ホトケの顔も三度まで

ノンフィクション作家、探検家角幡唯介のブログ

インドビザ

2009年05月27日 13時57分10秒 | 雑記
 旅行でインドにも立ち寄るかもしれないのでビザをとりに出かけた。インドビザの申請は午前9時から同11時の間に申請すると、その日の夕方に下りるらしい。大使館の場所は九段から麹町に移ったらしく、いつもより1時間ほど早起きして、せんべえで有名な埼玉県東部の自宅からチャリンコをかっとばして麹町を目指した。

 10時半、麹町の大使館に到着。早起きした甲斐があった。しかし、ビザの窓口らしき入口にはブラインドが半分下りていて、業務を行っている気配ではない。なぜだろう? 休館日なのか? 携帯でネット検索すると、インドのシェフだかのブログのメニュー項目に、インドビザは2007年から民間代行している旨が記されており、その先に九段南の住所が書いてある。

 うおー、時間がない。このままだとまた明日も早起きしなくてはいけなくなる! 急いでチャリンコにまたがり、九段南に向かってバカこぎ。10時50分到着。しかし、それっぽい建物がない。どこだ……? 焦って、またグーグルでインドシェフのブログを今度はきちんとクリックして開くと、九段南は昔の大使館の住所で、ビザの民間代行業者の住所は茗荷谷……。

 茗荷谷ってどこだっけ? 地図で調べると九段下で曲がって飯田橋から大曲の方に行って、どっかで右折して、あー、複雑じゃないか! この時点で気持ちが切れた。一応、茗荷谷向かったが、何度も地図を見たので、飯田橋でタイムアップ。茗荷谷到着は11時11分で、しかも、どのビルなのかは分からなかった。途中でつけ麺食って、0時半ごろ、自宅に帰ってきた。いやー、さわやかな午前のひと時だった。明日も早起きして茗荷谷に行こうっと。

 それしても、インド大使館。建物を移動させたり、ビザを民間代行させたり、目まぐるく変化している割には、ホームページには「現在このページは作成中です。申し訳ございませんが、もうしばらくお待ちください」としか書いてない。申し訳ございますぎるぞ。どこでビザをとったらいいかぐらいは載せて欲しい。

コロンブスそっくりそのまま航海記

2009年05月15日 12時17分54秒 | 書籍
 マラリアの薬を買いに行った時に立ち寄った八重洲ブックセンターで、ロバート・F・マークス「コロンブスそっくりそのまま航海記」(朝日新聞出版)を見つけ、購入。

 著者が1962年に、コロンブスの当時の航海をそのまま再現して大西洋を横断したときの冒険の物語である。コロンブスが乗っていた当時の船や航路を再現(実際のコロンブスの船よりかなり小ぶりだったようだが)しようとしたのは当たり前だが、笑えるのは船内に持ち込んだ細かい装備や食料まで当時のものにこだわったことだ。

 《この(食料)リストで一番困った品物はビスケットだった。コロンブス時代のビスケットはいったいどのようなものだったのか?》
 
 フランス人ミシェルが乗員になりたいと希望してきた時には、
 《ミシェルにもひとつだけ難点があった。国籍である。そもそもわたしがアメリカ人であることがすでに話題になっていた。(中略)乗組員は全員スペイン人でなければならないのだ》

 もちろん、そこまで厳密なこだわりは航海中に次第になし崩しになり、最後は様子を見にきた米軍機から水や食料の配給を時々受けて、なんとかスペインからアメリカまで到達した。しかし、面白いのは間違いない。装丁もかっこいいので、本は本棚に飾っておくだけという人にもお勧めだ。

 コロンブス関係ならギャビン・メンジーズ「1421」(ソニー・マガジンズ)も面白い。アメリカ大陸を発見したのは実はコロンブスではなく、中国・明の鄭和艦隊が先に到達していたことを、英国海軍の艦長だった著者が豊富な航海の経験と様々な史料から実証したノンフィクションである。



   ☆   ☆

 ところで今日、朝起きて、いつものようにコーヒーを飲もうと思ったら、間違って焼酎をコップについでいた。うーん、習慣というのは恐ろしい。なんだか生活と自分の内面が徐々に崩れてきているようでぞっとした。
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マラリア予防薬

2009年05月11日 19時53分47秒 | 雑記
 6月に某国某地域に行くため、今日、自転車をかっとばし、都心の病院でマラリアの薬を処方してもらった。診察室に呼ばれると、ちょっと小太りで頭が整髪料でべたべたで、蝶ネクタイの似合いそうなちょびひげの先生が座っていた。

 「あのー、某国某地域に行くんで、一応、予防薬が欲しいですが」 
 「いやー、マラリアは危ないよ、死ぬからね」とこの医師はにこにこしながら言った後、「えーと、その地域は……」とつぶやきながらパソコンの画面で英語のサイトを確認し始めた。
 「あ、クロロキン耐性蚊が現れ始めているから、メフロキンのほうがいいですね。フフフ……」
 「以前、マラリアにかかったことがあるんです。インドネシアに行った時」
 「え、どこ? パプア?」と先生はいたく興味をそそられたのか、がぜん身を乗り出してきた。
 「はい、そうですが」
 「え、そうなの。それ君、すごいラッキーだよ。よく生きてたねえ。マラリアには4種類あります。ひとつは……」
 「僕は場合は三日熱マラリアです」
 「本当? それは不幸中の幸いだ。パプアのマラリアは最強最悪で90パーセントが熱帯熱マラリアと言われています。かかったら大体死ぬか、脳に障害を負うか。君の場合はラッキーな方の10パーセントだったんだ」

 本当かよ。現地でマラリアにかかった人をたくさん見かけたけど、みんな三日熱マラリアだったぞ。いずれにしても、この先生、マラリアのキャリアに出会ったのが大そう楽しかったのか、にこにこしながら対処法を教えてくれた。

 「パプアでは予防薬飲まなかったの?」
 「飲みましたよ、メフロキン」
 「え、メフロキン飲んでてかかったの? それは珍しい。これまでメフロキンの耐性蚊にやられた人は二人確認されているけど、君の言っていることが本当なら学会で発表ものだ」

 学会は勘弁して下さい。先生のおしゃべりはとどまることを知らず、僕は疲れてきて早く帰りたくなったので、「すいません、飲んでいたのはキニーネかもしれません」とごまかして、メフロキンを5錠もらって逃げ帰ってきた。1錠1600円。相変わらず高い。なるべく使わずとっておこう。

 以前、このブログでマラリアの予防薬は政府が認可していないと書いたが、どうやら2001年に厚生労働省はメフロキンは認可したようである。知らなかった。どうりでいろんな病院で処方していると思った。ここに謹んで訂正いたします。

 なお、マラリアを始めたとした殺人熱帯病に興味のある方は、日経BPから「殺人病ファイル」という本が出ているのでお勧め。これを読むと絶対に無菌国家日本から外に出て行きたくなくなる。アフリカやニューギニアなどでは絶対に読んではいけない本である。



 
 
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チャンドラー

2009年05月09日 09時45分00秒 | 書籍
 最近、書店には村上春樹訳のレイモンド・チャンドラー「さよなら、愛しい人」が平積みになっている。それを見て、何年か前に発行された「ロング・グッドバイ」をまだ読んでいないことを思い出した。

 チャンドラーは学生の頃大好きで、清水俊二訳の早川文庫版は全部(だったかな?)読んでいた。村上訳の「ロング・グッドバイ」は、初版で買ったのはいいものの、やたら分厚くそのまま読まずに放置していたのだ。

 改めて読んでみるとめちゃくちゃ面白い。原稿用紙で軽く千枚は超えそうなボリュームだが一気に読み終えた。そのまま「さよなら、愛しい人」も購入したが、「ロング・グッドバイ」の方が断然いい。情景描写や話の筋とはまったく関係のないうんちくも、チャンドラー独特の突き放したような言い回しが魅力的で飽きない。あとがきによると、清水訳の「長いお別れ」はかなり細部を省いているらしい。

 いやー、読んでよかった。ひま人でよかった。

 そういえば、昔「長いお別れ」を読んでフィリップ・マーロウにあこがれた僕は、就職してお金に余裕ができて初めてバーに行った時、満を持してギムレットを頼んだ。初めてのバーはギムレットを飲むと決めていたのだ(チャンドラー風)。でも、ジンの苦味が強烈で気持ち悪くなり、悪酔いしてバーのトイレで吐いてしまった。それ以来、二度とギムレットだけは飲むまいと決めている。

 チャンドラーの話でも書いとけば、下品だというブログの印象を薄くできるかと思ったが、最後はまた下品な話になってしまった。おかしいな。

アラサ―のささやかな悩み

2009年05月09日 02時28分47秒 | 雑記
 このブログにもたびたび登場する探検部後輩○中が、実は本ブログの定期読者らしく、先日城山に行った際、感想をさりげなく聞いてみた。

 「うーん、下品ですよね、文章が」

 そうなのか? 自分ではまったく気がつかなかった。どちらかというと抑制していたほうだ。

 確かに読み返してみると、ウンコの話がちょくちょく出てくる。マラリアの副作用でウンコをもらして子供を産んだ(産んではいない、産ませただな)探検部先輩K(しまった、イニシャルを明かしてしまった。すいません、NKさん!)、早川荘の便所の話、あと他にもなんかあった気がする。チンコケースも下品かもしれない、写真つきだし。

 でも、僕は思うのだ、しかし、と。

 人間、こうした下品系の話って、決してみんな嫌いではない分野なのではないか。女性はどうなのか知らないが、男が集まるとワイ談をするのは古来からの揺るがぬしきたりだ。

 自慢じゃないが、僕は社会の木鐸たる新聞記者時代、ストレートなシモ事件系の特集的な記事を二度ほど書いたことがある。もちろん、社会性があるという前提にたって書いた記事だったが、心の中では「朝日はこのシモ系の記事を果たして紙面化することができるのかな」という社内挑戦的な意味合いも個人的にはあった。結果は1本は没、1本はめでたく紙面化されたが、その記事のせいで某警察署の署長から「君の顔は見たくない」と言われ、ちょっとした地方の特ダネ記者になることを断念せざるを得なかった。そんなものになりたいと思ったこともないが。

 小さい頃の記憶がよみがえる。小学生の頃、母親に言われたことがあった。「この子はいつになったらウンコとオチンチンの話をしなくなるのかしら」と。

 おかあさん、すみません。僕は30歳をすぎてもその手の話が大好きのようですし、社会に垂れ流すことを止められないようです。しかも実名で。おとうさん、すみません、こんなぼくはたぶん一生結婚できないでしょう。

 ああ、酔っ払ってまた余計なことを書いてしまった。この記事は明日の昼に削除しよう。
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氷瀑

2009年05月08日 09時16分39秒 | クライミング
 滝谷第四尾根を登った時、ひだり側の壁にすごい氷瀑がかかっていた。超かっこいい。登山体系で見てみると「C沢右股奥壁」らしい。

 左の氷瀑は雲表ルートかな。だれかこれ、登ってるのだろうか。
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さよなら早川荘

2009年05月05日 21時01分54秒 | 雑記
 滝谷から帰って来ると、探検部の友人S(チームアバランチのSとは別人)から、こんなメールが届いていた。少々、長いのだが引用する。

《久々に早稲田に行ったら早川荘がなくなっていた。ショック。建物跡の空き地には雑草やら野花やらがたくさん生えていたからだいぶ前のことのようだ。最近、あらゆる記憶が曖昧で、せめて外形物にでも補強してもらいたかったのだが、早稲田通りから大学のキャンパスまで何から何まで変わっていて、最後に細い路地からみえるはずの早川荘が空き地になっていたあかつきには、当初のもくろみが見事外れ、いったい本当に自分がそこで生活していたのかすら分からなくなってしまった。しばし、野草を眺めながらへたりこむ。○○○ー(かくはた注:本ブログで明示するにはさし障りのある行為です)ばかりしていた二階のあの部屋は今はただの「空中」になっている。風景というのは容赦なく変わっていくものですね。「ひまつぶし」も「二十二坪」もない。精神的風景も物理的風景もそんなんだから、自分の出自や存在すらあやしんでしまう。時間とはつくづく恐ろしいと思う今日この頃。俺が今座っているこの仕事部屋も娘がすやすやと寝ている奥の部屋もいずれただの「空中」になってしまうんだろうな。あ、引っ越すときに書いて、屋根裏に隠したおいた「さよなら早川荘」の手紙はどこにいってしまったのだろう。恥ずかしいから回収したかったのだが。。。S》

 早川荘とは僕やSが学生時代に住んでいた早稲田のぼろアパートである。別に同棲していたわけではない。そのアパートがなくなってしまったらしく、大げさに嘆き悲しんでいるというメールである。

 数棟のぼろアパートが敷地内に所狭しと隣接しており、僕は学生館、Sは本館に住んでいた。本館といっても学生館よりきれいで立派なわけではなく、むしろ古い分だけ汚くてみすぼらしかった。

 確かに、青春時代の短くない期間(僕は7年間ほどだったろうか)を過ごしただけに、このアパートが取り壊されたというニュースは僕にとっても少しショックだった。

 4畳半一間で2万7千円。もちろん風呂なし。トイレとは呼べそうもない共同便所が別にあった。どんなからくりがあるのか知らないが、天井からぶら下がっている鎖を引っ張ると水がウンコを流してくれる、そんな便所だ。隣の部屋には「革命!」と叫ぶ小学教師兼劇団員Mがすんでいて、酔っぱらうと呼んでもいないのに全裸で部屋にやってきて、請うてもいないのにツバをあごの下までビローと伸ばして吸いもどす得意技を見せてくれた。ネズミが押し入れの中で子供を産んだこともあったし、大麻を栽培しているニコニコした眼鏡の学生もいた。アパートの前の通りを全裸の若い女性が走り去っていったこともあった(この女性の目的が何で、正体が誰なのかは未だに謎だし、この時、走って追っかけなかったことを僕は今でも後悔している)。とにかく裸になりたがるやつが多かった。いや、多すぎた。

 ミレニアムが騒がれていた頃、鉄筋コンクリート建てでオートロック仕掛け、噂によると家賃9万円という「ハヤカワコート1999」という、僕らからみると六本木ヒルズみたいな豪奢なマンションが敷地内に建てられ、そこに出入りするこぎれいな女子大生の尻を眺めながら、「け、ブルジョワが」と空しい啖呵をきるSの姿を、僕は彼からのメールを見てまざまざと思い出した。考えてみると早川荘は、今の日本の姿を暗示する格差社会の実験場だったのかもしれない。ああ、早川荘、某有名小説家も住んでいた早川荘。小説家は早川荘を出る時に年代物の冷蔵庫を敷地内のゴミ捨て場に捨てていき、彼の名前が書かれたその冷蔵庫は新聞社に就職する時に僕が拾って、それから5年間も使い続けた、そんな早川荘……。サヨナラ。

 そんなことを思っていたら、またSからメールが届いた。

《カクハタがいた建物はベニヤが打ち付けられてたけどまだ残ってたよ。》

 なんだよ、まだ、あるんじゃん。ベニヤってなんだよ、失礼だな。外壁と呼べ。

 今度、見に行くか。

滝谷第四尾根

2009年05月05日 20時21分19秒 | クライミング
 連休の前半に北穂高岳の滝谷第四尾根を登った。パートナーは先日不帰で一緒に雪崩に巻き込まれた探検部後輩のS。名づけて「チームアバランチ」、不吉である。

 4月29日は上高地から涸沢まで。本当は北穂高山頂まで登る予定だったが、途中の斜面で湿雪雪崩が発生し、涸沢まで下りてきた。数日前まで低気圧の影響で雪がかなり降ったらしく、それが高温でぐずぐずに腐っていたのだ。なにせチームアバランチである。用心に越したことはない。

 30日早朝に北穂高の松濤岩にテントを移動。第三尾根を登る予定でC沢を下るが、滝谷は二人とも初めてだったので、間違ってわけのわからない小さな尾根を登った。


 (第四尾根の取り付き)

 翌5月1日に第四尾根を登攀。取り付きからBカンテまで、雪と氷が不安定についていて意外と悪い。夏なら歩くだけのリッジも固い雪がナイフリッジ状になり、怖かった。しかし、途中から日があたり素手で登れた。核心のラスト2ピッチは西日に照らされ、ほかほかと温かく、むしろ一番楽なピッチとなった。

 岩は節理が発達しているのでカム1セットとピトンがあると残置を使わなくても登れる。ピトンはナイフブレードよりロストアローが有効。ナイフブレードだとリスの幅が広いので重ね打ちしないときかない。残置はツルムの肩に出るCカンテ最上部の凹角には連打されていた。最終ピッチの核心であるDカンテのハング状突起は高さ3メートルほど。取り付きとハングを乗っ越した上に残置があるが、その途中のクラックにカムをきめないとつらい。アイゼンだと厳しいので、ここはあぶみを使用した。

 とりあえず今回は雪崩にも遭わずチームアバランチは勝利をおさめ下山。懸案だった右ひざも、完全ではないが、とりあえず正常に作動した。しかし、北穂から上高地の下山はつらかった。膝よりもむしろ魚の目が……。イボコロリを買おう。

 連休後半は別の探検部後輩○中と伊豆城山でクライミング。3日間の予定だったが、雨のため1日で撤収。せっかくパンとかバナナとか宝焼酎とか、食料を買い込んだのに。もちろん、余った食料はもってきたが、バナナだけは○中のたっての希望で彼が家に持ち帰った。

バナナが大好きなようだ。