水の門

体内をながれるもの。ことば。音楽。飲みもの。スピリット。

歌集『カインの祈り』

澤本佳歩歌集『カインの祈り』
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2024年7月17日の祈り

2024年07月17日 20時50分13秒 | 「とど」の日々の祈り
5月26日のオープンチャーチ内のミニバザーの売上は、能登の某教会の再建に充てられるということだったので、その教会名で検索してたら、日本基督教団のサイトの「お知らせ」がヒットし、その一つ後のお知らせ『カルトって知ってますか?』(というブックレットの頒布)の記事を読んだ。うーんと思って、またもや関係妄想が働いたのだが、教団サイトをトップから眺めたら、【教団新報】の「クリスチャントゥデイ裁判報告会」の記事が目に留まった。こういう経緯があったのか……と思いつつ、Twitterで私が井手北斗さんからフォローが外されたのも、渦中で大変だったのかも、と考えた。日本キリスト教団出版局発行の『わたしが「カルト」に?』の説明文で「誰もがカルト化する可能性がある」と書いてあるけど、ほんそれよね、と思う。高慢が組織的になってくると少なからずカルト化すると思うけど、井手さん自身が真摯な信仰をお持ちなのは、フォローされてた時代に感じてたのも事実。どうか井手さんや周囲の方々が必要な助けを受けられますように。
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一首鑑賞(102):岸原さや「小さな脳に刻もうとする」

2024年07月17日 13時51分42秒 | 一首鑑賞
なぜだろういつか忘れていくことを小さな脳に刻もうとする
岸原さや『声、あるいは音のような』

 岸原は読書家である。そして映画もよく観ている。私がTwitterをしていた頃、岸原の視野の広さ・行動力には圧倒されていた。しかし、岸原の歌集には知識をひけらかすようなところは微塵もない。ただ清冽で美しい読後感の残る歌集である。
 岸原はカトリックの信徒である。歌集には、神父に受洗の動機を告げる一首なども収められている。だから、「小さな脳に刻もうとする」「いつか忘れていくこと」というのは、社会や文化の知識なども勿論指しているのであろうが、聖書の御言葉や聖人らによる黙想の言葉などもおそらく含まれているのでは、と私は推察する。
 申命記8章2〜3節に次の御言葉がある。
あなたの神、主が導かれたこの四十年の荒れ野の旅を思い起こしなさい。こうして主はあなたを苦しめて試し、あなたの心にあること、すなわち御自分の戒めを守るかどうかを知ろうとされた。主はあなたを苦しめ、飢えさせ、あなたも先祖も味わったことのないマナを食べさせられた。人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった。

 私自身はキャパシティ(人間としての容量)がごく小さいため、読書は殆ど聖書一辺倒であることを認めざるを得ない。聖書をベースにしつつ、それを補う程度に他の本を読んでいるに過ぎない。書籍に頼って自分の信仰の根を広げるには、あまりに遅読な私である。それゆえ、FEBCというキリスト教放送局を日々愛聴しており、気に入った番組の音源(FEBCライブラリー)は購入もしている。まぁそうは言っても、与えられている時間はみな等しく一日24時間なのであるし、買ったは良いけれど全部を聴き直すことができず、“拾い聴き”をしている場合も多い。

  悲の器 愛の器 無の器 うつわでしかなかったわたくし /岸原さや『声、あるいは音のような』

 誠実な省察の歌である。どれほどの知識や教養を蓄えようとも、自分は「うつわでしかなかった」と岸原は詠う。「言葉」を宿さねば生きていけない、という切実さに溢れていると言えよう。

 『信徒の友』2024年5月号[読者文芸]にこういう短歌があった。
  パンのみで生きてはいない僕がいた鬱に言葉を奪われし時 /岩瀬順治(『信徒の友』2024年5月号[読者文芸:短歌]より)

 鬱というのは、言葉さえも奪われる病なのだな、と、その辛さを推し量ることは非常に難しい。けれど岩瀬は「パンのみで生きてはいない僕がいた」と詠い切った。岩瀬は信仰者であろうから、きっと先に引用した申命記8章の御言葉を踏まえている筈である。そしておそらくは、ヨハネによる福音書1章の御言葉も胸中にあったのでは、と思われる。少し引用する。
言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。(ヨハネによる福音書1章4節)
言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。(ヨハネによる福音書1章14節)

 主のご臨在は、聖霊の働きに顕れる。でも如何せん、聖霊は目に見えない存在であり、記憶に留められない。神様は、見えないものを信じられぬ人間の弱さをよくご存知だったから、イエスを地上に人間として送ってくださった。イエスは、神の意志を持ちつつ人間としてこの世を生きられた。イエスの語った言葉、そして行なった事柄の一つ一つ——主の生き様——が、人を生かす「言葉」として、聖書として残されている恵みを、つくづくと感じながら私は生きている。
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