ホトケの顔も三度まで

ノンフィクション作家、探検家角幡唯介のブログ

極夜脱稿

2017年11月24日 22時46分09秒 | 雑記
極夜原稿をついに脱稿した。長かった。4月ぐらいから断続的に執筆して半年ほどかかったことになる。本当は9月ぐらいに書き終わる予定だったのに、引っ越しもあったし、冒険論の新書原稿もあったし、9、10、11月とまったく山にいけなかった。

極夜の探検は私にとっては4年間の準備期間をかけた一生に一度の旅で、旅の間も星や闇や月や太陽にかんするさまざまな考察や発見が目まぐるしく展開されて、もうこんな旅、一生無理でしょというぐらい内容の濃いものだった。難しかったのは、この話をいかに説得力あるかたちでまとめるかということ。闇の世界をぬけて最後に太陽を見るという旅だから、基本的にはヒエロファニーの話なんだが、ヒエロファニーをあまり真面目に描くと崇高になってしまい、ノンフィクションとしては説得力がなくなるので、けっこうふざけた表現とか、描写などをまじえて崇高じゃない話になるよう努力した。そのため昔の恥ずかしいエピソードなでも交えて闇の世界の事実を伝えようとした。

まあ、自分の恥部をさらけ出すことは大好きなので、このへんは非常に楽しんで書けたが。

個人的には自分が経験した暗黒世界をかなり忠実に文章化できた手ごたえはある。この本を読めば極夜探検をかなりリアルに追体験できると思う。

タイトルは『極夜行』に決定。東野圭吾の『白夜行』が有名なので、これはやめようかなと思っていたが、やはりシンプルなほうが人口に膾炙しやすいし、旅の内容にも合っているので決めた。発売は文芸春秋から2月9日予定。

ちなみに、早くもパブリシティが一件決まっており、2月に新潮のラカグで写真家中村征夫さんと対談の予定がある。これはどっちかといえば私の本ではなく、中村さんのほうのパブリシティ。というのも、なんと中村さん、40年前に冬のシオラパルクに滞在し、そのときの作品をまとめた『極夜』という写真集を刊行するのだという(アマゾンを見ると12月26日発売予定)。

極夜の本なんて、たぶん何十年に一冊しか出ないと思うが、それが二冊も同時に刊行される。恐ろしい偶然である。こんなこと、普通あるだろうか? 奇跡といってさしつかえないだろう。

それにしても40年前のシオラパルクの話を聞けるとは、今から非常に楽しみだ。

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特にないんですが、なんとなく

2017年10月20日 21時59分31秒 | 雑記
珍しくブログ経由で三発もメッセージが届いた。ツイッターをはじめたら、便所の落書きみたいな感覚でどうでもいい短文をがんがん書けるので、そっちで気晴らしになってしまい、ブログの存在をすっかり忘れてしまっていた。しかし、久しぶりにブログを見たら、何となく股間をいじる感覚でツイッターを始めたみたいな内容の記事がトップで、こんな記事がずっと頭を飾っていたのかと思うと、急に恥ずかしくなってしまい、特にかくことは無いんですが、トップの記事を変えるために適当になんか書きはじめた次第です。

エッセイっぽいの書けるネタはあるのだが、ビーパルの連載で書かなきゃいけないし、集英社の惑星巡礼というフォトエッセイの連載もあるし、なかなかブログで書けなくなってしまっています。

うーん、そうですな。近況報告としては、今は一月に発行予定の『冒険論(仮称)』という新書の原稿を書いています。内容は脱システムという私のここ数年の冒険についての思想を全面展開したもの。はじめにとおわりに以外の本章は、概ね書き終えたが、自分的には現段階で書きたいことは書けたかなという手応えはある。冒険に関してこれほど深く本質的な議論はこれまでなかったし、今後もないだろうから、興味のある人は読んでください。まだだいぶ先の話ですが。

あと極夜関係ですが、10月末から文春オンラインで連載はじまります。タイトルは「私は太陽を見た」。ただ、単行本との差異化をはかるため、ネットの原稿は単行本の半分程度です。内容的にも、行動の経緯がほとんどで、探検中の感慨や考察や発見等々の、私が面白いかな~と思っている部分はすべて省いてます。だから、最初から完成形を読みたい人は二月発刊予定の単行本を待ったほうがいいかもしれません。

ただ、文春オンラインのほうは探検中の動画や写真などが充実しているので、そっちを見るというのもありかもしれません。個人的にはネット原稿は完成版から面白い部分を全部削っているものなので、なんかなぁ~という感じです。それでも300枚もあるんですが。300枚の原稿をネット上で読む人がいるのかは、不明ですな。

ちなみにツイッターはやってる。面白い記事とか、自分の本を褒めてくれている人のツイートとか、がんがんリツイートしてもりあがっている雰囲気にしようと思っていたけど、全然できてないです。ただ、なんとなく思いついた便所の落書きレベルのくだらないことをひたすらつぶやいているだけですが、面白いですって言ってくれる人も二人ぐらいいました。

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ツイッター

2017年09月01日 17時13分15秒 | 雑記
最近、ツイッターをはじめようか悩んでいた。他の作家のツイッターを見ていると、他人がつぶやいた本の感想をリツイートしまくることで、その本が何となくもりあがっているように見えて羨ましかったからである。もしかしたら盛り上がりというのは、自分から仕掛けるものなのかもしれない。でも、こういうのは一度始めると時間をとられそうで、それが面倒くさい。ただでさえ子供ができて本を読む時間がないのに、さらに読めなくなりそうだ。というわけで中々、踏み出せないでいた。

さっき原稿執筆の集中力が途絶えたので、ツイッターのサイトを開き、何となくアカウント作製の画面をいじりはじめた。別に、はじめるぞ、という気はなかったのだが、本当に何となく、ユーザー名とか書きはじめた。何となくポコチンをいじりはじめるときがあるが、それと同じような中動態的な感覚である。ところが一度いじりはじめると、あれよあれよという間に簡単にアカウントは作成されてしまった。でも、まだアカウントを閉じてしまえば簡単にやめることができる。始める決心がつかず、どうしようかな~と迷っていると、いきなりフォロワーが一人ついた。なんなんだ、この人は……。 

と、このブログの記事を書いている間にも、二人目、三人目とどんどん増えていく。どうしよう……。

私はこの人たちのためにもツイッターを始めるべきなのだろうか。

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書評とかホサナとかメコン&地平線会議で極夜報告会

2017年07月13日 20時34分28秒 | 雑記
探検家の日々本本 (幻冬舎文庫)
角幡 唯介
幻冬舎


『探検家の日々本本』の文庫本が出たので、たまにブックレビューのサイトなどをのぞいたりすると、概ね好評なので嬉しい。ただちょっと気になることがあった。この本を褒めてくれる人はだいたい、「読みたい本が増えた」という感想を書いてくれる人が多い。たとえばブックメーターに書いてあった次のような感想。「文章がうまいので、紹介されている本をほとんど読みたくなってしまう」。これって、うれしいのだが、よく考えるとちょっと変じゃないだろうか。文章がうまいのなら、紹介した本ではなく、私の本を読みたくなるのが普通だと思うのだが……。この本の感想はだいたいこんな感じで、面白かったので角幡さんの他の本を読んでみようというのは見たことがない。なぜだろう。

最近、単発の書評や文庫本のオビの宣伝文句の依頼が立て続けにはいったが、書評というのはそういう意味で難しい。書評を書くときは、正直あまり面白くなかった本でも、いかに面白く書くかが腕の見せどころなのでつい面白く書いてしまう。しかしあまり面白く書いてしまうと、今度はその本を読んだ人から、書評が面白かったから読んだけど本自体はあまり面白くなかったなどと言われる。

ということで書評を読む人には次のことに気をつけてもらいたい。書評を読んで面白いと思ったときは、紹介されている本より、紹介している人の本のほうが面白い確率が高いので、評者の本を買いましょう。

ということで、『探検家の日々本本』&それ以外の私の著作。よろしく。

ホサナ
町田 康
講談社


書評のことで思い出したが、町田康『ホサナ』がとんでもなく面白かった。ものすごく字の小さな700Pだが、立て続けに二回読破した。『告白』とならぶ傑作、かつ、ここ数年で読んだ小説では断トツのナンバー1。

中央公論から単発書評の依頼があり紹介したが、あんな短い原稿では到底この本の魅力は語れないので、先日この作品に登場する重要なキャラクターであるひょっとこを切り口にブログで作品を詳細に論評してみようかと思い書きはじめたが、このまま書き進めると原稿用紙30枚以上になりそうで、そんな時間は到底なく断念した。

紹介したいのに紹介できないという、この不条理。まったく町田康の小説と同じだ。とにかくこんな小説を読んでしまうと、ほかの小説を読む気がしない。何作か手に取って読みはじめたが、物足りなくてすぐに放り出してしまった。

アマゾンでは酷評されているが、この本を評価できないなんてどういうことだろう。アマゾンのレビューなんて全然気にしなくていいことが分かり、そういう意味でも励みになる作品だ。



あと私が畏敬する東京農大探検部OBである北村昌之さんの『メコンを下る』。これも面白かった。94年から足掛け11年にわたり、メコンの源頭から河口まで下った一大探検記だ。メコン川の源頭を突き止めるという19世紀の英国の探検家がやっていたのと同じようなレベルの地理的探検を1994年にやったというから、びっくり仰天である。いったいこの人たちは何を考えているのだろう。

北村さんとは学生時代からの知り合いで、メコンの話はちょくちょく聞いていたが、この本を読んで詳細を初めて知った。実直で丁寧、正確でありながらユーモアたっぷりの文体も素晴らしい。酒席での豪放な人柄から、もっと乱暴な本かと思っていたが、全然ちがった。チベット域内の冒険的激流下りのパートもはらはらするが、個人的に一番面白かったのはラオスの竹筏漂流の話だろうか。情景描写や流域の人々とのふれあいもリアリティーがあり、一緒にメコンを下っている気分になれる。なんだか無人の北極を離れて人間くさいアジアに行きたくなった。

唯一の欠点は5500円という価格だろうか。ハナから売るつもりがないとしか思えない価格設定である。

ちなみに私が2002~03年にツアンポー探検をしたときの食料は、じつは北村さんらのメコン遠征で余ったものをもらったものだった。本当は『空白の五マイル』で謝辞を書くべきだったが、うっかりしていた。今更ながら、どうもありがとうございます。

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さて7月28日に地平線会議で極夜の探検の報告会を開きます。
内容は文春と名古屋の報告会と同じ、動画を見せながら旅の模様を話すというものになります。見逃した方はぜひご参加を。

場所は新宿区スポーツセンター。予約不要。500円。地平線会議のHPに後日詳細が出ると思います。
http://www.chiheisen.net/


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教育勅語雑感

2017年04月08日 08時02分33秒 | 雑記
最近、一番うんざりしたのは、政府が教育勅語の教材使用を政府が閣議決定したこと。昨日も文部副大臣義家弘介が幼稚園などの教育現場で教育勅語を朗読することは「教育基本法に反しないかぎり問題ない行為」と意味不明、内容皆無の答弁をして話題となった。この答弁は犯罪をおかしてもそれが刑法に違反しないかぎり問題がないと言っているようなもんで、日本語としてまったく意味をなさず、この人は本当に教師をしていたのだろうかと疑いたくなる。それに文部副大臣という立場にあろう人が、こんな法の精神を骨抜きにするような発言をして許されるのだろうか。即刻辞任に値する発言だと思うのだが。

それにしても教育勅語の復活、治安維持法の予防拘禁制度を彷彿とさせる共謀罪法案の国会審議入り、銃剣道の学習指導要領入りと、いよいよこの国は戦前の国家体制に復古しつつあることが如実になってきた。戦前の国家体制に復古して一番嫌なのは、国が戦争を起こすとかそんなことではなくて、国民の個人性が公権力によって否定されることだ。教育勅語に何が書いてあるかというと「万一危急の大事が起ったならば、大義に基づいて勇気をふるい一身を捧げて皇室国家の為につくせ。かくして神勅のまにまに天地と共に窮りなき宝祚(あまつひつぎ)の御栄をたすけ奉れ。かようにすることは、ただに朕に対して忠良な臣民であるばかりでなく、それがとりもなおさず、汝らの祖先ののこした美風をはっきりあらわすことになる」(ウィキペディアより)なんてことが書いてあるわけで、こんな国民の個人的人格を否定して国家に命ごと隷属させるようなことを命じているテキストを、まだ善悪の基準やモラルが十分に確立されていない子供たちに美風として教え込むような教育なんて、想像しただけでゾッとする。たとえば稲田朋美みたいに教育勅語に書かれていることの核の部分は取り戻すべきだみたいなことを言う人たちは、教育勅語の徳目が戦前のファシズム日本を建設することにどれだけ大きな機能を果たしたかという歴史の教訓をいったいどう評価しているのだろうか。

子供をもつ一人の親として切実に思うのは、こんな文章を教材で扱うような教育機関には絶対に通学させたくないということだ。先日、娘がテレビで首相安倍を見たときに「この人知っている」と何か偉い人だと思っているようなことを言ったので、マズイと思い、「こいつはね日本で一番悪いやつなんだよ。日本で一番の嘘つきだから」とちゃんと本当のことを教えてあげた。将来、学校で教育勅語の精神を吹きこまれた娘に、「おとうさん、そういう国家にたてつくようなことをブログで書いたりしたらダメだって先生が言ってたよ」とか言われたらどうしようと真剣に心配になる。もし娘が森友学園でわけのわからないことを言わされていた子供みたいに精神を変造され、目を純真にキラキラさせて国家に忠誠を誓うようなことを平然と口にするようになったら可哀相だし、個人の自律、モラルの確立を公権力によって取り上げられた人間ほど憐れなものはない。子供にはそんな人間になってほしくないし、上から押しつけられた忠誠心にしたがって生きるのではなく、自分だけの信念を自分の力で探す、そんな生き方をさせてあげたい。少なくともそういう環境で育ってほしい。

ゆえあって、今年のうちに引っ越さなくてはならなくなり、今、移住先を探しているのだが、こういうニュースを聞くたびに、マジでこの国から逃れて海外移住を検討したくなる。教育勅語に象徴される戦前回帰傾向に、冬山登山禁止にみられる危険回避、責任回避を根底にした「あれをやったらダメ、これを言っちゃいけない」という風潮。本当にこの国はクソみたいな国になりつつあるし、私はそんなこの国が最近心底嫌いだ。でもこの国に住んでいる以上は公的な責任があるので、この国はクソみたいだし薄気味悪い腐臭をはなちつつあるということだけは積極的に発言していきたいと思う。

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高校生冬山登山 「禁止」ではなく「断念」にすべきでは

2017年03月31日 22時05分40秒 | 雑記
栃木県那須町の雪崩事故で、栃木県教育委員会が高校生の冬山登山全面禁止を検討しはじめたというニュースが波紋をひろげている。野口健はツイッターが「あまりに安易な発想」と一刀両断し、今日、TBSラジオの「荒川強啓デイ・キャッチ」でもコメンテーターの宮台真司がこの問題をとりあげ、問題があったらなんでもかんでも禁止措置をして蓋をする日本的な風潮をはげしく批判していた。私もこのニュースをきいたときは非常に強い違和感をおぼえたので、ちょっとこの問題について考えてみたい。

まず、事故そのものについては、まだ詳しい状況や原因がわかっていないので安易なコメントは慎むべきだと思う。だが、これまでの報道を読む限り、雪崩の予見性にかんしてはかなりきわどい判断だったと思う。少なくとももし自分が登山者として同じ現場に立っていたら、高校生が事故にあったあの樹林帯の斜面は、登れる(=雪崩は起きない)と判断したのではないかという気がする。しかし今回の事故は個人の登山で発生した事故ではなく、教員が生徒を引率する講習会で起きた事故だ。当然、主催者側には個人登山とは別の次元の予見責任と安全責任が問われる。結果として教育の場で事故が起き、前途有望な生徒を死なせてしまった以上、今後、刑事、民事の両面で高校と教育委員会の責任がきびしく問われるのはやむをえない。

だが、それと、今回話題にしている冬山登山禁止措置とは別問題だ。そりゃあ登山を禁止したら事故はなくなるだろう。誰も登れなくなるのだから。しかし、人間社会というのはある程度のリスクを許容したうえで成りたっているわけで、リスクが完全にない社会などありえない。リスクをそんなに取りたくないなら、家のなかでポテチでもぼりぼり食べて外に出ないのが安全なのだろうが、そんな人生は全然面白くないからみんな大なり小なりリスク込みで活動するわけである。いわば冬山もその一つ。そもそも冬山という厳しい自然のなかに入りこむ以上、絶対的な安全などありえないわけで、栃木県教委にしても、そのリスクをふまえたうえで、それでも冬山登山に教育的な価値があると考えていたからこそ、これまでは春山講習を認めてきたのではないか。

だとすると、事故の原因も何もまだわかっていない段階で禁止を検討するのは態度としては矛盾しており、冬山登山を一部認めてきたこれまでの判断はいったい何だったのかということになる。今までは冬山のリスクについてあまり深く認識してませんでした。こんな危ないフィールドだと知っていたら、とうの昔に止めていたんですが、実際、今回事故が起きるまで、僕ら、全然気がつかなかったんです……。ということなのだろうか。だとしたらあまりに無知、何も考えてなさすぎるが、さすがにそんなことはあるまい。事故のデカさにびびって検討を開始したのが実情だろう。いずれにせよ重要なのは、今の段階で禁止するのではなく、今回の事故の状況と原因を究明して、それでも雪山登山に教育価値があるかどうかを真摯に議論することだ。さらに考えなければならないのは冬山登山には最終的に絶対リスクが伴うことを認めたうえで、それを高校生に認める自由を、われわれの社会が共有できるかどうかという視点だ。しかし、県教委がすべての議論をフっ飛ばして禁止という決定をくだしてしまえば、これらの視座をすべて奪うことになりかねない。

結局のところ、今回露呈したのは、非難や責任追及につながる面倒くさいことは、とっとと蓋をするという役所の体質である。禁止というのは要するに責任回避の発想そのものである。高校生が大勢死ぬような危険なフィールド活動をそのまま継続するとは何事か、という社会的批判を避けたい一心で出てきた話にしか聞こえない。冬山が高校生の人格をどのように豊かにし、陶冶するのかという教育的観点が皆無であり、見えてくるのは責任回避と自己保身だけだ。

と思う一方、役所なんて責任逃れしか考えてない組織なんだから、こういう事故の後ではそういう反応も出るだろうな、という冷めた視線もある。だとすると県教委が検討すべきなのは禁止ではなく断念なのではないかという気がする。

どういうことかといえば、登山は危険がつきもの。3月30日の新聞を読むと、栃木県高体連の登山専門部の専門委員長が「絶対安全と判断した」と会見で述べたらしいが、冬山登山に絶対安全なんてありえず、われわれ登山をしている者の感覚から言うと「絶対安全」なんて言葉は口が裂けても出てこない。普通は「たぶん大丈夫」として言えないものだ。しかし、この専門委員長は「絶対安全」といわざるをえなかった。なぜかといえば前提としての「絶対安全性」に言及しておかないと、今回の事故を想定外の出来事だとすることができないからだ。要するに、教育委員会、高体連という無謬性を前提とする典型的な日本の役所組織では、本質的に危険性をはらむ登山活動は扱えきれないのだ。

登山を教育の場で扱う以上、絶対に事故は避けられない。しかし事前に書類のチェックをしておけばトラブルの責任は回避できるという発想しかない日本の役所組織の論理では、人の生死がからむ登山教育は責任が巨大すぎて扱いきれない。言いかえれば教育委員会のような組織にしてみると、冬山は原発と同じでわけのわからないシンゴジラのような想定外の化け物なのである。そうであるなら、禁止などという上から目線の言葉は使わずに、「自分たちには冬山登山はもう手に負えません。今回の事故でそれがわかりました」ということを率直に認め、「学校教育の場としては冬山登山はもう行いませんが、それでも登りたいという生徒は山岳会などに加盟し、学校とは別の場所で各自、自主的におこなってください」と宣言すべきである。つまり禁止ではなく、断念だ。そっちのほうがよっぽど実情を表わしており、スッキリする。脱原発ならぬ脱登山である。

それに禁止という言葉を使われると、なにか登山が命を粗末にする悪い行為で、そのような悪い行為をしている登山者はろくでもない奴らという印象を非登山者に与えかねない。禁止には「それはダメだ」という否定的語感が伴う。冬山には冬山でしか得られない素晴らしい価値があり、自分たちに扱いきれないからと言って、トータルに否定する禁止という言葉を使われるのは釈然としない。

ということで栃木県教育委員会におかれましては、勇気をもって禁止ではなく断念の決定をくだしていただきたいと思います。





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公人と私人

2017年03月04日 04時53分12秒 | 雑記
 探検とは日常空間を自ら飛びだし、システムの境界線の外にある空間あるいは状況を踏査・検証する身体行為なので、探検が終わるといつも、ああこんな非日常世界はもう疲れたなぁー、温泉につかりたいなぁなどと、早く日本に帰りたくて仕方がなくなる。今回は極夜単独行という、その非日常的性格に超のつく異常空間領域に80日間もいたたため、家族と一緒にスーパーで買いものをする、ギョーザを食べる、本屋で無駄遣いをするなどといった平凡な日常空間に戻りたい度がいつもより高い。
 シオラパルクの村からは、まずヘリで隣町のカナックに移動し、そこから飛行機にのりかえてウパナビックの町に向かわなければならない。出発予定の3月1日、準備万端ととのえた私は胸をときめかせて居候先の山崎さんの家でヘリの到着を待っていた。日本では妻も私をむかえにいくため成田空港近くの実家に戻ったという。ところが待てど暮らせどヘリはやってこない。結局、その日はヘリを格納しているチューレ米軍基地の天気が悪かったらしく、フライトはキャンセル、シオラパルクに足止めをくらった。
 ヘリは翌日飛んでカナックに到着したが、この地球の北の果てにある人口30人ほどの村でヘリがひとたびキャンセルされると、乗客への影響は甚大だ。というのもカナックで接続する飛行機は、シオラパルクからのヘリがキャンセルされたことなど一切かまわず出発してしまう。しかもカナック―ウパナビック間は週に1便しかないので、たとえ翌日にヘリが飛んでカナックに到着できても、翌週のフライトまで待たなければならないのだ。今すぐにでも日本にもどり近所のまんてんラーメンでギョーザを食べたかった私は、カナックのエアグリーンランドの責任者に「土・日に貨物便はないの? 娘が病気で早く日本に戻らなければならないんだ」と懇願したが、私の見え透いた嘘を見抜いた彼は「貨物便もない。悪いけど水曜の次の便まで待ってくれ」と苦笑していうばかりだった。
 というわけで、カナックのホテルで来週の水曜まで足止めを喰らった。今日はその1日目。せまい町を歩いてもしょうがないし、この町には知人もいない。はやくも暇で死にそうになり、ついつい高額な接続料金を支払ってインターネットのニュースサイトなどを閲覧してしまう。

 最近、ネットを見ていて、日本では幼児に教育勅語を暗唱させ、「安倍首相がんばれ」などという不気味なフレーズを連呼させる、極夜世界よりはるかに薄気味の悪い森友学園という学校法人が、小学校新設に際して国有地の売却を不正に受けていたのではないかという疑惑が持ち上がっていることを知った。しかも、一般常識があればどう考えてもヤバイとしか思えないこの新設小学校の名誉校長に、あろうことか首相安倍晋三の昭恵夫人が就任する予定で、しかも公務員を引き連れて講演をおこない、「ここの教育方針は素晴らしい」などと不用意な発言していたというから驚きだ。アッキーは今回の疑惑をうけて名誉校長就任を辞退、一連の問題について口をつぐんでいるとのことだが、夫である首相安倍は国会での追及に相変わらずの度量の小ささをみせつけ、「妻は私人なんですよ。犯罪者あつかいするのは不愉快だ」などと逆ギレし、聞いている方を不愉快にさせる答弁をしているという。
 たしかに人間の行為をどこから公的で、どこから私的なものか分類するのは簡単ではない。私も新聞記者時代は公的領域と私的領域の境界線に頭を悩ませた。とりわけ悪名高い個人情報保護法が施行された後は、個人情報(私的領域)という大義名分を隠れ蓑に公的情報をひた隠しにしようとする風潮にはうんざりした。今回もたとえば朝日新聞はアッキーが公人か私人か区別するため、彼女の首相夫人としての活動を公務員がサポートしていることや、手当として公費が支給されていることを検証している。だが、ことこの問題についてはそんな面倒くさい議論は不要に思える。
 公人であるか私人であるかは、彼・彼女の活動に公費が負担されているかどうかというより、その人物の社会的・政治的な性格によって決定される事柄だ。たとえば裁判が開廷して判事が入廷すると、検察官も弁護人も傍聴人も全員が起立して判事に一礼する。これは私人としての判事に一礼しているわけではなく、判事という公的性格のつよい職能に対して敬意をはらっているゆえに、おこなわれる所作である。
 また判事のような公務員ではなくとも、たとえば有名人や芸能人、文化人などは社会に対して一定の影響力があるわけで、その発言や著述は社会的責任という公的性をおびている。私だって、私の本を読んだ人によって認知された一人の物書き、探検家としての肩書でいろいろと発言し、著述するわけだから、その意味では公人だ。最初は私的行為だったかもしれない私の探検活動も、文章で表現し、それに読者がつき、探検家として社会的に認知されていく過程で、探検家としての私は必然的に公的な性格を帯びていく。公人であるということは社会に開かれた領域で一定の役割を担った状態にあることであり、本による表現活動の結果、私は探検家としての社会的立場を獲得し、探検家としてふるまうことを公的に望まれるようになっていく。もしかりに、北極でとある探検隊が大規模な遭難事故をひきおこしたら、恐らくいくつかのメディアは私にコメントを求めるだろう。だが、それは私人としての私――つまり、まんてんラーメンのギョーザが好きなプライベートな私――にコメントを求めているのではなく、公的に認知された作家・探検家としての私にコメントを求めているのだ。
 このように社会的にはるかに微小な存在である私でさえ公的な性格を帯びているというのに、首相夫人であるアッキーが私人であると言い繕うのは、誰がどう考えても無理がある。
 この国において首相は天皇につぐ公人であり、その妻の公的度も当然高い。しかもアッキーは選挙のときには応援演説するなど、従来の首相夫人と比べてもその公的立場をフルに活用してきた女性であり、このときは公人だったけど、このときは私人でした、などという恣意的な立場変更がゆるされるわけがない。森友学園にしてもアッキーに名誉校長就任を依頼したのは、彼が首相夫人であるからで、もし安倍が首相ではなくただのサラリーマンだったら彼女に名誉校長を打診するわけがない。いっぽうアッキーの側も名誉校長就任を受けたのは自分が首相夫人という立場にあること、その公的性格を理解しているからであり、彼女がただのサラリーマンの妻だったら「え、なんで私が名誉校長なの? PTA会長ならまだしも…」と狼狽するだけだろう。つまり、この名誉校長就任の背景には首相夫人という公的立場が決定的な役割を果たしているわけで、首相安倍が言う「妻は私人なんですよ」という発現は論理的に成りたたない。これほど公的立場を前提にしたやり取りが私的行為だというのなら、首相夫人という立場は完全に私人だということになり、首相夫人という立場が前提としている首相という存在そのものも私人だということになってしまう。
 最大の問題は、こんな幼稚園児でもわかる理屈を無視して「妻は私人なんですよ」と国会というこの国でもっとも公的な場で堂々と言ってのける安倍という男の、この態度だ。彼はどのような意図でこの発言を繰り出したのか。
 もしかしたら彼は公人と私人の区別がつかない考察や思想を完全に欠いた、ただの愚か者なのだろうか。その可能性はそれほど低くはなさそうだ。なにしろ安倍政権はずいぶん前から反知性主義だと叩かれてきたが、そのうちみんな「この連中は反知性主義とか、そういう主義に値する思想など何も持ち合わせていない、単なる無知性な集団なのではないか」とうたがうようになり、この方面からの批判が少なくなった経緯があるほどなのだ。森友学園の園児たちが「安倍首相がんばれー」とエールを送るのも、園児にさえ彼が知的に愚かに見えるからかもしれない。
 だが、やはり彼にしてもそこまで無知性ではないだろう。ないはずだと、反安倍である私としてはむしろそう思えてくる。おそらく彼は、アッキーが公人であることを理解しつつ、例によって政権の力をもって言葉の意味を捻じ曲げる所業に出たのではないか。首相夫人が公人であるか私人であるか、事実がどうかは関係ない。俺が私人だといえば、昭恵は私人なのだと、安倍はそう言いたいのだろう(そういえば、こういうジャンアンのような態度が反知性主義だと散々叩かれた原因であった)。
 この憶測を裏付けるように、さきほどまたネットを見たら、この問題について官房長官菅が公式見解が出したらく、アッキーの講演は「私的行為」だと説明したとのこと。安保法制も「憲法違反にはあたらない」と強弁しつづけたのとまったく同じ手口で、やっぱりねという感じだ。われわれ政権は言葉の意味の最終的な決定権さえにぎっているという彼らの態度にはあきれるほかない。言葉が通用しないのなら、いったい民主主義は何をもって権力と対峙することができるというのか。
 それにしても、政治活動を禁じる教育基本法を逸脱した違法性の高い学校法人との関係性を追及されて、色をなして逆ギレし、「レッテル貼りはやめましょう」みたいな中学生なみの貧相な言葉でしか反論できない、この恥ずかしい小人物を、われわれはいつまでトップにいだいていなければならないのだろう。日本の闇のほうが極夜より暗そうだ。極夜は少なくとも4カ月で太陽が昇る。

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テラー号発見のビックリポン

2016年09月18日 22時40分04秒 | 雑記
先日、ナショナルジオグラフィックのサイトで、フランクリン隊の沈没船テラー号が発見されたとのニュースが報じられた。
http://linkis.com/nikkeibp.co.jp/EfKjR
2014年に同じパークスカナダの調査隊が、フランクリン隊のもう一隻のエレバス号を発見したが、今回のテラー号発見は前回のエレバス号を十倍上回る驚きだった。

拙著『アグルーカの行方』を読んでいない不幸な方々のために説明すると、フランクリン隊とは19世紀に幻の北西航路を発見するためにカナダ北極圏にむかった英国の探検隊で、テラー号とエレバス号という軍艦2隻でむかった。しかし船はキングウイリアム島近辺で氷に前進をはばまれ、129人の男たちは全員、同島近辺で全滅。その後、イヌイットの証言を聞いた捜索隊が同島周辺で彼らの遺骨やメモを発見して遭難が判明したが、船も記録類ものこっていなかったので、彼らは遭難した理由は何もわからず、極地探検史上、最大の謎のひとつとされてきた。

パークスカナダは何年も前からこのフランクリン隊の沈没船を捜索をつづけ、2014年にエレバス号、今回、テラー号と二隻とも発見したというわけだ。ちなみに『アグルーカ』は私と荻田君がこのフランクリン隊の探検ルートをなぞるように1600キロの徒歩旅行をしたときの旅の記録で、われわれの冒険の模様とフランクリン隊の謎をからめるように仕立てたノンフィクションである(面白いので未読の人は読んでください)。

さて、今回のニュースで私が驚いたのはテラー号が見つかったテラー湾という場所だ。テラー湾というのはキングウイリアム島の南西部にある湾である(テラー湾という名称自体、テラー号にちなんで名づけられており、その時点でなにか宿命を感じる)。なぜこの場所が驚きかと言うと、まず、フランクリン隊の唯一にして最大の物証とされる副官クロージャーがのこしていたメモ内容との絡みである。

船が氷にはばまれて前進できなくなったフランクリン隊の男たちは船をその場にのこして島に上陸。フランクリン隊長はすでに死亡していたため、副官クロージャーは生き残った男たちを率いて南下を開始し、キングウイリアム島北部のビクトリー岬につぎのようなメモを残していた。

1848年4月25日付
テラー号とエレバス号は1846年9月12日以来氷に囲まれ、4月22日、ここより北北西24キロのところで放棄されることとなった。105人からなる士官と乗組員はF・R・M・クロージャー大佐の指揮のもと、ここ北緯69度37分42秒、西経98度41秒の地点に上陸した。(中略)ジョン・フランクリン卿は1847年6月11日に死亡した。この探検における死者数は今日までに士官が9人、乗組員が15人。
ジェームズ・フィッツジェームズ大佐 エレバス号
F・R・M・クロージャー大佐兼筆頭士官
明日26日より、バックのフィッシュ川を目指す。

このメモを手がかりにすると、フランクリン隊の二隻の船はメモのあったビクトリー岬より北北西24キロの海上に放棄されたことになる。しかし2014年に見つかったエレバス号も、今回のテラー号もビクトリー岬よりはるかに南の海上で見つかっている。

ただ、前回のエレバス号発見のときは、ある程度予想通りだった。というのも、当時のイヌイットの証言のなかには、フランクリン隊の船の一隻がキングウイリアム島の南のオーレイリー諸島まで流れ着き、その船から北米大陸に隊員の足跡がのびていたという話がのこっていたからだ。つまりビクトリー岬に上陸した男たちのなかには船に戻った男がいて、彼らはオーレイリー諸島付近まで一隻の船を操縦して、そこで船を捨てたらしいと考えられていたわけだ。イヌイットの口承のなかにはこの船に乗り込んだ話も伝わっていて、船内には足の大きな男の遺体や缶詰などが残されていたという。また船はイヌイットたちが金属や木材を入手するため穴を開け、沈没させてしまったとも伝えられている。そして、これらイヌイットの口承を裏付けるように、2014年、エレバス号がこのオーレイリー諸島付近で見つかった。

しかし今回、テラー号もまたビクトリー岬よりはるかに南のテラー湾で発見された。これはどう解釈したらいいのだろう。確実なのは隊員たちはテラー号にも再乗船して、テラー湾まで船を運んできたということだ。だとすると、ビクトリー岬のメモに書かれていた、二隻とも氷に囲まれたので船を捨ててバックのフィッシュ川(これは現在の北米大陸をながれるバック川のこと)との行動計画は取りやめになり、全員で船にもどって何か別の行動を起こしていたということになる。だとすると今回の発見の意味は重大だ。これまでフランクリン隊に遭難に関しては、このビクトリー岬のメモがにもとづいて推理がなされ、物語がつむがれてきた。しかし今回のテラー号発見でその前提が崩れたことになり、史実が書き換えられることになりそうだ。

今回テラー号が発見されたテラー湾というのは、じつは大規模なカニバリズムがあった場所でもある。フランクリン隊はテラー湾に大規模なキャンプ地をつくっていたようで、彼らの遭難後に訪れたイヌイットのよって隊員たちの切断された手足や骨が発見された地でもあるのだ。

いったいどういうことだろう? クロージャー率いる生き残った男たちは、ビクトリー岬から船に再乗船してキングウイリアム島を西から回りこみ、エレバス号はオーレイリー諸島に流れ着き、もう一隻のテラー号はキングウイリアム島と北米大陸の間の海峡に入りこんだ。そしてテラー湾で停泊してキャンプ地を設けたが、その場で何人もの隊員が死亡し、飢えた男たちが遺体に手をつけたということだろうか。あるいはメモが残された1848年は結局、島に残ってテラー湾で越冬し、その最中に多くの隊員が死んだということだろうか?

さらにこの記事なかで最大の驚きは、テラー号のマストがテラー湾の海の中から突きだしたままになっていたという話だ。はっきり言ってマジかよ、という思いだ。しかも調査に訪れた考古学者はわずか二時間でマストを発見したとも書かれている。160年以上にわたってマストが突き出たままだったというのは本当なのだろうか。イヌイットの口承にはカニバリズムについての詳細な証言は残っているものの、テラー湾に船が浮かんでいたという話は伝わっていない。またテラー湾は、彼らの遭難の後、フランクリン隊の捜索隊が何隊も訪れた場所だが、船についてはまったく発見されなかった。そしてそれ以上に私自身、2011年にアグルーカの旅をしたときにこのテラー湾のど真ん中を横切っているのだ。

もしかしたらどこかにマストが突きだしていたのを見逃していたのか? 世紀の大発見を逃した気分だ。







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重版しないかな~

2016年09月12日 09時18分06秒 | 雑記
中井にある「伊野尾書店」店長の伊野尾宏之さんが『漂流』のオリジナルポスターを作ってくれて、先日のラカグのイベントに持ってきてくれた。非常にうれしかったので昨日、家族でお店を訪問したが、残念ながら店長は不在。店員さんにあいさつして、せっかくなのでケヴィン・ケリーの『〈インターネット〉の次に来るもの』と『サピエンス全史』、あと子供の写真絵本を購入して帰宅した。ポスターはしっかりとお店に掲示されており、『漂流』も堂々と平積みされていた。ありがとうございます!

伊野尾さんはブログでも『漂流』のことを紹介してくれている。
http://inoo.cocolog-nifty.com/news/2016/09/post-6caf.html

冒頭、本の雑誌の杉江さんとこの本について語り合うシーンからはじまっており、二人とも「この本が売れなかったら、もうダメだ」という点で意見が一致したとの内容だ。『漂流』のことを非常に熱く書いてくださり、とても感激した。感激したのだが、しかし、この本ってそんなに売れなさそうな雰囲気を醸し出しているのだろうか……とも思ってしまった。

というか、出版社の営業担当と本屋の主人がそう言っているということは、すでに売れていないということなのだろうか……。

ほかにもツイッターでのつぶやきを見ていると、無明舎出版という秋田の出版社さんがこんな感想をかき込んでいて、やはりうれしかったが、やはり気にもなった。

〈久々に本格的ノンフィクション作品を読ませてもらって満腹感が残っている。これだけの長期取材をし、何度も沖縄や海外を訪ねていると、1900円のこの本が何冊売れれば元が取れるだろうか。〉

すでに赤字ライン前提で語られている感じである。この本、そんなに売れなさそうに見えるのだろうか? 

たしかに人の関心を引きそうなテーマではないうえ、文字のフォントも小さく、ぎっしりと詰まっており、430pもの厚さがある。それに私自身、読者の共感を誘うような書き方があまり好きではないので、この本の読後感も爽快なカタルシスを得られるようなものにはしていない(というか内容的に無理なのだが)。なので、売れるような本ではないと自覚していたが、しかし中身の深さには圧倒的な手応えがあったので、なんだかわけのわからないすごい本があるという評判が広がって、もしかしたら重版するかもという期待もあった。しかしこれら本を売る人たちの「面白いけど売れなさそ~」という率直なご意見をたまわっていると、やはり厳しいか……と感じてしまう。

この本で重版できなかったらショックだなぁ。そういえば重版って言葉、もう何年聞いていないだろうか……。最後に重版したのはアグルーカの文庫だったか、なんだったか。いや、アグルーカは単行本は重版したけど、文庫はしていないんだっけ? もう忘れてしまった。

追記 そういえば新潮社の波に掲載した小野正嗣さんとの対談がネットにアップされていた。『漂流』の狙いがよくわかるので、ぜひご一読を。
http://www.shincho-live.jp/ebook/nami/2016/09/201609_14.php

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惜別千代の富士

2016年08月02日 07時56分59秒 | 雑記
千代の富士が亡くなった。大鵬や北の湖がなくなったときはさほど思うところもなかったが、千代の富士はわたしが小さい頃に相撲をみはじめたときの大横綱だったから、ちょっとしんみりするものがある。

もともと一番力をもったもの、もっとも強いものに生来嫌悪感をかんじる傾向のあるわたしは、小さい頃から巨人と自民党と千代の富士が大嫌いだった。今となっては野球に関心がなくなったので巨人はどうでもいい。自民党にかんしては今でも、世界で一番嫌いな人間が安倍晋三で二番目が高村正彦で三番目が麻生太郎というぐらい大嫌いな組織で、自民党の独裁傾向、および自民党の独裁傾向にさして抵抗を示すことなく流されゆく人々の腰砕け的傾向にたいしては、私なりのやり方で(誰にも気づかれないやり方で)別の価値観を提示したいと思っている(冒険とはじつはきわめて政治的営為なのだ)。しかし千代の富士は個人でつよくなった人物だけに(昔から八百長疑惑を囁かれた力士ではあったが、それもふくめて)巨人と自民党とはまったく別の敬意をおぼえる。

わたしが相撲をみはじめたのはたしか小学校一、二年で、そのときは北の湖がすでに晩年にはいっておりほとんど優勝争いに絡むことがなくなっていた。二代目若乃花の記憶はない。千代の富士はちょうど横綱にかけあがりこれから全盛期という時期で、彼に真っ向勝負で勝てるのは横綱隆の里(稀勢の里の師匠)だけだった。ウルフとよばれた千代の富士とポパイとよばれた隆の里ががっぷりよつに組み、怪力でまさる隆の里がつりあげて土俵の外にはこびだす姿をみて、幼いながら権力をうちやぶるのにちかい爽快感にひたったものだった。

かんがえてみると北の湖もいないし、隆の里もすでに鬼籍にはいっている。あの頃、大関で私が応援していた北天佑もだいぶ前になくなったし、生き残っているのは琴風と若島津と朝潮だけか。そのあと、双羽黒(プロレスラーになった北尾)や北勝海(千代の富士の弟弟子で現理事長の八角親方)や大乃国(ガチンコとスイーツ好きで知られる力士)が横綱になり、小錦が大関になり、旭富士や霧島がつづくのだが、あの頃の相撲は今とちがって動きがはげしくて本当に面白かった。今の相撲はデブとデブがぶつかり合って転びあうスポーツにしかみえなくなった。

力士は寿命が短い。酒の飲みすぎだろうか。

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おちんちん

2015年12月18日 15時41分30秒 | 雑記
父親と娘とのあいだに築かれる関係は基本的にセクシャルな感覚にもとづくものである。自分に娘ができて、彼女のことを観察するうちに私はいくつかの発見をしたが、これもそのうちのひとつだった。私が自分の娘にのぞむことは、美しい女になってほしいということである。ゴリラの研究者になってアフリカの森で野外活動をしてほしいが、それはまず、美しい女になるということが前提にある。ゴリラの研究者になるならジェーン・グドールみたいにならないと意味がない。ジェーン・グドールはチンパンジーだけど、でも娘には不細工なゴリラの研究者にはならないでほしい。なぜなら不細工なゴリラの研究者はゴリラに間違われる可能性があるからだ。いやちがう。そうではない。私の娘のお尻には黒いあざがあり、私は娘が四歳になったらそれをレーザー手術で取り除いてあげたいと思う。だが、それはたぶん初めてセックスする男がそのあざを見て、私の娘に対して少し幻滅をいだくだろうからであり、私はそのわずかな幻滅を、私の娘とはじめてセックスする男から取り除いてあげたいのである。そんなセクシャルな感覚が、すべての父と娘との関係の根底にはながれている。

グリーンランドに出発する前、娘は一歳になったばかりで言葉もほとんど話すことができなかった。そのとき、お風呂に入れるのは私の役目だったが、娘は私のおちんちんを見ては、その存在に気がつかないふりをしていた。見てはならないもの、気まずいものを見たような顔をしていた。何かが目の前にあるが、それを口にしてはいけないという配慮が、彼女の意識には働いていた。当然だが、娘は私以外の男の裸をまだ見たことがなかった。このときはまだ、児童館のお友達のおちんちんも見たことがなかったろうから、私のおちんちん以外に、生き物のグロテスクさを露出させる肉体器官を目にする機会はなかったのである。そのグロテスクさにまだ一歳三カ月だった娘は敏感にタブーの存在をかぎとっていた。彼女が人類普遍の禁忌に触れた最初の瞬間である。

ところがグリーンランドから帰国すると事情は変わっていた。帰国後はじめてお風呂にはいっていたとき、すでにかなり発語の能力が高まっていた彼女は、私の、すっかり忘れていたおちんちんを見て、「おとうちゃん、これ、何?」と訊ねてきた。私はどぎまぎした。生まれてこのかた、自分の性器を指さされて、これ何? と訊かれたことはなかったのだ。不用意に情けなくぶら下がっている私の性器。その質問は私の存在そのものに疑問をなげかけているに等しかった。

これ何? このグロテスクな肉組織は何? このグロテスクな肉組織をあなたは何のためにぶら下げているの? これ必要なの? あなたは何のために生きているの? 

私は自我が根本から揺らぐのをかんじた。「おちんちんじゃないかぁー」と答えをはぐらかすよりほかなかった。同時に彼女はすでに比較対象物を得ていて、私のおちんちんに異質な何かを感じとったのだろうか、と思った。すでに禁忌に慣れ始めていたのだろうか。彼女は友人のしんちゃんのおちんちんをすでに見ているので、そのしんちゃんのおちんちんと私のおちんちんの形状と印象に断絶があるのを察知し、ついそうした無遠慮な質問に及んだというのだろうか……。

私の答えに納得したのか、それ以来、彼女は私の性器に特に疑問をもった様子はみせなかった。ところが昨日、彼女は、私の性器が周囲の空間から浮いていること、表面の皺とか黒光りしている感じがあまりに生々しく、お風呂のすべすべとした空間にうまく溶け込んでおらず突出して不自然であることに改めて疑問をもったらしく、突然、まじまじと見つめた後、おもむろに人差し指で指さして、きわめて斬新な指摘をした。

「おとうちゃん、おちんちん、痛そうだね」

おお! どうやら娘の目にはずっと私のおちんちんは痛そうなものにとして映っていたようである。包皮からズルムケになり内部の肉組織があられもなく露出した私の海綿体は、赤く、紫がかっていて、外界の刺激から保護する殻や膜におおわれておらず、とても敏感そうに見えたようなのだ。空気に触れるだけで身悶えしてしまいそうなほどに……。

「いたくないよ、どちらかといえば気持ちがいいんだよ」

とは、もちろん言わなかった。私は娘の言葉のみずみずしさと感受性の豊かさにすこし満足した。さらに娘はこう付け加えた。

「おとうちゃん、おちんちん、小さいね」

こうして彼女は私の性器の小ささを指摘した女性の最年少記録を更新した。

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元少年Aはありえない

2015年06月20日 09時48分03秒 | 雑記
本日、シオラパルク上空は厚い雲におおわれ、予定されていたカナックからのヘリコプター便は明日に延期。カヤック旅のパートナー山口君の来村も一日延びた。村人が嘆くほど、今年のシオラパルクは曇りの日が多い。こっちのヘリや飛行機は視界がないとすぐに欠航するので心配していたが、案の定、飛ばなかった。早く出発したくてうずうずしているので、ちょっと落胆した。干し肉も充分な量ができあがり、アッパリアス猟も終わりにしたので、今日は大家の息子の誕生日を祝ってカレーを作ったり、犬の散歩ついでに村の裏にある標高900mほどの山にのぼりにいったりして過ごした。

さて、ネットでニュースを読んでいて気になる記事があった。神戸連続児童殺傷事件の加害者の男が事件についてまとめた手記『絶歌』が太田出版から出され、それがベストセラーになり、波紋を広げているというニュースである。版元の言い分としては、事件は社会性が高く、出版する意義があるとのことだが、一方、遺族は精神的苦痛が甚だしく、二次被害を被ったとして、版元に対して回収を求める申込書を送ったという。版元に対しては、不謹慎ではないかという抗議が殺到しており、図書館も対応に苦慮しているという記事だ。

もちろん私は本書を読んでいないし、また、この記事にも著者がどこまで事件のことに踏みこんでいるのか書いてない。要するにどんな本なのかまったく知らないのだが、しかし内容以前に、この本に対してはつよい疑問を感じる。TBSラジオ「たまむすび」でコラムニストの小田嶋隆さんも指摘していたが、なぜ加害者の男と版元の太田出版は著者名を元少年Aなどという匿名のまま出版することにしたのだろう。本を出して自らの意見を公にし表現したいのなら、実名で顔を晒すのが当たり前ではないだろうか。

当たり前だが、表現や言論をおこなう場合、自分がどのような人間であるかを公表することが最低限の条件。匿名の表現、言論というのはありえない。そしてこの場合、公表するというのは、身体的に個人を識別できる記号としての顔を晒し、かつ実名かそれに準ずる筆名など、社会活動を実践する単位として実質的な意味のある個人名を明らかにするということである。

当事者が何者か分からないままなされた言論や表現は実体がなく、意味のないものになってしまう。なぜなら、表現者は表現した内容に対して批評をうける責任があり、匿名による表現は外部からの批評を不可能にするからだ。たとえば匿名で誰かのことを批判しても、批判されたほうは相手が匿名だと反論のしようがない。要するに匿名での批判は物陰に隠れて相手に石をぶつけてサッと隠れるのと同じであり、自分だけが安全な立場にいて好き勝手やるという非常に卑怯な行為なのである。私はネット上で匿名でいい気になって好きなことを書いている人を基本的に軽蔑している(もちろん個人の日記ブログのようなものは別ですが。具体的に言うとアマゾンのレビューのような類です)。しかし軽蔑しても、軽蔑した相手が空気のような存在なので、私の軽蔑の念は感触をともなわず、のれんに腕押しみたいになる。これが匿名性の問題の本質だ(これに反して安倍晋三のような人物を軽蔑したときは、軽蔑しきったぞという充実感が伴う。そう考えると彼も、世の中の多くの軽蔑を全身で受け止めることで、最大の実名人たる首相としての役割を全うしているということはいえる)。

この本の出版に関しても、表現の自由云々ということが言われているようだが、表現の自由を主張したいのなら、自由の権利を行使する代償として自らが何者であるかを明かすのが著者の責任である。事件当時は十四歳の少年であり匿名で許される存在だったのかもしれないが、現在は32歳の大人なのだから、現在の彼が当時の行為を振り返り、現在の立場から何かを社会に問いたいのなら、その現在の自分を社会に晒さなければならないのは当たり前の話だ。書かれた人たちは実名で、書いた自分は匿名というのでは、書いた責任が取れない。いつまでも透明な存在でいたいのなら、本なんか出版すべきではない。

面倒くさい摩擦だとかトラブルを避けるために、何でも匿名でやることが当たり前の風潮になってきているが、自分を個人として確立させたいのなら、まず名を名乗り、自分を社会のなかに位置づけるのが最低限の作法である。そんな当たり前のこともおざなりにされて、しかもこんな社会的影響の強い本が出版されるなんて、世の中どうかしているとしか思えない。



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報道ステーションのアンケート結果

2015年06月17日 10時04分07秒 | 雑記
先日の記事で少し触れました報道ステーションの憲法学者に対するアンケートの最終結果が出たと知り合いからメールいただきました。テレビ朝日のホームページによると、回答を寄せた151人のうち、今回の安保法案が憲法に違反しないとした人数はわずか3人だったとのことです(憲法に違反するが127人、違反の疑いがあるが19人、回答なし2人)。

詳しい内容は以下のホームページで確認してください。
http://www.tv-asahi.co.jp/hst/info/enquete/

これをみても、今度の法案が違憲か合憲かという論争にはほとんどかたがついているように感じられます。あとは政府自民党が恥も外聞もなく、違憲であることが極めて濃厚であることを認識しつつも、自分勝手な解釈を強引に押し通して強行採決に踏み切るかどうかが今後の焦点になるのでしょう。

アンケートの回答のなかに「今ほど憲法学説、憲法学者が軽んじられ、無視されたことはないように思える」と書いた学者がいたそうですが、それはわれわれ一般市民にもあてはまることだと思います。かつてこれほどまでに国民一人一人が政府首脳、あるいは与党幹部からバカにされ、なめられたことがあったでしょうか。国民との間の合意である憲法を、自分たちが進めたい政策に都合が悪いからといって勝手に解釈を変更しようという態度は、合意相手であるわれわれ国民を軽んじ、無視しているとしか言いようがありません。

とりわけ代表者たる首相安倍晋三の言動や態度は、その最たるものでしょう。前回衆院選でアベノミクスのみを争点に掲げておきながら、多数の議席を獲得した途端、開き直ったかのようにそこではじめて本音をだして、国民の支持を得たといって安保政策を進めようとするその態度。経済政策というニンジンさえぶら下げておけば、憲法をないがしろにしたところで、バカな国民から大きな反発は起きないだろうという本心が透けて見えるようです。その卑劣で姑息な政治手法や、さらには国会における野党議員に対する野次や人を小ばかにしたような嫌味な言動をみるかぎり、このきわめて度量の小さな人物は、やはりもともと首相の器ではなかったようです(思い出してみると、この人は第一次政権のときに真っ青な顔で突然、政権を放り投げて、国民を唖然とさせ、こいつはもうダメだなと思わせたものでした)。

今回の法案でも現実的にはホルムズ海峡の機雷除去だけが目的だ、みたいなことを言っているようですが、その本質的に卑怯な心性を鑑みると、法案が成立した途端、てのひらを返したかのように、法の適用範囲をほかの軍事作戦にも拡大させる恐れは十分にあります。すくなくとも、過去の言動を顧みると、そのような恐れがあると考えざるを得ません。要するにこの人からは、とりあえず法案が実現するまでは国民をだましておいて適当に本音は隠しておこうという手法が見え見えで、全然、言葉が信用できないのです。

これほど分かりやすく丁寧に国民をバカにしているにもかかわらず、相変わらず支持率がさほど低下しないのは、いったいどういうわけでしょう。

本音をいうと、私はこの法案の内容云々の以前に、つまり法案が通ったら日本は戦争加担国になるとか、自衛隊員に死者が出るとか、平和じゃなくなるとか、法的安定性が失われるとか、そういう問題以前に、自分のことがバカにされている気がして、それが非常に腹が立つのです。虫唾が走るとはまさにこのことです。もしかしたら私の立腹のポイントはちょっとずれているのかもしれませんが、とにかく反対の声はあげるべきでしょう。一人一人が声を出さないと政権の横暴は止まりません。


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ショック。リブロ閉店

2015年05月31日 21時14分56秒 | 雑記
五月中旬からアッパリアスという小さな水鳥が近辺に訪れるようになった。シオラパルクの人たちはアッパリアスが大好物で、夏のあいだはこればっかり食べているという。取り方は簡単なようで奥が深い。鳥の集まる岩場に行って、岩陰に隠れて、長柄の先につけた網で取るのである。時間があると皆いそいそと出かけて、アッパリアスを取りに行っている。私も何度なく挑戦しているが、これが難しい。地元の人は一度に100羽、200羽と簡単に取るが、私はこれまで最高が15羽。一桁ちがう。

今日も天気がいいので、今からアッパリアスを取りにでかけるつもりだ。うーん、アッパリアスな日々……。

とまあ、あんまりそのことを書くと、ナショジオなどで書くことがなくなるので、これぐらいにしておく。

ところで今、ネットでニュースを見てリブロの池袋本店が閉店するということを知り、びっくりした。非常にショックである。リブロは私にとっては一番身近な本屋だった。なにしろ、家は西武池袋沿線なので、電車で出かけるときは絶対に池袋を経由する。自宅にもどるときに、ひとまずリブロに立ち寄り、新刊コーナーをのぞいて、そのあとノンフィクションコーナーで自分の本の扱いに釈然としないものを感じ、人文書コーナーを眺めながら西武池袋駅南口に抜けてそこから帰宅というのが私の移動ルートだった。

これから本屋に行こうと思ったら、ジュンク堂に行かなければならないのか……。ジュンク堂は日常的に使う本屋としてはデカすぎるし、ほんのちょっとだけど駅から歩かなければならないのが面倒だ。駅構内とつながり、面積的にも手ごろ、かつ(私の本の扱いをのぞいて)面陳的にもセンスがよかったリブロは非常にありがたい存在だった。

リブロが潰れるとは、日本の出版界はいったいどうなってしまうのだろう……。もちろんそんな暗然とした思いもあるが、それよりも習慣化された日常の一部が破壊されてしまったことがショックの原因だろう。西武線沿線に住んでいる意味が半分ぐらいなくなった気分だ。

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現代ビジネスの記事と、翼賛体制構築に反抗する声明

2015年02月10日 11時37分33秒 | 雑記
ウェブ現代ビジネスで、先日のイスラム国問題にみられる自己責任論と安倍政権の過失について論じました。

http://gendai.ismedia.jp/articles/-/42018

これまで政治的な問題に関しては、自分の専門でもないし領分でもないと思っていたので、家で文句をいうぐらいで、あまり表立っては発言してきませんでしたが、最近の安倍政権の横暴にはさすがに我慢ならなくなり、たまたま執筆依頼があったので個人的な不満を公表しました。

安倍政権にも腹が立ちますが、非常に危惧されるのは、メディアの政権批判の力が近年急速に弱まっていることです。

現代ビジネスの原稿で詳しく触れていますが、「イスラム国」の問題に関連すると、安倍首相がイスラエルで二億ドルの支援金を拠出するとした発表のタイミングは結果的にはかなり問題があったと思われます。にもかかわらず、このことに関して、少なくとも私が購読している朝日新聞はほとんど追及の矛先を向けていませんし、ほかのメディアも似たり寄ったりな状況だと思います。また「イスラム国」問題がらみでいうと、参院予算委員会で安倍首相や岸田外相が、特定秘密保護法をたてに情報集活動で公表できないこともあると思われるとの旨の答弁しました。早速、昨年問題になった特定秘密保護法をたてに、事実の隠蔽と責任逃れをはかろうとしているわけですが、どういうことかメディアはこの発言も大きく問題にしませんでした。

直近では外務省がシリアへ渡航を計画したフリージャーナリストにたいし、警察を同行して逮捕をちらつかせて、ほとんど恫喝まがいの手法で旅券の返納を命じました。これも大変な人権侵害であり、本来ならメディアがキャンペーンを組んで追求すべき大問題であるにもかかわらず、ストレートニュースでさらっと流してしまいました。また憲法改正問題についても、安倍首相は緊急時に個人の権利や自由を束縛する条項を設けることを公然と口にしていますが、こんな治安維持法まがいのあぶない提案をメディアはまったく問題視しないのです。

あきらかに安倍政権は「イスラム国」の問題に便乗し、戦前回帰的な強権的かつ独裁的な政治体制を構築しようと策動しているようですが、メディアは全体の空気をおもんぱかり、勝手に批判の矛先を鈍らせて報道を自粛しています。まったく一体、七十年前の戦争の反省は何だったのか思わざるを得ません。新聞をはじめとしたメディアは大本営発表ばかり報道して翼賛体制の一翼をになった結果、戦争を推進する機関に堕し、そのことの反省から戦後ジャーナリズムは始まったはずです。そして新聞はことあるごとに当時の反省を持ち出し、二度と同じ過ちを繰り返さないと宣言してきたにもかかわらず、彼らは今、同じ過ちを繰り返そうとしているのです。昨今の報道姿勢をみていると、結局、新聞が言ってきたのは口先だけだったのだなと判断せざるを得ないものがあり、はっきりいって脱力感すらあります。

そんな思いでいたところに、今日の新聞でジャーナリストや表現者が署名し、翼賛体制構築に反抗するという「声明」を発表したとの記事を読みました。声明を読み、私もさっそく署名しました。もし賛同される方がいたら、署名をお願いいたします。以下のサイトになります。

http://ref-info.com/hanyokusan/


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