水の門

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歌集『カインの祈り』

澤本佳歩歌集『カインの祈り』
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#通読 2017年10月分まとめ

2017年10月31日 05時31分12秒 | 黙想・聖書通読・礼拝聖句
◆10月1日
歴代上14:2「ダビデは、主が…主の民イスラエルのために彼の王権を非常に高めてくださったことを悟った」わが僕ダビデのためにイスラエルを救う、といった聖句が多い中これは異色。ダビデ自身は、イスラエルのために自分が立てられたと認識。あくまでも謙遜な姿勢が光る

◆10月17日
歴代下6:15「あなたはその僕、わたしの父ダビデになさった約束を守り、御口をもって約束なさったことを、今日このとおり御手をもって成し遂げてくださいました」と祈れるソロモンの幸い。生きているうちに主の約束の実現を見られること。主の約束を覚えていられること。

◆10月19日
歴代下8:11〈ソロモンはファラオの娘をダビデの町から、彼女のために建てた宮殿に移した。「わたしの妻は…ダビデの宮殿に住んではならない。そこは主の箱を迎え入れた聖なる所だ」と〉ソロモンは背信を知りつつ繕った。改め難い罪もそのまま主に差し出せるようにと願う

◆10月23日
新改訳⑵歴代14:11。アサは主に助けを求め「あなたは私たちの神です。人間にすぎない者に、あなたに並ぶようなことはできないようにしてください」と祈った。〈人間にすぎない者〉とは端的にはクシュ人だが、翻って自らにも当てはまる。アサは自己をわきまえ謙虚だった

◆10月28日
ヘブライ11:26。(モーセは)「キリストのゆえに受けるあざけりをエジプトの財宝よりまさる富と考えました」。〈キリストのゆえに〉?モーセの方が歴史上は前なのに?と色んな訳を参照。塚本虎二訳「彼は『キリストの(受けられる)罵りを(受けることは)』…」で納得
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一首鑑賞(50):栗木京子「弱き母が弱きわが子を叱りゐる」

2017年10月21日 14時36分23秒 | 一首鑑賞
弱き母が弱きわが子を叱りゐる冬の夕暮れ 葱買ひ帰らう
栗木京子『南の窓から:短歌日記2016』


 私には子供はいないから、この歌の鑑賞を書くことは不遜以外の何物でもないかもしれない。それでも敢えて筆を執ったのは、栗木自身と詠まれた人物双方の心境がヒリヒリと迫ってきたからである。2016年12月12日付けのこの短歌に添えられた詞書にこうある。

   近所のアパートから子を叱る女性の声が聞こえて、心の底から寂しくなる。叱る気持ちに覚えがあるから。

 私は普段、障害者の作業所に通っている。通所者の多くは精神障害者で、謂わば「生きづらさ」を抱えた人達だ。私自身も傍から見ればそういう部分があるに違いないが、他のメンバーの言動が常識からかなり外れていることに驚かされたことは数知れない。時には声を荒げてメンバーに叱責めいたことをしたのも何度かあったが、私にそうできる資質が生来備わっているわけでもなく、日頃の私の立ち振る舞いを正直に省みれば、とても言えた義理ではないことは疑いようがない。それでも、これは言わなければ、と自分を差し置いて忠言することがあるのは、聖書の御言葉によって強く促される時である。
 ヘブライ人への手紙4章12節に「神の言葉は生きており、力を発揮し、どんな両刃の剣よりも鋭く、精神と霊、関節と骨髄とを切り離すほどに刺し通して、心の思いや考えを見分けることができるからです」と書かれている。聖書を知らない時は、私は何の基準も持たず、我欲のままに生きてきた。作業所のメンバーを見て、私は聖書に出会う前の自分が暗闇の中でもがきながら生きていたことをまざまざと思い出させられる。クリスチャンとして歩み始めて日が浅かった頃、私は生きていく上で何か分からないことがあると聖書を貪り読んだ。祈りつつ、答えが出るまで必死にページを捲り、その度に御言葉から答えを示され、聖書が神の言葉であるという確信を深めていった。
 この一年を振り返っても、私は二度ほど作業所のメンバーに苦言したことがあった。一回は、ひとまわり以上若い男性に対して、もう一回は、私より若干年配の男性に対して。もともと人を裁きがちな私でも後から思い出して尾を引くほど、強い語調で諌めてしまった。聖書は、ただの良い掟の書とは違う。「両刃の剣」だ。つまり、御言葉を以って人に立ち向かえば、御言葉は私自身も刺してくる。自分の良いようにだけは使えない、それが御言葉の聖句たる所以である。
 掲出歌を改めて見よう。「弱き母が弱きわが子を叱」っているのだ。きっとこの母親は、自分がきつい言葉遣いや態度で子供を叱ったことに、後からじくじくと苛まれてしまうのだろうと栗木は想像し、葱を買って帰ろう、とふと思う。葱は刻むと、涙腺を刺激する独特の臭いを放つ。栗木は子供を叱っていた母親の声を思い起こして他人事ながら遣り切れなくなった時、人知れず涙を流すために葱を冷蔵庫より取り出そう、と考えたのか。あるいは、結句「葱買ひ帰らう」は、その母親に対する呼びかけであると取ることもできる。悲しみは、葱を刻んで涙と共に流してしまいなさいよ…と、心の内でそっと呼びかける栗木——。
 「更に、神の御前では隠れた被造物は一つもなく、すべてのものが神の目には裸であり、さらけ出されているのです。この神に対して、わたしたちは自分のことを申し述べねばなりません。」 先に引いたヘブライ人への手紙の聖句に続く1節だ。弱き母が弱き子を叱らざるを得なかった時の、言葉や思い、葛藤、後悔……全てを引っ括めて、神はご存知なのだ。その神の前に私達は皆いずれ立つ。その神の前に、足らざるを責められる被告人としてではなく、神の子どもとして招かれている恵みは、どんなに深いものであろうか。
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「とんでもない!」と。

2017年10月08日 02時51分49秒 | 人[その作品]に寄せて
夫の癌の完治祈られたと聞いて「支える身にもなれ」と息巻く
(とど)

2011年8月1日 作歌、2017年10月8日 改訂。
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