生かされて

乳癌闘病記、エッセイ、詩、童話、小説を通して生かされている喜びを綴っていきます。 by土筆文香(つくしふみか)

彼の決断で6000人が救われる

2017-05-23 20:13:16 | その他
先日の礼拝で6千人のユダヤ人を救った杉原千畝のことが語られました。
ネットで調べたことを紹介します。

1939年、杉原氏はリトアニアの日本領事館代理として働いていました。
1940年7月27日、大勢の人が領事館の周りを埋め尽くしていました。事情を聴くと、それはナチスの迫害の手をのがれてリトアニアに着いた大勢のユダヤ人たちでした。

ユダヤ人達は、これから日本経由でアメリカやイスラエルに逃げようとしており、通過ビザを求めていました。
ナチスから逃れる道は、シベリア-日本経由の道しか残されていませんでした。

人々は日本を通過するビザが欲しいと訴えていました。
これほど多くの人々にビザを出すことは、領事の権限ではできませんでした。外務省に暗号電報で許可を求めましたが、回答は「否」です。日独伊三国同盟を目指す方針の下で、ドイツに敵対するような行為は認められなかったからです。

でも、もしビザを出さなければ、外のユダヤ人達は皆殺されてしまいます。杉原領事はあきらめずに二度、三度と電報を打ちましたが答えは同じでした。

ビザ交付の決断に迷い、眠れぬ夜を過ごした杉原はついに意を決して、夫人に言いました。
「幸子、私は外務省に背いて、領事の権限でビザを出すことにする。いいだろう?」
「あとで、私たちはどうなるか分かりませんけれど、そうしてください。」
幸子夫人も同じ考えでした。

杉原氏は、外務省を辞めさせられることも覚悟して決断しました。

以下は幸子夫人の書かれた文章です。

「夫が表に出て、鉄柵越しに「ビザを発行する」と告げた時、人々の表情には電気が走ったようでした。一瞬の沈黙と、その後のどよめき。抱き合ってキスし合う姿、天に向かって手を広げ感謝の祈りを捧げる人、子供を抱き上げて喜びを押さえきれない母親。窓から見ている私にも、その喜びが伝わってきました。」

それから約1か月間、退去期限ぎりぎりまで、杉原氏は朝から晩まで1日300枚を目標にビザを書き続けました。すべてを手書きで一人一人の名前を間違えないように書かなくてはなりません。

一日が終わると、ベッドに倒れ込み、夫人が腕をマッサージしていると数分で眠り込みました。

ソ連から退去命令が何度も来て、杉原氏はついに8月28日に領事館を閉鎖して、ホテルに移りました。ホテルにもユダヤ人がやってきました。杉原氏はありあわせの紙でビザを書き続けたそうです。

9月1日の早朝、退去期限が過ぎて、ベルリン行きの国際列車に乗り込むと、ここにもビザを求めて何人かの人が来ていました。窓から身を乗り出して杉原氏はビザを書き続けました。

   走り出づる列車の窓に縋りくる手に渡さるる命のビザは

杉原氏のおかげで6千人ものユダヤ人の命が救われました。

杉原氏は、ビザを発行してはいけないという日本政府と、ユダヤ人を助けたいという思いとの板挟みになりました。しかし、神を信じていた杉原氏は、「私を頼ってくる人々を見捨てるわけにはいかない。でなければ私は神に背く」と言ってビザを発行する決断しました。

1947年に日本に帰国した杉原氏は、外務省を依願退職させられることになりましたが、1985年には、イスラエル政府から「諸国民の中の正義の人賞(ヤド・バシェム賞)」を受賞しました。
6千人のユダヤ人の子孫は、今や25万人にもなったそうです。。

杉原氏がもし自分の立場を守りたいと思ったら、日本政府の命令に従って発行しないという決断をしたでしょう。でも、彼はたとえ命を失っても神のみこころにかなったことをしたいと思い、発行する決断をしたのです。
ご夫妻の信仰に心打たれました。

上の写真は日曜日に礼拝後、TEENSの子どもたちと行った茨城県北部の阿字ヶ浦海岸


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誤解していたこと

2017-05-17 16:38:32 | 聖書から
*最後に追記あり

わたしは、22歳で洗礼を受けたとき、意味が十分わかっていませんでした。
教会へ通って半年ほどたったとき、「来週クリスマス礼拝で洗礼式があるので、受けませんか?」
と牧師先生から言われました。

わたしの今通っている教会では、洗礼の前に学び会があり、準備の時期があります。また、「救いのあかし」といって、どのように信じるに至ったか書いて提出し、面接を受けてから洗礼を受けます。でも、当時わたしが通っていた教会にはそのようなものはありませんでした。

三浦綾子の小説を読んで、罪に気づいていました。洗礼を受けて罪が赦されるなら受けたいと考え、その当日「受けさせてください」と願い出て、受洗に至ったのです。

洗礼を受けたら、罪を犯さない人間になれると思っていたわたしは、受洗後も相変わらず罪を犯してしまう自分に気づき悩みが深まりました。これは誤解でした。

わたしは癇癪持ちだったので、ときどき自分の感情をコントロールできなくなって、家の中で暴れました。気に入らないことがあると、階段を上って行って、二階でドンドン足を踏み鳴らしました。嫌だと思っていた父と同じようなことをしていました。そのことが罪だと気づいていましたが、受洗後もやっていました。

洗礼を受けると、神様の光に照らされて今まで気づかずに犯していた罪にも気づくようになるので、よけい罪深くなったと感じ、悩みました。そのことを牧師先生や先輩クリスチャンに相談すればよかったのに、引っ込み思案だったわたしはそれができず、誤解したまま教会を離れてしまいました。

神様は、わたしたち人間が罪のために滅びてしまうことがしのびなくて、わたしたちの罪を赦そうとされました。罪が赦されるためには死ななければなりません。それで神様はわたしたちの代わりにご自分の愛するひとり子、イエス様を十字架につけました。イエス様は死にましたが、三日目によみがえられました。
それでイエス様を信じるだけで、わたしたちの罪は赦されるようになったのです。

罪の赦しは一度限りではありません。洗礼を受けても心の中で悪い思いを抱くことがあります。そのときは、神様の前に罪を告白して祈れば、赦してくださいます。何度でもです。

聖書には次のように書かれています。
「もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。(Ⅰヨハネ1:9)」
あのときのわたしは、聖書をよく読んでいなかったのでこの言葉を知りませんでした。

教会を離れてしまったことは残念なことでしたが、洗礼を受けていたからこそまた教会へ行くようになったのでした。

水曜礼拝で、主の祈りにある「わたしたちの負いめをお赦しください(マタイ6:12)」(負いめとは罪)は、日々祈るものだと聞いて、考えたことを書きました。

追記:日本クリスチャン・ペンクラブのHP更新しました。私のエッセーも掲載しています。ここをクリックしてご覧ください。


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どんな些細なことでも

2017-05-13 15:49:17 | 日記
三宅島の感動がまだ続いています。上の写真は帰りの船中から写した夕焼け。

旅行記にも書きましたが、今回の旅行は旅行社を通してではなかったので、色々な心配がありました。民宿も東海汽船も観光タクシーも電話一本で予約したので、間違えはないか不安でした。天気が悪ければ船が出ないというのも心配でした。コンビニはなく、店や食堂もたくさんはないということで、あらかじめ地図を見て確認していました。

旅行中は、ひとつひとつのことについて祈っていました。船があまり揺れないようにとか、腰が痛まないようにとか、カツオドリと出会えるようにとか……どんな些細なことでも祈りました。そうしたら、すべてかなえられたのです。そして、不思議なことにかなえられる前から平安が与えられました。

このように書くと、不思議に思う方もいるでしょう。
そもそも祈りというのはどういうものなのか? 祈る対象はどんな方なのか?と疑問に思われるでしょう。

クリスチャンが祈るときは、最初に「天におられる父なる神様」と呼びかけます。
天の父なる神様とは、天地万物を作られた全能の神様です。なんでもご存じで、どんなことでもできる方です。だから、祈らなくてもすべての必要はわかっておられ、備えてくださり、守ってくださるのです。それでも祈るのは、子どもが大好きなお父さんに願いを聞いてもらうのと同じような感じです。

天地万物を作られた偉大な方が、ちっぽけなわたしの願いを聞いてくださるというのでしょうか? 
「願っても、求めても与えられないこともあるのに……。願ったことと反対のことが起きることもあるのに……。」
と思うかもしれません。確かに「明日晴れにしてください」と祈ったのに雨になることはありますよね。
でも、それは神様が祈りを聞いてくださらなかったわけではないのです。もちろん聞こえているのですが、小さな子どもがナイフなど危険なものを求めたとき、親は与えませんね。それと同じで、求めた物とは違っていてもその子にとって、最も良い物を与えてくださるのです。

先日の水曜礼拝で主の祈りについて学びました。
主の祈りとは、イエス・キリストの弟子たちがどのように祈ったらよいかイエス様に尋ねたとき、イエス様が教えてくれた祈りです。

主の祈り
天にいます私たちの父よ。
御名(みな)があがめられますように。
御国(みくに)が来ますように。
みこころが天で行われるように地でも行われますように。
私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください。
私たちの負いめをお赦しください。
私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。
私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。
国と力と栄は、とこしえにあなたのものだからです。アーメン。


5行目に「私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください。」とありますが、毎日食べるものを与えてくださいという、日常生活のことを祈っています。それは、どんな些細なことでも祈るように神様がすすめておられるという意味だと聞きました。

祈ればその通りになるから信じるのでなく、信じているから祈る。祈った通りにならなくても、神様はいつも最良のものを与え、最善をなしてくださいます。


写真は息子夫婦からと娘夫婦からの母の日のプレゼントです。


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小旅行で大きな収穫(その5)

2017-05-09 17:06:07 | 日記
翌日はアカコッコ館でバードウオッチングを予約していますが、アカコッコ館の周囲では、海鳥のカツオドリを見ることができません。

漁師さんに頼んで釣り船で三本岳に行くという方法があります。夫に言うと反対されてしまいました。
カツオドリに会えないまま帰ることになるかもしれないと思ったのですが、きっと会えるという気がして、予定通りアカコッコ館に行くことにしました。


アカコッコとは国の天然記念物に指定されている鳥です。アカコッコの名をとってアカコッコ館が大路池の近くに建てられています。             

写真はアカコッコ館に展示されているパネルを写したものです。

雨が降ったりやんだりしていましたが、日本野鳥の会のレンジャーの方が野鳥観察を導いてくださいました。双眼鏡を貸していただいて、いざ出発です。 

           
しきりに鳥の声はするのですが、なかなか姿を見せてくれません。雨が上がると出てくるらしいですが……。
アカコッコには会えました。スズメのように地面をとび跳ねてあるくので見つけやすいです。林に続く道で、モーモーと牛のような鳴き声がしました。



声の方を見ると、黒い鳥が木の枝から飛び立つのがみえました。「カラスバト」だそうです。  
写真は八丈ビジターセンターのHPから拝借しました。

カラスバトはあまり人前に姿を現さないので、この鳥を見ただけでもすごいことだと言われました。カラスのように黒いのですが、首回りに虹色の輪が見えます。
小さな鳥、ウチヤマセンチュウも見ました。素早くて、見つけたと思ったら、もう姿が見えなくなりました。
鳥の写真は撮れませんでした。

バードウオッチングが終わって、アカコッコ館で帰りの船がどの港から出るのか教えていただきました。着いた港と同じ、錆ヶ浜です。ただし、条件付きだと言われてドキッとしました。
条件付きとは船を出航させるものの、接岸できるかわからないという意味です。船が接近した時点で風や波の高さなどを計測し、安全なら接岸。ダメな場合は通過か引き返しになるそうです。帰りの船は一日一本だけなので、乗れなければ島にもう一泊しなければなりません。

とにかく港へ行かなくては……と、島を一周しているバスに乗って、港に向かいました。
ターミナルにいる人たちは、みんなのんびりしている感じだったので、きっと船は出ると思い、民宿で作っていただいたお弁当をいただきました。


2階の展望スペースに行くと、海鳥が飛んできました。なんと、カツオドリです。何羽も何羽も飛交っています。
あまり驚いて、「カッ、カッ、カッ、カッ……」と言ったまま言葉が出なくなってしまいました。カツオドリたちが見送りに来てくれたように感じました。写真は失敗です。空ばかりの写真が8枚。ようやく一枚だけ写っていました。


船は無事接岸し、出航しました。


帰りは1等客室です。すいていたので12人部屋を夫と二人で貸切り状態でした。

今回の三宅島への旅行は色々なことが初めての経験だったので不安がありました。数日前に腰を痛めていたのでコルセットをしての旅でした。体調がくずれることも、船酔いも不安でした。でもすべて良好でした。船酔いは、帰りにちょっと気分が悪くなった程度です。腰は全く痛くなくなったので帰りはコルセットを外しました。

カツオドリとなかなか出会えませんでしたが、常に平安がありました。主が共にいてくださったことを実感しました。すばらしい自然と、島で出会った方々の温かさに触れ、また行きたくなりました。
最後まで読んでくださって、ありがとうございました。                   おわり



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小旅行で大きな収穫(その4)

2017-05-06 16:46:02 | 日記
連休に息子一家と娘夫婦が泊りがけで来ていたので、更新が遅くなりました。
三宅島旅行記の続きです。

観光タクシーで伊豆岬灯台を見学しました。



明治42年に建造されたランプ式無人灯台です。角柱形の灯台は珍しいです。
天気の良い日は新島、神津島や遠く富士山を望むこともできるそうですが、曇っていたので残念ながらみえませんでした。


大路(たいろ)池です。
およそ2000年前の噴火でできた火口湖と言われています。


大路池の入口にある迷子椎と呼ばれる樹齢数百年の木です。幹周り7.5メートル、樹高15メートルのスダジイです。大路池周辺の密林に迷い込んでも、この大木を目標にすれば助かるので迷子椎と呼ばれているそうです。
枝が支柱でささえられています。

島を一周して、阿古地区にもどってきました。

ところでカツオドリにはまだ出会っていません。明日の天気は雨の予報です。
民宿で一休みしてから、ひとり海岸に出てすわっていました。



写真は小さくてわかりにくいですが、遠くに三本岳が見えます。
三本岳は三宅島から西南西、約9km沖に切り立っている島で、正しくは『大野原島』と言い 三宅島から見ると3つの突岩が切り立って見えることから『三本岳』と呼ばれているそうです。



カツオドリは三本岳にいるらしいので、こちらの方へ飛んでくるのではないか期待して待ちました。いつまで待っても飛んできません。
カツオドリを見ることができなくても、時間は無駄になりません。海の色、磯のにおい、波しぶき、波の音などしっかり記憶しました。
海岸にはだれひとりいませんが、右側に誰かがいるように感じ、何度も首を横に向けました。


カツオドリの代わりにスズメぐらいの鳥が飛んできて消波ブロックにとまりました。
わたしを慰めてくれているのでしょうか。いつまでも飛び立たず、じっとしていました。


民宿に戻ると、夕食の用意が出来ていました。


夕食は海の幸満載のおかずでした。とれたての魚のさしみ。ノドグロの煮つけなど……おいしくいただきました。

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小旅行で大きな収穫(その3)

2017-05-01 16:14:35 | 日記
今回の旅行で初めて知ったことがあります。三宅島への定期船は1日1便しか就航していません。波が高いと着岸できずに戻ることもあるそうです。

また、三宅島にある3つの港のどこに着くか、またどこから出るのか数時間前にならないとわからないというので、驚きました。
旅に出るときは、綿密な計画を立てて用意周到に準備している夫は、落ち着かない様子です。わたしも台風でなければ船は毎日出ているのだろうと思っていたので、三宅島に行くことができても、何日も帰れなかったらどうしようと思いました。



民宿の庭に溶岩がオブジェのように並べられていました。

民宿で朝食をいただいたのち、観光タクシーで島をまわりました。
三宅島は一周30.9キロメートルです。自転車で一周する人もいるようですが、道はかなり起伏があるので、わたしたちにはとうてい無理です。
                            
三宅島は太古の昔から、何度も噴火を繰り返してきたそうです。
20世紀以降では、1940年(昭和15年)、1962年(昭和37年)、1983年(昭和58年)、2000年(平成12年)と4回の噴火が発生しています。
また、現在も年に数回程度、ごく小規模な噴火が起きているそうです。

ひょうたん山は昭和15年に雄山北東山腹の標高200m付近から噴火。大量の溶岩・火山弾・スコリア・火山砂が放出され、たった約22時間のうちに「ひょうたん山」が形成されました。   


昭和58年10月3日、山の中腹にから噴火しました。高さ100m以上に吹き出た溶岩は、阿古地区の一部を飲み込みました。幸いにも人的な被害はなかったそうです。


2007年、この溶岩流の上に、火山道体験遊歩道が完成しました。 




阿古小中学校跡が当時のままの状態で残っていました。流れ出た溶岩が小中学校の校舎で止まったそうです。学校は運動会の代休で休みだったそうで、もしここに子どもたちがいたら……と思うとぞっとしました。


溶岩の隙間から葉が茂り、自然の再生力を目の当たりにしました。


降ってきた直径一メートルぐらいの石を使って石垣が作られています。   

何度噴火を経験しても立ち上がる島民の、島への熱い思いを感じました。 

*小中学校の写真、一部変更しました(5/6)



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小旅行で大きな収穫(その2)

2017-04-29 16:07:45 | 日記
4月25日から27日まで、三宅島に行ってきました。

主人が退職してから、年に1~2回旅行をしています。主人はSLが好きなので、SLが走っているところを追いかけて旅をしてきました。
有名なところは行き尽くしてしまったので、今回はわたしが行きたいところでいいと言ってくれました。それでカツオドリのいるところを希望しました。

昨年からカツオドリを主人公に小さな童話を4つ書いています。児童文学の仲間にカツオドリの飛ぶ海の色は何色ですか? と聞かれて、わたしは答えられず、そのことがショックでした。海の色どころかカツオドリを実際に見たこともなかったからです。

カツオドリは動物園では飼育されてないので、見るなら赤道近くか小笠原諸島に行かなければなりません。小笠原諸島の父島は船で24時間もかかるそうです。飛行機は飛んでいません。

ネットで調べているうちに三宅島の三本岳に営巣していることがわかり、行き先を三宅島にしました。船で6時間で行けるので、酔い止めを飲んでいればきっとだいじょうぶ。

チケットはあらかじめ東海汽船に電話して予約を入れました。行きは疲れると後々ひびくので、ちょっと高かったのですが特等客室を予約しました。さるびあ丸です。




ビジネスホテルの一室という感じでシャワー、トイレ付、テレビもあり、窓から海が見えました。



竹橋桟橋から乗船。出航を知らせるドラが鳴ると、冒険の旅の始まりです。わくわくしてきました。

横になると揺れがよく感じられて熟睡はできませんでした。23時半に消灯になり、うとうとしていると船内放送があり、時計を見ると明け方4時半でした。あと30分で着くと言うので、急いで支度をしました。

下船してターミナル方面に歩いていると、あらかじめ頼んでおいた宿の方が迎えに来てくださっていました。
チェックインは15時なのですが、もう部屋に入らせていただけて、7時半までまた眠れました。地上で寝られることのありがたさを実感しました。


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小旅行で大きな収穫(その1)

2017-04-28 17:29:33 | 日記

ここはどこでしょう?
船で夜10:30に出発しました。


明け方着きました。
海がきれいでした。



三宅島です。


今日はここまで。後日旅行記を書く予定です。


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人生の矛盾

2017-04-24 15:51:48 | 教会
誠実に生きている人が苦難に会い、悪いことをしたり、いい加減に生きている人が恵まれた生活をしているのを見ると、疑問を感じる人がいるのではないでしょうか。

わたしは中学生のころ、誠実に生きていれば幸せになり、悪いことをしたり、不誠実に生きている人はみじめな死に方をするんだよと教えられました。
もしそれが本当なら、つらいことがあっても、まじめに生きていけます。
でも実際は、そうでないことが多く、矛盾を感じていました。

悪いことをしたり、不誠実な人が幸せになっているのを見ると、神さまは不公平ではないかと思ってしまいます。
昨日は、そのことについてどう考えたらよいか教えていただきました。

昨日はコイノニア礼拝でした。
コイノニアとは韓国の大方(デバン)教会と土浦めぐみ教会との交流のことで、各年齢層の方が訪れたり、迎えたりします。今年はコイノニア20周年の記念の年で、大方教会から31名の方々が来てくださいました。

礼拝では、大方教会の牧師先生がメッセージをしてくださいました。
旧約聖書の詩編17:14-15には次のように書かれています。


14主よ。人々から、あなたの御手で。
相続分がこの世のいのちであるこの世の人々から。
彼らの腹は、あなたの宝で満たされ、
彼らは子どもらに、満ち足り、
その豊かさを、その幼子らに残します。
15しかし、私は、正しい訴えで、御顔を仰ぎ見、
目ざめるとき、あなたの御姿に満ち足りるでしょう。


これは、ダビデの書いた詩です。ダビデは自分の周りに敵がたくさんいて、彼らが栄えているのを見て苦しみました。
神さまの言葉通りに生きようとすると、状況が苦しくなることの多い現実です。

「相続分がこの世のいのちであるこの世の人々」とは、
この世で繁栄している人々は、相続分(分け前、むくい)をすでに受け取っている人々という意味です。
この世で繁栄している人々は、すでに分け前が与えられてしまったので、将来は何もなく、何の望みもないのです。
だから、このような人たちのようにならないようにしてくださいとダビデは祈っています。

神を信じない人たちは、お金が与えられると自分がもうけたと思い、私腹を肥やしています。子どもの出世を望み、子孫の繁栄を喜びます。人生は有限なので、お金を子孫に残して安心します。
この人たちには神様が抜けています。自分のため、自分の子どものため、自分の子孫のためと考えて、他者のためにという考えが欠落しています。

15節で「しかし、私は……」と書かれているのは、『私は、この人たちとは違います。神を信じます』という告白です。

「目ざめるとき、あなたの御姿に満ち足りるでしょう」というのは、自分が神様から祝福をたくさん受けていることを喜ぶという意味です。
目ざめるとき、神様と対面できるとは、なんと幸いでしょう。
神と対面したダビデは、喜びに満たされて感謝にあふれ、『世の人たちの繁栄をうらやむことはしません』と告白しています。

「最も良いものはまだ来ていない。(清教徒)」という言葉があります。

人生はこの世で終わるのではないのです。最も良いものがいつの日か必ず与えられるのです。だから、人の繁栄をうらやむことはないのです。

ダビデのように神を見上げて生きていきたいです。

書いていて昨日のメッセージは、前回のブログに書いた金持ちとラザロのたとえ話とつながっていると思いました。

先週は水曜日の朝に腰を痛め、水曜礼拝と輪読会に行けませんでした。
落ち込んでいたのですが、日ごとによくなってきて、昨日はコルセットをつけて教会礼拝に2回(第1と第3)も出席し、TEENSの奉仕もできました。
感謝!!


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関心、無関心

2017-04-18 16:12:02 | 聖書から
先週の木曜日の家庭集会では、ルカ16:19~30からイエス様のたとえ話で「金持ちとラザロ」の学びをしました。遅くなりましたが、紹介させていただきます。

毎日贅沢な暮らしをしている金持ちがいました。彼の家の門前には貧乏で全身におできができているラザロという人がいて、金持ちの食卓から落ちる物で腹を満たしたいと思っていました。聖書には書かれていませんが、金持ちは、ラザロに対しては無関心だったようです。
金持ちは生きている間、良い物を受け、ラザロは生きている間、悪い物を受けていました。
生きている間は対照的なふたりでした。

ラザロはやがて死に、みつかいたちによってアブラハムのふところへ連れていかれました。
後に金持ちも死んで葬られましたが、ハデスで苦しみを受け、見上げるとラザロがアブラハムのふところにいるのが見えました。

(アブラハムとは、ユダヤ人の先祖であると同時に『信仰の父』と呼ばれる人物です。「アブラハムのふところ」という表現は、聖書でこの箇所しかでてきませんが、明確な意味は分からないそうです)

死を味わうことにおいては、ふたりとも平等でしたが、連れていかれたところが違っていました。
金持ちが死んだ時、彼を葬った人たちがいました。葬式に出席した者は多く、彼に関心を寄せていた人たちがたくさんいたと思われます。
一方、ラザロに関心を寄せていた人はいなかったと思われます。「葬られた」とは書かれず「みつかいたちによってアブラハムのふところに連れて行かれた」と書かれているところに注目したいです。

ラザロという名前は「神に助けられる人」という意味があるそうです。

ルカ16:15には「あなたがたは、人の前で自分を正しいとする人です。しかし神は、あなたがたの心をご存知です」
と書かれています。

人からよ良い評価を受けても、神様の評価は違うということを示しています。

金持ちは、ハデスで苦しみ、アブラハムに助けを求めます。でも、アブラハムから死後の状態は変えられないと言われます。金持ちは、せめて自分の兄弟が同じような目に合わないようにラザロを自分の父の家に送ってほしいと頼みます。

アブラハムは「モーセと預言者との教え」があるので、その言うことに聞くべきだ」と言いました。

「モーセと預言者との教え」とは旧約聖書のことを指しています。

「聖書の教えに耳を傾けないのなら、たとえだれかが死人の中から生き返っても、彼らは聞き入れやしない」
というアブラハムの言葉でこのたとえ話は終わっています。

レジュメには「信仰を持つためには奇跡や驚くべき出来事が必要でしょうか?」
「救われるために必要なのは何ですか?」
と書かれています。

実際、奇跡や驚くべき出来事が起きることがあります。でも、信仰を持つためにそれらが必要とは限りません。
救われるためには、自分の罪に気づき、悔い改めることが必要です。

このたとえ話はパリサイ人に向けてイエス様が語られました。パリサイ人とは、イエス様の時代のユダヤ人で、ユダヤの律法のすべての部分に、非常に熱心に従おうとした人々です。彼らはイエスを救い主であると認めていませんでした。

そんな彼らになぜイエス様はこの話をされたのでしょうか。

パリサイ人たちは、いつもイエスのあげ足を取ろうとしていました。イエス様を見下してあざ笑っていました


イエス様は、そんなパリサイ人たちにも関心を寄せ、救いに与るように願っておられたからだと教えていただき、はっとしました。
神様は、わたしたちひとりひとりに関心を寄せ、愛してくださっているのです。たとえ話に出てくるラザロのような人にも、金持ちのような人にも、救われてほしいと思っておられるのです。神様の深い愛に心打たれました。

日本クリスチャン・ペンクラブのHP更新しました。ここをクリックしてごらんください。


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本の出版予定

2017-04-15 10:58:19 | 日本クリスチャン・ペンクラブ
今年は日本クリスチャン・ペンクラブ(JCP)が65周年を迎えます。9月に記念会が行われますが、先だって本の出版があります。題は「山川草木」。これまで「花鳥風月」「春夏秋冬」「喜怒哀楽」などの四字熟語のひとつひとつの言葉をモチーフに証し文章を書いて本にしてきました。今回の新しい本は、山水草木の他に、信・望・愛についてのエッセーも掲載されています。

三校が送られてきて、昨日は校正に時間を費やしました。200ページもあるので何時間もかかりました。目が疲れて、そのあとPCを開いたらぼやけてほとんど見えませんでした。

20名ほどのお仲間たちの文章を改めて読ませていただいて、そこから勇気と力が与えられました。
この本が多くの人に読まれ、神様によって大いに用いられるように祈っています。

一昨日の家庭集会は、クリスチャンのご夫婦が経営しているレストランで行わせていただきました。
落ち着いた店で充実した学びができ、おいしいご馳走に舌鼓を打ち、いつもと違った贅沢をさせていただき、感謝、感激でした。
今日はこれからヒックン、ナルクンが来ます。



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人の言葉に翻弄されない人

2017-04-10 15:51:47 | 教会
人の言葉に翻弄されたり、一喜一憂することがありませんか?
わたしは、褒められるとうれしくて舞い上がり、高慢になってしまいます。逆に、けなされたり、悪口を言われるとひどく傷つき、心は荒海のように騒ぎます。

人から傷つけられたとき、『わたしは感受性が鋭く、とても傷つきやすいんです。それなのにどうしてひどいことを言うのすか?』と、相手を訴えたい気持ちになったことがあります。
傷つきやすいということをまるで自慢しているようでした。でも、人は皆傷つきやすいのだと思います。傷ついてもそんなそぶりをみせず、平静を装ったり、強がりを言う人がいますが、本心は傷が痛んで泣いているのです。

ところが、傷つけられても気にしない人がいます。苦しみを受けても、そのことを喜んでいる人がいます。
以下は礼拝メッセージを聞いて考えたことです。

聖書に出てくるパウロがそのひとりです。キリストのために苦しみを受けるのはよいことですと言っています。
『ねたみや党派心、争いを持ち、自分を苦しめる人がいても、キリストが宣べ伝えられているのなら、わたしは喜んでいます。』とパウロは言うのです。

パウロは人の言葉に一喜一憂しません。
その理由は、キリストを知る絶大な価値を理解しているからです。

どんなにひどいことを言われても、けなされても、キリストを知る絶大な価値を見いだしている人は、ほかの人の言うことを気にしません。心がキリストにある喜びでいっぱいだからです。


パウロだけでなく、キリストによる喜びを持っている者はそうなのだと思います。
わたしも最近になって、ようやく人の言葉に翻弄されなくなってきました。

受難週に入りました。
受難週とはキリストの十字架の苦しみと死(=受難)を思う一週間のことをいいます。
来週の日曜日はイースター(復活祭)です。

礼拝で水野源三さんの詩に曲をつけた特別賛美を聴きました。


私がいる  水野源三
  
 ナザレのイエスを 十字架にかけよと
   要求した人 許可した人 執行した人
   それらの人の中に 私がいる


心刺される詩です。イエスキリストが十字架につけられたのは2千年も前の出来事です。十字架とわたしは何の関係のないものと思っていました。
けれども、イエス様が十字架で死んでくださらなければ、罪の問題はなにひとつ解決しません。わたしのすべての罪を赦し、解決させるために血を流し、苦しんでくださったイエス様を思って、この一週間を過ごしたいです。

昨日はTEENSでお花見に行く予定でした。せっかく満開になったのですが、雨でお花見はできませんでした。

 

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もうすぐ満開

2017-04-05 20:48:21 | 日記
春休みでヒックンが遊びに来ていたので、近くの桜川へ花見に行きました。

といっても、満開には遠く、2分咲きぐらいでした。

張り切って出かけたのに、桜川の土手に着く前にころんで、ひじをすりむいてしまいました。どんなふうにころんだらひじをすりむくのか……。子どもは予測しない動きをします。



ヒックンは桜より、鳥に興味を持って、おじいちゃんの双眼鏡を借りてバードウオッチングをしました。



オスとメスが呼び合っているようで、2羽仲よく枝にとまっていました。

ヒックンは5年生になりました。まだ、「遊んで」と言ってくるので、可愛いです。カードのゲームを毎日1時間ずつつき合わされました。
中学生になったらもう遊びに来なくなるのかなあと思うと寂しいです。でも、こんどは弟のナルクンが遊びに来るでしょう。

ナルクンは3歳になりました。


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私が私の羊飼いだったら

2017-04-03 15:53:49 | CS(子供伝道)
風は冷たいけれど、桜川の桜の蕾がふくらみ、花弁が今にもはじけそうです。

昨日はCS(教会学校)教師任命式でした。教会では1-2歳クラス、幼稚科、小学科、TEENS(中高科)、成人科、そのほか学びのクラスの教師は、任命式に与ります。(総勢59名の方が任命されました)

わたしは小学科ではなく、TEENS(中高科)教師の列に立っています。
そのことがとても不思議です。去年まで23回も小学科教師として任命されてきました。昨年は、当然、次も小学科教師の場所に立つのだろうと思っていました。

でも、今年はTEENS教師の場所に立っています。神様がそこに置いてくださったのです。いつまで続けられるかわかりませんが、はっきりしていることは、今、健康が与えられているから奉仕できるということです。
このことがどんなに貴重でどんなに喜びなのか、TEEMNSを辞めるときにわかるのでしょう。

TEENSに来ている子どもたちは40人近くいます。
その中で半分以上は小学生の時わたしが受け持った子どもたちです。すっかり大きくなって、名前を聞くまでわからなかった子どももいました。一緒に分級を受け持つ先生もかつて受け持っていた人でした。感慨深いです。
TEENSは大人とは別に礼拝をしています。場所は礼拝堂から少し離れたチャペルピスガです。メッセージは大人の礼拝と同じぐらいの長さですが、中高生でもわかりやすい内容になっています。

昨日は詩編23篇から語られました。
   詩編23篇1~8
主は私の羊飼い。
私は、乏しいことがありません。
主は私を緑の牧場に伏させ、
いこいの水のほとりに伴われます。
主は私のたましいを生き返らせ、
御名のために、私を義の道に導かれます。
たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、
私はわざわいを恐れません。
あなたが私とともにおられますから。
あなたのむちとあなたの杖、
それが私の慰めです。
私の敵の前で、あなたは私のために食事をととのえ、
私の頭に油をそそいでくださいます。
私の杯は、あふれています。
まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと
恵みとが、私を追って来るでしょう。
私は、いつまでも、主の家に住まいましょう。


人を羊にたとえています。羊は①臆病②迷いやすい(目が悪いので迷ったら自分ではもどれない)③すごく頑固という性質を持っています。
主である神様が羊飼いだったら正しく導いてくださるので「わたしは乏しいことがありません」と言えます。新共同訳では「私は何も欠けることがない」と書かれています。
もし、私が私の羊飼いだったら、人と比べ自分が欠けた者だと思い、不平や寂しさの中に置かれてしまうでしょう。
でも、神である主が私の羊飼いなら、試練の中にあっても、心に余裕が与えられることでしょう。


礼拝の後、小グループに分かれて30分ぐらい話し合いをしました。礼拝で聞いたお話しについての感想や近況報告などです。わたしの担当は中学生女子グループです。子どもたちが心を開いてよく話してくれたのでうれしく思いました。

わたしがTEENSでした挨拶を紹介します。

小学科から来ました。小学科の先生を23年もやっていたので、みなさんの中には小学生の時に分級を受け持った人がいます。校長先生も受け持ちました。みなさんが大きく成長しているので、びっくりしています。
わたしはちょうど60歳ですが、心の年は今13~15歳です。3歳から15歳までの子どもの気持ちになれるというのが私の特技です。子どものころ、子どもの心を忘れない大人になりたいと願っていました。その願いはかなえられました。
小学科ではおもに教えていましたが、TEENSではみなさんから色々なことを教えてもらいたいと思っています。よろしくお願いします。



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夢見ることもはるかに及ばないすばらしいこと

2017-03-28 15:49:38 | 教会
「あの人は才能があるからいいわね。わたしなんか、何の才能もなくて……」という声が時々聞こえてきます。

わたし自身もそのように思った時期がありました。病気ばかりしていたわたしは、健康という能力が欠けているのだと思っていました。事をなそうとしても、健康でないと何もできないので、健康を祈り求めていました。でも、必要な時に必要な体力が与えられていることに気づいてからは、そのように祈ることをやめました。

教会では才能のことを「タラント」とか「賜物(たまもの)」と言います。賜物の多い人と少ない人がいるのはなぜでしょう。神様は不公平なのでしょうか。

タラントのたとえ話が聖書(マタイ25:14~30)に書かれています。タラントとはお金の単位です。主人は3人のしもべにそれぞれ5タラント、2タラント、1タラントを預けて旅に出かけました。

しばらくして主人が戻ってきたとき、5タラント預けられたものはそれで商売をし、2倍に増やしていました。2タラント預けられたものも2倍に増やしていました。主人はこの2人を誉め、「よくやった。よい忠実な僕だ。あなたはわずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ」と言いました。

ところが1タラント預けられたものは、それをなくさないように地を掘って隠していました。なので、1タラントのままでした。主人はその僕を叱って、1タラントを取り上げ、10タラント持っている者にあげてしまいました。というたとえ話です。

この話を読むと、1タラント預けられた僕が気の毒になります。なくしたわけではないのになぜ主人はそんなに怒ったのでしょう……。神さまから預けられたタラントを用いなかったから、しかられたのです。

また、3人に預けられた金額が違うのはなぜでしょう……。
主人が僕にお金を預けるとき、聖書には『おのおのその能力に応じて』と書かれています。
わたしたちひとりひとりの状態を知っている主人(神)が、霊的成長度合いに応じて額を決めてくださったのです。

1タラントとはどれぐらいの金額なのでしょう。6000万円~1億2000万円もの大金だそうです。少ない人でも1タラント預けられているのですから、「わたしは何の才能もない」と嘆くのはおかしなことです。

日曜日の礼拝メッセージでは、才能と賜物の違いをはっきり教えてくださいました。

「私は、神の力の働きにより、自分に与えられた神の恵みの賜物によって、この福音に仕える者とされました。(エペソ3:7)」

パウロはローマの市民権と、ギリシャ語、ヘブル語を使える能力を与えられていました。この才能を用いて立身出世することも可能でした。
でも、福音を伝えるために才能を用いました。

才能、能力を神に喜ばれることに用いた場合、それを賜物というのだそうです。

聖書の中にいましめや勧めが書かれているとき、必ず約束があると教えていただきました。

「どうか、私たちのうちに働く力によって、私たちの願うところ、思うところのすべてを超えて豊かに施すことのできる方に、(エペソ3:20)」


リビングバイブルでは
「私たちが大胆に願い求め、夢見ることもはるかに及ばないすばらしいことを、その偉大な力でなされる神様に栄光がありますように。」

と書かれています。

夢見ることもはるかに及ばないすばらしいこととは何でしょう? なんだか、ドキドキします。神の祝福を大胆に願い求めます。



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