水の門

体内をながれるもの。ことば。音楽。飲みもの。スピリット。

歌集『カインの祈り』

澤本佳歩歌集『カインの祈り』
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#通読 2017年2月分まとめ

2017年02月28日 10時11分47秒 | 黙想・聖書通読・礼拝聖句
◆2月3日
マタイ25:31〜。正しい人達は「いつ…食べ物…飲み物を差し上げたでしょうか。いつ…お宿を貸し…お着せしたでしょうか(後略)」と逐一尋ねるが、王に咎められた人達は「いつお世話をしなかったでしょうか」と十把一絡げ。無関心な人は、行為一つ一つへの認識も薄い。

◆2月8日
主と出会っていない人達に伝えたくても空回りすることは多々。そんななか新改訳マタイ28:7に目を開かれた。イエスを納めた墓を訪れた女達に御使いが、復活の主とガリラヤで会えるとし「これだけはお伝えしました」と。これだけは、というものに集中するのは実は大切かも

◆2月12日
新改訳出エジプト6:3「わたしは、アブラハム、イサク、ヤコブに、全能の神として現われたが、主という名では、わたしを彼らに知らせなかった」。何度も見ていた聖句だろうが意識したのは初めて。エジプトでの奴隷生活より救うからだろう。「主」の語の意味がやっと解った

◆2月16日
マルコ6:31。村々を巡り食事の暇もなかった弟子達に「あなたがただけで人里離れた所へ行って、しばらく休むがよい」と仰った主。邦訳では〈あなたがただけで〉だが、NIVでは“Come with me by yourselves” 私達が憩うのはいつも主の傍。

◆2月20日
マルコ8:19〜20。五千人に五つのパンを裂いた時、残ったパン屑は十二籠、七つのパンを四千人に裂いた時は、残ったパン屑は七籠。私達の持つものが僅かでも、イエス様はその量に関係なくお増やしになれる。私達に求められているのは、ただ主に進んでお捧げすることだけ

◆2月21日
マルコ9:49「人は皆、火で塩味を付けられる」。〈火で〉というのがポイントか。詩編105:17〜19「奴隷として売られたヨセフ。主は、人々が彼を卑しめて…首に鉄の枷をはめることを許された 主の仰せが彼を火で練り清め 御言葉が実現するときまで」を思い出した

◆2月22日
マルコ10:46〜。盲人バルティマイは主が通ると「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と叫んだ。48節「人々が叱りつけて黙らせようとした」が長らく疑問だった。 考えてみれば私は30代まで、遠くから上司を呼んでいた。不躾な私を主は慈しんで下さった

◆2月23日
エルサレム入城に当たり子ろばをご用命になったイエスは、弟子達に『主がお入り用なのです。すぐここにお返しになります』と言うよう託す(マルコ11:3)。よく読んでいた場面だが、すぐ返すと伝言していたことは私の意識から抜け落ちていた。主の誠実さが光るシーンだ。

◆2月26日
出エジプト23:3「弱い人を…曲げてかばってはならない」職場のA君はT氏に謝りたがっていたが、何が悪いか解さずただ相手の怒りに怯えた義務感からだった。私は「自分の満足のためならするな」と苦言。己が満足を求めぬ主(ローマ15:3)の光がA君を包みますように

◆2月27日
新改訳出エジプト25:2。主はモーセに「心から進んでささげる人から、わたしへの奉納物を受け取らなければならない」と命じた。主は心からの奉納物でなければお喜びにならない。献金や奉仕だけでなく、突き詰めて言えば、神と過ごす時間(黙想や通読)もそうなのだろう。

◆2月28日
マルコ14:66〜。大祭司に仕える女中の一人がペトロにイエスの仲間か質す場面。日本語訳の〈女中〉から中年女性を勝手に想像していたが、NIVではone of the servant girls。ほんの少女に狼狽えたペトロだが、主に背けば私もこうなるだろう。
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目をショボショボさせて。

2017年02月26日 07時25分22秒 | 気分・体調にあわせて
光源をまぶしみて暗くする画面にまま見失うポインタの位置
(とど)

2014年10月27日 作歌。
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いつもドキリとさせられる。

2017年02月23日 15時14分13秒 | 言葉に寄せて
御言葉の「肉に心を用いるな」君のためよりわれに向けねば
(とど)

*ローマの信徒への手紙13章14節

2011年5月26日 作歌、2017年2月23日 改訂。
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一首鑑賞(41):山口明子「精神科の女医の目澄みて」

2017年02月15日 15時33分52秒 | 一首鑑賞
LDの息子の話受け入れて聞く精神科の女医の目澄みて
山口明子『さくらあやふく』


 歌集『さくらあやふく』には山口の18歳から39歳、すなわち大学生から公立中学の教員になり、やがて三人の子を授かっていった期間に詠まれた短歌が収められている。
 長男のLD(学習障害)が見つかったのは、第二子が生まれて間もなくとのこと。幼いながらもお兄さんらしさを覗かせる一方で、突発的な癇癪をたびたび起こすようになり、受診に至ったようだ。

  泣きながら自分の頭を叩く子よ拳に小さき嵐にぎりて
  おもふこと言葉にできぬ子の映る硝子をつたふ春夜のしづく


 そんな中で巡り会った精神科の女医は、訥々と話す子の話を深く受け入れてくれたという。これがきっかけで、行き詰まり状態にあった子の道が少しずつ開かれていく。

  障害をもつ子を深くうべなへる医師のまなざしをながく思へり

 このような出会いは私自身にもあった。精神の病を発症して山梨に連れて来られ、最寄りの医院からの紹介で現在の病院にやって来た。K先生は当時から親しみやすく、症状が急激に悪化した再燃期にも適切な処方をしてくださり、現在は私の主治医をなさっている。先生はご自身のブログで、患者さんに接する際に「気持ちを汲む」「気持ちに添う」という治療態度で臨んでいると書いていらした。それは、十代に入る前の子供を育てているお母さんの母心そのものだという。
 ホセア書11章4節に「わたしは人間の綱、愛のきずなで彼らを導き 彼らの顎から軛を取り去り 身をかがめて食べさせた」と、神の愛についての記述がある。私自身は幼い頃はいわゆる「聞き分けの良い子」で、成人してからむずかったような口なのだが、幼時に充分ほぐされていなかった心をK先生を通じてかなりの部分耕していただいたと振り返って思う。イエス様は病人を診る時、一人一人に手を置いてお癒しになった(ルカによる福音書4章40節)。その姿は、K先生にも、そして山口氏のご子息の主治医にも、オーヴァーラップして見える。
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吹っ切れて。

2017年02月08日 14時47分43秒 | 時間帯にあわせて
変わらずに優しい君を見た夢の余韻のうちに番号を消す
(とど)

2015年1月10日 作歌、2016年12月初旬 改訂。
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My Favorite Scriptures

2017年02月02日 15時11分26秒 | 言葉に寄せて
天の果てに追いやられても連れ帰ると確かに告げていた申命記
(とど)

2015年8月15日 作歌。

*申命記30章1〜4節 参照。
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