私の町 吉備津

藤井高尚って知っている??今、彼の著書[歌のしるべ]を紹介しております。

「小雪物語」 葉田の黍餅

2007-03-24 00:14:36 | Weblog
 「私が、最初、浪速で高雅様にお目にかかったのは、洪庵先生のお宅だったと思います。先生のお宅に、作州の宇田川榕菴先生がお見えになっていらっしゃるとお聞きしたものですからお尋ねしたところ、偶然にも、そこで高雅さまにお会いしました。高雅さまとは、高尚先生のところに2、3回お尋ねしていて以来、旧知の間柄でした。その場で、今回の高雅さまの途方もないと思えるような高遠なご計画を拝聴させていただきました。また、方谷先生をお通しして、直接備中松山藩主板倉様のお口聞きで、徳川様の幕府からも相当のご援助も受けられる手筈になっているとも受け賜りました。それは、紀淡海峡に大暗礁を築造して夷船を防ごうという計画でした。その計画は逐一ご子息様紀一郎さまにはお伝えしてあるようにお伺いしていますので、既に、大奥様にはご存知だと思いますので省きますが、でも、この計画について、あの方谷先生から、『ある時「富潤屋」と墨書された大高檀紙をもらってな』と、あはは・・・とお笑いになっていらっしゃいましたのが印象深くこの頭に今でも残っています。
 老中であらせられる板倉様も、また幕府でも、その後の次から次へと起る国政の難題に、この計画にいたく感心をお示しになっていらっしゃたにもかかわらず頓挫しなくてはならない羽目に陥ってしまったようでした」
 一気に胸にある思いをお出しになったのでしょうか、
 「小雪、もう一献勺してくれ」
 と、これも珍しく林さまは、ご自分からご催促されました。お酌にと、御席に近づいた時、喜智さまも「あ、そうだ・・ちょうっと」とか、小声でおっしゃって、誠に品のいい御立ち様でお立ちになられ部屋から風のようにお姿を消されるように出て行かれてしまいました。
 お酌する小雪を見ながら、林さまがおっしゃられます。
 「この床にかけてあるこの軸が分るか」
 このときになって始めて部屋の中の様子も、小雪の目に映るようになっていました。
 床には、和歌かなにか、どう書かれているのかは定かではないのですが、女手の字で書かれたような軸がお掛けしてありました。
 「これはな、お喜智様の旦那様の輔政さまが、庭に咲くつばきを見て、御詠みになったお歌だ。字も輔政さまの手だ。
 
  つきせじな 花はおつとも 玉つばき その葉にもてる はるのひかりは 

 と詠むのだそうだ。此処からちょっと見えるお庭にある松の側の椿をお詠みだったようです。尽きせない春の光をどのように見ておられたのだろうか。今日の光と同じだろうかな。それにしても、備前はつばきによく合うなあ。この軸ともよくつりあっているではないか。見事なものだ」
 一息入れて、また、
 「まだ拝見した事はないのだが、大奥様も、また若奥様もよくお歌をお詠みだそうだ。どうだ、小雪も歌ぐらい習ったらどうだ。奥様にでも教えてもらってはいかがかな。あははは・・・・」
 久しぶりに聞く林さま本来の声です。その「あははは・・」という声と一緒に、再び喜智さまがなにやらお持ちになって、急に座を整えた小雪の前にお出でなさいました。
 「小雪さんには失礼しました。お客様にお茶も差し上げないとは、私も随分と年を取って物忘れがひどうなったものだこと。・・・さあどうぞ召し上がってくださいね。これはね、足守から頂いた葉田の黍餅です。私が好きなものですから、弟が時々寄こしてくるのです。お茶碗は、あなたが京生まれだと聞いたのですから京焼の茶碗にしておきました。どうぞ、お口をお付けくださいな」
 そんな細かなお心配りのお優しい言葉には、小雪にとっては、もうとっくの昔に何処かへおいてきてしまったかのような柔らかな心地よい響きがありました。
 でも、一方その言葉は、また、桁違いの場所に身を置くいうこりこりに固まった以前の小雪の気持ちに押し戻すのでした。
 「では・・」
と、喜智さまがお座りになられると、そんな小雪を気にしていたのではないでしょうが、林様は、再び、お話をお始めになられのでした。
 「以前から、老中の板倉様などの奸吏に与し、また尊王攘夷を振りかざし、その者達と二股を懸け、富家へ立ち入り大金を貪る大奸物である、天誅を加えねばと、佐幕の人からも攘夷の人からも付狙われておいでのようでした。それを随分とご心配になっておられた、緒方さまのたってのお願いで、今後のことについてご相談にと、あの夜、京での所用もございましての、ついでといっては何ですが、高雅さまとお会したのでございます」
 そこで、林さまは、お手持ちの備前の杯にあるさめてしまったお酒をぐいとお飲みになられました、
 「おや、お酒が 暖めましょう」
と、喜智さま。
「や、これでよろしい。今日は少しばかり飲ませていただきました。この辺にしておかなくては、酔っ払って後のお話が続きませんですから。・・・では、次を始めます。おうそうそう。 大暗礁も大暗礁だが、さしあたり、洪庵先生のご心痛にも心なされてか、方谷さまはご自分の子飼のお人で、備中下道の下倉に住む樋口多平とか申す若者をお遣わしになられたそうです。この人と一緒に、とりあえず琵琶湖から京へ通ずる水の道、運河とか言うそうですが。この建設へとお思いになられたようでした。その樋口とか申す若者は松山藩きっての測量の技量を持っているとかで、これから、その測量に入ろうとされた矢先に起った騒動でした。この計画が完成した暁には、富が京へ集中し、天皇家の磐石に期すという思いからだと、あの夜とうとうとご自分の計画を打ち明けられたのでした」
 どれだけのお金の援助をしたのかそんなあたりの金銭的なことには、お話の中では一切お触れなさらなかった林様でした。