水の門

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歌集『カインの祈り』

澤本佳歩歌集『カインの祈り』
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#通読 2020年2月分まとめ

2020年02月29日 06時21分43秒 | 黙想・聖書通読・礼拝聖句
*2018年刊行の聖書協会共同訳を引用する場合、「協同訳」という略称を用いることにします。

◆2月7日
詩篇38。詩人を脅かす者に対し「…私には聞こえません。私は耳の聞こえない者のよう。口を開かず、話せない者のよう。まことに私は、耳が聞こえず、口で言い争わない人のようです」(新改13-14節)。NLTで14節は I choose to hear nothing,and I make no reply. 無言を守ったのは決意ゆえ

◆2月7日
詩編39:13「主よ、わたしの祈りを聞き 助けを求める叫びに耳を傾けてください。わたしの涙に沈黙していないでください。わたしは御もとに身を寄せる者 先祖と同じ宿り人」。NLTの節後半〈For I am your guest—〉(12節)に瞠目。神が詩人を喜び受け入れるのを疑わぬ態度は眩しいばかり

◆2月10日
詩篇42篇から詩篇は第二巻に入り、コラの子孫による賛歌が続く。レビ族のコラ等は、モーセとアロンによる祭司職を越権行為として反抗し、尋常ならぬ方法で主ご自身によって滅ぼされた(民数16章)。だがコラの子達は死ななかった(民数26:11)。主は出自で人を差別せず、御用へと召し出す。

◆2月16日
新共同詩51:14「御救いの喜びを再びわたしに味わわせ 自由の霊によって支えてください」。主に救われているのは自由なんだ、と改めて。新改訳で同箇所(12節)後半は「喜んで仕える霊が、私をささえますように」。自由な霊は自ずと喜び仕えるよう私達を導く。更に心の目が開けますように

◆2月24日
新改訳詩篇55:17「夕、朝、真昼、私は嘆き、うめく。すると、主は私の声を聞いてくださる」。一つ屋根の下に暮らすだけでいがみ合う家族の様に絶望し、高校生のとき一度「この憎しみ合いをやめさせて下さい」と、まだ信じていない神に祈った。主は私の祈りを聞かれた、と今思う。

◆2月24日
詩編56:9「あなたはわたしの嘆きを数えられたはずです。あなたの記録に それが載っているではありませんか。あなたの革袋にわたしの涙を蓄えてください」。過日久々に会った友が親から浴びせられた罵倒の言葉を打ち明けてくれた。神はその人の嘆きをご存知。どうか守り支えて下さい

◆2月24日
協同訳詩編59:12「我らの盾、わが主よ 彼らを殺さず 私の民が忘れることのないようにしてください。力によって彼らを動揺させ 引き下がらせてください」。〈彼ら〉は敵。神が私達を慈しみ、苛む者から救って下さるの忘れぬよう、敢えて彼らを生かして、と。ここまでの信仰、持ちたい
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ころおぎ

2020年02月19日 16時33分45秒 | 人[その作品]に寄せて
幼児が「ころおぎ」と読み先生が「こおろぎ」と言う それも遠き日
(とど)

2010年1月24日 作歌。
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一首鑑賞(71):冨樫由美子「宗教は答えではなく」

2020年02月01日 14時25分30秒 | 一首鑑賞
「宗教は答えではなく問いかけです」と諭されており こたえがほしい
冨樫由美子『草の栞』


 冨樫は小学生の時分から教会に通っていたという。とすれば多感な年頃を教会と、ひいては神様と過ごしてきたわけである。何か躓くことがあると独りよがりに解決するのでなく、牧師や教会学校の教師にその都度答えを求めていたのならば、信仰の萌芽が見られるものと年配のクリスチャンの中には歓迎する向きもあっただろう。
 私の場合は、高校受験に失敗して滑り止めのキリスト教主義高校に進学した。私が試験本番に弱いことを案じた母の強力な説得に呑まれ、指定校推薦を取ることに渋々承知した私は、高2から某通信教育の小論文の講座を受講し始めた。私は性格としてはガリ勉のような姿勢を持っていたものの読書は苦手だったし、大学進学も独りで生計を立てていくためのステップとしてしか認識していなかったので、小論文の勉強は非常に辛いものだった。何とか大学で学び始めても、社会問題の闇の深さに一層絶望的な気持ちになり、サークル活動に明け暮れているのが実情だった。大学3年の時に体を壊しサークル活動の継続が難しくなった頃に、後の母教会のクリスチャンに学食で声をかけられ、聖書を勉強し受洗するに至った。
 母教会は聖書の学びに熱心で、聖句の一つ一つを自らの生活に当てはめて読むのを推奨していた。いかにもアメリカが発祥の教会らしくプラグマティズムが徹底されており、聖書を読み啓発されたことへの反応としてアクションを提示するのに長けていた。高校時代に指定校推薦を取るための打算でいやいや通っていた教団の教会の、優等生的な雰囲気に馴染まなかった私でも心惹かれたのは、母教会のそのような特質に拠るところが大きかったと思う。しかし、私が発病して山梨に移された後に、母教会のカリスマ的な指導者の権威が失墜すると、教会を離れる人達が続出したと聞く。この母教会の成り行きから、目に見えない神様を信じながら目に見える答えを欲してしまう人間の弱さを否応なしに感じる。
 それゆえ、「宗教は答えではなく問いかけです」と人を諭せるのは相当の信仰者なのでは、と私などは思ってしまう。それとも、それがキリスト教会の正統的な信仰なのだろうか。おそらく発言者は牧師だったに違いない。割と最近フォローし始めたTwitterのフォロワーさんで牧師夫人の方の過日のツイートで、聖書研究会において聖句の解釈をたびたび問う方に牧師はYesもNoも言わず、複数の解釈を説明したりして更に考えさせることを投げ掛け、短絡的に聖書を読まないよう促している、と打ち明けていらした。
 私達は簡単に答えが欲しくなる。それで人に安直に答えを求め、上手くいかなくなるとその人に責任を帰してしまいがちである。だが、ここで私は責任転嫁を戒めたいのではない。むしろ、祈りによる問いかけをいつも待っていらっしゃる神様の広い愛に、私達の目が開かれるよう願って、この稿を閉じたい。
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