ノアの小窓から

日々の思いを祈りとともに語りたい

雪の一日

2018年01月22日 | 季節





          雪の降る光景を眺めていると、

          若いころ好きだった詩を思い出した。



 
                

            太郎を眠らせ、太郎の屋根に雪ふりつむ

            次郎を眠らせ、次郎の屋根に雪ふりつむ


                        三好達治「測量船」より










 
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断食2

2018年01月19日 | 聖書

    きょうの、もう一つのブログ聖書通読エッセイCoffee Break「小預言書」は、断食の是非を問うものでした。
    健康やダイエットとしての断食ではなく、聖書の記事のお話になるのをお許しください。

    ときは、BC517年です。
    バビロン捕囚として国を追われていたユダヤ人たちが、ペルシャ王キュロスの計らいで帰国していました。
    目的は、バビロンのネブカデネザルによって破壊されたエルサレムの神殿を再建することでした。
    神殿の祭祀道具や貴重な器物も一緒に返され、ある程度の献金も集まり、ペルシャ各地から、
    帰国の途に就いたユダヤ人は5万人にも及びました。
    彼らは、張り切って神殿の礎を築き始めるのですが、間もなく中断してしまいました。
    大きな理由は、彼らがかつて住んでいた土地には、彼らの代わりに入植させられた異邦の民が住んでいて、
    すでに生活の基盤をもっていたことです。
    帰国した民は、たちまち生活に困窮するありさまでした。さらに、すでにその地のいる人々は、
    神殿再建を妨害しようとします。

    生活ができない、さらに妨害がある中で、人々は無気力になり、神殿建設の希望を失っていたのです。
    その時、預言者ゼカリヤは、神の言葉を民に告げ知らせます。
    神の大きな後押しと励ましの言葉で、民は再び奮い立たされ、
    神殿建設に取り掛かるのです。、
    神殿が完成に近づいたとき、ベテルという町から4人がやってきて、ゼカリヤに神のみ心を問うのです。

    「私たちが長年やってきたように、第五の月にも、断食をして泣かなければならないでしょうか。」
    実は、捕囚で故国を失い、散らされたユダヤ人たちは、神殿が焼失した日(BC586年5月)を悼んで、
    ずっと、その日に断食してきたのです。

    神のお答えは、厳しいものでした。

    「この70年の間、あなたがたが、第五の月と第七の月に断食して嘆いたとき、
    このわたしのために断食したのか。
    あなたがたが食べたり飲んだりするとき、食べるのも飲むのも、自分たちのためではなかったか。

    万軍の主はこう仰せられる。「正しいさばきを行い、互いに誠実を尽くし、あわれみ合え。
    やもめ、みなしご、在留異国人、貧しい者をしいたげるな。
    互いに心の中で悪をたくらむな。」
                        (旧約聖書・ゼカリヤ書7章)


      ★ ★ 

    今日でも、キリスト教のある教派では、断食を取り入れているところがあるようです。
    自己否定し、悔い改めるために食物を断つのは、ほかの宗教でもあることかもしれません。

    自分を打ち叩いて嘆き悲しむというのは、確かに、反省するための一つの方法です。
    しかし、そののち、
    「やったァ! ハナマル!と自分をほめるのは、本来の目的にかなっているでしょうか。

    まして、断食明けに、飲み食いして楽しむとしたら、それが行事化していたら、
    それは神のみ心に叶うかと、神は問われているようです。

       ★ ★

    神は、自己満足の修養を求めていないということです。

    神のみ心に叶うということは、きわめて現実的に、
    実際の世界で、神の目に正しい行動をしなさいと命じておられます。

    「正しいさばきを行い、互いに誠実を尽くし、あわれみ合え。
    やもめ、みなしご、在留異国人、貧しい者をしいたげるな。
    互いに心の中で悪をたくらむな。
    



                Coffee Break「小預言書」        
                    http://joshuacanan.seesaa.net/





    

    
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断食

2018年01月09日 | 聖書


      「失礼ですが、さとうさんは、断食とか、なにか、しているんですか」
       教会で、大勢の人たちとお昼を食べているときに尋ねられた。
       ふだん、めったにお話しすることのないTさんですから、
       ちょっと遠慮のある切り出し方だった。
       私が、細いので――彼女よりは――、食事のことを聞かれたのかと思ったのですが、
       彼女は、真顔で
      「断食とかすると、信仰の修行になるという方もいますよね」

       

       正直に言って、私は、断食についてあまり考えたこともないのです。
       まだ、求道者(教会用語で聖書の学びをしている未信者のこと)のとき、
       先輩のクリスチャン女性が、言われたのです。
      「キリスト教は楽なのよ。断食や滝に打たれるような修行をしなくてもいいんですよ」

       何しろ楽に流れる性質ですから、それで、ちょっと敷居が低くなった感じがしたのです。
       でも、是が非でも信仰を持ちたいと思っていたわけではないので、
      「それは、どういう意味ですか。」とも聞かなかったのです。
       ただ、クリスチャンになるなら、
       そうはいっても、これまでの自分を改めなければいけないのではないかしらと、
       漠然と思っていました。なんとなく清らかな尼僧のようなイメージです。
       規則正しい生活、奉仕の生活、沈黙、従順――映画「尼僧物語」で、
       主人公ガブリエル=シスター・ルーク(オードリー・ヘップバーン)が、
       尼僧を志願して修道院で、厳しい戒律生活に入っていく。

       名画なのでご存知の方も多いと思いますが、息詰まるようなストイックな生活の中で、
       いつも静かに葛藤を秘めて「神に仕える尼僧ルーク」のイメージは、
       若くて、世の中のきらきらしたものに幻惑されがちだった私には、なんだか、
       他人事でした。
       父親を殺したナチへの抵抗運動に身を投じる決意をして、結局
       還俗してしまうガブリエルに、むしろ共感したのです。
       映画は、神の無力の証明、キリスト教への批判にも見えました。そのような批評がむしろ、
       多かったのではないかと思います。

        

       自分が、キリスト教信仰を持ち、聖書を読む中で、今は、
       「尼僧物語」の意味の深さに、気付かされています。
       あの映画は、そもそも、神の真意は、「敵に抵抗することではない」
       「右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい」(マタイの福音書5章39節)だと、語っていたのです。
       そんなことはできない、というのもまた自然です。
       場合によっては、被害の状況によっては、もちろん、「左の頬」を向けるかもしれません。
       でも、いかなる場合も、いのちを失ってもそうできる人はまれです。

       では、神(キリスト)は、私たちに無理難題を求めていおられるのか。
       そうすれば天国へ行けると、約束しておられるのかと言えば、全く違います。
       新約聖書に書かれている、山上の説教(マタイの福音書5章1節~49節)にあるような厳しさは、
       人に押し付けられているものではなく、神の基準の高さを示しているといわれています。

       神の基準にとうてい到達しえない人間のために、その罪の代価を購うために
       キリストは十字架上で死なれる、というのが、私たちがキリストを信じる理由です。
       そうして、キリストの十字架を信じ切るとき、私たちは「救われ」、「天国(神の国)」に入るのです。

       「尼僧物語」は、ですから、還俗したガブリエルが、信仰から脱落した物語ではないと思います。
        神は、レジスタンス運動に身を投じたガブリエルを悲しまれるかもしれないけれど、
        それ以上に、彼女をあわれまれて、キリストの血であがなってくださるのです。
        右の頬を叩かれたとき、相手を叩きかえす自分の罪を自覚し、
        十字架を握りしめて、祈り続けることこそ、重要なのです。

        話を、断食に戻せば、聖書には、神に祈るときに断食をする話が、たくさん出てきます。
        断食は、神との交わり、悔い改めなどの表明として有効です。けれども、救いそのものは、
        どれほど、肉体を打ちたたいて修行をしても、高額な金品を積んでも、
        買い取ることは出来ないといわれています。

        感謝!!!
        



              「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。
              それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です」
                               (新約聖書・エペソ人への手紙2章8節)
               




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星野さん

2018年01月06日 | 日記



       訃報の入らない日はないのですが、大ニュースになる方は、それほどいない。
       大ニュースになっていても、自分の中でさほどの衝撃のないときもある。

       星野さんの訃報は、久しぶりに「えっ!!」と受け止め、ニュースを
       わざわざ、はしごしたりしたのです。

       もともと、好きなキャラではありませんでした。若い時からアスリート系は、
       あまり好きではなかったのです。
       あの頃、運動部の男子は、汗臭くて泥臭くて武骨で、しょっちゅう怒鳴り声をあげて走り回っていて、
       今なら大問題になりそうなビンタ、パワハラ、いじめもありそうで、わざわざ、
       文武両道ということばがあるくらいですから、大体は、「文」のほうはわからない?

       自分の能力を横に置いて、そんな風に勝手なことを考えていたりしたものです。
       運動選手は、男たちの間では、人気者だったり尊敬の対象だったりしたかもしれないけれど、
       あの世界は、あの世界! 

       ところが、そんな思いが、プロ野球選手によって変えられたのです。

       上京して何年かして妹一家と神宮へ(なぜか妹も結婚して東京へ)、阪神ーヤクルト戦を見に行きました。
       あちらは、高校時代からの熱狂的な阪神ファン、
       私は、東京にいるので、ちょっとばかり故郷に義理立てした阪神ファン。

       勝っても負けても、夜スポーツニュースを見るようになりました。
       アップになった野球選手はみな、とてもかっこいい。
       きびきびしていて、きっぱりしていて、顔もスタイルもよくて、何より、
       抜群の運動能力は、運動音痴のさとうでも感激したのです。

           

       星野さんのイメージはあまり良くなかった。すぐに、何かを蹴飛ばす、
       審判と大喧嘩する、やっぱり運動部!だあ・・・。
       顔とスタイルは良さそうだけれど、ワンマンそうだし、
       第一打倒巨人とかで、阪神タイガーズを軽んじている風さえある。

       その星野さんが、阪神の監督になってくれた時は、「信じられなーい」と思い、
       さらに優勝をさせて下さったときは、
       「男は、結局、結果だよ」と、のたまう家人に深ーく、うなずいたのでした。

       その後、楽天でいろいろ貢献されたようですが、私の中では、「その後」はあまり気にならなくて、
       今も、タイガーズの監督をされた星野さんが、燦然と輝いています。

       星野さん
       ありがとうございました!
       お疲れ様でした。
       ゆっくりおやすみください!







       
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Siegfried Fietz singt 'Von guten Mächten wunderbar geborgen'

2018年01月05日 | 聖書


        リバーサイドチャペル北見神愛キリスト教会の
                         日吉成人牧師のブログ記事(1月4日)をご紹介します。



          

ブログ名北の大地で、星を数えながら



Siegfried Fietz singt 'Von guten Mächten wunderbar geborgen'



 昨年末、1つの賛美によって力づけられました。それは「善き力にわれ囲まれ」です。ヒットラーのナチスによって捕えられたボンヘッファーが、1944年が暮れようとするその中で、婚約者と家族に送った詩にメロディがつけられています。

 日本語では、「讃美歌21」の469番と「新生賛美歌」73番に、それぞれ異なるメロディのものが掲載されています。私は後者の「新生賛美歌」のメロディが好きです。下のyoutubeは、作曲者本人が賛美しています。


    善き力に われかこまれ、守りなぐさめられて、
    世の悩み 共にわかち、 新しい日を望もう。 

    過ぎた日々の 悩み重く なお、のしかかるときも、
    さわぎ立つ 心しずめ、 みむねにしたがいゆく。
 
    たとい主から 差し出される 杯は苦くても、
    恐れず、感謝をこめて、 愛する手から受けよう。

    輝かせよ、主のともし火、われらの闇の中に。
    望みを主の手にゆだね、来たるべき朝を待とう。
 
    善き力に 守られつつ、来たるべき時を待とう。
    夜も朝もいつも神は われらと共にいます。
                   (讃美歌21 469番)


 悪の力、失望や恐れに囲まれていたと言ってもおかしくないボンヘッファー。しかし彼は信仰をもって「善き力に我囲まれて」と歌いつつ、新しい1945年を迎えるのです。もちろんその年に彼を待っていたのは、重くて苦い杯だったのですが、それでもそれらをしっかりと主の手から受けとって歩んだのでしょう。
 
 ハンナのように「こうして年は暮れ、年は明けた」(Ⅰサム1:7)けれども、何ら状況が変わらないこともあるかもしれません。それでも私を囲んでいるものは、主の「善き力」であることを覚えつつ2018年を過ごしていきたいのです。




       


    ディートリヒ・ボンヘッファー(ウィキペデヤより)

    生誕
    1906年2月4日
    プロイセン王国の旗 プロイセン王国 ブレスラウ

    死没
    1945年4月9日(39歳没)
    フロッセンビュルク強制収容所 にて刑死

ディートリヒ・ボンヘッファー(Dietrich Bonhoeffer, 1906年2月4日 - 1945年4月9日)は、ドイツの古プロイセン合同福音主義教会(ルター派)の牧師。20世紀を代表するキリスト教神学者の一人。

第二次世界大戦中にヒトラー暗殺計画に加担し、別件で逮捕された後、極めて限定された条件の中で著述を続けた。その後、暗殺計画は挫折。ドイツ降伏直前の1945年4月9日、処刑を急ぐ国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)により、フロッセンビュルク強制収容所で刑死。ベルリン州立図書館の一階には、絞首台のロープが首にかけられたボンヘッファーを描いた大理石の胸像が展示されている。
                                           







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