生かされて

乳癌闘病記、エッセイ、詩、童話、小説を通して生かされている喜びを綴っていきます。 by土筆文香(つくしふみか)

人生の矛盾

2017-04-24 15:51:48 | 教会
誠実に生きている人が苦難に会い、悪いことをしたり、いい加減に生きている人が恵まれた生活をしているのを見ると、疑問を感じる人がいるのではないでしょうか。

わたしは中学生のころ、誠実に生きていれば幸せになり、悪いことをしたり、不誠実に生きている人はみじめな死に方をするんだよと教えられました。
もしそれが本当なら、つらいことがあっても、まじめに生きていけます。
でも実際は、そうでないことが多く、矛盾を感じていました。

悪いことをしたり、不誠実な人が幸せになっているのを見ると、神さまは不公平ではないかと思ってしまいます。
昨日は、そのことについてどう考えたらよいか教えていただきました。

昨日はコイノニア礼拝でした。
コイノニアとは韓国の大方(デバン)教会と土浦めぐみ教会との交流のことで、各年齢層の方が訪れたり、迎えたりします。今年はコイノニア20周年の記念の年で、大方教会から31名の方々が来てくださいました。

礼拝では、大方教会の牧師先生がメッセージをしてくださいました。
旧約聖書の詩編17:14-15には次のように書かれています。


14主よ。人々から、あなたの御手で。
相続分がこの世のいのちであるこの世の人々から。
彼らの腹は、あなたの宝で満たされ、
彼らは子どもらに、満ち足り、
その豊かさを、その幼子らに残します。
15しかし、私は、正しい訴えで、御顔を仰ぎ見、
目ざめるとき、あなたの御姿に満ち足りるでしょう。


これは、ダビデの書いた詩です。ダビデは自分の周りに敵がたくさんいて、彼らが栄えているのを見て苦しみました。
神さまの言葉通りに生きようとすると、状況が苦しくなることの多い現実です。

「相続分がこの世のいのちであるこの世の人々」とは、
この世で繁栄している人々は、相続分(分け前、むくい)をすでに受け取っている人々という意味です。
この世で繁栄している人々は、すでに分け前が与えられてしまったので、将来は何もなく、何の望みもないのです。
だから、このような人たちのようにならないようにしてくださいとダビデは祈っています。

神を信じない人たちは、お金が与えられると自分がもうけたと思い、私腹を肥やしています。子どもの出世を望み、子孫の繁栄を喜びます。人生は有限なので、お金を子孫に残して安心します。
この人たちには神様が抜けています。自分のため、自分の子どものため、自分の子孫のためと考えて、他者のためにという考えが欠落しています。

15節で「しかし、私は……」と書かれているのは、『私は、この人たちとは違います。神を信じます』という告白です。

「目ざめるとき、あなたの御姿に満ち足りるでしょう」というのは、自分が神様から祝福をたくさん受けていることを喜ぶという意味です。
目ざめるとき、神様と対面できるとは、なんと幸いでしょう。
神と対面したダビデは、喜びに満たされて感謝にあふれ、『世の人たちの繁栄をうらやむことはしません』と告白しています。

「最も良いものはまだ来ていない。(清教徒)」という言葉があります。

人生はこの世で終わるのではないのです。最も良いものがいつの日か必ず与えられるのです。だから、人の繁栄をうらやむことはないのです。

ダビデのように神を見上げて生きていきたいです。

書いていて昨日のメッセージは、前回のブログに書いた金持ちとラザロのたとえ話とつながっていると思いました。

先週は水曜日の朝に腰を痛め、水曜礼拝と輪読会に行けませんでした。
落ち込んでいたのですが、日ごとによくなってきて、昨日はコルセットをつけて教会礼拝に2回(第1と第3)も出席し、TEENSの奉仕もできました。
感謝!!


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関心、無関心

2017-04-18 16:12:02 | 聖書から
先週の木曜日の家庭集会では、ルカ16:19~30からイエス様のたとえ話で「金持ちとラザロ」の学びをしました。遅くなりましたが、紹介させていただきます。

毎日贅沢な暮らしをしている金持ちがいました。彼の家の門前には貧乏で全身におできができているラザロという人がいて、金持ちの食卓から落ちる物で腹を満たしたいと思っていました。聖書には書かれていませんが、金持ちは、ラザロに対しては無関心だったようです。
金持ちは生きている間、良い物を受け、ラザロは生きている間、悪い物を受けていました。
生きている間は対照的なふたりでした。

ラザロはやがて死に、みつかいたちによってアブラハムのふところへ連れていかれました。
後に金持ちも死んで葬られましたが、ハデスで苦しみを受け、見上げるとラザロがアブラハムのふところにいるのが見えました。

(アブラハムとは、ユダヤ人の先祖であると同時に『信仰の父』と呼ばれる人物です。「アブラハムのふところ」という表現は、聖書でこの箇所しかでてきませんが、明確な意味は分からないそうです)

死を味わうことにおいては、ふたりとも平等でしたが、連れていかれたところが違っていました。
金持ちが死んだ時、彼を葬った人たちがいました。葬式に出席した者は多く、彼に関心を寄せていた人たちがたくさんいたと思われます。
一方、ラザロに関心を寄せていた人はいなかったと思われます。「葬られた」とは書かれず「みつかいたちによってアブラハムのふところに連れて行かれた」と書かれているところに注目したいです。

ラザロという名前は「神に助けられる人」という意味があるそうです。

ルカ16:15には「あなたがたは、人の前で自分を正しいとする人です。しかし神は、あなたがたの心をご存知です」
と書かれています。

人からよ良い評価を受けても、神様の評価は違うということを示しています。

金持ちは、ハデスで苦しみ、アブラハムに助けを求めます。でも、アブラハムから死後の状態は変えられないと言われます。金持ちは、せめて自分の兄弟が同じような目に合わないようにラザロを自分の父の家に送ってほしいと頼みます。

アブラハムは「モーセと預言者との教え」があるので、その言うことに聞くべきだ」と言いました。

「モーセと預言者との教え」とは旧約聖書のことを指しています。

「聖書の教えに耳を傾けないのなら、たとえだれかが死人の中から生き返っても、彼らは聞き入れやしない」
というアブラハムの言葉でこのたとえ話は終わっています。

レジュメには「信仰を持つためには奇跡や驚くべき出来事が必要でしょうか?」
「救われるために必要なのは何ですか?」
と書かれています。

実際、奇跡や驚くべき出来事が起きることがあります。でも、信仰を持つためにそれらが必要とは限りません。
救われるためには、自分の罪に気づき、悔い改めることが必要です。

このたとえ話はパリサイ人に向けてイエス様が語られました。パリサイ人とは、イエス様の時代のユダヤ人で、ユダヤの律法のすべての部分に、非常に熱心に従おうとした人々です。彼らはイエスを救い主であると認めていませんでした。

そんな彼らになぜイエス様はこの話をされたのでしょうか。

パリサイ人たちは、いつもイエスのあげ足を取ろうとしていました。イエス様を見下してあざ笑っていました


イエス様は、そんなパリサイ人たちにも関心を寄せ、救いに与るように願っておられたからだと教えていただき、はっとしました。
神様は、わたしたちひとりひとりに関心を寄せ、愛してくださっているのです。たとえ話に出てくるラザロのような人にも、金持ちのような人にも、救われてほしいと思っておられるのです。神様の深い愛に心打たれました。

日本クリスチャン・ペンクラブのHP更新しました。ここをクリックしてごらんください。


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本の出版予定

2017-04-15 10:58:19 | 日本クリスチャン・ペンクラブ
今年は日本クリスチャン・ペンクラブ(JCP)が65周年を迎えます。9月に記念会が行われますが、先だって本の出版があります。題は「山川草木」。これまで「花鳥風月」「春夏秋冬」「喜怒哀楽」などの四字熟語のひとつひとつの言葉をモチーフに証し文章を書いて本にしてきました。今回の新しい本は、山水草木の他に、信・望・愛についてのエッセーも掲載されています。

三校が送られてきて、昨日は校正に時間を費やしました。200ページもあるので何時間もかかりました。目が疲れて、そのあとPCを開いたらぼやけてほとんど見えませんでした。

20名ほどのお仲間たちの文章を改めて読ませていただいて、そこから勇気と力が与えられました。
この本が多くの人に読まれ、神様によって大いに用いられるように祈っています。

一昨日の家庭集会は、クリスチャンのご夫婦が経営しているレストランで行わせていただきました。
落ち着いた店で充実した学びができ、おいしいご馳走に舌鼓を打ち、いつもと違った贅沢をさせていただき、感謝、感激でした。
今日はこれからヒックン、ナルクンが来ます。



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人の言葉に翻弄されない人

2017-04-10 15:51:47 | 教会
人の言葉に翻弄されたり、一喜一憂することがありませんか?
わたしは、褒められるとうれしくて舞い上がり、高慢になってしまいます。逆に、けなされたり、悪口を言われるとひどく傷つき、心は荒海のように騒ぎます。

人から傷つけられたとき、『わたしは感受性が鋭く、とても傷つきやすいんです。それなのにどうしてひどいことを言うのすか?』と、相手を訴えたい気持ちになったことがあります。
傷つきやすいということをまるで自慢しているようでした。でも、人は皆傷つきやすいのだと思います。傷ついてもそんなそぶりをみせず、平静を装ったり、強がりを言う人がいますが、本心は傷が痛んで泣いているのです。

ところが、傷つけられても気にしない人がいます。苦しみを受けても、そのことを喜んでいる人がいます。
以下は礼拝メッセージを聞いて考えたことです。

聖書に出てくるパウロがそのひとりです。キリストのために苦しみを受けるのはよいことですと言っています。
『ねたみや党派心、争いを持ち、自分を苦しめる人がいても、キリストが宣べ伝えられているのなら、わたしは喜んでいます。』とパウロは言うのです。

パウロは人の言葉に一喜一憂しません。
その理由は、キリストを知る絶大な価値を理解しているからです。

どんなにひどいことを言われても、けなされても、キリストを知る絶大な価値を見いだしている人は、ほかの人の言うことを気にしません。心がキリストにある喜びでいっぱいだからです。


パウロだけでなく、キリストによる喜びを持っている者はそうなのだと思います。
わたしも最近になって、ようやく人の言葉に翻弄されなくなってきました。

受難週に入りました。
受難週とはキリストの十字架の苦しみと死(=受難)を思う一週間のことをいいます。
来週の日曜日はイースター(復活祭)です。

礼拝で水野源三さんの詩に曲をつけた特別賛美を聴きました。


私がいる  水野源三
  
 ナザレのイエスを 十字架にかけよと
   要求した人 許可した人 執行した人
   それらの人の中に 私がいる


心刺される詩です。イエスキリストが十字架につけられたのは2千年も前の出来事です。十字架とわたしは何の関係のないものと思っていました。
けれども、イエス様が十字架で死んでくださらなければ、罪の問題はなにひとつ解決しません。わたしのすべての罪を赦し、解決させるために血を流し、苦しんでくださったイエス様を思って、この一週間を過ごしたいです。

昨日はTEENSでお花見に行く予定でした。せっかく満開になったのですが、雨でお花見はできませんでした。

 

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もうすぐ満開

2017-04-05 20:48:21 | 日記
春休みでヒックンが遊びに来ていたので、近くの桜川へ花見に行きました。

といっても、満開には遠く、2分咲きぐらいでした。

張り切って出かけたのに、桜川の土手に着く前にころんで、ひじをすりむいてしまいました。どんなふうにころんだらひじをすりむくのか……。子どもは予測しない動きをします。



ヒックンは桜より、鳥に興味を持って、おじいちゃんの双眼鏡を借りてバードウオッチングをしました。



オスとメスが呼び合っているようで、2羽仲よく枝にとまっていました。

ヒックンは5年生になりました。まだ、「遊んで」と言ってくるので、可愛いです。カードのゲームを毎日1時間ずつつき合わされました。
中学生になったらもう遊びに来なくなるのかなあと思うと寂しいです。でも、こんどは弟のナルクンが遊びに来るでしょう。

ナルクンは3歳になりました。


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私が私の羊飼いだったら

2017-04-03 15:53:49 | CS(子供伝道)
風は冷たいけれど、桜川の桜の蕾がふくらみ、花弁が今にもはじけそうです。

昨日はCS(教会学校)教師任命式でした。教会では1-2歳クラス、幼稚科、小学科、TEENS(中高科)、成人科、そのほか学びのクラスの教師は、任命式に与ります。(総勢59名の方が任命されました)

わたしは小学科ではなく、TEENS(中高科)教師の列に立っています。
そのことがとても不思議です。去年まで23回も小学科教師として任命されてきました。昨年は、当然、次も小学科教師の場所に立つのだろうと思っていました。

でも、今年はTEENS教師の場所に立っています。神様がそこに置いてくださったのです。いつまで続けられるかわかりませんが、はっきりしていることは、今、健康が与えられているから奉仕できるということです。
このことがどんなに貴重でどんなに喜びなのか、TEEMNSを辞めるときにわかるのでしょう。

TEENSに来ている子どもたちは40人近くいます。
その中で半分以上は小学生の時わたしが受け持った子どもたちです。すっかり大きくなって、名前を聞くまでわからなかった子どももいました。一緒に分級を受け持つ先生もかつて受け持っていた人でした。感慨深いです。
TEENSは大人とは別に礼拝をしています。場所は礼拝堂から少し離れたチャペルピスガです。メッセージは大人の礼拝と同じぐらいの長さですが、中高生でもわかりやすい内容になっています。

昨日は詩編23篇から語られました。
   詩編23篇1~8
主は私の羊飼い。
私は、乏しいことがありません。
主は私を緑の牧場に伏させ、
いこいの水のほとりに伴われます。
主は私のたましいを生き返らせ、
御名のために、私を義の道に導かれます。
たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、
私はわざわいを恐れません。
あなたが私とともにおられますから。
あなたのむちとあなたの杖、
それが私の慰めです。
私の敵の前で、あなたは私のために食事をととのえ、
私の頭に油をそそいでくださいます。
私の杯は、あふれています。
まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと
恵みとが、私を追って来るでしょう。
私は、いつまでも、主の家に住まいましょう。


人を羊にたとえています。羊は①臆病②迷いやすい(目が悪いので迷ったら自分ではもどれない)③すごく頑固という性質を持っています。
主である神様が羊飼いだったら正しく導いてくださるので「わたしは乏しいことがありません」と言えます。新共同訳では「私は何も欠けることがない」と書かれています。
もし、私が私の羊飼いだったら、人と比べ自分が欠けた者だと思い、不平や寂しさの中に置かれてしまうでしょう。
でも、神である主が私の羊飼いなら、試練の中にあっても、心に余裕が与えられることでしょう。


礼拝の後、小グループに分かれて30分ぐらい話し合いをしました。礼拝で聞いたお話しについての感想や近況報告などです。わたしの担当は中学生女子グループです。子どもたちが心を開いてよく話してくれたのでうれしく思いました。

わたしがTEENSでした挨拶を紹介します。

小学科から来ました。小学科の先生を23年もやっていたので、みなさんの中には小学生の時に分級を受け持った人がいます。校長先生も受け持ちました。みなさんが大きく成長しているので、びっくりしています。
わたしはちょうど60歳ですが、心の年は今13~15歳です。3歳から15歳までの子どもの気持ちになれるというのが私の特技です。子どものころ、子どもの心を忘れない大人になりたいと願っていました。その願いはかなえられました。
小学科ではおもに教えていましたが、TEENSではみなさんから色々なことを教えてもらいたいと思っています。よろしくお願いします。



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夢見ることもはるかに及ばないすばらしいこと

2017-03-28 15:49:38 | 教会
「あの人は才能があるからいいわね。わたしなんか、何の才能もなくて……」という声が時々聞こえてきます。

わたし自身もそのように思った時期がありました。病気ばかりしていたわたしは、健康という能力が欠けているのだと思っていました。事をなそうとしても、健康でないと何もできないので、健康を祈り求めていました。でも、必要な時に必要な体力が与えられていることに気づいてからは、そのように祈ることをやめました。

教会では才能のことを「タラント」とか「賜物(たまもの)」と言います。賜物の多い人と少ない人がいるのはなぜでしょう。神様は不公平なのでしょうか。

タラントのたとえ話が聖書(マタイ25:14~30)に書かれています。タラントとはお金の単位です。主人は3人のしもべにそれぞれ5タラント、2タラント、1タラントを預けて旅に出かけました。

しばらくして主人が戻ってきたとき、5タラント預けられたものはそれで商売をし、2倍に増やしていました。2タラント預けられたものも2倍に増やしていました。主人はこの2人を誉め、「よくやった。よい忠実な僕だ。あなたはわずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ」と言いました。

ところが1タラント預けられたものは、それをなくさないように地を掘って隠していました。なので、1タラントのままでした。主人はその僕を叱って、1タラントを取り上げ、10タラント持っている者にあげてしまいました。というたとえ話です。

この話を読むと、1タラント預けられた僕が気の毒になります。なくしたわけではないのになぜ主人はそんなに怒ったのでしょう……。神さまから預けられたタラントを用いなかったから、しかられたのです。

また、3人に預けられた金額が違うのはなぜでしょう……。
主人が僕にお金を預けるとき、聖書には『おのおのその能力に応じて』と書かれています。
わたしたちひとりひとりの状態を知っている主人(神)が、霊的成長度合いに応じて額を決めてくださったのです。

1タラントとはどれぐらいの金額なのでしょう。6000万円~1億2000万円もの大金だそうです。少ない人でも1タラント預けられているのですから、「わたしは何の才能もない」と嘆くのはおかしなことです。

日曜日の礼拝メッセージでは、才能と賜物の違いをはっきり教えてくださいました。

「私は、神の力の働きにより、自分に与えられた神の恵みの賜物によって、この福音に仕える者とされました。(エペソ3:7)」

パウロはローマの市民権と、ギリシャ語、ヘブル語を使える能力を与えられていました。この才能を用いて立身出世することも可能でした。
でも、福音を伝えるために才能を用いました。

才能、能力を神に喜ばれることに用いた場合、それを賜物というのだそうです。

聖書の中にいましめや勧めが書かれているとき、必ず約束があると教えていただきました。

「どうか、私たちのうちに働く力によって、私たちの願うところ、思うところのすべてを超えて豊かに施すことのできる方に、(エペソ3:20)」


リビングバイブルでは
「私たちが大胆に願い求め、夢見ることもはるかに及ばないすばらしいことを、その偉大な力でなされる神様に栄光がありますように。」

と書かれています。

夢見ることもはるかに及ばないすばらしいこととは何でしょう? なんだか、ドキドキします。神の祝福を大胆に願い求めます。



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杖一本だけ持って

2017-03-23 15:53:40 | 教会
昨日水曜礼拝でマルコ6:7~13からのメッセージを聴きました。
イエス様が弟子たちを2人一組として遣わしたときのことです。
そのとき、旅の必需品(パン、袋、お金、下着)を持っていくことを禁止され、一本の杖だけ持って、靴をはいて出かけなさいと言われました。

なぜ持ち物を禁じられたのでしょう……。ないと困るものばかりなのに……。
イエス様は、その代わりに弟子たちに汚れた霊を追い出す権威を与えました。

イエス様に従うことは案外難しいことです。旅に必要だと思って持っていこうとしたものは持っていけなくなりました。なくても必ず与えられるという信頼が必要なのだそうです。
何に信頼するかというと

・イエス様の力への信頼
・イエス様の備えへの信頼
・イエス様の守りへの信頼の3つです。

イエス様に従うことは、イエス様により頼むということです。

わたしは、旅行などに出かけるとき、人より荷物が多くなります。
寒かったらどうしよう、暑かったらどうしよう、具合悪くなったらどうしよう……あれこれ心配で、不必要なものまでバッグに入れてしまうからです。
心配するということは、イエス様を信頼していないということかもしれません。

TEENS(中高科)の奉仕を頼まれたとき、何の準備をしたらいいのだろう。何を持っていったらいいのだろうと、そればかり考えていました。
何もいらない。身一つでいいのだと教えていただきました。

先のことが心配になったら、その先にイエス様がおられる、イエス様が守ってくださると信じます。そのとき、必要を備えていただけるからです。


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最後のぽんぽこクラブ

2017-03-20 16:40:54 | CS(子供伝道)
先週の土曜日は最後のぽんぽこクラブでした。

ぽんぽこクラブとは、Mちゃんの家で行われた子ども家庭集会のことです。月に一度の土曜日、数人の小学生が集まってきます。聖書のお話をし、賛美をし、室内ゲームをしてきまた。クリスマス会にはケーキのデコレーションをしたり、プレゼント交換をして楽しみました。その集まりは8年間続けられました。
8年前、小学1年生だった子どもはもう中学2年です。

お話とゲームは牧師先生と交代で行い、賛美の伴奏は教会学校の先生が弾いてくれました。
教会の長老がきてくださり、落語を披露してくださったこともありました。

わたしは創作童話を披露したり、室内ゲームを考えたり、準備をするのも楽しい時間でした。

先日はゲームとして百人一首をやりました。昔わたしが子どものころ使っていた百人一首で遊びました。坊主めくりもして楽しめました。
子ども家庭集会は19年の間、どこかの家庭で行ってきました。最初はわくわく子どもクラブという名で我が家で行うと、娘と同じマンションの子が10人も集まってきました。

その後、教会員で家庭を開放してくださる家庭が次々与えられ、続けられたのです。
ここにきて、家庭を開放してくれる家が途絶えてしまいました。残念ですが、仕方ないです。

これまで集った子どもたちはどうしているかな?と思うことがあります。
心の中にみ言葉が少しでも残ってくれているといいなあと願いつつ……。

長い期間、続けさせていただいたこと、感謝の気持ちでいっぱいです。

そして、昨日は小学科の教会学校教師会、最後の日でした。教会学校に通っている子どもたちが成長してたくさんの実をみのらせてくれることを祈りつつ、小学科からティーンズへ向かって出発です。

「御霊の実は愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。(ガラテヤ5:22)」

写真はMちゃん手作りのお菓子。

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理不尽な出来事、残虐な事件が起きたとき・・・・・・

2017-03-16 15:56:50 | 聖書から
殺人事件、戦争、テロなど、残虐な事件の報道を見聞きすると、神様はどうしてこんなにひどいことが起きるのを許されるのだろう……と思うことがあります。
何年か前ですが、ユニセフ親善大使の黒柳徹子さんが、飢えて死んでいく子どもたちを見て「こんな理不尽なことがあるから、神様はいないと思う」と言っていました。
果たして理不尽なこと、暴虐な事件が起きることが、神様がいないという証拠になるのでしょうか?

厳しい現実の中で神様を見いだしていくのは難しいことです。暴虐な事件が起きている時、神は沈黙しているようで、祈っても、祈っても事態が改善せず、悪くなっていく一方の場合があります。
そんなとき、どのように考えたらいいのでしょう。神様はなぜ助けてくださらないのでしょう……。

水曜礼拝の旧約聖書士師記9:42~49の学びで、その疑問に対する解決の糸口を示していただきました。
ギデオンの息子、アビメレクは、自分が王になるため70人の兄弟を虐殺しました。その後シェケムの町から裏切られると、復讐だと言って、神殿の地下に逃げ込んだ千人の人たちを火で焼いてしまいました。

聖書は虐殺があったことだけを記し、それが良いとか悪いとかは書いていません。
なぜこのようなおぞましいことが聖書に記されたのか……それは、自己欲のため自分に不都合な者を抹殺したいという人間の罪について考えてほしいということではないでしょうか。


残虐な事件が起きると、事件を起こした人だけが悪いと考えがちです。そして、事件を起こした人と自分には何の関係もない、何の共通点もないと思ってしまいます。

でも、人間は優しい面と残虐な面と、どちらも持っているのではないでしょうか。
いじめをテーマにした映画を観て涙を流した人が、映画館から一歩外に出たとき、一緒に行った友達をいじめたという話しがあります。

殺人犯を見て、自分は人を殺したわけじゃないからあの人より罪が軽いなどと言えるでしょうか。

理不尽な出来事、残虐な事件が起きたとき、それを神様のせいにするのではなく、人間の罪が事件を起こしていることを思い、自分自身の中にもある冷たい心を考えるようにと教えていただきました。

写真は暗唱聖句大会の賞品クッキーです。細かいところまでプリントされています。

日本クリスチャン・ペンクラブのHP更新しました。私のエッセー掲載されています。
ぜひ、ごらんください。



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最もたいせつなこと

2017-03-11 16:33:57 | 教会

先日水曜礼拝で「復活」というDVDを観ました。
キリストの処刑に携わったローマ軍の百人隊長クラヴィアスが主人公です。聖書に出てくる百人隊長とは別人で、架空の人物です。

クラヴィアスはキリストが墓に葬られたのち、遺体が消えてしまったと報告を受けます。ものすごい勢いでキリスト復活の噂が広まっていったので、ピラトから調査を命じられます。クラヴィアスは弟子たちが遺体を隠したのに違いないと思い、弟子たちを捜します。そして、弟子たちの隠れ家に乗り込みました。そのとき、彼は驚くべき光景を目にします。
死んだはずの男が、弟子たちに囲まれて、にこやかに話をしていたのです。

その人は、確かに自分たちが十字架につけた男です。
トマスという弟子が部屋に入ってきて、キリストに抱きついています。キリストは「見なさい」と言ってその弟子に手と脇腹の傷跡を見せました。

昇進、成功、繁栄を人生の目標として生きてきた軍人のクラヴィアス。
彼は、死人がよみがえるなんてありえないと思っていました。しかし、復活したイエスに会って驚愕し、価値観に変化が起こります。
また、弟子たちが弱さや裏切りの中で葛藤しながらイエスに従おうとする姿を目の当たりにして、少しずつ変えられていきます。
イエスが十字架にかけられる前、三日目に死人のうちからよみがえると弟子たちに言っていました。それなのに、弟子たちでさえ最初はイエスの復活を信じられなかったのです。

トマスは傷に手を入れてみるまでは信じないと言いました。
「見ずに信じる者は幸いです。」とイエスは言われました。

死んだ人がよみがえるとは、人間の常識を超える出来事です。聖書に書かれていても疑う人は多いでしょう。

当時のように、弟子たちが遺体を盗んで、復活したと嘘のうわさを広めていると思っている人もいるでしょう。クラヴィアスは「なぜキリストは大勢の人たちの前に姿をあらわさないんだ」と言いましたが、それはたやすいことで、大勢の人の前に復活した姿を見せれば、一度に多くの人が信じることでしょう。

でも、それはほんとうの信仰とは言えません。
見ずに信じることをイエス様は期待されています。

臆病な弟子たちが、復活のイエスに出会った後、勇気を得て、自分が危険にさらされることなど気にせずに力強くキリストを述べ伝えるようになります。そのことからも、キリストの復活は本当のことだとわかります。
わたしたちクリスチャンは、キリストの復活を真剣に信じています。

聖書の言葉
「私があなたがたに最もたいせつなこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。
キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、
また、葬られたこと、
また、聖書の示すとおりに、三日目によみがえられたこと、
また、ケパに現れ、それから十二弟子に現れたことです。(Ⅰコリント15:3~5)」

(ケパとは12弟子のひとり、ペテロのこと)

「そして、キリストが復活されなかったのなら、私たちの宣教は実質のないものになり、あなたの信仰も実質のないものになるのです。(Ⅰコリント15:14)」

DVDを視聴して、よみがえられたイエス様に実際に出会ったように感じ、心が震えました。


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立ち上がれ、出発せよ!

2017-03-08 16:17:48 | CS(子供伝道)
今日も真冬のような寒さですが、日差しの明るさに春を感じます。リハビリにせっせと通ったので、肩の痛みはだいぶ良くなりました。通院はまだ続きますが、楽に腕を動かすことができるようになってうれしいです。


わたしが教会学校の教師の奉仕を始めたのは、23年前、娘が小学1年生のときでした。ひとりの先生が急に辞められることになって、年度途中で急きょ頼まれたのです。

土浦に引っ越して2年もたっていないときでした。前の教会で幼児クラスの奉仕をしていたことが伝わって、わたしが選ばれたようでした。
車の運転ができないので、ふたりの子どもを自転車の前後に乗せて30分ぐらいかけて教会に通っていました。いちどは桜川の土手の道でころんで、
「もうお母さんの自転車には乗らない!」と子どもたちにしかられたことがありました。三人とも無傷だったのは奇跡のようでした。
近くに住む教会員の方が、見るに見かねて(?)車で迎えに来てくださるようになって助けられました。

それから何年もたち、息子は2児の父親、娘はもうすぐ母になろうとしています。
間もなく教師25年になるので、2年後、きりのいいところで引退させてもらおうと思っていました。そして当然来年度はまた低学年を担当するつもりでした。

2週間ほど前、教会スタッフの先生から思いもかけない電話を受けました。
TEENS(ティーンズ)の教師になってほしいという電話でした。TEENSとは、中高科のことです。
ずっと低学年を受け持っていたのに高学年をとばして中高生の先生ですって!
驚いてしばし言葉も出ませんでしたが、なぜわたしがTEENSに呼ばれたかがわかってくると、受けた方がいいという思いが強くなってきました。でも、お返事は祈ってからにしますと言って、すぐには返事できませんでした。

かつてクリスチャン・ペンクラブの理事長だった池田勇人先生から「成長」の教案誌の中高生のところを書いてくれませんかと頼まれたことがありました。今奉仕している小学科を書くことさえできないのに、中高科の箇所を書くことなど、できませんと断ったことがありました。そのとき、池田先生は「小学科を担当しているの? 中高科担当だとばかり思っていた」と不思議そうに言われました。そのことを思い出しました。

わたしは中学生のとき、友達がひとりもいなくて孤独な一年を過ごしました。そのときのことを「キャンドルの灯」という題で小説を書いて応募したら入選し、クリスチャン新聞に連載されました。
本になった「リピート・シンドローム」では、高校生のドラッグ、リストカット、摂食障害について書きました。そのようなことから池田先生はわたしが中高生の担当教師だと思われたようです。

わたしが中高生に対して熱い思いを持つのは、中学2年のとき、自分の存在価値がわからなくて、ずっと死にたいと思っていたことから始まります。いま現在死にたいと思っている子どもたちに神さまの愛を伝えたいと、望んでいたのです。
小学生にというより、中高生に伝える必要があるのではないかと思いはじめました。

聖書を読むと「立ち上がれ。出発せよ。(申命記2:24)」と書かれています。

慣れ親しんだ場所から移動するのにはエネルギーがいります。引き裂かれるような思いもします。
同じ教会内でも小学科とTEENSの奉仕者の接点はほとんどありません。どのようなことをやっているのか全く知らないので、不安です。
でも、わたしがかつて受け持った子どもたちが大きくなってそこにいます。
必要な力……体力、能力はきっと神様が与えてくださるでしょう。

60歳の旅立ちです。



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野良犬ではなく

2017-03-01 20:28:02 | 教会
3月に入ってしまいました。年を重ねるにしたがって、時間のたつのが早く感じられると言われていますが、まさにその心境です。

この前の日曜日の礼拝ではマタイ15:21~28よりメッセージが語られました。
聖書にはイエス様がツロ、シドンの地方に行かれたとき、カナン人の女が出てきて、悪霊に憑かれている娘を治してくださいと頼む場面があります。
そのとき、イエス様はその女の人に一言もお答えになりませんでした。

愛に満ちたイエス様なのになぜこんなに冷たいのかと疑問に思っていたところでした。

イエス様はさらに「わたしはイスラエルの羊以外のところには遣わされていません」と言われます。

同胞のイスラエル人のところには遣わされているけれど、異邦人のところには遣わされていないから癒しの業は行わないということでしょうか……。


それでも女の人は必死な思いでイエス様のところに来てひれ伏し「主よ。わたしをお助けください」と言いました。

イエス様は「子どもたちのパンを取り上げて子犬に投げてやるのはよくないことです」と、また冷たいようなことばを発します。

女の人は、犬扱いされて、ひどいと思います。でもよく考えてみると、子犬と言われたのです。野良犬ではなく人に飼われ、大事にされている子犬と言われたのです。

女の人は、自分が子犬のような存在だと思いました。
そして、この方はメシア(救い主)であると確信して言いました。

「主よ。その通りです。ただ、子犬でも主人の食卓から落ちるパンくずはいただきます」

それに対してイエス様は、「あなたの信仰はりっぱです」と褒めてくださいます。
そして「その願いどおりになるように」と言ったとき、女の人の娘さんが癒されたのです。

もし、わたしだったら子犬扱いにされたことに腹を立てて、「もういい!」と言って帰ってしまうかもしれません。
でも女の人は、自分が子犬のような存在だと謙遜に認めたのです。そして、イエス様のことを救い主だと信じるのです。
謙遜になること、信じて求め続けることの大切さを教えられました。




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2017年の暗唱聖句大会

2017-02-27 16:02:31 | CS(子供伝道)
昨日は暗唱聖句大会でした。
子どもたちにみ言葉(聖書の言葉)を覚えることの大切さを知ってほしくて毎年行われています。

今年も工夫を凝らしたゲームを考えましたので紹介します。

暗唱聖句大会の一か月前に、覚える聖句を書いた冊子を作って子どもたちにあらかじめ配っています。子どもたちは家や教会でそれを覚えます。
暗唱聖句大会当日は1~3年生約30人の子どもが参加し、10:30~12:30までの2時間で行いました。
(時を同じくして高学年30人も別の場所で行っています。)


最初に子どもたちを4つのグループに分け、話し合ってリーダーを決めます。
次にルールを説明します。
ゲーム1
上の句下の句ゲーム
学年ごと3か所で円になって座ります。
ひとつの聖句を半分に切り、前半部は教師が持ち、後半部を書いたカードをカルタのように並べます。読み手は聖書箇所をまず読んでから、前半部分を読み、少し間をおいて後半を読みます。百人一首の要領で……。お手付きにわざと間違えた言葉を入れているカードも含めました。

20の聖句を完璧に覚えている子が数人いて、聖書箇所を読んだだけで取っていました。レベルが高いです。

ゲーム2
早押し虫食いクイズ
パワーポイントに聖句を出します。一部をーーーーとしてそれが何か言える子は、早押しチャイム押します。一番に押した子のランプが光るので、その子どもが答えられたら10ポイントもらえます。間違ったら、次の順番の子どもが早押しチャイムを押します。
正解数はグループの得点になります。

ゲーム3
みことば並べ替えクイズ
聖句をバラバラに切ったカードを教会の庭や空き部屋の壁に貼り付けておきます。(貼り付けるのは、はがしてもやぶれない養生テープが最適)中にダミーが含まれています。
聖句を取りにいく子と、並べる子を分けたりしてグループごとに作戦会議をしてから、開始します。
3種類のみ言葉を早く正しく並べられたチームに得点がたくさん入ります。
しっかり話し合って分担しているチーム。全員で同じ場所へ取りに行くチーム。みんな一生懸命考えてやっていました。


集計して表彰し、少しだけ差をつけたお菓子を賞品として配りました。一位のチームの子も最下位のチームの子も満足した顔をしていました。
これを機会に子どもたちが聖句をどんどん覚えるようになってほしいと願っています。



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苦境に立たされた時

2017-02-21 17:06:36 | 教会
友人から突然右手が動かなくなって困っていると電話がありました。わたしも肩が突然のように痛みましたが、動かないほどではありません。なんとか家事はできます。全く動かなければ、どれだけ不自由なことでしょう。「努力して直すから大丈夫」と友人は言いましたが、心配です。

苦難は突然やってきます。
あなたは苦境に立たされたとき、どうしますか?

先日の礼拝では『苦難の時も』という題のメッセージを聞きました。

パウロは牢に入れられ、数えきれないほど鞭打たれ、何度も死に直面したと手紙に書いています。

そのような苦難のとき、ピリピの教会の人はパウロのために祈り、支援しました。ピリピの教会の人たちはチームメイトとなってパウロを支え、パウロはそれで苦境を乗り越えられたのです。ピリピの教会の人とパウロがよい関係を築いていたからなのですね。


苦境というと、わたしは病気になったことを思いだしますが、大病をすると、自分の弱さと限界をいやというほど知らされます。自分はもう少しできる者だと思っていたのに、自分の努力ではどうしようもなく、ただ無力であることに気づかされます。

でも、『苦境がその人を本物にする』『神が苦境を恵みに変えてくださる』と聞いて、希望が与えられました。

「あなたがたはみな、私が投獄されているときも、福音を弁明し立証しているときも、私とともに恵みにあずかった人々であり、私は、そのようなあなたがたを、心に覚えているからです。(ピリピ1:7)」

と聖書に書かれています。私とはパウロのことで、あなたがたとは、ピリピの教会の人たちのことです。
苦境の中にいっしょにいてくれる仲間がいることは幸いなことです。苦境の中にいる友をどのようにして支えられるか思いめぐらしています。



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