ホトケの顔も三度まで

ノンフィクション作家、探検家角幡唯介のブログ

さよなら早川荘

2009年05月05日 21時01分54秒 | 雑記
 滝谷から帰って来ると、探検部の友人S(チームアバランチのSとは別人)から、こんなメールが届いていた。少々、長いのだが引用する。

《久々に早稲田に行ったら早川荘がなくなっていた。ショック。建物跡の空き地には雑草やら野花やらがたくさん生えていたからだいぶ前のことのようだ。最近、あらゆる記憶が曖昧で、せめて外形物にでも補強してもらいたかったのだが、早稲田通りから大学のキャンパスまで何から何まで変わっていて、最後に細い路地からみえるはずの早川荘が空き地になっていたあかつきには、当初のもくろみが見事外れ、いったい本当に自分がそこで生活していたのかすら分からなくなってしまった。しばし、野草を眺めながらへたりこむ。○○○ー(かくはた注:本ブログで明示するにはさし障りのある行為です)ばかりしていた二階のあの部屋は今はただの「空中」になっている。風景というのは容赦なく変わっていくものですね。「ひまつぶし」も「二十二坪」もない。精神的風景も物理的風景もそんなんだから、自分の出自や存在すらあやしんでしまう。時間とはつくづく恐ろしいと思う今日この頃。俺が今座っているこの仕事部屋も娘がすやすやと寝ている奥の部屋もいずれただの「空中」になってしまうんだろうな。あ、引っ越すときに書いて、屋根裏に隠したおいた「さよなら早川荘」の手紙はどこにいってしまったのだろう。恥ずかしいから回収したかったのだが。。。S》

 早川荘とは僕やSが学生時代に住んでいた早稲田のぼろアパートである。別に同棲していたわけではない。そのアパートがなくなってしまったらしく、大げさに嘆き悲しんでいるというメールである。

 数棟のぼろアパートが敷地内に所狭しと隣接しており、僕は学生館、Sは本館に住んでいた。本館といっても学生館よりきれいで立派なわけではなく、むしろ古い分だけ汚くてみすぼらしかった。

 確かに、青春時代の短くない期間(僕は7年間ほどだったろうか)を過ごしただけに、このアパートが取り壊されたというニュースは僕にとっても少しショックだった。

 4畳半一間で2万7千円。もちろん風呂なし。トイレとは呼べそうもない共同便所が別にあった。どんなからくりがあるのか知らないが、天井からぶら下がっている鎖を引っ張ると水がウンコを流してくれる、そんな便所だ。隣の部屋には「革命!」と叫ぶ小学教師兼劇団員Mがすんでいて、酔っぱらうと呼んでもいないのに全裸で部屋にやってきて、請うてもいないのにツバをあごの下までビローと伸ばして吸いもどす得意技を見せてくれた。ネズミが押し入れの中で子供を産んだこともあったし、大麻を栽培しているニコニコした眼鏡の学生もいた。アパートの前の通りを全裸の若い女性が走り去っていったこともあった(この女性の目的が何で、正体が誰なのかは未だに謎だし、この時、走って追っかけなかったことを僕は今でも後悔している)。とにかく裸になりたがるやつが多かった。いや、多すぎた。

 ミレニアムが騒がれていた頃、鉄筋コンクリート建てでオートロック仕掛け、噂によると家賃9万円という「ハヤカワコート1999」という、僕らからみると六本木ヒルズみたいな豪奢なマンションが敷地内に建てられ、そこに出入りするこぎれいな女子大生の尻を眺めながら、「け、ブルジョワが」と空しい啖呵をきるSの姿を、僕は彼からのメールを見てまざまざと思い出した。考えてみると早川荘は、今の日本の姿を暗示する格差社会の実験場だったのかもしれない。ああ、早川荘、某有名小説家も住んでいた早川荘。小説家は早川荘を出る時に年代物の冷蔵庫を敷地内のゴミ捨て場に捨てていき、彼の名前が書かれたその冷蔵庫は新聞社に就職する時に僕が拾って、それから5年間も使い続けた、そんな早川荘……。サヨナラ。

 そんなことを思っていたら、またSからメールが届いた。

《カクハタがいた建物はベニヤが打ち付けられてたけどまだ残ってたよ。》

 なんだよ、まだ、あるんじゃん。ベニヤってなんだよ、失礼だな。外壁と呼べ。

 今度、見に行くか。
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