盲人の機関誌編集に眼を貸して君らの勁(つよ)き心を窃(ぬす)む
歌意に曖昧さはない。ハンセン病そのものの痛苦、また病によって引き起こされた人間関係の煩悶を詠った歌が圧倒的多数を占める『ハンセン病文学全集8:短歌』にあっても、この掲出歌の類想歌は一つもない。
ハンセン病患者と一口に呼べど、四肢の末端から肉が削げていったり、鼻が欠けたり、目が見えなくなったり、その症状は一様でない。政石には視力が残されていたようだ。目が不自由になる者の多いハンセン病患者の療養施設においては、彼の「視える」ことは貴重だったはずだ。彼らの間で発行された機関誌の編集に借り出されたことは自然な流れだったに違いない。そして政石自身はそのことについて、「眼を貸して君らの勁き心を窃む」と詠んだ。他の患者らの目や耳に届く可能性も考えれば、こう言い切るのに勇気が要ったことは想像に難くない。
私事で恐縮だが、私は目の不自由な方への代読ボランティアをかれこれ三年三ヶ月の間続けてきた。それを「卒業」させていただいたのは昨年末。きっかけは、その五ヶ月ほど前に代読サービスの利用者の方から、その方と同じご病気の患者さんの会の機関紙の音訳(文章や図表・写真などを目の視えぬ人にも理解できるように訳して読み上げ、音声として録音すること)を頼まれたことだった。私は即座に、もう無理だ、と観念した。私の生活は、精神障害者の年金で成り立っている。身体障害や知的障害よりも病状寛解の可能性が比較的高い精神障害の場合は、一度年金の支給が決定されても、その後の病気の経過・社会復帰の程度によっては支給を打ち切られることもある。つまり綱渡りなのだ。私が乳がんを宣告されても、手術やその後の治療に安心して専念できたのは、障害年金によるバックアップがあったからに他ならない。しかし、術後五年を前に集中的な治療の一区切りを迎えようとしていた昨年の夏、今のままの生活を続けて行ったものか迷う気持ちが出始めていた矢先、音訳の依頼のメールが入った。私はスマホから即お断りの返信を打った。それ以降、代読卒業へと舵を切って行ったのである。
私の決断は正しかったのだろうか。マタイによる福音書5章41〜42節 に「だれかが、一ミリオン行くように強いるなら、一緒に二ミリオン行きなさい。求める者には与えなさい。あなたから借りようとする者に、背を向けてはならない」というイエスの言葉がある。私は御言葉通りに生きることができなかった。
昨年度の県の障害者文化展に、私は代読ボランティアについて詠んだ短歌の連作「影になって」を提出した。乳がん罹患を機に黒衣に徹する決意を固めたかのような内容だった。今振り返って思う。多少の善意で始められたことにせよ、私の代読ボランティアは自己陶酔の域を出ていなかったのだな、と。そして、「編集に眼を貸」すことさえしなかったのに、「君らの勁き心を窃」んであのような連作をまとめたのだな、と。
『ハンセン病文学全集8:短歌』の中には、政石のように視える目を他の患者のために用いた永井静夫の歌もあった。
ポケットに眼鏡忘れず持ちていづいかなる代書けふ頼まれむ/永井静夫『冬風の島』
私は現在、視覚障害の方のために何もしていない。だが、可能な範囲のことで何かを頼まれたのなら、反応できる自分でありたい。それが、代読サービスの利用者の方にできるせめてもの恩返しだと思うから。
政石蒙『花までの距離』(『ハンセン病文学全集8:短歌』より)
歌意に曖昧さはない。ハンセン病そのものの痛苦、また病によって引き起こされた人間関係の煩悶を詠った歌が圧倒的多数を占める『ハンセン病文学全集8:短歌』にあっても、この掲出歌の類想歌は一つもない。
ハンセン病患者と一口に呼べど、四肢の末端から肉が削げていったり、鼻が欠けたり、目が見えなくなったり、その症状は一様でない。政石には視力が残されていたようだ。目が不自由になる者の多いハンセン病患者の療養施設においては、彼の「視える」ことは貴重だったはずだ。彼らの間で発行された機関誌の編集に借り出されたことは自然な流れだったに違いない。そして政石自身はそのことについて、「眼を貸して君らの勁き心を窃む」と詠んだ。他の患者らの目や耳に届く可能性も考えれば、こう言い切るのに勇気が要ったことは想像に難くない。
私事で恐縮だが、私は目の不自由な方への代読ボランティアをかれこれ三年三ヶ月の間続けてきた。それを「卒業」させていただいたのは昨年末。きっかけは、その五ヶ月ほど前に代読サービスの利用者の方から、その方と同じご病気の患者さんの会の機関紙の音訳(文章や図表・写真などを目の視えぬ人にも理解できるように訳して読み上げ、音声として録音すること)を頼まれたことだった。私は即座に、もう無理だ、と観念した。私の生活は、精神障害者の年金で成り立っている。身体障害や知的障害よりも病状寛解の可能性が比較的高い精神障害の場合は、一度年金の支給が決定されても、その後の病気の経過・社会復帰の程度によっては支給を打ち切られることもある。つまり綱渡りなのだ。私が乳がんを宣告されても、手術やその後の治療に安心して専念できたのは、障害年金によるバックアップがあったからに他ならない。しかし、術後五年を前に集中的な治療の一区切りを迎えようとしていた昨年の夏、今のままの生活を続けて行ったものか迷う気持ちが出始めていた矢先、音訳の依頼のメールが入った。私はスマホから即お断りの返信を打った。それ以降、代読卒業へと舵を切って行ったのである。
私の決断は正しかったのだろうか。マタイによる福音書5章41〜42節 に「だれかが、一ミリオン行くように強いるなら、一緒に二ミリオン行きなさい。求める者には与えなさい。あなたから借りようとする者に、背を向けてはならない」というイエスの言葉がある。私は御言葉通りに生きることができなかった。
昨年度の県の障害者文化展に、私は代読ボランティアについて詠んだ短歌の連作「影になって」を提出した。乳がん罹患を機に黒衣に徹する決意を固めたかのような内容だった。今振り返って思う。多少の善意で始められたことにせよ、私の代読ボランティアは自己陶酔の域を出ていなかったのだな、と。そして、「編集に眼を貸」すことさえしなかったのに、「君らの勁き心を窃」んであのような連作をまとめたのだな、と。
『ハンセン病文学全集8:短歌』の中には、政石のように視える目を他の患者のために用いた永井静夫の歌もあった。
ポケットに眼鏡忘れず持ちていづいかなる代書けふ頼まれむ/永井静夫『冬風の島』
私は現在、視覚障害の方のために何もしていない。だが、可能な範囲のことで何かを頼まれたのなら、反応できる自分でありたい。それが、代読サービスの利用者の方にできるせめてもの恩返しだと思うから。
◆9月2日
列王下2:14エリヤが天に上げられた後、落ちて来た外套で水を打って渡ったエリシャ。それを見て他の預言者達はエリヤの霊が彼に留まっていることを認める。だがエリシャは「エリヤの神、主はどこにおられますか」と。主が共にいらしても尚、神を捜し求める姿勢は倣うべき
◆9月4日
フィリピ2:3〜4「何事も利己心や虚栄心からするのではなく…」が刺さる。〈相手を自分よりも優れた者と考え〉のNIVはvalue others above yourselves(己より尊ぶ)。故ありきとは言えown interestsの為立ち回ったのを猛省
◆9月12日
コロサイ4:12。弟子のエパフラスについてパウロは「御心をすべて確信しているようにと、いつもあなたがたのために熱心に祈っています」と記した。NIVでは〈wrestling in prayer for you〉。未熟な私だが、祈りで格闘することなら可能かも
◆9月18日
新改訳⑵列王23:4「王は大祭司ヒルキヤと…入口を守る者たちに命じて、バアルやアシェラや天の万象のために作られた器物をことごとく主の本堂から運び出させ、エルサレムの郊外…でそれを焼」いた。これを読み、ブログから賀状フォトチャンネルを削除。干支は中国の占星術の為
列王下2:14エリヤが天に上げられた後、落ちて来た外套で水を打って渡ったエリシャ。それを見て他の預言者達はエリヤの霊が彼に留まっていることを認める。だがエリシャは「エリヤの神、主はどこにおられますか」と。主が共にいらしても尚、神を捜し求める姿勢は倣うべき
◆9月4日
フィリピ2:3〜4「何事も利己心や虚栄心からするのではなく…」が刺さる。〈相手を自分よりも優れた者と考え〉のNIVはvalue others above yourselves(己より尊ぶ)。故ありきとは言えown interestsの為立ち回ったのを猛省
◆9月12日
コロサイ4:12。弟子のエパフラスについてパウロは「御心をすべて確信しているようにと、いつもあなたがたのために熱心に祈っています」と記した。NIVでは〈wrestling in prayer for you〉。未熟な私だが、祈りで格闘することなら可能かも
◆9月18日
新改訳⑵列王23:4「王は大祭司ヒルキヤと…入口を守る者たちに命じて、バアルやアシェラや天の万象のために作られた器物をことごとく主の本堂から運び出させ、エルサレムの郊外…でそれを焼」いた。これを読み、ブログから賀状フォトチャンネルを削除。干支は中国の占星術の為
消しゴムも筆記用具であることを希望と呼んではおかしいですか
一見ちょっと大仰な言いぶりでユーモラスな雰囲気もあるが、その実とても真摯な叫びが込められている。
消しゴムはそれ自体、書く道具ではない。だが、鉛筆やシャープペンシルで書く際には欠かせない筆記用具だ。もしこれが修正液だったら、下の句の「希望と呼んではおかしいですか」に託された含意が半減してしまうに違いない。修正液は、間違いの上から塗り潰すだけで、間違った箇所そのものを消し去るわけではないからだ。
この歌を読んで、イザヤ書43章25節がパッと思い浮かんだ。
わたしこそ、わたし自身のために あなたのとがを消す者である。わたしは、あなたの罪を心にとめない。(口語訳)
神様は、人の罪を消し去ると言う。それも、跡形の無いかのように。この大きな愛は、コリントの信徒への手紙 一 13章5節の英訳(NIV)で〈…it keeps no record of wrongs.〉(愛は悪を記憶に留めない)と書かれている愛そのものだろう。
私達が自己中心に振る舞って人に迷惑をかければ、たとえ反省し悔い改めたにしても、人間関係に何らかのしこりを残す。この点で、神様と人間は全く異なる。
生きることは、毎日毎日を何かに綴っていくようなものである。その歩みにおいては、大きな過ちをおかすこともある。神様は私の咎を消して下さると、御言葉は語る。あたかも消しゴムで綺麗に拭い去って下さるかのように——。
復活の主イエスは、三度イエスを否認したペトロに「わたしの羊を養いなさい」と繰り返す(ヨハネによる福音書21章12〜19節)。このイエスのペトロへの呼び掛けについて、服部修牧師は「失敗した自分にこだわるのではなく、外に向かって愛するよう招く言葉」と記している(『信徒の友』2017年3月号)。
過日、私も大きな過ちをおかした。礼拝堂の席に座っているのも居た堪れない心地が長く続いた。そんな私に主が語りかけて下さった御言葉は、ペトロの手紙 一 4章8節の「何よりもまず、心を込めて愛し合いなさい。愛は多くの罪を覆うからです」だった。
岡野大嗣『サイレンと犀』
一見ちょっと大仰な言いぶりでユーモラスな雰囲気もあるが、その実とても真摯な叫びが込められている。
消しゴムはそれ自体、書く道具ではない。だが、鉛筆やシャープペンシルで書く際には欠かせない筆記用具だ。もしこれが修正液だったら、下の句の「希望と呼んではおかしいですか」に託された含意が半減してしまうに違いない。修正液は、間違いの上から塗り潰すだけで、間違った箇所そのものを消し去るわけではないからだ。
この歌を読んで、イザヤ書43章25節がパッと思い浮かんだ。
わたしこそ、わたし自身のために あなたのとがを消す者である。わたしは、あなたの罪を心にとめない。(口語訳)
神様は、人の罪を消し去ると言う。それも、跡形の無いかのように。この大きな愛は、コリントの信徒への手紙 一 13章5節の英訳(NIV)で〈…it keeps no record of wrongs.〉(愛は悪を記憶に留めない)と書かれている愛そのものだろう。
私達が自己中心に振る舞って人に迷惑をかければ、たとえ反省し悔い改めたにしても、人間関係に何らかのしこりを残す。この点で、神様と人間は全く異なる。
生きることは、毎日毎日を何かに綴っていくようなものである。その歩みにおいては、大きな過ちをおかすこともある。神様は私の咎を消して下さると、御言葉は語る。あたかも消しゴムで綺麗に拭い去って下さるかのように——。
復活の主イエスは、三度イエスを否認したペトロに「わたしの羊を養いなさい」と繰り返す(ヨハネによる福音書21章12〜19節)。このイエスのペトロへの呼び掛けについて、服部修牧師は「失敗した自分にこだわるのではなく、外に向かって愛するよう招く言葉」と記している(『信徒の友』2017年3月号)。
過日、私も大きな過ちをおかした。礼拝堂の席に座っているのも居た堪れない心地が長く続いた。そんな私に主が語りかけて下さった御言葉は、ペトロの手紙 一 4章8節の「何よりもまず、心を込めて愛し合いなさい。愛は多くの罪を覆うからです」だった。
逝く秋にきちじやう草の咲きゐたり老いたるマリアいかに過しし
黒田はクリスチャンホームに生まれ幼児洗礼を受けた。長年、女子受刑者の短歌指導に携わり、藍綬褒章や瑞宝双光章を受章している。現時点で最新の歌集『橋』は、80歳を過ぎて編まれた。歌集中には自然詠が多く、穏やかな詠み口が特徴である。それゆえか、時々に挟まれる受刑者に目を向けた歌や信仰に基づいて詠まれた歌は、一層鮮やかに印象に残る。
かすかなる喜びならん死刑囚茶を点つる時間待ちゐるといふ
香に遠き日々の受刑者木犀の花咲く頃を最も喜ぶ
上に挙げた二首は、受刑者のささやかな喜びについて詠まれたものである。一首目は、死の執行を待つ死刑囚が、心を無にして一服の茶を味わう静かな時間を楽しみにしていることが描かれている。また二首目は、寂寞とした刑務所にいても風に運ばれて漂ってくる木犀の香りに浮き立つ受刑者の様子に着目している。それらの喜びは「かすか」でありながら、確かなものであるだろう。とは言え、受刑者の喜びを掬い取った歌の底には、刑務所の生活の厳しさ・やり切れなさも透けて見えてくるようで、胸を打つ。
自分のできること、為すべきことを淡々と果たしつつ老境を迎えた黒田の目に、ある時キチジョウソウが映った。そして、マリアの晩年に思いを馳せたという。聖書の中には何人かのマリアが登場するが、掲出歌の「マリア」はおそらくイエスの母マリアであろう。謂れなき罪状を着せられ十字架で処刑されたイエスの昇天後も生き残り、余生というにはまだまだ長い人生を送ったであろうマリア。受刑者と共に歩み、幾人の死を見送って、折々に彼らを偲んで過ごす黒田——。イエスの死後、初代教会の弟子達に囲まれて日々を過ごしつつも、ふとした時に頭をもたげてくるマリアの憂いを思うことは、黒田にとって救いであったかもしれない。
黒田淑子『橋』
黒田はクリスチャンホームに生まれ幼児洗礼を受けた。長年、女子受刑者の短歌指導に携わり、藍綬褒章や瑞宝双光章を受章している。現時点で最新の歌集『橋』は、80歳を過ぎて編まれた。歌集中には自然詠が多く、穏やかな詠み口が特徴である。それゆえか、時々に挟まれる受刑者に目を向けた歌や信仰に基づいて詠まれた歌は、一層鮮やかに印象に残る。
かすかなる喜びならん死刑囚茶を点つる時間待ちゐるといふ
香に遠き日々の受刑者木犀の花咲く頃を最も喜ぶ
上に挙げた二首は、受刑者のささやかな喜びについて詠まれたものである。一首目は、死の執行を待つ死刑囚が、心を無にして一服の茶を味わう静かな時間を楽しみにしていることが描かれている。また二首目は、寂寞とした刑務所にいても風に運ばれて漂ってくる木犀の香りに浮き立つ受刑者の様子に着目している。それらの喜びは「かすか」でありながら、確かなものであるだろう。とは言え、受刑者の喜びを掬い取った歌の底には、刑務所の生活の厳しさ・やり切れなさも透けて見えてくるようで、胸を打つ。
自分のできること、為すべきことを淡々と果たしつつ老境を迎えた黒田の目に、ある時キチジョウソウが映った。そして、マリアの晩年に思いを馳せたという。聖書の中には何人かのマリアが登場するが、掲出歌の「マリア」はおそらくイエスの母マリアであろう。謂れなき罪状を着せられ十字架で処刑されたイエスの昇天後も生き残り、余生というにはまだまだ長い人生を送ったであろうマリア。受刑者と共に歩み、幾人の死を見送って、折々に彼らを偲んで過ごす黒田——。イエスの死後、初代教会の弟子達に囲まれて日々を過ごしつつも、ふとした時に頭をもたげてくるマリアの憂いを思うことは、黒田にとって救いであったかもしれない。
「ぬばっぬばっ」緊急地震速報に手にある財布ひとまずは置く
(とど)
2013年8月11日 作歌、2017年5月下旬 改作。
(とど)
2013年8月11日 作歌、2017年5月下旬 改作。