえに穢れているのですか。いつか、土砂降りの雨の日に、城の内で、お前は下駄の鼻緒をすげてもらったというではありませんか。優しい心のきれいな人でなかったら出来るものではありません。まして、今日は、林さんのお客様でもあるのです。お須香さんが言うように決して穢れているのではありません。人は人です。きれいも汚いもありせん。穢いとは人の心が、そう決め付けているだけです。ひとのこころはだれでも、福沢さまが言われたように皆同じなのです」
 小雪は、自然なつくろいも何もない、さりげない、須香さんだけに言うのではなく、誰に言うともなく、むしろ自分自身に言い聞かせるように語り掛けるように言われる、この喜智さまの言葉が、何かありがたいお経でも聞いているかのように覚え、今までに降りかかった数々の自分への飛語と相まって、無償に悲しさが広がり、涙がこらえようとしてもこらえられず後から後から頬を伝って膝に流れ落ちるのでした。汚らしい汚れた自分自身だ、と、自分でも観念したように諦めて、そのどうしようもない『穢れている』という言葉を自分自身に言い聞かせ言い聞かせしながら生きてきた今までの自分の辛さが涙となっで、次から次えと零れでてくるのでした。