水の門

体内をながれるもの。ことば。音楽。飲みもの。スピリット。

歌集『カインの祈り』

澤本佳歩歌集『カインの祈り』
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#通読+α 2021年3月分まとめ

2021年03月31日 07時17分33秒 | 黙想・聖書通読・礼拝聖句
◆3月3日
それにしても耳鳴りがひどい。今はまだ聴力的には周囲の人よりよく聴こえているようだが、今後どうなるかなぁ。あまり聴こえなくなる前に、曲の鑑賞も書いておきたい。まぁ尤も、視力だって保証されてるわけじゃないけど。
ちなみに一曲鑑賞は、ゴスペルやCCMについてのみ書くつもりです(日本語詞の場合)。讃美歌について書くかは分からない(ある意味で排除的な部分もあるし、俗っぽい私が口を挟む余地があるか、かなり疑問なので)。
   ↓   ↓  ↓
★3月7日礼拝の交読詩編より
<新共同訳 詩編86:11>
主よ、あなたの道をお教えください。わたしはあなたのまことの中を歩みます。御名を畏れ敬うことができるように 一筋の心をわたしにお与えください。


◆3月4日
トラクト次号は勝負に出た(越権行為系)。マタイ18:2-5を扉絵に添える聖句に選んだ。コロナ禍で「子どもの礼拝」が休止になってる苦しさの中で、牧師先生に「子ども」のことに向き合っていただきたく敢えてそうした。無難な巻頭言で逃げてほしくなく外堀を埋めた。牧師夫妻に子どもはいない。牧師先生にはガチで呻吟してほしいと願ってる。悪魔っぽいかもね、私。でも、「気持ちんよかぁ〜」な信仰は要らない、そんなもので人は救われない、と思ってる。私はリアリストだ。


◆3月8日
めっさ調子悪い……つか、鎮静剤が少し前より効き過ぎるんだなぁ。だから総じて言えば、精神症状的には落ち着いてきているんだろうけど。ちょっとテンション高めだなと鎮静剤を少し重くすると、長時間に亘ってぐったり(頓服的な使用が難しくなってる)。薬や飲み物の加減、はたまたは聴く音楽やラジオ番組で体調をコントロールしようとしがちだが、もっと日々主に心を預けることを神は願っていらっしゃるのかもなぁ。
   ↓   ↓  ↓
<新改訳第三版 ペテロ⑴5:6-7>
ですから、あなたがたは、神の力強い御手の下にへりくだりなさい。神が、ちょうど良い時に、あなたがたを高くしてくださるためです。あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。


◆3月10日
昨日作業所で、自称クリスチャンと話し込んだ(未受洗。神は信じてるがイエスを知らな過ぎる方)。私が「女だから暴力を受けた。男性を呪いながら育った」と改めて話したら吃驚してた。伝わってなかったか?そして私としてはもう父も兄も赦したつもりでいたが、まだ傷が癒えていないことがわかった。私から醸し出されてる神は、憐みよりも滅ぼす系のイメージだということもわかった。
   ↓   ↓  ↓
<岩波翻訳委員会訳 マタイ16:24-25>
そののちイエスは、その弟子たちに言った、「もし人が私の後ろから来たいと望むならば、自分自身を否み、自分の十字架を担って私に従って来るがよい。実に、自分のいのちを救おうと欲する者はそれを滅ぼすであろう。しかし、自分のいのちを私のために滅ぼす者は、それを見いだすであろう。
(FEBC Today 3/10の「今日の聖書」より)
   *  *  *
FEBC Todayを8回くらい繰り返し聴いた(そのくらい飲み込みにくい内容だった)。蓮見和男先生の「ペトロのように自分を捨てないでもイエスに従って行けると思う者は、ついにイエスを捨てるのです。イエスを捨て、十字架を捨て、果たして自分を全うしたことになるでしょうか」という言葉が刺さった。
   ↓   ↓  ↓
【拙歌引用】
恋のたび病める心を御しがたく平城山のふし噛みしめている
(2007年10月22日 作歌、2019年2月5日 改作)
   *  *  *
これは「恋の病」なんていう甘やかなものではない。恋すれば(あるいは恋に巻き込まれれば)文字通り精神を病むのである。
   ↓   ↓  ↓
私は聖句の「自分を捨てる」を禁欲的になることと浅く解して自分(の精神状態)を守り、男性への憎しみを解くことを怠ってきたのだな……。一朝一夕に男性を赦すのは困難。また世の中の愛と神の愛は全く違う。だから、世に渦巻いている誘惑に取り込まれないようにしつつ、心の目を開いていかなくては


◆3月12日
<新改訳第三版 ペテロ⑴4:12-13>
…あなたがたを試みるためにあなたがたの間に燃えさかる火の試練を、何か思いがけないことが起こったかのように驚き怪しむことなく、むしろ、キリストの苦しみにあずかれるのですから、喜んでいなさい。それは、キリストの栄光が現われるときにも、喜びおどる者となるためです。
   *  *  *
12時過ぎに作業所に休みの連絡。熱とか不眠とか体裁のいい事由でなく、被害妄想が強くヘッドバンギング系(ただし上下でなく左右の首振り)の静坐不能症が出ると、初めてはっきり言った。見た目“取り憑かれ“系なので今まで説明してこなかった。通所の際に詳しく訊かれたら〈実演〉の必要が出てくるか…?職員は〈薬〉信奉者なので、異常行動と見れば、症状を抑え込む薬の処方をしてもらうように要求するだろう。下手すると、古典的な電気痙攣療法にまで持って行かれるかもしれない……と思うと恐怖だったのだ。


◆3月13日
今朝は、New Living Translationで humiliate を検索し、該当箇所を全て新改訳第三版で見ていった。内の一つ、申命記21:14では捕虜の女性を妻にし、別れる場合について書いてある。(You may not sell her or treat her as a slave, for you have humiliated her.)
   ↓   ↓  ↓
〈have humiliated her〉は新改訳で〈すでに彼女を意のままにした〉。そう言えば神様は、人間を必要に応じて遜らせるが、意のままにしようとは決してなさらないよな。


◆3月13日
★3月14日の礼拝の交読詩篇より
<新改訳第三版 詩篇145:6>
人々はあなたの恐ろしいみわざの力を語り、私はあなたの偉大さを述べるでしょう。
   *  *  *
明日も礼拝行きたくなってきた。義務とか人がとやかく言うからではなく。勿論多少の人疲れはあるけど、礼拝で御言葉きくのは私にとって栄養補給なんだ。


◆3月19日
今日は作業所で1月〜3月生まれの人をお祝いする誕生会があった。複数の選択肢から好きなものを選べる。私はお寿司にした。他の方はデザートで苺大福とワッフルがついたが、私はこちらの希望で無しにしていただいた(精神科医から間食しないよう言われてるので)。
   *  *  *
<新改訳第三版 ルカの福音書11:35>
だから、あなたのうちの光が、暗やみにならないように、気をつけなさい。
   ↓   ↓  ↓
通読で凄く引っかかる聖句でコピペしてあった。聖書で言う光(良いもの)が暗闇になるってどういうことだろうなぁ、と。
   *  *  *
私は午前中失言を。飲食とイベントが大好きなネブカドネツァルが現所長に「デザート選んだの◯◯さん(所長)ですか?」とテンション高めで訊いてたので、つい「そんな下らないこと…色々やることあって忙しいから他の職員に任せてるでしょうに」と言ったら、「下らなくないよ。皆で話し合ったよ」と所長。引っ込みがつかなくなった私は、Twitterの「イヤな短歌会」で発表した

できるなら霞を食べて暮らしたい食べたい時はただのストレス

の拙歌について話し、飢餓感ある時以外で食べたいと思うのは、ヤケ食いで自分の身体を痛めつけてストレスを忘れようとする時だ、と放言。
けどその後、ちょっとヤバいこと言ったかなぁ、と「でもイエスは大食漢で大酒飲みという噂を立てられてたんですよ。私よりよっぽど人間的です」と、フォローみたいに言った(ルカによる福音書7:34)。私は件の短歌で、クラゲのあだ名がついたのも打ち明けた。
帰宅後振り返って下記聖句が浮かんだ。
<協会共同訳コリント⑴8:1-2>
…私たちは皆、知識を持っている、ということは確かです。しかし、知識は人を高ぶらせるのに対して、愛は人を造り上げます。ある人が、何かを知っていると思っているなら、その人は、知らねばならないように知ってはいないのです。
<協会共同訳コリント⑴8:9>
ただ、あなたがたのこの強さが、弱い人々のつまずきとならないように、気をつけなさい。


◆3月26日
バテバテ……ここ2週ほど頑張り過ぎたか?通所・散文アウトプット・手紙書きなど。礼拝も5週間休まず行ってるし。キャパの小ささに比べインプット多過ぎかも(感度良くなってるとは決して思えないが)。でも明後日の棕櫚の主日は礼拝休みたくない……ゆとりを与えて下さい、と子どものような心で祈るかな
   ↓   ↓  ↓
<新改訳第三版 詩篇4:1>
私が呼ぶとき、答えてください。私の義なる神。あなたは、私の苦しみのときにゆとりを与えてくださいました。私をあわれみ、私の祈りを聞いてください。


◆3月27日
やりたいこと、やるべきこと、日常の生活、などで手一杯でダウンしてしまうことがここのところ多い。臨機応変に行うのが難しいタチなので、ダウンした時にiPhoneでスケジュールの組み直しをするが、最近はどの案件も〈緊急〉顔で迫ってくる感じで、リスケジューリングしててもクラクラする。
   ↓   ↓  ↓
<新改訳第三版 箴言16:9>
人は心に自分の道を思い巡らす。しかし、その人の歩みを確かなものにするのは主である。
   *  *  *
ああ、そうだ、一歩一歩を守って下さる主に頼らなきゃ、と。


◆3月30日
ミィが木登りしてる絵って、この切手シートだけじゃなく、グッズとかでも相当あるみたい。原作にもそういうシーンがあるのかな?このミィを見て、何となくザアカイが木に登る聖書箇所(ルカの福音書19章)を思い出していた。
受洗してすぐの頃まだかなり世的で節制の取れた生活ができておらず、周りの信徒から色々責められて行き詰まってた。そしたら聖霊だったのだろう、(今聖書を開きなさい、私が教えるから)というような促しが降りてきて、わけもわからず聖書を開いた。そしてぶち当たったのがザアカイの箇所だった。
ザアカイは取税人のかしらで皆が忌避。イエスに興味はあったが直接話しかける勇気もなく、ザアカイは主を見ようと木に登った。するとイエスから「ザアカイ。急いで降りて来なさい。きょうは、あなたの家に泊まることにしてあるから」と。人々は「あの方は罪人のところに行って客となられた」と悪口を。
私の受洗後、大学の後輩で信徒としては先輩の人に「◯◯がクリスチャンになるとは思わなかった」と言われた。彼女と私の初めての遭遇は、ジャズのビッグバンドの部室に彼女が見学に来たところ、私が部室のソファで眠っていたというもの。彼女は内心顔を顰めたらしい。(女性なの?なんて下品な…)と。
私はおよそ人が友達になりたがるタイプではなかった。神の直の促しでザアカイの聖句に目が開かれ、「あなたを教会に呼んだのは私(=イエス)だよ。人が呼んだんじゃない」と言われた気がした。ザアカイの物語が聖書になかったら、私は今でも教会に繋がってはいなかっただろう。
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テンション高く。

2021年03月30日 03時22分34秒 | 気分・体調にあわせて
愚痴るとき余人を「お前」呼ばわりする癖は一生抜けそうにない
(とど)

2021年2月21日 作歌。

*良くない癖です。そもそも噂話的なことを止めれば、脱却できるのかなぁ。
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型破りすぎる…∑(゚Д゚)

2021年03月29日 13時40分35秒 | 人[その作品]に寄せて
のっけから破にて始まるきみだけど 11th(イレヴンス)までぶっ飛ばさないで
(とど)

2020年11月25日 作歌。
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病気でサークル辞めて受洗したら…

2021年03月25日 02時59分51秒 | 思い出に寄せて
避けられた理由が今にしてわかる怨嗟の坩堝だったのだから
(とど)

2020年6月5日 作歌。
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レントより遅く。

2021年03月23日 03時59分21秒 | 季節にあわせて
レントより遅く驟雨につやめいた黒いサドルに黄砂が積もる
(とど)

2021年3月21日 作歌。

*下句がお題。
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一首鑑賞(81):岩津美子・柴田文子〈コロナ下の教会の子ども達〉

2021年03月22日 08時44分05秒 | 一首鑑賞
祝福を受けし子どもらと牧師は透明板隔てエア・タッチする
岩津美子(『信徒の友』2020年12月号読者文芸欄より)


 新型コロナウイルス感染症の拡大は言うまでもなく教会活動全般に影響を及ぼした。昨年4月より教会学校「こどもと大人の礼拝」が休止されたのもその一つである。「当面休止」とされながらも、なかなか再開には至らず一年が経過した。2019年の【0才からのクリスマスコンサート〜えほんとおんがくのおくりもの】が成功裡に終わり、コンサートに大きく関わってくださったDこども園の先生方がその後大勢教会にいらしたり、新しい子ども出席者も来ていたりしていたところの腰折れである。2020年度に入った途端に教会で見かける子ども達が激減したのは当然と言えば当然だが、教会員各々の心の内に大きな痛みをもたらした。
 11月は世間でも七五三の時季であるが、わがN教会でも「子ども祝福式」を行なっている。通常であれば参列した子ども一人一人の頭に牧師が手を置いて、神様の子どもとして健やかに歩めるよう祈ってくださるが、昨年度は子ども達を礼拝堂の前の方に呼んだけれども、牧師は子ども達とは距離を取って祝福の祈りをするに留めた。妥当な判断だったと思うが、やはりイエス様が子どもの頭に手を置いて祈ったように牧師に手を置いて祈ってほしかったと残念がる声も聞かれた。掲出歌の岩津氏の教会では、子ども祝福式をアクリルパネルを隔てて行なったようだ。祝福を受けた後の子どもと牧師が手と手を〈エア・タッチ〉をしたというのが何とも粋で、励まされる。短歌文芸欄選者の林あまり氏が「祝福をさえぎるものはありません」と選評を書いていて、本当にそうだなぁと感じ入った。

  聖水を亨けしみどり児をこもごもに幸い分くるごとくにいだく /大塚善子『パンの笛』(1997年)

 大塚氏のご息女は国際結婚をしてドイツに移住された。上の歌は、大塚氏にとっての孫が幼児洗礼を受ける際にドイツに渡って、その場に立ち会ったことを詠んだ一連のうちに収められている。FEBCラジオの某番組で読まれたリスナーからのお手紙で、コロナのために受洗が延期になったという話があったが、今はあちこちの教会でそういうことが起こっているのかもしれない。大塚氏の歌が詠まれた時分は勿論そんな気兼ねなく受洗したばかりの嬰児を代わる代わる抱かせてもらえて、みんなで喜びを分け合ったのだろう。それがどれほどの恵みであるかということは、今になって私達の胸に迫ってくるのではないか。

  幼子は半年ぶりに礼拝に 思わず囲むマスクの我ら /柴田文子(『信徒の友』2021年1月号読者文芸欄より)

 わがN教会では3月の長老会で、新年度から教会学校「こどもと大人の礼拝」の再開が決まった。もちろん感染症対策は十分に取られた上での再開である。久々に礼拝にやって来る子ども達に、あまり接近し過ぎないように気遣いながらも、ついつい囲んでしまう。そんな光景がN教会でも生じるのが今から目に浮かぶようだ。どうか、神様の御手がいつも子ども達と共にあって、色々なことがあっても子ども達がのびのびと成長していけるように、と願ってやまない。
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プレーリードッグ。

2021年03月21日 13時04分42秒 | その他
ぬいぐるみのプレーリードッグ抱きしめる この子は私を傷つけないから
(とど)

2021年3月13日 作歌。
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上書きの愛。

2021年03月20日 13時48分04秒 | 人[その作品]に寄せて
虐待の記憶癒されないままに上書きの愛しめされてもね
(とど)

2021年3月13日 作歌。
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春北風(はるならい)。

2021年03月18日 14時43分12秒 | 季節にあわせて
旅立ちの君の背中を見送って襟首さましゆく春北風(はるならい)
(とど)

*上句はお題。

2021年3月14日 作歌。

さだまさし×佐渡裕「風に立つライオン」
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一首鑑賞(80):窪田空穂「心耳(しんじ)の奥に聴きにき」

2021年03月17日 11時00分33秒 | 一首鑑賞
最後(をはり)まで試煉(こころみ)にあはせずといふ声をわれは心耳(しんじ)の奥に聴きにき
窪田空穂『木草と共に』


 空穂は後半生に入って難聴を患い、そのもどかしさを詠った歌を多数残している。いくつか拾ってみる。

  声低くものいふ人は悲しくも聞えしさまを我にせさする /『明闇』
  耳とほくなりぬ我はといふべくは半(なかば)は聞ゆやや高くいへ /〃
  声ひそめ眼をかがやかしいふ人のその眼をただに我の守りつ /〃
  聞えねば我に存せずよるの雨夜明けの小鳥人がいふこと /『冬木原』
  低ごゑの聞きはかぬるをおのづから聞かむとつとめ疲れけるらし /〃
  耳うとく聴き取りかぬるもどかしさ馴るるがままに忘れなむとす /〃
  声ひくき人と対へばあざむきをしてゐる我とこころのくるし /〃
  笑顔向けもの言ふ人を手もて制し補聴器耳にす聞えもすやと /『去年の雪』
  庭の粟見出で下り来る雀ども声なき鳥とぞなりはてにける /〃
  軒に吊る風鈴風にゆるれどもさやけき音を立つることなし /〃

 掲出歌所収の『木草と共に』は1964年に発行された。遺歌集より二つ前の歌集であり、『去年の雪』の一つ前の歌集となる。当時の空穂に聴こえづらさは当然付き纏っていた筈だが、この掲出歌には何とも言えない穏やかな心情が表れている。空穂は難聴の他にも様々な病に苦しめられていた。しかしその空穂に「最後(をはり)まで試煉(こころみ)にあはせずといふ声」が心の耳に聴こえた、と言わせたものは一体何だったのか。
 卑近な話で恐縮だが、私の母は一年ほど前からだいぶ耳が遠くなった。私も初めの頃は大きな声で滑舌よく話しかけたり、あるいは言葉自体がわかりづらいのだろうと平易な言葉に置き換えて説明したりもしていたが、どうもそれで解決する問題ではなかったようだ。昨年秋から今年の1月頃まで、私は持病の再燃と言えるくらいの精神的な危機に陥っていた。どこへ行っても理解されず、作業所で、家で、病院で、私は自分の置かれている状況と精神および身体の状態をくだくだしいほどに説明して回り、誇張ではなく目が回っている感じであった。特に家では夕食の準備をしている母に、作業所で起こっていることを説明したことがたびたびあったが、言葉が聞き取れない母に向かって一人芝居を打って出ることでやっと状況が飲み込めてもらえ、脈拍数が急上昇するなんてことが頻繁にあった。
 去年の8月に私は、伊藤比呂美の『道行やーHey, you bastards! I'm still here!』(英語による副題を日本語にすれば、「(ちくしょう)あたしはまだ生きてるんだ。」)を読んでいた。その中の「耳の聞こえ」という章に、耳が聞こえなくなることがいかに humiliating(屈辱的)か、ということが書いてあって、目から鱗が落ちる思いがした。聞こえない人に対して大声で話されても、声を荒げたようにしか聞き取れない。甲高く喋った声に伴う、苛立ちや呆れ、戸惑いの感情。そういった感情をぶつけられた側の感じる気持ちを、伊藤比呂美は「人には、前を向いて、頭を上げ、立ち上がって歩き出そうとする特性がある。それが意味もなく否定され、押しつぶされる感じ」と表現した。空穂の難聴にまつわる歌にも、聴こえないことへのもどかしさ、苛立ちが抜き難く備わっている。
 その上で改めて掲出歌を見てみると、「最後(をはり)まで試煉(こころみ)にあはせずといふ声をわれは心耳(しんじ)の奥に聴」いたというのは、単なる諦念ではなさそうだと察しがつく。空穂は、若き日に植村正久師に教えを請うたこともあり、晩年においても神への畏敬の念を感じさせる歌も作っている。「こころみにあはせず」は、「主の祈り」に出てくる一節でクリスチャンには馴染み深い。部分的に引いてみる。

   我らに罪を犯すものを我らが赦すごとく、
   我らの罪をも赦したまえ。
   我らを試みにあわせず、
   悪より救いいだしたまえ。


そして、コリントの信徒への手紙 一 10章13節「あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます」も浮かんでくる。この聖句は近年、複数の著名人から取り上げられたものだから部分的に有名になった。だが、障害を持って生まれた子の親に対してこの聖句を大上段に構えて語るなど、神の愛の前提抜きにこの聖句が広まってしまい、誤解と波紋を呼んでいるようだ。それについてここではあまり深入りできないが、この聖句の肝は節の後半「神は真実な方です。…(中略)…試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます」にあろう。
 「最後(をはり)まで試煉(こころみ)に…」なんて言うけれど、結局は空穂が信心深かったからそう思えたのでしょう?と問う方もいるに違いない。そういう方々に答えるべき上手い言葉を私は知らない。けれど、イエスご自身が生前受けた苦しみと、主がそれにどう立ち向かったかを集約した聖句を稿末に引くことで、読む人の心に委ねたい。

キリストは、肉において生きておられたとき、激しい叫び声をあげ、涙を流しながら、御自分を死から救う力のある方に、祈りと願いとをささげ、その畏れ敬う態度のゆえに聞き入れられました。(ヘブライ人への手紙 5章7節)
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マイ・ラスト・ソングス(葬式で歌ってほしい曲)

2021年03月15日 08時51分26秒 | マイ・ラスト・ソング
このブログの一等はじめの記事は、「マイ・ラスト・ソング」である。久世光彦さんの同名書籍を20代のころ時間をかけて読んで(そして殆どの内容はもう忘れてしまって)、でもそのタイトルだけが強烈に印象に残っていて、BGMのウェブサイトにはメインのコンテンツの一つとして載せていた。ブログ開始当時の私はどこの教会にも通えていなかったし、母教会では結婚式などでも世俗の曲を式のBGMとして使う鷹揚さがあったため、まぁ【葬式(あるいは病床)BGM】もアリでしょうと思ったのだった気がする。しかし今通う教会へ転入会して早14年、伝道や聖書の学び・黙想などに生ぬるいこの教会の気風に染まるまい……!!と粋がっていても、〈住めば都〉的な部分もあって、すっかり腰をおろした格好だ。
現任の牧師は、2014年4月に当教会に赴任された。赴任して2年目だったか、葬儀についての学びの場を設けて下さり、葬儀に対する個々の教会員の希望を一枚に纏められるようにと「N教会員の覚書」用紙を配付して下さった。そこに自分の葬式で歌ってほしい讃美歌を書く欄があった。牧師に訊くと「4曲までOKです」とのこと(葬儀で2曲、出棺で2曲ということらしい)。それで改めて、自分の葬式で何を歌ってほしいかなぁ……としばらく考え、一旦覚書用紙を提出したものの出し直しもし、さらにその後少し考えが変わって、ようやく最近「これで行こう」とまとまった。以下、YouTubeを貼っておく。

    *    *    *
新しい天と地を見たとき(『讃美歌21』580番)

イエスが最後には涙を拭って下さり、全てを新しくするという詞に励まされる。


日暮れて四方は暗く(*『讃美歌21』では218番「日暮れて闇は迫り」

この世の生を終え眠りに就いても、主が共にいて下さることを願う歌詞に共感する。


主にありてぞ(『讃美歌21』518番)

「生くるも良し、死もまた良し」という歌詞が心に響いてくる。


球根の中には(『讃美歌21』575番)

この一曲は実はなかなか決まらなかった。曲的には美しいけれど、もっと信仰寄りな、いわば“非信徒を撥ねつけるような”歌詞の曲をいくつか候補に選んでいたのだった。でも、フィリピの信徒への手紙1章20節「そして、どんなことにも恥をかかず、これまでのように今も、生きるにも死ぬにも、わたしの身によってキリストが公然とあがめられるようにと切に願い、希望しています」の御言葉にアーメン!と思い、これに決めた。
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弁が立つ割に…

2021年03月13日 15時03分44秒 | 人[その作品]に寄せて
やめるより始めることがむずかしい 主治医と逆の母の余生は
(とど)

2019年8月25日 作歌。
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何の分際でタメ口…!

2021年03月12日 14時26分28秒 | 人[その作品]に寄せて
アリョーシャは天然 それを活かすには押さえつけては駄目だよ、長老
(とど)

2020年12月6日 作歌。
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むごい。(どっちが?)

2021年03月11日 17時49分15秒 | 人[その作品]に寄せて
君の歌よみがえるたび閃光のようにもがいて 私はひとり
(とど)

2021年3月11日 作歌。
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本当に伝えたいなら努力しろ!っつーの

2021年03月09日 17時25分32秒 | 人[その作品]に寄せて
「神は愛」だけ言っていて伝わるか?💢何をいっても同じ答えで
(とど)

2021年3月7日 作歌。

*下句はお題。
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