ホトケの顔も三度まで

ノンフィクション作家、探検家角幡唯介のブログ

高野さんと対談

2010年08月31日 21時22分03秒 | 雑記
探検部の先輩で辺境作家高野秀行さんと対談。集英社の冊子「青春と読書」の11月号(だったと思う)に掲載される。

同じ地球のどこかの辺境をうろつき何かを書くという点は共通しているが、高野さんとはテーマがじゃっかん異なるので、会話がかみあっていたかやや心配ではある。現地の人間関係や思わぬ出来事の渦の中に放り込まれて、カオス状態になるのが心地いいとおっしゃっていた。ぼくの場合、資料の読み込みや取材を徹底的に行い、ある程度プロットをたてて現地に行くので、そういう意味でも取材手法には大きな隔たりがある。

対談終了後も喫茶店でお茶をしている途中、携帯に思わぬ知らせが飛び込んでいた。高野さんの場合、たぶん旅先でもこういうネタになるハプニングが日々、起きているに違いない。これは生き方のセンスの違いなので、絶対にまねできない。

今回の「空白の五マイル」のゲラを事前に読んでいてくれたみたいで、ブログで非常にほめていただいた。やっぱり持つべきものは、先輩っす。



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頸椎MRI

2010年08月30日 11時04分53秒 | 雑記
GWに剱岳に行った時、左腕にひどい神経痛が走り、ひどい苦労した。それ以来、首のあたりにこりというか、寝違えた時の痛みを弱くしたような違和感が、ずっとある。腰に続き、ついに首も椎間板ヘルニアにかかったらしい。知り合いに聞くと、首のヘルニアは腰のヘルニアよりも注意が必要で、一度MRIをとって、原因を確定させたほうがいいといわれた。
たしかに腰のヘルニアが悪化しても歩行困難になるくらいだろうが、首のヘルニアは脳や知覚に障害が出そうなイメージがある。そう考えたら恐ろしくなり、まあ副賞で300万円もらえることだし、思い切ってMRIをとってもらった。

まずは豊島区長崎の自宅アパートから自転車で5分の小さな整形外科へ。待合室でおばあちゃんたちの腰痛自慢に耳を傾けながら1時間ほど待機。レントゲンをとり、池袋の病院を紹介してもらうのに約3千円。次に池袋メトロポリタンホテルの地下一階にある「メディカルスキャニング池袋」へ。女医から型どおりの問診を受けたあと、MRI撮影開始。撮影室は室温が低くひんやりしている。巨大な撮影機械の中に体を寝台ごと移され、グイーン、ゴゴゴと、すごい音が耳に響く。約8千円。

27日に結果が出ると聞いていたので、本日午前、再びアパートから自転車で五分の小さな整形外科に行った。眠たそうな目の医師がパソコンでMRI画像を見せてくれた。
「頸椎の五番、六番で神経が圧迫されてますね。まあヘルニアです」
そしてペラペラのA4紙にコピーされたメディカルスキャン池袋発行の「医療機関用報告書」を手渡された。
「この画像はもらえないんですか」
「病院に五年間、保管義務があるので……」
「なにか気をつけること、やった方が良いことはないですか」
「痛みがない限り、特にないですね」
370円なり。

結局1万2千円も出して、分かったことは、ヘルニアの発症ポイントが頸椎の五番と六番の間だということだけだった。分かってもできることはないらしい。マッケンジー体操をしたほうがいいとか、日本橋の枕専門店に行って、専用の抱き枕を購入した方いいとか、なにか有効な対策法を専門家から示してほしかったのだが。釈然としない……。
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開高賞選評

2010年08月29日 14時01分27秒 | お知らせ
開高賞の選考の選評が、集英社のホームページでアップされています。わたしの受賞の言葉ものっています。ぜひご覧ください。

http://www.shueisha.co.jp/shuppan4syo/kaikou/senkou.html

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雪男と三六会

2010年08月28日 11時43分20秒 | 雑記
岳人の原稿(来月発売10月号の第二特集「極地探検のいま」)の校閲を、四時間かけてじっくりおこなう。原稿には極地探検史の固有名詞がたくさん出てくる上、英語の資料を翻訳し、引用した箇所もある。こういった歴史がらみの原稿は、一部マニアから思わぬ指摘があったりするので、間違いは許されない。翻訳家の海津さんが目の前で仕事をしていて助かった! (海津さんからは、角幡君、ねちねちと仕事するね、との言葉をいただいた。ねちねちしているのは、仕事だけじゃないっす!)

その後、私が一昨年参加した雪男捜索隊と「三六会」の方々がお祝いの席を開いてくれたので、(二時間ほど遅刻して)駆けつける。三六会というのは、わが国の登山史を形作ってきた往年の名登山家たちが集まる秘密結社(というか慰労会)のようなもので、あの山田昇さんら三人がマッキンリーで遭難した時に、対策本部をつくった方々が会員という、非常に由緒正しき慰労会である。雪男隊の高橋隊長、八木原副隊長、村上隊員も三六会の主要メンバーで、そういった縁もあり、わたしのような小童も時折、呼ばれるというわけだ。

雪男の取材の時には、高橋さん、八木原さん、村上さんはもちろんのこと、三六会の国重会長(昨日はいらっしゃってなかった)や深田さん(山学同志会でジャヌー北壁のメンバー)、松田さんなどにも取材で協力していただいた。また、山森さん(元ヒマラヤ協会事務局長)にはヤル・ツアンポーの執筆の際にナムチャバルワ登山(作品中はほとんど触れられませんでしたが)についてお話をうかがい、家までおしかけてチベット関係の本や写真集をたくさんもらったりもした。そんな方々の前で、いやー、おかげさまでありがたい賞を受賞できましたと、偉そうに挨拶させていただいた。恐縮でございます。そしてごちそうさまです。

それにしても高橋さん、また雪男探しに行くぞ! と気炎をあげられていた。いやはや、元気なことこの上ない。ご家族の苦労がしのばれます。

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神話の力

2010年08月26日 10時06分41秒 | 書籍
神話の力 (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)
ジョーゼフ キャンベル,ビル モイヤーズ
早川書房

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ジョーゼフ・キャンベルの「神話の力」(ビル・モイヤーズとの対談)を読んだ。非常に中身の濃い内容に圧倒された。書いてあることは、死によって与えられる生の意味、またそれによって秩序だてられた社会の原動力、真理といったものは、神話を読むことによって読み説くことができるということ、かな。

小説と評論とジャンルは違うが、最近、傾倒していたコ―マック・マッカーシーの世界観と極めて近いような気がする。やっぱりマッカーシーが一連の作品で描いていたのは、極めて神話的な世界であったということが分かった。アメリカ先住民の話が頻出することも共通している。

冒頭のモイヤーズの序文に紹介された極北カナダのイヌイットの言葉に、とりあえず一発頬をぶたれた気がした。「唯一の正しい知恵は人類から遠く離れたところ、はるか遠くの大いなる孤独のなかに住んでおり、人は苦しみを通じてのみそこに到達することができる。貧困と苦しみだけが、他者には隠されているすべてのものを開いて、人の心に見せてくれるのだ」

私がツアンポー峡谷の無人地帯でうっすらと感じたことは、イヌイットの偉いシャーマンと同じだったらしい。さらにいえば、キャンベルは昔の民話や本を読みまくることで、同じような境地に達したという。

キャンベルは、本を読みまくらなかったら生きている意味など分からないと何度も言っているが、その通りかも。まったく、山の中で死にそうな目に会うくらいなら、神話を読んだほうがよっぽどマシである。


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地平線通信の原稿

2010年08月21日 15時48分49秒 | 雑記
冒険者や旅人が集まる「地平線会議」の月報「地平線通信」の今月号に書いた文章を転載します。地平線会議の代表世話人である江本嘉伸さんから、開高賞受賞の感想を、と依頼され寄稿したものです。

イギリスの哲学者マーク・ローランズの「哲学者とオオカミ」(白水社)という本に、最近かなり強い印象を受けた。ローランズは九〇年代から〇〇年代にかけて、ブレニンという名のオスのオオカミと暮らした。その共生生活を通じて得られたダイナミックな哲学的論考を、彼は著書の中で展開している。

ブレニンとの生活を通じてローランズが新たに見い出したひとつの結論は、人生の意味は瞬間に宿っているというものだった。幸福とは何か、人間にとって良い人生とはどのようなものかという問題を考える時、わたしたちは未来に向かって目標を設定し、それに向かって金銭や時間、労力などを投資するといった、何かを達成しようとして努力する過程に生きる意味があると考えがちだ。だがローランズはブレニンとの生活を通じて、こうした常識的な人生観を否定する。あらゆる目的は達成された瞬間に無意味に陥り、完璧な達成を求めても、そこには目的設定と達成を繰り返す不毛な沙漠しか広がっていないことに気づくのだ。オオカミはそんなバカなことはしない。オオカミは、オオカミというDNAによる鋳型で切り取られた枠の中で連続的な瞬間を生きている。オオカミが生きる目的はオオカミであることであって、何かを達成したり所有したりすることを求めてはいない。瞬間の連続的輪廻の中にオオカミの行動は完結する。

こうしたローランズの挑発的な問いかけは、つよくわたしの心を揺さぶった。わたしの今の最大の関心事は、ひとはなぜ山に登ったり冒険をしたりするのか、ということにあるのだが、ローランズのこの論考はわたしのそうした疑問に大きな示唆を与えてくれると思ったからだ。コマーシャリズムにのったプロやガイドによる登山はまた別として、登山や冒険という行為は、そこに内在するリスクに比べ、行為者が得られる外面的なリターンは圧倒的に低い。得られるものは内面的なもの、つまり満足感としかいいようがない曖昧な実感しかもたらされない。しかし過程には命をかける何かがある。その何かとは何か? そのことを筋道だてて説明できた冒険者や作家はおそらくまだいないが、野生から得られた「瞬間に生きる」というローランズの結論は、人間の冒険的行動を理解するための有効な手がかりになりそうだ。死の淵を時々のぞきこみながら、つまらない一連の動作を冷静にくりかえしている時、冒険者は完結した瞬間を生きているのではないだろうか。

冒険者のエクストリームな世界観は、冒険とは無縁な一般の人たちには受け入れにくいものだろう。社会からはみ出た異端者、命を顧みないリスク中毒患者による狂気じみた一連の行為、そんなふうに思われているかもしれない。しかしわたしは瞬間に生きる冒険者の行為の意味は、ひろく社会一般の位相にまで高めることができると考えている。テストでいい点を取りたい、金持ちになりたい、いい女を抱きたい、それぞれの人間が局面的に抱く願望がなんであれ、それはとどのつまり、いい生き方をしたいという望みに収斂される。瞬間に生きるというローランズの人生観がもし正しいのであれば、人生の意味をすべて奪ってしまう死という世界を背後にかかえながら行為をしている冒険者の瞬間は、あらゆる人々の生の意味を包括しうると思えるのだ。彼らが体験する瞬間は、快楽や一般的な幸福感とは無縁で、意味が付与されておらず、あるがままの生を感じるという点で、あらゆる人間の生を代弁しうる。そうした瞬間に人間はあらゆるくびきから解き放たれ、初めて独立した存在に立ちかえっているのではないか。

それが本当なのかどうかを、わたしは今後の旅や冒険を通じて知りたい。それが書き手としてのわたしの当面のテーマだ。二月の地平線会議でツアンポー峡谷の単独行について報告させてもらったが、基本的にあの報告会で話した内容を詳しくまとめた作品が先日、開高健ノンフィクション賞に選ばれた。うれしいし、文筆業を続けていくうえでの足場を築けたという意味でホッとはしているが、それ以上の感想はない。受賞した作品は、悪くはない出来だったとは思うが、書き切ったという充足感からはまだまだほど遠いからだ。

なんのために自分が生きているのか、という問いはあらゆる人間にとって究極の関心事であり、謎である。地球四六億年の歴史の最先端に生み出された高度情報化社会において、西武池袋線東長崎駅から徒歩七分、南向きで日当たり良好のアパート二階角部屋で猛暑の中、今現在、汗水たらしてキーボードを叩いているわたしは一体なんなのか。冒険における瞬間の連なりは、この謎のわずかな部分に光を当ててくれているような気がする。その光があたった部分に何があるのか、冒険の瞬間がはらむ何がそこに光を当てるのか。それは、書き手として社会に何を問えるかを、わたしが自分自身に問うていることでもある。

哲学者とオオカミ―愛・死・幸福についてのレッスン
マーク ローランズ
白水社

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北海道新聞「ひと」欄

2010年08月20日 16時56分29秒 | 雑記
本日の北海道新聞朝刊の「ひと」欄で紹介していただきました。どうもありがとうございます。それはそれとして、その後昼ごろになり、取材してくれた記者の方から電話がかかってきた。なにやら神妙な声色である。何があったのだろうか。

記者の方は記事の中で、私が探検したのは「1998年に米の探検隊が踏破するまで空白部分として残っていた約8キロ」と書いた。ところが、これを読んだ読者の方から、この部分に関して、「1998年の米の探検隊はその8キロをすべて踏破しておらず、角幡が探検した時にはまだ空白地帯として残っていたはずだ」という、超マニアックな指摘があったのだという。記者としては、もしその指摘が正しいのであれば記事が間違っていることになるから、いったいどうなのか確認したいということだった。

「それは踏破という単語の意味の捉え方しだいですね」と私は答えた。「米の探検隊は滝を発見しているので、空白部分には入っていますが、全部は行ってない。厳密に言えば、踏破したというのは間違いなのかもしれませんが、まあ、そんな細かいことは、気にしなくていいんじゃないですか(自分でもそんな細部には気がつかなかったし……)。」

それにしても、私の知らない、ツアンポー峡谷の探検史マニアが北海道にいたとは驚きだ。これは、単行本化の際に、さらなるマニアックな指摘をしてくるかもしれないので、心しなければならん!とがぜん身が引き締まった。そして、一応、敵を知り己を知らば、という言葉もあるので、記者の方に「その人は、そんなにうるさいクレーマーなんですか……」と恐る恐る聞いてみると、「いや、実は芦別のご実家のお父様からご指摘がありまして……」。

おやじかよ!(なんで、そんな細かい内容まで知ってるんだ!)「あーそうですか、私のほうから、(先走った行動はとらないように)言っておきます」と笑いあって話は終わった。私に匹敵するツアンポー峡谷探検マニアがいると思い、少しうれしかったのだが、そういうわけではなかった。

親の愛情というやつでしょうか。笑い話にかわり、一件落着。

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ブラック・ダリアの真実

2010年08月18日 13時06分23秒 | 書籍
ブラック・ダリアの真実〈上〉 (ハヤカワ文庫NF)
スティーヴ ホデル
早川書房

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久しぶりに事件もののノンフィクションが読みたくなり、スティーブ・ホデル「ブラック・ダリアの真実」を読んだ。いやはや、とんでもない本だった。

ブラック・ダリア事件は1947年にロサンゼルスで起こった有名な殺人事件。若くて美しい女性が腰から上下に切断されていたという事件の猟奇的な性格と、女性につけられたブラック・ダリアというネーミングの幻想的なイメージにより、米国でも最も有名な未解決事件となり、多くの作家やジャーナリストがあまたの作品を発表してきた。

この本は、LAの元刑事である著書がついに真相を解明といううたい文句だったので、読む前はてっきり、事件を担当した元刑事が自分が現役時代にこつこつと集めた証拠をもとに真犯人を類推する、という内容だと思っていたのだが、全然ちがった。

著書がつきとめた事件の真犯人が誰かは、かなり前半の部分で分かる。だが、まったく考えられない出来事や証拠が明かされ、そんな、まさか、まさか……、とページをめくる手がとまらない。夜中に読んでいたのだが、次々と突きつけられる事実の恐ろしさに、思わず背筋がぞっとした。トイレに行くのが少し怖くなり、小便をしながら思わず後ろをふり返った。

暑い夏の夜には、オススメの一冊。

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ツアンポー峡谷のダム

2010年08月15日 14時40分03秒 | 雑記
「日本登山体系」にしか記録の見当たらない、南アルプスの謎の岩壁、聖岳西壁をめざした登山から本日、帰宅。朝日新聞を広げると、一面に「アジア 水争奪戦」との記事がのっていた。内容はチベットからインドに流れるブラマプトラ川で、中国がダム建設を計画しており、下流のインドは水を根こそぎ持っていかれるのではないかと反発しているというものだ。インド紙が一面で、ブラマプトラ川に5基の電力ダムを計画していることを中国が認めたと報じたいう。

ブラマプトラ川とはチベットのヤル・ツアンポー川。つまりわたしが昨年12月に探検していた川である。ダムが建設されるのも、わたしが探検していたツアンポー峡谷のどこかだという。ツアンポー峡谷に三峡ダムを上回る世界最大の発電ダムが建設されるという話は、実はずっと前からあって、2002~03年に初めてツアンポー峡谷を単独で探検した時も、地元の人たちからその話をよく聞かされた。

例えば、2002年に中国当局はツアンポー峡谷内にあった一部の村から、村人を移住させている。名目はツアンポー峡谷の貴重な自然生態系を守る、というものだったが、地元の人たちは、移住の理由は峡谷内にダムの建設計画が進行しているからだと話していた。2002年にカヌーでツアンポー峡谷を下ったアメリカ隊のレポートにも同じ話が書かれている(OUTSIDE2002年7月号)。

インド政府も当時からツアンポー峡谷のダム建設には懸念を表明しており、中国政府はこれまでその計画のことをのらりくらりと交わしていた。だが、ついに今回、人工衛星で動かぬ証拠を突きつけられ、事実を認めたということなのだろう。今のところ計画は発電ダムだけだということだが、朝日に書かれているように、ツアンポー峡谷の水を水不足に悩む他の地域に流す計画も昔から囁かれている。「核の平和利用」によりヒマラヤに巨大なトンネルを作って、ツアンポー川の水をウイグル自治区や甘粛省に流す、というものだ(Ian Baker 〝The Heart of the World"など)。今のところ当局はこの大胆な計画を否定しているが、中国ならやりかねない。

21世紀は水の世紀。アジア各国の大河の源流が集まるチベットは、中国にとっていよいよ手放すことのできない地域になっていくだろう。ちなみに聖岳の西面クライミングは、アプローチの沢を間違えて、取り付きにたどり着けず敗退。濃霧のため、岩壁の姿をみることすらできず、リベンジを誓って帰ってきた。


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ロスト・シティZ

2010年08月08日 11時23分23秒 | 書籍
ロスト・シティZ~探検史上、最大の謎を追え
【著】デイヴィッド・グラン
日本放送出版協会

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「探検史上、最大の謎を追え」という扇情的な副題がついた、デヴィッド・グラン「ロスト・シティZ]を読む。アマゾンに消えた探検家パーシー・ハリソン・フォーセットの足跡と、彼が追い求めた伝説の古代都市「Z」についてまとめたノンフィクション。

資料をもとに過去の探検家のドラマと、自分で現地を探検したルポルタージュをリンクさせながら物語を進行させるという手法が、完璧にわたしのやり方とかぶっている。ニューヨーカー誌の才能豊かなライターが書くとこうなるのか、と非常に参考になった。

こういう本の向こうを張って、さらに上を行くには、自分が死ぬような目にあわなくてはならないということなのだろう。まったく困ったものである。
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性なる教え

2010年08月06日 14時53分27秒 | 雑記
探検部の同期、先輩、会ったこともない後輩が、お祝いの飲み会の開いてくれ、夜の7時から朝の7時まで飲む。酔いもすっかりとまわった二次会の席で、探検部関係者のひとりが突然、自分はこれまで70人もの女性と性的な関係を結んだことがある、と告白し、一同ぶっとぶ。

70人? ひと桁間違ってるんじゃないの? と訊くと、「そんなことはない」と彼は言う。

「自分は今まで関係をもった女性の顔名前をすべて記憶し、心と肉体に深く刻みつけ、彼女たちの業を背負ってこれからも生きていく」
「いちいち数えているんですね」
「最近はすこし記憶もあいまいになってきたが」
「どうやったらそんなことが可能なんでしょうか」
「求めてはいけません。与えることです」
「神よ! もう少し具体的に……」
「奉仕の心をもって接すれば、すべからく女性は汝に身を捧げん」
おおっ!!

こんなブッダのような悟りの境地に達した性豪が、身近にいたとは驚きだ。いやー、笑った。
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違いの分からない男

2010年08月03日 23時42分32秒 | 雑記
探検部の先輩で作家の高野秀行さん、および本の雑誌の営業部長杉江由次さんと飲んだ。開高賞受賞のお祝いに、新宿三丁目の居酒屋でごちそうにあずからせていただいた。

酔っぱらっている今現在、わたしたち三人が何を話したのかは、今やアルコールの霞の中にぼやけてしまっている。たしか、わたしは高野さんとは路線の異なる原理主義者で、いろいろな意味でなにやらあぶない路線に一歩踏み出そうとしているのだが、それはそれでなかなか今の社会における価値がたぶんあるであろうから、君はその方向で突き進むべきだと言われたような気がする。

一言でいえば、わたしは違いの分からない男であるらしい。あと町田康と、辺見庸の「反逆する風景」の中にある、フィリピンの赤い服を着たおっさんの話はすごいよねということと、ならびに服部文祥の文章はとても上手であるという点では意見の一致をみた。しかし、コ―マック・マッカーシーの世界観にはすごく共感するというわたしの個人的な意見は、いまいち共感をえられなかった。

感受性は人それぞれで違うのであるから、万人受けすることを目指すのではなく、独自路線を突っ走ってくれた方が、見ている外野としては面白いということなのだろう。先輩からいただいた貴重なアドバイスである。
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