水の門

体内をながれるもの。ことば。音楽。飲みもの。スピリット。

歌集『カインの祈り』

澤本佳歩歌集『カインの祈り』
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#通読 2017年8月分まとめ

2017年08月31日 05時36分12秒 | 黙想・聖書通読・礼拝聖句
◆8月2日
コリント⑵4:5「わたしたちは、自分自身を宣べ伝えるのではなく、主であるイエス・キリストを宣べ伝えています」かつては寡黙を強いられ、気持ちの表現の仕方を知らなかった。解放して下さったのは主。その事をこそ語るべきなのに、今は何と無駄口に時を費しているだろう

◆8月11日
新改訳⑵サムエル18:5。ダビデは部下にアブシャロムをゆるやかに扱うよう頼んだ。〈敵を滅ぼして下さい〉は詩篇の頻出語句だが、ダビデがアブシャロムから逃れた時の3篇では「(主は)…頬を打ち…歯を打ち砕いてくださ」る、程度に。ダビデがいかに息子を愛していたか

◆8月20日
ソロモンは主の神殿の建築には7年を、宮殿の建築には13年をかけた(列王上6:37〜7:1)。一昨日から体調を崩して教会の食事当番を果たせず、すっかり気落ちしている。トラクトのためには膨大な時間を費しているのに、教会の役割は蔑ろにしているようで、しょげる

◆8月21日
⑴列王9:11〜13。要請に応じ神殿と王宮の建築資材を提供したヒラムに、ソロモンはガリラヤの二十の町を与えた。だがそれはヒラムの気に召さず、カブル(新改訳13節脚注「無いのと同じ」)と呼ばれた。そのガリラヤから神はイエスを興す。神のご計画は計り知れない。

◆8月24日
エフェソ1:5「イエス・キリストによって神の子にしようと、御心のままに前もってお定めになったのです」NIV「御心のままに」は〈with his pleasure and will〉が加わる。神には私達を子と成すのは、従わせようという以上に、喜びだったんだ

◆8月29日
列王上19:11〜13。イゼベルを逃れホレブの洞窟にきたエリヤは、主に呼ばれ御前に立つ。風・地震・火の中に主はおらず、最後に静かな声が。私が自分の過ちに苦悶した一日を終え夜に見た夢は、心情を映しつつも穏やかだった。目覚めて、黙示録3:18〜19が浮かんだ

◆8月31日
新改訳エペソ6:18「すべての祈りと願いを用いて、どんなときにも御霊によって祈りなさい」。NIVには〈with all kinds of prayers and requests〉と。あらゆる種類の祈りと願いーー罪まみれの中からの叫びも含まれるのは救い。
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そっちの方が。

2017年08月29日 16時07分13秒 | 風景にあわせて
水出しの茶をつくるため流されるポットを濯ぐ水の多さよ
(とど)

2016年7月27日 作歌。
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勘による部分もあるんだろうな…

2017年08月27日 17時21分27秒 | 人[その作品]に寄せて
リュープリンの切れ目を訊けば定めなき事実を告げて医師の瞬(しばた)く
(とど)

2014年9月29日 作歌。
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届いたかなぁ…

2017年08月23日 17時14分19秒 | 季節にあわせて
でんすけの汁あまきこと 富弘の葉書の桃の産毛の光る
(とど)

2013年8月15日 作歌、2017年8月23日 改作。
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幻聴。

2017年08月19日 13時31分58秒 | 持病に寄せて
挨拶がなっていないと詰る声に抗いながらふみ書き終える
(とど)

2011年4月23日 作歌。
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一首鑑賞(46):雨宮雅子「野の教会は野の花のなか」

2017年08月14日 20時36分15秒 | 一首鑑賞
基督像が泪流すと建てられし野の教会は野の花のなか
雨宮雅子『夏いくたび』


 ドイツ南部を旅して詠まれた一連の中の歌である。読後感はとてもさり気ないが、構成は巧みだ。まずキリスト像の顔のアップから書き起こされ、それが安置された教会の建物へ、そしてその教会が佇んでいる野原へと、視点がズームアウトしていく。よって、眼目は「野の花のなか」であることが分かる。
 「野の花」は、クリスチャンには親しみのある語であろう。「なぜ、衣服のことで思い悩むのか。野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。 しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。 今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことではないか」とあるマタイによる福音書6章28〜30節は、信仰を持たない方にも聞き及びのある聖句かもしれない。
 雨宮は五十年間、日本基督教団の教会に籍を置いていたが、長い逡巡のすえ晩年に棄教した。逝去の一ヶ月後に発行された『短歌』2014年12月号(KADOKAWA刊)に追悼の小特集が組まれていて、三人の歌人が寄稿している。生前よく酒を酌み交わしていたというクリスチャンの三枝浩樹氏は、晩年の雨宮が酒の席で信仰の話をたびたび持ち出してきたと記し、「棄教というかたちで、神との関わりの中に今なお身を置いているのではないか」という印象を抱いたと洩らしている。
 『夏いくたび』は雨宮の最後の歌集の一つ前の歌集であり、宗教観のゆらぎのあった時期に編まれたという。歌集には、生半な信徒がいい加減に放置しているような事柄に重い眼差しを向け、こちらの深層意識を探ってくるかのような真摯な信仰の歌も多く含まれる。掲出歌は、そんな中にあってホッと安らぎを覚えるような一首だ。それは、あくせくせずとも神に装われている野の花の中にいることで、自分を揺りかごのように包んでいる神の御手を、雨宮自身肌で感じていたのでは、と思わされるからだろうか。
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予習。

2017年08月05日 20時04分38秒 | ドライヴ・ミュージック
車でもiPhoneでも努め聴く演目となるバッハの「シャコンヌ」
(とど)

2013年7月26日 作歌。
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