美しいものを美しいと 思えるまで時間が必要だった
いらないと思ってたカタチひとつひとつがすべて完璧だった
ほんとは赤いのが欲しかったのに
与えられたのは青いのだった
ぼくは泣いた叫んだ でもだんだんとそれを愛し始めていた
(Migiwa「赤いのが欲しかった」より)
一年ほど前、通所のため運転していた朝のことである。私の車が交差点の辺りに来た時、横断歩道の手前で、渡ったものか逡巡する生徒がいた。私はその人を見て、左手を(どうぞ)という具合に左から右に動かした。するとその生徒が、ペコッと頭を下げ、足速に横断歩道を駆けていった。滞空時間の長い足取りだった。まるで、バスケの選手がシュートの際に、スッ…と浮かんでいるようなーー。私はしばし見惚れていた。そして脳内で、Migiwaのこの曲の冒頭が流れた。
私は生来の運動音痴で、学校生活の体育の時間は苦痛で仕方なかった。学校でする運動は、多くがチームスポーツである。私とチームが一緒になったクラスメートは露骨に嫌がった。チームの脚を引っ張るのが目に見えているからである。運動音痴で長いこと侮蔑されてきたため、私には運動自体への恨みの気持ちが長くあった。でも、私は自分自身を欺いていたんだな、と最近は思う。生きてきて半世紀も経った今では、部分的な能力を特別視して人を序列化する向きへの僻みだったのだな、と判る。スポーツする人が綺麗なことにまで難癖をつけていて、私って本当に嫌な性格だったな、と今は振り返ることができる。
* * *
セルマ・ラーゲルレーヴの作で『むねあかどり』(中村妙子・文/高瀬ユリ・絵)という絵本がある。神様が天地をお創りになり、生き物も創造されたところから話は始まる。色鮮やかな小鳥たちを創った後に、神様は灰色の小鳥を造り「おまえのなまえは むねあかどりだ」と仰って、その鳥を飛び立たせておやりになった、と書かれている。
むねあかどりは神様が自分につけてくださった名前にワクワクしたが、池の面に姿を映してみてがっかりする。ーーなんでこんなくすんだ色なんだろう?ーーそう問う小鳥に、神様は「わたしが そうきめたのだ」と仰り、「しかし いつまでも そのままだとは かぎらないよ」と言い添えられた。
ある時、エルサレムの外の茂みの中でむねあかどりが雛たちに、神様がむねあかどりの名をくださったことを話していると、十字架を背負わされた人達が連れてこられ、丘で磔にされた。こわごわ様子を見守っていたむねあかどりは堪らなくなり、十字架の真ん中の人のところへ飛んでいき、額に刺さっている荊の棘を一本、二本と、くちばしで引き抜いたーーすると、その人の血の滴が小鳥の胸に当たって、胸毛を赤く染めた。
「ありがとう」とそのひとはささやき「いまから おまえは ほんものの むねあかどりだ」
* * *
今私が通っている作業所では、職員さんに本当に恵まれている。一人一人の良さを人との比較でなく「いいじゃん!」と言ってくださる職員さんがいらして、私はある時、目から鱗が落ちる思いがした。それでいいんだ、と。私も、人の良さを純粋に喜べるようになりたいな、と。
先日、教会の【夏休みお楽しみ会】で「カウントジョイ」という遊びをした。その喜びの出し合いっこの場では、小難しくなるので言わなかったが、後で自分の喜びをハート型の色画用紙に書くアクティビティの時には、こっそり下記の「喜び」も書いておいた。
スポーツをする人を尊敬できるようになった。
朝に体調が100%良くなくても、いろいろ方法を考えて
自分の調子を上げていくよう私自身努力するようになってみて、
スポーツする人のすごさが分かるようになった。
Migiwa「赤いのが欲しかった」
風のように あなたは来て
勝ち続けなくても いいんだと
告げられる
砦(とりで)のような
怒りの山を あなたは砕き
今、泉と変えられる
(塩谷達也「Deep Sea〜海よりも深く〜」より)
1960年公開のイタリア映画に「若者のすべて」(ルキノ・ヴィスコンティ監督)という作品がある。窮乏の中、未来へ望みを繋ごうとイタリア南部よりミラノへ移り住んだバロンディ一家の物語である。主人公である三男のロッコは善良で涙もろいが、ボクシングの監督に素質を見出される。ロッコは家族を経済的に支えるためにプロボクサーを続け、ついにチャンピオンになる。しかし、兄弟からの妬みも買い、家族は破綻してしまう。ロッコが求めていたものは、こういう結末ではなかった筈だ。苦しいストーリーであるが、一人が勝ち続けていくことに付き纏う「孤独」に耐えるよりも大切なものがあるのでは、と深く考えさせられる内容である。
今年度より所属教会では「教会学校」が休止になった。教会学校の今後を考えていくために昨年11月に教会全体ミーティングが開かれ、12月よりその実務的な打ち合わせが始まった。私自身は未婚の子なしであるし、子どもに対して身構えてしまうところもあったので、今の教会に転入会してから何年もの間、教会学校とは距離を置いていた。けれど、一人の黙想と祈りの時間のうちに心が変えられ、そのタイミングで(のちに「こひつじの会」と命名される)会の取り纏め役の長老の方からお声がけいただいたのもあり、年明けの第二回ミーティングから参加している。子どもがどういうことで喜ぶのかとか、そういうことにはとんと疎い私だが、神様に呼ばれた。(こひつじの会のために何ができるんだろう?)と祈りつつ、スマホのメモアプリを眺めていて浮かんだことを入力していくうちに、特別な演技の賜物をお持ちの方にしていただく腹話術を中心に、他のメンバーも参加する寸劇(スキット)の台本を思いついた。原案をこひつじの会のメンバーにお目にかけ、最終的に、腹話術の演じ手や牧師夫人による加筆修正がされた「リレー台本」になり、私の原案は見違えるほど生き生きとしたものに生まれ変わった。
以前、FEBCの【Session——イエスのTuneに合わせて】(早矢仕宗伯先生、塩谷達也さん、長倉崇宣さん)という番組で、「早く行きたかったら一人で行け。遠くに行きたかったらみんなで行け。」という諺がアフリカにあるという話が紹介されていたが、本当にそうだな、と今私は感じる。チームとして何かを達成する楽しさというのは、今までずっと味わったことが無かったように思う。
イエスの御言葉を二箇所見てみたい。
あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」(ヨハネによる福音書13章34〜35節)
* * *
また、はっきり言っておくが、どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」(マタイによる福音書18章19〜20節)
弟子が二人以上いるところには主も共にいらっしゃる。ある一人の立派なクリスチャンを見たとしても(あぁその人は凄いね……)という感想にしかならないと思う。だが、クリスチャンの交わりを見ると他の方にも(これは何か違う)と感じられるのではないだろうか。教会はキリスト教の制度というよりも、主が共にいてくださる恵みの現れた形なのではないだろうか。
罪深ければ 恵みも深い
あなたの愛は 海よりも深く
そのあわれみのなかで
わたしは自由になる
塩谷達也「Deep Sea〜海よりも深く〜」
「風に立つライオン」は、元はさだまさしの曲で、医師としてケニアに派遣され現地医療に従事していた柴田紘一郎のエピソードにインスピレーションを受けて制作されたものである。沢知恵のヴァージョンは、2000年発売の『いいうたいろいろ2』というカヴァー曲集に収められている。
三年の間あちらこちらを廻り
その感動を君と分けたいと思ったことが沢山ありました
ビクトリア湖の朝焼け 百万羽のフラミンゴが
一斉に翔び発つ時 暗くなる空や
歌は、主人公が日本にいる恋人宛ての手紙の形式を取り、ケニア各地で目にした絶景について筆を尽くしている。
この偉大な自然のなかで病いと向かい合えば
神様について ヒトについて 考えるものですね (中略)
昨年出版された本に『こぎつねのとくべつなクリスマス』(ポリー・フェイバー作、リチャード・ジョーンズ絵、ひびのさほ訳)という絵本がある。真冬の雪深い中こぎつねがサンタクロースの家に迷い込むところから話は始まる。家主のおじいさんはこぎつねを抱き上げ、たっぷりご飯をあげると先に休んでしまう。余程の疲れと見え何日も眠った後おじいさんは目を覚ます。外はもう春。こぎつねはすっかりおじいさんの家に居着いて遊び回っていたが、おじいさんはコツコツとおもちゃ作りに励む。
去年のクリスマスは国境近くの村で過ごしました
こんな処にもサンタクロースはやって来ます 去年は僕でした
私は2020年秋から、『信徒の友』「日毎の糧」欄に掲載の教会宛てにN教会のトラクトとFEBC番組表を送り始めた。私は昔からポストカードを買うのが趣味だったので、同封の手紙も便箋ではなく市販のポストカードを利用していた。そうして買い足していったポストカードブックに、写真と聖句を合わせたカードもあった。それで、私も聖句ポストカードを自作してみるか?という気持ちが芽生えたのである。
『こぎつねのとくべつなクリスマス』では、また冬が巡ってきたとき空から雪と共に沢山の手紙が降ってくる。それはサンタクロースのおじいさん宛てに子ども達が書いた手紙だった。手紙を一枚一枚丁寧に読んだサンタクロースは、作り溜めていたおもちゃをそれぞれ誰にあげるか決めていったと書いてある。私はこれを読んで心が浮き立った。
私がポストカードを自作するのは楽しみもあるが、手紙の文面を都度イチから書き起こすのは非常に骨が折れたので省力化の意味もあったのだ。「日毎の糧」掲載の教会の紹介文/祈りの課題を見て、各教会にどのカードを送るか選んでいる。
聖句を添えたカードを心掛けてきたのは、説教をしたいからではない。自分の内の言葉が(特に祝福の言葉が)乏しいのが分かっているから、聖句に気持ちを代弁させているのである。ポストカード作成は、励ましの言葉のストック作りと思っている。
辛くないと言えば嘘になるけれど しあわせです (中略)
『信徒の友』「日毎の糧」欄の教会に宛てての封書発送は、私事などで中断もあったが、今も少しずつ続けている。季節ごとの可憐な花が撮れたり、日々の黙想で「この聖句すてき!」と思った時にメモっておいて、後で聖句ポストカードを作成している。
僕は「現在(いま)」を生きる事に思い上がりたくないのです
空を切り裂いて落下する滝のように
僕はよどみない生命(いのち)を生きたい
キリマンジャロの白い雪 それを支える紺碧の空
僕は風に向かって立つライオンでありたい
そのポストカードが、当初の企図を越えて今の所属教会でも重用していただけているのは、望外の喜びである。
三年の間あちらこちらを廻り
その感動を君と分けたいと思ったことが沢山ありました
ビクトリア湖の朝焼け 百万羽のフラミンゴが
一斉に翔び発つ時 暗くなる空や
歌は、主人公が日本にいる恋人宛ての手紙の形式を取り、ケニア各地で目にした絶景について筆を尽くしている。
この偉大な自然のなかで病いと向かい合えば
神様について ヒトについて 考えるものですね (中略)
昨年出版された本に『こぎつねのとくべつなクリスマス』(ポリー・フェイバー作、リチャード・ジョーンズ絵、ひびのさほ訳)という絵本がある。真冬の雪深い中こぎつねがサンタクロースの家に迷い込むところから話は始まる。家主のおじいさんはこぎつねを抱き上げ、たっぷりご飯をあげると先に休んでしまう。余程の疲れと見え何日も眠った後おじいさんは目を覚ます。外はもう春。こぎつねはすっかりおじいさんの家に居着いて遊び回っていたが、おじいさんはコツコツとおもちゃ作りに励む。
去年のクリスマスは国境近くの村で過ごしました
こんな処にもサンタクロースはやって来ます 去年は僕でした
私は2020年秋から、『信徒の友』「日毎の糧」欄に掲載の教会宛てにN教会のトラクトとFEBC番組表を送り始めた。私は昔からポストカードを買うのが趣味だったので、同封の手紙も便箋ではなく市販のポストカードを利用していた。そうして買い足していったポストカードブックに、写真と聖句を合わせたカードもあった。それで、私も聖句ポストカードを自作してみるか?という気持ちが芽生えたのである。
『こぎつねのとくべつなクリスマス』では、また冬が巡ってきたとき空から雪と共に沢山の手紙が降ってくる。それはサンタクロースのおじいさん宛てに子ども達が書いた手紙だった。手紙を一枚一枚丁寧に読んだサンタクロースは、作り溜めていたおもちゃをそれぞれ誰にあげるか決めていったと書いてある。私はこれを読んで心が浮き立った。
私がポストカードを自作するのは楽しみもあるが、手紙の文面を都度イチから書き起こすのは非常に骨が折れたので省力化の意味もあったのだ。「日毎の糧」掲載の教会の紹介文/祈りの課題を見て、各教会にどのカードを送るか選んでいる。
聖句を添えたカードを心掛けてきたのは、説教をしたいからではない。自分の内の言葉が(特に祝福の言葉が)乏しいのが分かっているから、聖句に気持ちを代弁させているのである。ポストカード作成は、励ましの言葉のストック作りと思っている。
辛くないと言えば嘘になるけれど しあわせです (中略)
『信徒の友』「日毎の糧」欄の教会に宛てての封書発送は、私事などで中断もあったが、今も少しずつ続けている。季節ごとの可憐な花が撮れたり、日々の黙想で「この聖句すてき!」と思った時にメモっておいて、後で聖句ポストカードを作成している。
僕は「現在(いま)」を生きる事に思い上がりたくないのです
空を切り裂いて落下する滝のように
僕はよどみない生命(いのち)を生きたい
キリマンジャロの白い雪 それを支える紺碧の空
僕は風に向かって立つライオンでありたい
そのポストカードが、当初の企図を越えて今の所属教会でも重用していただけているのは、望外の喜びである。
この鑑賞が各方面の方々を傷つけることにならないか恐れつつもパソコンに向かっている。曲タイトル「I Give You My Friendship」に、私は社会人一年目の秋の母教会の学び会リーダーの言葉を思い出す。
その頃の私は、会社の人や教会のクリスチャンなど周りの一挙手一投足によって、家族関係のトラウマを無造作に触られるような悲痛な疼きに苦しめられていた。社会人一年目の出来事については詳述しない。ここでは「I Give You My Friendship(あなたに友情をあげるよ)」の言葉と、それと関わるトラウマについて書くことにする。
私は、単に社交性が無かったとも言えるが、昔から群れずに生きてきた。しかしそんな私でも中学に入った頃には無性に人恋しくなり、友達を渇望するようになっていった。だがどういう風に友達を作っていいか分からない私は、向こうから声をかけてくる人の聞き役になるのが精々だった。中二の時にクラスに転入してきたMちゃんは漫画を描く人で、下手ながらも漫画やイラストを描いていた私はそのうち彼女の家によく遊びに行くようになった。彼女に影響されて「キャプテン翼」や少年ジャンプを読むようになり、遊びに行った時はいつもただ楽しかったことを覚えている。小学生の頃は友達の家に入り浸りになるなんてことがなかったからか、母は物凄く心配して神経を尖らせた。実は彼女は、ご両親が離婚されていて、一緒に住んでいるお母様はお勤めに出ていた。彼女はたびたび私の家にも電話をかけてきたが、母はその都度外野で大声で電話に割り込んできた。そしてある時私達の電話中に、「Mちゃんと付き合うと、○○(私)が不良になる。親が離婚しているんだから!」と言い放った。Mちゃんと私は押し黙り、電話を切った。後日彼女に聞いたら、あの電話の後、皿を二枚投げつけて割ったということであった。Mちゃんとの交友関係は自然に消滅した。
父を早くに亡くし女手一つで育った母は、経済的な事情から兄(私の伯父)に進学の道を譲り、大学進学を諦めたという経緯があったため、私を何としてでも大学に入れたい気持ちが強かった。高校受験で失敗した私に大学の推薦入学を取らせたこともその一方途だった。そのため母は、高二になった私に毎週日曜の朝になると教会へ行けと追い立てた。私は女性が経済的に自立しないと、結婚相手に暴力を振るわれても我慢するしかないのだと強力に刷り込まれていたため、嫌々ながら仕方なく従った。そして死に物狂いで掴んだ推薦入学だった。合格が決まって少し経った頃、母は私に専攻は何にするのかと訊いた。私が政治学だと答えると、「くだらない!」と侮蔑。じゃあ何なら良かったのよ?と問い詰めていくと、母自身が好きだった建築学か、化学など理系の学問だったら良かったようだ。私は数学も理科も大の苦手。元々が「美大に行きたい」と高一の時に母に言ったら「あんた程度の実力で……!」とせせら笑われ、美大なんて入るのに金ばっかりかかるだけと却下されたのである。専攻だって、理系は無理だけど社会科学系の方が就職に良かろうと判断して決めたのに、結局母は私を自分の夢の実現の駒としか思っていなかったのだな、と悔しくてやり切れなくて、入学前から虚無感に襲われた。
そんな思春期を過ごした私は、好きになった人・ものは何でも奪い上げられるという思い込みが強くなり、自分が何かに思い入れることに対して大層臆病になっていった。何かに心が傾き始めると(好きになればなるだけ自分が傷つく……)と防衛反応が働いた。人に好かれ始めると、嫌われようと相手を傷つける言動に出てしまう。——こうした傾向は徐々に薄れてきたとは言え、本当につい最近まで尾を引いていたように思う。
ひっそりとした午後の公園で
とりとめのない話をした
言葉が途切れても君を見たら
微笑んでたから安心だった
今もわからずにいる
私が君の友達で良かったか
約束守っている
今にも壊れそうだけど
「I Give You My Friendship」に話を戻す。社会人一年目の秋の学び会リーダーは、近づこうとする人を斬って捨てるような態度に出やすい私に「神様は『○○ちゃんに友達をあげるよ』と言っているんだよ」と言った。それがどういうことなのか、その当時の私にはあまり理解できていなかった気がする。人を好きになること、何かを好きになることへのハードルが低くなるまでには、私自身の傷が癒されること、そして長い時間が必要だった。
気を緩めたら沈みそうな船で
私たちは航海を続けた
今もわからないまま
私が君の友達であるために
約束守っている
今もわからないまま
明日も視えないけど
大丈夫、まかせてと笑って
辻褄のあうシンパシー
視えない明日を見るため
その頃の私は、会社の人や教会のクリスチャンなど周りの一挙手一投足によって、家族関係のトラウマを無造作に触られるような悲痛な疼きに苦しめられていた。社会人一年目の出来事については詳述しない。ここでは「I Give You My Friendship(あなたに友情をあげるよ)」の言葉と、それと関わるトラウマについて書くことにする。
私は、単に社交性が無かったとも言えるが、昔から群れずに生きてきた。しかしそんな私でも中学に入った頃には無性に人恋しくなり、友達を渇望するようになっていった。だがどういう風に友達を作っていいか分からない私は、向こうから声をかけてくる人の聞き役になるのが精々だった。中二の時にクラスに転入してきたMちゃんは漫画を描く人で、下手ながらも漫画やイラストを描いていた私はそのうち彼女の家によく遊びに行くようになった。彼女に影響されて「キャプテン翼」や少年ジャンプを読むようになり、遊びに行った時はいつもただ楽しかったことを覚えている。小学生の頃は友達の家に入り浸りになるなんてことがなかったからか、母は物凄く心配して神経を尖らせた。実は彼女は、ご両親が離婚されていて、一緒に住んでいるお母様はお勤めに出ていた。彼女はたびたび私の家にも電話をかけてきたが、母はその都度外野で大声で電話に割り込んできた。そしてある時私達の電話中に、「Mちゃんと付き合うと、○○(私)が不良になる。親が離婚しているんだから!」と言い放った。Mちゃんと私は押し黙り、電話を切った。後日彼女に聞いたら、あの電話の後、皿を二枚投げつけて割ったということであった。Mちゃんとの交友関係は自然に消滅した。
父を早くに亡くし女手一つで育った母は、経済的な事情から兄(私の伯父)に進学の道を譲り、大学進学を諦めたという経緯があったため、私を何としてでも大学に入れたい気持ちが強かった。高校受験で失敗した私に大学の推薦入学を取らせたこともその一方途だった。そのため母は、高二になった私に毎週日曜の朝になると教会へ行けと追い立てた。私は女性が経済的に自立しないと、結婚相手に暴力を振るわれても我慢するしかないのだと強力に刷り込まれていたため、嫌々ながら仕方なく従った。そして死に物狂いで掴んだ推薦入学だった。合格が決まって少し経った頃、母は私に専攻は何にするのかと訊いた。私が政治学だと答えると、「くだらない!」と侮蔑。じゃあ何なら良かったのよ?と問い詰めていくと、母自身が好きだった建築学か、化学など理系の学問だったら良かったようだ。私は数学も理科も大の苦手。元々が「美大に行きたい」と高一の時に母に言ったら「あんた程度の実力で……!」とせせら笑われ、美大なんて入るのに金ばっかりかかるだけと却下されたのである。専攻だって、理系は無理だけど社会科学系の方が就職に良かろうと判断して決めたのに、結局母は私を自分の夢の実現の駒としか思っていなかったのだな、と悔しくてやり切れなくて、入学前から虚無感に襲われた。
そんな思春期を過ごした私は、好きになった人・ものは何でも奪い上げられるという思い込みが強くなり、自分が何かに思い入れることに対して大層臆病になっていった。何かに心が傾き始めると(好きになればなるだけ自分が傷つく……)と防衛反応が働いた。人に好かれ始めると、嫌われようと相手を傷つける言動に出てしまう。——こうした傾向は徐々に薄れてきたとは言え、本当につい最近まで尾を引いていたように思う。
ひっそりとした午後の公園で
とりとめのない話をした
言葉が途切れても君を見たら
微笑んでたから安心だった
今もわからずにいる
私が君の友達で良かったか
約束守っている
今にも壊れそうだけど
〜 Monkeymind You Cube Band 「I Give You My Friendship」より
「I Give You My Friendship」に話を戻す。社会人一年目の秋の学び会リーダーは、近づこうとする人を斬って捨てるような態度に出やすい私に「神様は『○○ちゃんに友達をあげるよ』と言っているんだよ」と言った。それがどういうことなのか、その当時の私にはあまり理解できていなかった気がする。人を好きになること、何かを好きになることへのハードルが低くなるまでには、私自身の傷が癒されること、そして長い時間が必要だった。
気を緩めたら沈みそうな船で
私たちは航海を続けた
今もわからないまま
私が君の友達であるために
約束守っている
今もわからないまま
明日も視えないけど
大丈夫、まかせてと笑って
辻褄のあうシンパシー
視えない明日を見るため
〜 塩谷達也「アタラシイウタ」(『琴音』 disk[祈りうた]より)
こわがってたら 鬼さんこちら
今にも涙が こぼれそうさ
長いこと ここに天使は 舞い降りてこない
「アタラシイウタ」の最初の連(verse)である。これを聴くだけで最近の私は泣いてしまう。ずっと「鬼」として生きてきたこと、今でも「鬼である」ことをある意味必要とされているのを感じてしまうから。
去年の夏から秋にかけてだったろうか、作業所で一階のトイレに行って個室に入っていると、二階の作業室から明るいさざめきが聞こえてきた。私は天の邪鬼なのかもしれないが、自分にとってはごく自然に会話しているつもりでも、周りを凍りつかせてしまっていることが多分にある。だから〈鬼の居ぬ間の笑い声〉がいっそう染みるわけだ。
永井陽子の歌集『樟の木のうた』に次の一首がある。
男ゐて「泣いた赤鬼」のものがたりつづけてひすがら地は冷えてゆく
この「男」と「赤鬼」の心境に感傷的になってしまうのは、自意識過剰すぎるのかもしれない。私は小さい頃から目つきが鋭かったらしい。まだ小学校にも上がっていない頃の兄弟三人で写った写真を見ると、三人三様、その時分から今の性格が滲み出ているようである。写真の私は、笑ってこそいるものの、目つきがキツい。小学校に入ってからの夕食は苦痛だった。食卓の中央に置かれた醤油などを取ろうと目を上げると、間髪を入れずに「睨んだな!」という罵声と共に兄から台拭きが顔を目掛けて飛んでくるのは日常茶飯だったからで、次第におどおどとした所作が身についていった。学校でも、のちには彼氏や、職場の同僚、パート先に来店した客からも「目つきが悪い」「睨んでいる」と指摘されてきた。そんな私だから、人と目を合わせるのは怖かった。私に対して怒る、あるいは怯える表情が相手に見て取れてしまうからである。
昨日作業所で、少し年配の男性メンバーが困っていたのに気を利かせた職員に対して、言葉尻を捕らえたような無神経なダジャレを飛ばし続けていた当人を見かねて、私は彼の前へ立った。特段にらみを利かせたつもりはなかったが、充分凄みはあったようだ。私は「せっかく○○さんが助けて教えて下さっているのだから、ふざけて茶化してないで、よく見ていて、少しは学習したらどうですか」と言った。不遜と見られても仕方ないが、言わずにいられなかったのだ。でも後々振り返っても言う必要はあったと思う。
神様は、私の目も造られた。そして、私のこれまでの歩みも全て見守っていて下さった。私が周りに抗うために身につけた悪い言葉の数々、強い語気なども全てご存知だった。神様はその全てを容認されたわけではなかったけれど、そのような私を丸ごと受け容れて下さり、のちに少しずつ悔い改められるよう道を備えて下さった。
あなたは、わたしの内臓を造り 母の胎内にわたしを組み立ててくださった。 わたしはあなたに感謝をささげる。わたしは恐ろしい力によって 驚くべきものに造り上げられている。御業がどんなに驚くべきものか わたしの魂はよく知っている。 秘められたところでわたしは造られ 深い地の底で織りなされた。あなたには、わたしの骨も隠されてはいない。 胎児であったわたしをあなたの目は見ておられた。わたしの日々はあなたの書にすべて記されている まだその一日も造られないうちから。 (詩編139編13〜16節)
終わりのない 戦いのなかで どうすればいいの
ほんとかな いつでもどこかで見守る
ひとがいるって
ほんとなら それだけでもういいから
僕は歩ける
このまま すべて失くしても 新しい歌が (塩谷達也「アタラシイウタ」より)
Tatsuya and Miwa Shioya - アタラシイウタ