冒険者や旅人が集まる「地平線会議」の月報「地平線通信」の今月号に書いた文章を転載します。地平線会議の代表世話人である江本嘉伸さんから、開高賞受賞の感想を、と依頼され寄稿したものです。
イギリスの哲学者マーク・ローランズの「哲学者とオオカミ」(白水社)という本に、最近かなり強い印象を受けた。ローランズは九〇年代から〇〇年代にかけて、ブレニンという名のオスのオオカミと暮らした。その共生生活を通じて得られたダイナミックな哲学的論考を、彼は著書の中で展開している。
ブレニンとの生活を通じてローランズが新たに見い出したひとつの結論は、人生の意味は瞬間に宿っているというものだった。幸福とは何か、人間にとって良い人生とはどのようなものかという問題を考える時、わたしたちは未来に向かって目標を設定し、それに向かって金銭や時間、労力などを投資するといった、何かを達成しようとして努力する過程に生きる意味があると考えがちだ。だがローランズはブレニンとの生活を通じて、こうした常識的な人生観を否定する。あらゆる目的は達成された瞬間に無意味に陥り、完璧な達成を求めても、そこには目的設定と達成を繰り返す不毛な沙漠しか広がっていないことに気づくのだ。オオカミはそんなバカなことはしない。オオカミは、オオカミというDNAによる鋳型で切り取られた枠の中で連続的な瞬間を生きている。オオカミが生きる目的はオオカミであることであって、何かを達成したり所有したりすることを求めてはいない。瞬間の連続的輪廻の中にオオカミの行動は完結する。
こうしたローランズの挑発的な問いかけは、つよくわたしの心を揺さぶった。わたしの今の最大の関心事は、ひとはなぜ山に登ったり冒険をしたりするのか、ということにあるのだが、ローランズのこの論考はわたしのそうした疑問に大きな示唆を与えてくれると思ったからだ。コマーシャリズムにのったプロやガイドによる登山はまた別として、登山や冒険という行為は、そこに内在するリスクに比べ、行為者が得られる外面的なリターンは圧倒的に低い。得られるものは内面的なもの、つまり満足感としかいいようがない曖昧な実感しかもたらされない。しかし過程には命をかける何かがある。その何かとは何か? そのことを筋道だてて説明できた冒険者や作家はおそらくまだいないが、野生から得られた「瞬間に生きる」というローランズの結論は、人間の冒険的行動を理解するための有効な手がかりになりそうだ。死の淵を時々のぞきこみながら、つまらない一連の動作を冷静にくりかえしている時、冒険者は完結した瞬間を生きているのではないだろうか。
冒険者のエクストリームな世界観は、冒険とは無縁な一般の人たちには受け入れにくいものだろう。社会からはみ出た異端者、命を顧みないリスク中毒患者による狂気じみた一連の行為、そんなふうに思われているかもしれない。しかしわたしは瞬間に生きる冒険者の行為の意味は、ひろく社会一般の位相にまで高めることができると考えている。テストでいい点を取りたい、金持ちになりたい、いい女を抱きたい、それぞれの人間が局面的に抱く願望がなんであれ、それはとどのつまり、いい生き方をしたいという望みに収斂される。瞬間に生きるというローランズの人生観がもし正しいのであれば、人生の意味をすべて奪ってしまう死という世界を背後にかかえながら行為をしている冒険者の瞬間は、あらゆる人々の生の意味を包括しうると思えるのだ。彼らが体験する瞬間は、快楽や一般的な幸福感とは無縁で、意味が付与されておらず、あるがままの生を感じるという点で、あらゆる人間の生を代弁しうる。そうした瞬間に人間はあらゆるくびきから解き放たれ、初めて独立した存在に立ちかえっているのではないか。
それが本当なのかどうかを、わたしは今後の旅や冒険を通じて知りたい。それが書き手としてのわたしの当面のテーマだ。二月の地平線会議でツアンポー峡谷の単独行について報告させてもらったが、基本的にあの報告会で話した内容を詳しくまとめた作品が先日、開高健ノンフィクション賞に選ばれた。うれしいし、文筆業を続けていくうえでの足場を築けたという意味でホッとはしているが、それ以上の感想はない。受賞した作品は、悪くはない出来だったとは思うが、書き切ったという充足感からはまだまだほど遠いからだ。
なんのために自分が生きているのか、という問いはあらゆる人間にとって究極の関心事であり、謎である。地球四六億年の歴史の最先端に生み出された高度情報化社会において、西武池袋線東長崎駅から徒歩七分、南向きで日当たり良好のアパート二階角部屋で猛暑の中、今現在、汗水たらしてキーボードを叩いているわたしは一体なんなのか。冒険における瞬間の連なりは、この謎のわずかな部分に光を当ててくれているような気がする。その光があたった部分に何があるのか、冒険の瞬間がはらむ何がそこに光を当てるのか。それは、書き手として社会に何を問えるかを、わたしが自分自身に問うていることでもある。