◆11月4日
新改訳ヤコブ4:15〈こう言うべきです。「主のみこころなら、私たちは生きていて、このことを、または、あのことをしよう」〉トラクト用の一首鑑賞を書き溜めているのもこの聖句ゆえ。自分の死後、次世代に円滑に引き継ぐ為の終活なのだ。14節〈霧にすぎません〉は真実
◆11月5日
新改訳ダニエル10:12「恐れるな。ダニエル。あなたが心を定めて悟ろうとし、あなたの神の前でへりくだろうと決めたその初めの日から、あなたのことばは聞かれているからだ」祈って遜り始めてからでなく、遜ろうと決めた日から、私達の言葉は主に聞かれている。この恵み
◆11月9日
新改訳ホセア1:10〈彼らは、「あなたがたはわたしの民ではない」と言われた所で、「あなたがたは生ける神の子らだ」と言われるようになる〉自分が罪まみれの中から選び出されたのを思うと共に、今は神から遠いあの人この人を、主が顧みるのは約束なのか…!とハッとする
◆11月10日
仕事場で人に「尊敬している人いる?」と訊かれ、答えられなかった。新改訳第一ペテロ3:15「あなたがたのうちにある希望について説明を求める人には、だれにでもいつでも弁明できる用意をしていなさい」。布教は禁じられているが、主に惹かれる点くらい話せば良かった。
◆11月15日
新共同ペトロ 二 1:9「これらを備えていない者は、視力を失っています。近くのものしか見えず、以前の罪が清められたことを忘れています」配慮ある訳。他の訳では〈盲人〉〈近視〉といった訳語で、目の不自由な未信者をはじき飛ばすかのよう。訳が改訂される意味を思う
◆11月17日
新改訳ホセア13:2「彼らは今も罪を重ね、銀で鋳物の像を造り、自分の考えで偶像を造った」の〈自分の考えで〉に立ち止まる。偶像には、自分の入れ込んでいる物・事・人も含まれるだろう。気づかぬうちに偶像崇拝に陥っている可能性はある。御心を常に意識して求めたい。
◆11月23日
日曜の教会基礎講座で《教会》や《罪》を自分の言葉で外部の人に話せるよう備える必要が話題に。私の罪はヨハネ手紙 一 4:20〈「神を愛している」と言いながら兄弟を憎む者がいれば、それは偽り者〉に関係。私の場合の「兄弟」は肉親。躓きを与えぬ証しのため祈りたい
◆11月25日
新改訳第二ヨハネ9「だれでも行き過ぎをして、キリストの教えのうちにとどまらない者は、神を持っていません」岩波翻訳委員会訳では「誰であれ先走ってキリストの教えに留まらない者は…」主を近く感じるためであれ、宣べ伝えるためであれ、御教えを越えてはならぬと自戒。
◆11月27日
アモスはベテルの祭司に「ベテルでは二度と預言するな。ここは王の聖所、王国の神殿だから」 と釘を刺される(アモス7:13)。〈王の聖所〉とは恐ろしい言葉だ。初めは神のために設けられた祭壇が、自分のためのものとなる危険性。私達も常に心を吟味する必要がある。
◆11月30日
口語訳ヨナ2:8「むなしい偶像に心を寄せる者は、そのまことの忠節を捨てる」。〈忠節〉は新改訳では〈自分への恵み〉と神からの働きかけに力点が。NIVでは〈God’s love for them〉と更に端的。私達が神に忠実にできるのは、まず神が私達を愛して下さった故
新改訳ヤコブ4:15〈こう言うべきです。「主のみこころなら、私たちは生きていて、このことを、または、あのことをしよう」〉トラクト用の一首鑑賞を書き溜めているのもこの聖句ゆえ。自分の死後、次世代に円滑に引き継ぐ為の終活なのだ。14節〈霧にすぎません〉は真実
◆11月5日
新改訳ダニエル10:12「恐れるな。ダニエル。あなたが心を定めて悟ろうとし、あなたの神の前でへりくだろうと決めたその初めの日から、あなたのことばは聞かれているからだ」祈って遜り始めてからでなく、遜ろうと決めた日から、私達の言葉は主に聞かれている。この恵み
◆11月9日
新改訳ホセア1:10〈彼らは、「あなたがたはわたしの民ではない」と言われた所で、「あなたがたは生ける神の子らだ」と言われるようになる〉自分が罪まみれの中から選び出されたのを思うと共に、今は神から遠いあの人この人を、主が顧みるのは約束なのか…!とハッとする
◆11月10日
仕事場で人に「尊敬している人いる?」と訊かれ、答えられなかった。新改訳第一ペテロ3:15「あなたがたのうちにある希望について説明を求める人には、だれにでもいつでも弁明できる用意をしていなさい」。布教は禁じられているが、主に惹かれる点くらい話せば良かった。
◆11月15日
新共同ペトロ 二 1:9「これらを備えていない者は、視力を失っています。近くのものしか見えず、以前の罪が清められたことを忘れています」配慮ある訳。他の訳では〈盲人〉〈近視〉といった訳語で、目の不自由な未信者をはじき飛ばすかのよう。訳が改訂される意味を思う
◆11月17日
新改訳ホセア13:2「彼らは今も罪を重ね、銀で鋳物の像を造り、自分の考えで偶像を造った」の〈自分の考えで〉に立ち止まる。偶像には、自分の入れ込んでいる物・事・人も含まれるだろう。気づかぬうちに偶像崇拝に陥っている可能性はある。御心を常に意識して求めたい。
◆11月23日
日曜の教会基礎講座で《教会》や《罪》を自分の言葉で外部の人に話せるよう備える必要が話題に。私の罪はヨハネ手紙 一 4:20〈「神を愛している」と言いながら兄弟を憎む者がいれば、それは偽り者〉に関係。私の場合の「兄弟」は肉親。躓きを与えぬ証しのため祈りたい
◆11月25日
新改訳第二ヨハネ9「だれでも行き過ぎをして、キリストの教えのうちにとどまらない者は、神を持っていません」岩波翻訳委員会訳では「誰であれ先走ってキリストの教えに留まらない者は…」主を近く感じるためであれ、宣べ伝えるためであれ、御教えを越えてはならぬと自戒。
◆11月27日
アモスはベテルの祭司に「ベテルでは二度と預言するな。ここは王の聖所、王国の神殿だから」 と釘を刺される(アモス7:13)。〈王の聖所〉とは恐ろしい言葉だ。初めは神のために設けられた祭壇が、自分のためのものとなる危険性。私達も常に心を吟味する必要がある。
◆11月30日
口語訳ヨナ2:8「むなしい偶像に心を寄せる者は、そのまことの忠節を捨てる」。〈忠節〉は新改訳では〈自分への恵み〉と神からの働きかけに力点が。NIVでは〈God’s love for them〉と更に端的。私達が神に忠実にできるのは、まず神が私達を愛して下さった故
苦しみの実りのごとき柿ありて切なしわれの届かぬ高さ
日本には柿が1000種類以上存在するが、そのうち完全な甘柿は17種類しかなく、他の殆どが渋柿だという。甲州百目は不完全渋柿に分類される。渋柿は樹の上で熟し切るまで放っておくと「熟柿(じゅくし)」となって渋が抜けるが、大抵の場合は渋抜きしたり干し柿にしたりして食卓に上る。
掲出歌は〈『仰臥漫録』を読みながら〉と副題のついた連作のうちの一首である。『仰臥漫録』は、正岡子規が死の直前の一年間に綴った病牀日録。三枝が詠んだ柿は実景として目の前にあったようだ。おそらくは渋柿。簡単には手の届かぬ高さにある柿が色づいている様を、三枝は「苦しみの実り」と表した。
「苦しみの実り」という言葉は、実は聖書に登場する。イザヤ書53章11節の「彼は自らの苦しみの実りを見 それを知って満足する。わたしの僕は、多くの人が正しい者とされるために 彼らの罪を自ら負った」(新共同訳)がそれである。この聖句にある「彼」はイエスを予言したものと言われている。キリストは人々の罪を贖うために十字架に架けられて殺されたが、彼はその苦しみの実りを見て満足したというのだ。
昂之氏の弟の三枝浩樹氏はクリスチャンの歌人として知られている。だから、兄の昂之氏も折々に聖書の言葉に触れる機会があった筈だ。その予備知識の上に「苦しみの実り」という言葉を選定したのではないか。
言い添えると、「苦しみの実り」は新共同訳に独特な表現である。口語訳聖書では「彼は自分の魂の苦しみにより光を見て満足する」となっており、新改訳では「彼は、自分のいのちの激しい苦しみのあとを見て、満足する」である。聖書の英訳の主立ったものは、口語訳や新改訳に近い叙述がなされている。その中でNew American Standard Bibleの訳は新共同訳に幾分ニュアンスが似ているが、それでも「As a result of the anguish」(苦しみの結果として)となっている。
閑話休題。歌人の魚村晋太郎は、掲出歌の「苦しみの実り」は苦しみを代償として得られた成果とは違うと推論し、「ひとの苦しみ。その苦しみ自体がきわめられて、あかるく灯っている」のだと捉えた。『仰臥漫録』には日ごと食したものもメモされている。子規の最晩年の食卓を彩った柿に想いを馳せつつこの歌が詠まれたのだとすれば、魚村の読みは正鵠を射ているだろう。
掌のなかに宇宙はありと思うまで甲州百目肉透きとおる
苦しみの実り——、新共同訳の中に図らずも実現したこの訳語は、イエスへ信を置くのをためらう多くの日本人にとっても、心の襞に入り込んでくる言葉なのかもしれない。
三枝昻之『甲州百目』
日本には柿が1000種類以上存在するが、そのうち完全な甘柿は17種類しかなく、他の殆どが渋柿だという。甲州百目は不完全渋柿に分類される。渋柿は樹の上で熟し切るまで放っておくと「熟柿(じゅくし)」となって渋が抜けるが、大抵の場合は渋抜きしたり干し柿にしたりして食卓に上る。
掲出歌は〈『仰臥漫録』を読みながら〉と副題のついた連作のうちの一首である。『仰臥漫録』は、正岡子規が死の直前の一年間に綴った病牀日録。三枝が詠んだ柿は実景として目の前にあったようだ。おそらくは渋柿。簡単には手の届かぬ高さにある柿が色づいている様を、三枝は「苦しみの実り」と表した。
「苦しみの実り」という言葉は、実は聖書に登場する。イザヤ書53章11節の「彼は自らの苦しみの実りを見 それを知って満足する。わたしの僕は、多くの人が正しい者とされるために 彼らの罪を自ら負った」(新共同訳)がそれである。この聖句にある「彼」はイエスを予言したものと言われている。キリストは人々の罪を贖うために十字架に架けられて殺されたが、彼はその苦しみの実りを見て満足したというのだ。
昂之氏の弟の三枝浩樹氏はクリスチャンの歌人として知られている。だから、兄の昂之氏も折々に聖書の言葉に触れる機会があった筈だ。その予備知識の上に「苦しみの実り」という言葉を選定したのではないか。
言い添えると、「苦しみの実り」は新共同訳に独特な表現である。口語訳聖書では「彼は自分の魂の苦しみにより光を見て満足する」となっており、新改訳では「彼は、自分のいのちの激しい苦しみのあとを見て、満足する」である。聖書の英訳の主立ったものは、口語訳や新改訳に近い叙述がなされている。その中でNew American Standard Bibleの訳は新共同訳に幾分ニュアンスが似ているが、それでも「As a result of the anguish」(苦しみの結果として)となっている。
閑話休題。歌人の魚村晋太郎は、掲出歌の「苦しみの実り」は苦しみを代償として得られた成果とは違うと推論し、「ひとの苦しみ。その苦しみ自体がきわめられて、あかるく灯っている」のだと捉えた。『仰臥漫録』には日ごと食したものもメモされている。子規の最晩年の食卓を彩った柿に想いを馳せつつこの歌が詠まれたのだとすれば、魚村の読みは正鵠を射ているだろう。
掌のなかに宇宙はありと思うまで甲州百目肉透きとおる
苦しみの実り——、新共同訳の中に図らずも実現したこの訳語は、イエスへ信を置くのをためらう多くの日本人にとっても、心の襞に入り込んでくる言葉なのかもしれない。
ピーターラビットのシュガーポットとなりにけり車もて運びし古本の山
私の所持品で目につくのはCDと書籍である。置き場所にも困るので折々に少しずつ売ったりしていたが、乳がんを発症して「終活」を意識し始めてからは、一層処分に勤しむようになってきた。
私は遅読のため、目を通すべきものを放っておく傾向があり、家はどんどん乱雑になってくる。大学の同窓会報も三年分ほど薬籠の下に封筒のまま溜め込んでいたが、いよいよこれは処分しなければ駄目だと一気に開封した。自分とは天地ほどの差のある同窓生の活躍ぶりの記事は読み流していったが、一つ目に留まったものがあった。【◯◯大学古本募金】というリーフレットである。読み終えた古本や、CD・DVD等を指定の古本屋に送って査定された買取額が、私からの寄付として母校の大学の図書館に寄付されるという仕組みらしい。
これは時効のない事柄かもしれないが、私は大学時代、図書館の蔵書に鉛筆でずいぶん線を引いた記憶がある。用が済んでも消しゴムで消したりせずそのまま返却していた。いくら私の手狭な部屋の中では存在感を主張している本の山と言っても、売りに出せば雀の涙程度。今さら大学への古本募金をしたところで代償になるわけではないことはよく分かっている。しかし、親のお金を使って学費の高い大学に入れてもらい、我がまま一杯に大学生活を送って、母校のためになることは何もしてこなかったのだから、せめて今後本やCDを売る時はいつもこの古本募金で寄付することにしようと決めたのだった。
とりあえず小さなダンボール三箱分を送った。一週間ほどで古本業者から査定額の通知が送られてきた。金額は案の定。でも私に残ったのは清々しさだった。詩編49編18節の「死ぬときは、何ひとつ携えて行くことができず 名誉が彼の後を追って墓に下るわけでもない」の御言葉を、悲壮感なくそのまま受けとめられることの幸いを思った。
掲出歌も、山ほどあった古本がシュガーポット一つに換わったことに幾許かの哀感を含みながらも、自分の晩年を自ら収拾していったことでさっぱりした稲葉の心持ちが伝わってくるようだ。
さて、そのように気構えつつも私の人生もしばらくは続くだろう。だからこうして本を処分しながらも、また少しずつ買っているのも事実。けれど購入する本は以前より厳選している。それは、その読書の跡を形に残しておきたいと思うからだ。「何によらず手をつけたことは熱心にするがよい。いつかは行かなければならないあの陰府には 仕事も企ても、知恵も知識も、もうないのだ」(コヘレトの言葉9章10節)という御言葉は、そんな私の脳裏に常に置かれている聖句である。
稲葉京子『椿の館』
私の所持品で目につくのはCDと書籍である。置き場所にも困るので折々に少しずつ売ったりしていたが、乳がんを発症して「終活」を意識し始めてからは、一層処分に勤しむようになってきた。
私は遅読のため、目を通すべきものを放っておく傾向があり、家はどんどん乱雑になってくる。大学の同窓会報も三年分ほど薬籠の下に封筒のまま溜め込んでいたが、いよいよこれは処分しなければ駄目だと一気に開封した。自分とは天地ほどの差のある同窓生の活躍ぶりの記事は読み流していったが、一つ目に留まったものがあった。【◯◯大学古本募金】というリーフレットである。読み終えた古本や、CD・DVD等を指定の古本屋に送って査定された買取額が、私からの寄付として母校の大学の図書館に寄付されるという仕組みらしい。
これは時効のない事柄かもしれないが、私は大学時代、図書館の蔵書に鉛筆でずいぶん線を引いた記憶がある。用が済んでも消しゴムで消したりせずそのまま返却していた。いくら私の手狭な部屋の中では存在感を主張している本の山と言っても、売りに出せば雀の涙程度。今さら大学への古本募金をしたところで代償になるわけではないことはよく分かっている。しかし、親のお金を使って学費の高い大学に入れてもらい、我がまま一杯に大学生活を送って、母校のためになることは何もしてこなかったのだから、せめて今後本やCDを売る時はいつもこの古本募金で寄付することにしようと決めたのだった。
とりあえず小さなダンボール三箱分を送った。一週間ほどで古本業者から査定額の通知が送られてきた。金額は案の定。でも私に残ったのは清々しさだった。詩編49編18節の「死ぬときは、何ひとつ携えて行くことができず 名誉が彼の後を追って墓に下るわけでもない」の御言葉を、悲壮感なくそのまま受けとめられることの幸いを思った。
掲出歌も、山ほどあった古本がシュガーポット一つに換わったことに幾許かの哀感を含みながらも、自分の晩年を自ら収拾していったことでさっぱりした稲葉の心持ちが伝わってくるようだ。
さて、そのように気構えつつも私の人生もしばらくは続くだろう。だからこうして本を処分しながらも、また少しずつ買っているのも事実。けれど購入する本は以前より厳選している。それは、その読書の跡を形に残しておきたいと思うからだ。「何によらず手をつけたことは熱心にするがよい。いつかは行かなければならないあの陰府には 仕事も企ても、知恵も知識も、もうないのだ」(コヘレトの言葉9章10節)という御言葉は、そんな私の脳裏に常に置かれている聖句である。
ふと黙し 字面を追えば
行間を 視線たゆたう たまゆらまどか
(とど)
2014年11月7日 作歌、2015年4月 改訂。
行間を 視線たゆたう たまゆらまどか
(とど)
2014年11月7日 作歌、2015年4月 改訂。