私の町 吉備津

藤井高尚って知っている??今、彼の著書[歌のしるべ]を紹介しております。

「小雪物語」 林のだんなはん

2007-03-12 22:55:59 | Weblog
 小雪は堀家家の勝手口の戸をほんの一寸開け、「こんにちは」小さくやっと口から声が出ました。
 勝手口から一歩だけ入った裏庭には、まだ、花びらの先をほんの少し薄紅色に化粧させた桜が、松の常盤と取り合わせて、何か心地よく並んでいます。その桜のやや向こうの上品な真っ白い塀の側にも1本の手入れの行き届いたあまり大きくはないのですが、藪つばきでしょうか、ぽつんと立っています。もう花の盛りは過ぎているのでしょう、木の周りには一杯の落ちつばきの花びらで敷き詰められ、赤い真ん丸い毛氈が拡げられているのではと紛うほどです。いつか、「つばきが好きだ」と言われた、あの喜智さまの言葉がそのままこの庭に現れているように、小雪には思えるのでした。
 あれからお宿に帰って、姐さん達から小雪が聞いた「やれお高いだ」の「やれ傲慢だ」の「やれ情が強いだ」の、堀家の喜智さまのおうわさとは違った、なんだか暖かな心をお持ちのお方ではないかと、このお庭の木々を見ながら考えていました思えるのでした。
 そんな庭全体に春の霞が優しく流れかかっています。
 この屋の主様も、また、松と桜がたいそうお好きなお方だと聞いてはいましたが、その数寄の思いがこんな裏庭までにも風情一杯の景色を作り出しているのかしらと、どこかなつかしいような、いつか京で見た確か坪庭と呼んでいたと思いますが、そんな所に迷い込んでしまったかのような感覚に一瞬陥り、しばらくその景色を眺めていました。
 辺りは静かで物音一つありません。谷川のさやけき瀬音も此処までは届かないのでしょう。もう一度、勇気を出して、でも、今度もやっぱり小声で「ごめんください」と声に出しました。
 「はーい」という元気のいい声が、見ている庭の木々の間から聞こえて来ました。
 そのとたんに小雪の心はどうしようもない心細さに襲われるのでした。これから起るであろう未知なる物に対する不安でしょうか。ぶるっと小さく身を震わせて、じっと地面を見つめるような姿勢をして待っていました。
 「あらま、小雪さんですね。玄関からお出でになればよかったのに。さあ、玄関に回って、あいにく、今は、作之丞一家もばあやまでも、一寸出かけているものですから、さ、どうぞ、どうぞ、あちらに回って、お客さんもお待ちかねですよ」
 「私のような者、ここからで結構でございます。もったいなさすぎます」
 と、これも蚊のなくように言う小雪でした。
 「なにはともあれ、あなたは、今日は倉敷の林様のお客様ですからね。表に回ってくださいな」
 「でも」「でも」といくら押し問答しても、埒が開きません。ついに恐る恐る小雪は、その勝手口を出て堀家家の玄関の向かうのでした。長いお屋敷の塀を回る小路を下を向いたまま、できるだけゆっくりと歩いていきました。
 決して自分のようなはしためが、出向くことができるような処ではありません。そんな、今、置かれている自分自身の奥底に潜み込んでいる恐ろしいまでの穢さがわが身を襲って、わが身を余計に歪めいじけさせているのでした。こんなに長い道のりを今までに歩いたことがなかったかのように思えるのです。
 ようやく玄関につくことが出来ました。
 その玄関では、やはり大奥様がもうすでにお座りになって迎えてくださっているではありませんか。自分の置く場所がいくら探しても見つからないような気分になりながら玄関に一歩一歩踏みしめ自分の歩を確かめるようにして入っていきました。
 それからしばらくの間、何処をどう通ったのか、なにがなんだか分らないような気分になりながら、お喜智さまに案内されて奥の座敷に向かいます。廊下から見える回りの庭も木々も塀も、向こうのお山も何も目に入りません、ただ通る廊下の一直線に伸びた榑縁の一枚の細長い板の上を歩いていきます。
 それでもどうにか、じっとうつむいたまま案内された部屋にまで行く事が出来ました。
 「おお小雪、無事で生き通せることが出来ていたか。随分心配していたぞ」
 その声はどこかでかで、かって聞いたことがあるように思えましたが、はっきりとは記憶にはありません。伏せ目がちにそっとその声のお方を見やりました。
 「あ、林さま」
 声にならない声が自然と口をついてでてきました。