ホトケの顔も三度まで

ノンフィクション作家、探検家角幡唯介のブログ

読書日記

2017年05月14日 15時53分37秒 | 書籍
6月に『探検家の日々本本』が文庫化されるので、先日、そのゲラを読んだ。こまかな修正以外、単行本と内容はかわらないが、それにしてもこの本面白いなぁ、こりゃ毎日新聞出版文化賞書評賞も受賞するわと、われながら思ってしまった。だいたい文庫のゲラを読むときは同じ感想をいだく。私は自分の文章がたぶん好きなのだ。それじゃなきゃ、作家なんかやってられない。

ただ、ひとつ反省がある。この本は4、5年前の書いた文章が主なのだが、その頃にブログに書いていた読書感想文も一緒になっていて、それを読んで、当時はこんなに本のことをブログに書いていたんだなぁ~と感心してしまったのだ。今はとてもではないが、書評的な文章をブログに書く余裕はない。本の感想は一歩間違えると感受性や頭の中身をうたがわれてしまうので、じつはおいそれとはかけないのだ。あれだけ書いていたのは、要するに時間が有り余っていたことの裏返しである。

でも、角幡は最近本読まなくなったんだな、と思われるのもしゃくだし、もしかしたらブログに積極的に本のことを書いたら書評の仕事も増えるかもしれない。ということで、メモかわりにこれからは読んだ本を短いコメント付きで定期的に紹介することにする。まあ、今、思い付きではじめた企画なので、一回で終わってしまうかもしれないが。

身ぶりと言葉 (ちくま学芸文庫)
Andr´e Leroi‐Gourhan,荒木 亨
筑摩書房


ルロワ=グーラン『身ぶりと言葉』
人間の進化の動的パースペクティブをしめした人類学の壮大な大著。人間が記憶を外化していくシステムや,都市や書字をめぐる一貫した単純化、機能化の原理などはマクルーハンの『メディア論』にもつながるところがあり、非常に示唆にとむ。結構みんな考えることは一緒なんだねと思った。あとフランス人の本ってなんでこんなに読みにくいんだろうと改めて思った。たぶん論理よりも感覚的に書いているから、邦訳したときにその感覚が伝わらないんだろうな。星三つ。


狂うひと ──「死の棘」の妻・島尾ミホ
梯 久美子
新潮社


梯久美子『狂うひと』
非常に話題になっているノンフィクションで、新潮の人からも圧倒的と聞かされていたので、帰国後すぐに読んだ。書くことの原罪や業、島尾夫婦の生活が表現至上主義的な狂気をおびていたところを暴いていて面白かったが、期待したほど圧倒的な読後感はなかった。ルポが少なく、どちらかといえば文芸評論的な性格が強いからだろうか。あと、書き手の目から見ると、島尾ミホ死後にみつかった新資料に助けられているなという気がして、それはちょっと羨ましかった。星四つ。


中動態の世界 意志と責任の考古学 (シリーズ ケアをひらく)
國分功一郎
医学書院


國分功一郎『中動態の世界』
すごい面白かった。動詞の態は現在では能動と受動しかしられていないが、じつは昔、中動態という態があり、その謎を暴いていく知的ミステリーという感じ。謎が謎を呼び、次第にじつはわれわれの生活や会話や動作などすべてじつは中動態的なのだということわかっていく。『暇と退屈の倫理学』より普遍的な存在論をあつかっており、万人にとって新たな知的発見をもたらすだろう。安倍晋三にもぜひ読んでもらいたい。最後の自由へとつながる結論は、自分が登山や探検で感じる自由の概念ともつながっており、深く納得。機会があれば私が探検で発見する自由が中動態的にどのように位置づけられるのか、意見を訊いてみたい。誰か対談を企画してくれないだろうか。ちなみに中動態なんてきいたこともないと思っていたが、以前、挫折したアガンベン『身体の使用』に非常に詳しく説明されていた(國分さんが何度も参照していたので、気がついたのだった)。こっちは難解すぎて全然頭に残っていなかったらしい。いつかまた挑戦してみよう。星五つ

意識と本質―精神的東洋を索めて (岩波文庫)
井筒 俊彦
岩波書店


井筒俊彦『意識と本質』
知人に勧められて読んだが、凄まじい本だった(正確にいえば勧められたのは『意味の深みへ』という別の本だったが、高いので廉価なこっちを先に買った)。言語は外界の事物に意味をあたえて構造化するが、その言語以前の混沌とした無分節世界がどのような世界で、東洋哲学がどのように絶対無分節的境地にアプローチしてきたかが語られる。圧倒的な内容だったが、記憶力の悪い私にはその圧倒感しかのこっておらず、詳細は忘れてしまったので、興味のある方は読んでほしい。言語化以前の世界にいる赤ん坊は仏であり、言葉を覚えて外界を意味化し、そのうち意味によって構造化された外界に次第に取り込まれていき、最後はつまらない大人ができあがるという人間の成長過程がよくわかった。それに極夜もある意味、言語化以前の混沌とした世界だったことも。私はあのとき御仏だったのだろうか。
もしかしたら私が対談しなければならないのは國分さんではなく、道元あたりなのではないか。「いやー絶対無分節的混沌って解脱的で面白いですよね~」みたいな感じで話がもりあがるかもしれない。764年前に死んでしまったのが残念だ。星六つ


最古の文字なのか? 氷河期の洞窟に残された32の記号の謎を解く
櫻井 祐子
文藝春秋


ボン・ペッツィンガー『最古の文字なのか?』
旧石器時代人の表象能力について最新の研究成果がわかったのは収穫だが、肝心の記号が文字なのかどうかが結局?で、ストレスがたまった。星三つ

雷電本紀 (小学館文庫)
飯嶋 和一
小学館


飯島和一『雷電本紀』
飯島ファン(に最近なりかけている)、相撲ファンとしては非常に期待が高かったが、稀勢の里が照ノ富士に勝った一番のほうが興奮した。飯島和一は評伝ものより、多数の人間がそれぞれ細胞となってひとつの事件に否応なしに流されていく『出星前夜』のような絵巻物的物語のほうがスリリングで文体的に合っている気がする。次は何を読もうかな。星三つ

神話と日本人の心〈〈物語と日本人の心〉コレクションIII〉 (岩波現代文庫)
河合 俊雄
岩波書店


河合隼雄『神話と日本人の心』
極夜探検の原稿を書くのに、とりあえず基礎知識としてユングの心理学ぐらいは知っておいたほうがいいかなと思い、とりあえずとっつきやすい河合隼雄の本からはじめた。昔は河合隼雄の文章はすべすべしすぎていて苦手だったが、今回はとても面白く読めた。わかりやすい文章ってすばらしいな。この本はユングの心理学というより、日本人の意識構造の特殊性(河合がいうトライアッドの構造)がわかって、納得。星四つ

世界宗教史〈1〉石器時代からエレウシスの密儀まで(上) (ちくま学芸文庫)
Mircea Eliade,中村 恭子
筑摩書房


エリアーデ『世界宗教史』1
これもお勉強用。概説なので、一番知りたかった人間の原初的な太陽や天体にたいする聖性理論については、あまりよくわからなかった。2も買ったが、まだ読んでいない。2の前に、同じエリアーデの『太陽と天空神』を読もう。星三つ

探検家の日々本本
角幡 唯介
幻冬舎


今度文庫化。面白い。星五百



ここまで書いたところで、疲れたのでまた次回。











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『出生外傷』

2017年03月20日 07時22分53秒 | 書籍
出生外傷
クリエーター情報なし
みすず書房


オットー・ランク『出生外傷』を読む。極夜探検の原稿を執筆する前段階の参考文献として読んだ。

内容を簡単に説明すると、人間は胎児期に子宮内にいるときに究極の心地よさを感じている。これが原状況であり、出生時に原状況が壊され、母とひき離されて、無理やり外界に引きずりだされるとき、究極の不安を感じる。これが人間の原不安である。原不安こそ人間の不安の根源であり、人間が物事を知覚する最初の体験だ。人間は誰しも母胎内の原状況に回帰したいと望むが、この回帰の希求は出生時の外傷と結びついているのでどうしても原不安が生じ、原不安を抑圧しようとする原抑圧がはたらく。オットー・ランクに言わせれば、すべての文化、芸術は出生外傷と関係しており、フロイトのエディプスコンプレックスも、出生外傷の原不安を出生後の障害である父に転換したものだ。人間が人間になるということは原抑圧を乗り越える過程なのだという。

オットー・ランクはフロイトの忠実な弟子というか、事実上の息子みたいに親密な関係にあったが、この本を発表したことでフロイトとも疎遠になり、精神分析のほかの学者からも批判された。その意味では結構あぶない本なのかもしれない。私は精神分析や心理学についてはまったく無知なので、この学説が専門的にどこまで妥当なのかは判断できないが、個人的にはかなり啓発され、非常に面白く読めた。読んでいる最中は、娘の挙動をなんでもかんでも出生外傷に結び付けて話すので、妻からうざがられたぐらいだ。

ところで、なぜこれが極夜探検と関係があるのか。ということは、う~ん、ブログでは書かない方がいいような気がしてきた。極夜探検は来年あたり本にしたいので、ある意味、ネタばれになってしまうかもしれない。もちろん、本書の中身が探検の内容と直接リンクしているわけではないが、探検の最後に直観したことと深いところで結びついている気がした。まあ、出生と極夜といえば勘のいい人ならわかるだろうか。

なお、オットー・ランクには『英雄誕生の神話』という別の有名な本もある。早速、ネットで購入してしまった。

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『洞窟ばか』

2017年03月14日 06時33分14秒 | 書籍
洞窟ばか
クリエーター情報なし
扶桑社


吉田勝次『洞窟ばか』を読む。

著者の吉田さんとは実は面識がある。昔、富山で新聞記者をしていたとき黒部に関する特集をすることになり、なんのつながりかは忘れたが、吉田さんの洞窟探検チームであるJETが黒部で新洞探査をすると聞いた。それで吉田さんに連絡をとり、その探検の同行取材をしたのだ。そのときのことで印象にのこっているのは洞窟のことより、吉田勝次の強烈なキャラクター。もういいオッサンだったが天真爛漫、自由奔放、面白くて魅力的な野生児、というか野人、というか言葉をしゃべる類人猿みたいだった。たった一泊(だったかな?)の探検だったが、その後も吉田さん元気かな~と思い出すことがしばしばあった。

洞窟で活躍する姿より、夜中に黒部峡谷鉄道の軌道を勝手に移動して、どこかの温泉に勝手に忍び込んで、女性隊員の前にもかかわらずお湯のなかで陰部丸出しでぐるぐる回転する彼の姿がまだ眼に焼き付いている。最近よくテレビに出ているらしいが、わたしはあまりテレビを見ないので、その活躍ぶりは本書を読むまでじつは知らなかった。あのときよりパワーアップしてバリバリ活動しているらしいじゃないか!

ケイビングつまり洞窟探検の世界の人は、フィールドの暗さがそうさせるのか、どこか根暗な人が多い気がしていたが、この人はそういう雰囲気とは皆無。完全に陽性。本も吉田さんらしい文体で一気に面白く読める。雰囲気としては宮城君の『外道クライマー』に近い。『外道クライマー』が沢登りの世界を一般の人に読める文章で紹介したのと同じで、この本を読めばケイビングの世界の面白さが誰にでもわかる。洞窟探検のどこに魅せられ、一生続けるためにどんな生き方をしてきたか。吉田さんの人生そのものが洞窟探検に捧げられており、彼の半生記を読むことがすなわちケイビングを知ることになっていく、という他の誰にもまねできない稀有な奇書である。

次は個々の洞窟探検の詳細について書いた本を期待したい。

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『安倍三代』

2017年03月13日 06時45分40秒 | 書籍
安倍三代
クリエーター情報なし
朝日新聞出版


青木理『安倍三代』を読む。全体的に右傾化する現代の政治や社会の風潮を極めて辛辣に批評しつづけるジャーナリスト青木氏によるルポルタージュ。安倍というのはもちろん首相安倍晋三の安倍。祖父寛、父晋太郎、そして晋三と三代にわたって国会議員をつとめてきたそれぞれの人物像を周辺者への取材をとおしてあぶり出していく。

もちろん抵抗のジャーナリストである青木さんの著作だから、父と祖父のエトスがどのように晋三に受け継がれているのかにある。

安倍晋三といえば母型の祖父である岸信介が有名だが、父型の祖父である寛は昭和の妖怪とよばれた岸とは対極にある反骨の政治家だった。父晋太郎も世襲議員ではあったが、選挙での地盤開拓に苦労した経験があり、目線の低いリベラルな政治家だった。それに比べて晋三は何の苦労もしていない、正真正銘のボンボンの三代目。反骨・どぶ板・たたき上げであった先々代、先代と対比することで、いかに三代目の晋三が中身のない人間なのかが浮かぶあがってくる。

この本を読んで、なぜ、首相安倍晋三の言葉があれほど軽く、貧相なのかよくわかった。言葉というのは背骨がないと生みだされない。背骨というのは経験だ。経験という背骨こそが言葉の担保になって力を生みだすのである。ところが安倍晋三にはその経験がまったく欠けている。何の苦労もなく小学校から成蹊大学の付属に入学し、受験すら経験することなく、要するに何の努力もなく大学まで進学し、いずれ政界に進出する「預かりもの」という立場で神戸製鋼に入社するの。そして小学校から大学にいたるまで、周囲の人間は彼のことをほとんど覚えていない。なんと、大学のゼミで一緒に勉強した仲間でさえ記憶をのこしていないほど印象の薄い人物だったという。

勉学にはげんだ経験もなければ、恋愛にうちこんだ経験もない。部活動やバイトや社会活動にいれこんだこともない。何かに真剣にうちこんだ形跡が全然ないのだ。周囲の記憶にのこっているのは大人しく、目立たない、要領のいいだけの凡庸な人物である。祖父の反骨、父のリベラリズムはまったく消え失せ、あるのはただ母方の祖父である、大好きなおじいちゃん岸信介への敬慕だけ。現在につながる右寄りの政治姿勢も若い頃はまったく感じさせず、思想も知性も信念もこだわりも何もない、水のなかをただふらふらと漂うボウフラのような男だったらしい。

ある意味、これほど背骨のない無味無臭の凡俗な人物が、深い思想もなく国のかたちをかえようとしていることが、恐ろしい。というか不気味だ。読んでいても、彼の背景には広漠とした虚無しか感じられない。生きた人間としての痕跡があまりに薄く、ある意味で透明な存在だ。無思想で無知性、思考のない人物が権力をにぎっているという点では、アレントの描いたアイヒマンを想起させ、ちょっと薄気味が悪くなった。

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『地球はもう温暖化していない』

2017年02月27日 23時08分57秒 | 書籍
地球はもう温暖化していない: 科学と政治の大転換へ (平凡社新書)
深井 有
平凡社


深井有『地球はもう温暖化していない』を読む。シオラパルクで居候させてもらっている犬橇極地探検家・山崎哲秀さんからすすめられて読んだ本だが、知らないあいだに自分の思考にこびりついていた固定観念を見事にひっくり返されて痛快だった。
 その固定観念とは「地球は温暖化しており、その元凶はCO2だ。したがって地球を守るためには大気中のCo2濃度は下げなければならず、政策遂行のために税金を投入されるのは当たり前」というものだ。タイトルからもわかるとおり、本書はそのCO2による地球温暖化説をきわめて明快に否定する。
 話は、そもそも地球は現在、温暖化していない、2000年前後から気温の上昇は頭打ちになっており、ほぼ横ばいだというところからはじまる。たしかに二十世紀後半は気温が上昇しており、その背景を説明するためにCO2が元凶としてやり玉にあげられてきた。だが、CO2が原因なら2000年以降も地球の平均気温は上昇していなければならないのに、そうなっていない。なぜ上昇していないのか?
 本書がその理由としてあげるのは、気候変動の最大の要因はCO2濃度ではなく、太陽活動の拡大縮小だという。二十世紀後半に太陽活動は拡大期を迎えたため、その影響で地球の平均気温も上昇したが、その活動期はすでにピークをすぎているらしく、これから縮小期にはいる。そのため懸念されるのは温暖化ではなくむしろ寒冷化だという。もちろんCO2濃度が上昇することによる温室効果もかさなるためある程度の相殺作用ははたらくが、それでもこれから地球の気温は横ばいがつづくか、むしろ低下傾向をしめすはずだというのだ。実際、近年の研究で太陽の活動周期と過去の気候変動のサイクルが一致していることは確認されてきており、非常に説得力のあるデータを根拠に議論は展開されていく。
 地球が寒冷化するとどうなるか。世界人口は増加しているのに農業生産は低下するため、国家間で食料の奪い合いがはげしくなる。本来なら寒冷化対策として食料自給率を高めることが国策として求められてしかるべきなのに、現況は地球温暖化対策としてCO2削減ばかりに研究費や税金がつぎこまれている。著者はこれをまったくの無駄遣い、無益とばっさりと切り捨てている。
 私自身、記者の経験があったせいか、一番、痛快だったのが、温暖化対策を牛耳るICPPとそれにぶら下がる科学者と錦の御旗のように温暖化への危機感をあおるマスコミへの批判の部分だった。ICPP自身、CO2による温暖化対策を前提に発足した国連機関なので、観測の結果、都合の悪いデータが出ても適正化の名目で温暖化のシナリオにあうように修正するなどしていた。そして各国というか日本の環境省などはICPPのシナリオに沿った政策を次々と打ち出し、そもそも役所や権威にめっぽう弱く、批判精神にかけた日本の新聞テレビの科学記者たちはICPP=環境省のシナリオにそった記事ばかり書き、われわれ一般人のまちがった危機意識をあおってきた。その結果、温暖化対策に一世帯あたり年間20万円もの無駄金が投入される羽目におちいっているという。このあたりは読んでいて気持ちがいいぐらだ。
 また、温暖化が金科玉条のようになっているため、温暖化対策に寄与するような研究にしか政府の補助金がおりないシステムになっており、事実上、科学者たちも研究費獲得のために温暖化シナリオに沿った研究にばかりいそしんでいるとも批判する。つまり温暖化対策につかわれるカネが事実上の利権構造を生みだしており、原子力ムラみたいな状況になっているというのだ。
 面白いのは温暖化にここまで危機意識をいだいている無垢な先進国は日本だけだという指摘である。欧米各国ではある程度、科学界や国民意識にICPPの欺瞞がかなり共有されており、気候変動にたいする関心はきわめて低いらしい。それにはジャーナリズムの力もあっただろう。2009年にはICPPのまとめ役だった英国の研究所からメールが流出し、CO2元凶シナリオにそってデータを改ざんする科学者のやり取りが白日のもとにさらされる「クライメートゲート事件」が起きた。ところがこの事件、欧米では非常に話題になりCO2温暖化元凶説の神話を崩す要因になったが、どういうわけか日本ではほとんど話題にならなかったという。私もこんな面白い事件があったことを本書ではじめて知った。
 とまあ、暇にあかせてバーッと書いたが、私自身、温暖化はすすんでおり、その元凶はCO2だと思い込んでいたので、目が覚める思いだった。北極の氷が減少しているのも、ヒマラヤやグリーンランドの氷河が後退しているのもなんとなくCO2のせいだと思っていた。というか、正直にいえば、これまで温暖化の話にはあまり興味をもてないでいた。たぶん、それは、温暖化問題や環境問題など社会正義の実現に熱心な人ってなんとなく野暮にみえるし、一方で、みんながそうだと信じているCO2元凶説に意を唱えるのも空気が読めない感じがするので、処置に面倒くさい問題として無意識に放置していたのだと思う。要するに地球温暖化問題というのは深入りすると厄介でかっこうわるい話なので、まあとりあえずCO2が元凶ってことでいいんじゃないかなと野ざらしにしておいたわけだ。クライメートゲート事件を大きく報道しなかった日本のマスコミの深層心理も同じようなものだったのかもしれない。そして著者は空気を読んで気づかないうちにみんなで同じ方向を向いている、ものすごく日本っぽい現象を、まるで戦前の全体主義を見るようだとはげしく批判する。
 ところで、本書が指摘する通り本当に寒冷化にすすんだら、北極の氷が凍結して旅がやりなすくなるのだろうか。もしかしたら植村直己の時代にみたいにグリーンランド南部から旅を開始するなんてことが可能になるかも…。でもそのときには私自身、もう橇をひいて歩く体力は残っていないだろう。これは大変なことだ。あと十年ぐらいは極地に通う方策を考えないと…という危機意識を個人的にはもった。

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千の顔をもつ英雄

2016年01月17日 09時56分12秒 | 書籍
千の顔をもつ英雄〔新訳版〕上 (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)
クリエーター情報なし
早川書房


おお! ジョーゼフ・キャンベル『千の顔をもつ英雄』の新訳がハヤカワから文庫になっているではないか! 興奮して、記事更新。物語の本質だけではなく、人間の行動原理についても深い洞察をもたらす名著。私の場合、自分の冒険行動が机のうえから解説されて、納得するという稀有な体験をすることになった忘れられない一冊である。新訳か……。また読まなきゃいけないなあ。

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ヒトとイヌがネアンデルタール人を絶滅させた

2015年12月26日 11時52分22秒 | 書籍
ヒトとイヌがネアンデルタール人を絶滅させた
クリエーター情報なし
原書房


グリーンランドでウヤミリック(現地にいる私の犬の名前)と旅をするようになってから、犬という動物の特殊性について非常に強い関心を持つようになった。グリーンランドにおけるイヌイットと犬との関係の強さは特別だ。彼らは犬をペットとして買っているわけではないので、われわれ、外部の人間からみると時々、手ひどい扱いをしているように見えるときもある。たとえばトンカチでぶん殴ったり、使役犬として役に立たなくなると絞殺したりするなど、だ。ただ、それは表面的なものであり、その奥にある両者の関係は、もっと何というのだろうか、お互いに深い依存関係を構築しているといった感じがある。イヌイットは犬がいたからこそ極地という人間の生活環境のなかでは最も過酷な地で生き抜いてこれたわけだし、犬もまた人間に生活まるごと寄り添ったほうが有利だと判断したために自ら人間の使役動物となる道を選択した。そういった両者の原初的な関係性が彼らの生活からはにじみだしている。

つまり、グリーンランドのようなむき出しの自然における人間と犬との生活をみていると、原始時代の人間とオオカミからちょっと枝分かれしたばかりの初歩段階の犬って、こんな関係だったんだろうなあという印象を受けるわけだ。同じ家畜でも豚や羊や馬とはちがって、犬からは種全体で歴史的に人間を利用してきたというしたたかさがうかがえる。積極的に人間の意図と読み取り、人間を喜ばせようとし、生活まるごと人間に取り入って人間の庇護下に入ることで自然のなかを生き抜くことを選択した特殊な動物。そんなわけで石器時代において犬と人間はなぜ手を取りあうという選択をしたのかが、目下のところヒトの進化史における私の最大の関心事だ。

この刺激的なタイトルの本は、内容的には非常に面白かった。ポイントをかいつまんで言うと、ユーラシア先住民だったネアンデルタール人は気候変動や遺伝子の劣化で衰退の途を辿っており、そこに現生人類がアフリカを出てユーラシアに拡散してきて、ネアンデルタール人絶滅の最期の引き金をひいた。現生人類がネアンデルタール人より有利だったのは、種としての能力の差もあるけれど、最も大きかったのはオオカミを手なずけて家畜化することに成功したことである。ネアンデルタール人と現生人類とオオカミはいずれも食物連鎖の頂点ギルドを形成する競合者であったが、その三者のうちの二者が協力関係を築くことでネアンデルタール人ばかりでなく、ホラアナライオン、ホラアナハイエナ、ホラアナグマなどの他の捕食者たちも次々と絶滅し、現生人類は一気に全地球状に拡散していった。といったところだろうか。

まったく壮大なストーリーだ。シオラパルクで人間と犬との関係の強さを見ていると、イヌは人間の居住地域の拡大に非常に大きな力を発揮していたんだろうなあとは思っていたが、まさかネアンデルタール人を滅ぼしていたとは思わなかった。本書の内容はもちろん仮説にはすぎないが、初期の犬の化石がこれまで考えられていたよりもっと古い時代にさかのぼるといった最新の考古学的な知見を反映しているようで、説得力のある内容になっている。

今後知りたいのは、石器時代の人間がどうやってオオカミを手なずけ、またオオカミはどのようにイヌになったのかという、その具体的な過程だ。なぜ警戒心の強いオオカミが人間に心を開いたのか。最初の一頭は何を考えていたのだろう。できればオオカミの心が知りたい。ただ、まあ、それは化石から分かることではないだろうから、ウヤミリックの動きを見て想像するしかあるまい。

こういう本を読むと、ウヤミリックとの次の旅が非常に楽しみになる。来年は、ユーラシアでネアンデルタール人と遭遇した四万年前のクロマニョン人の気分で極夜の旅に出発できそうだ。

ちなみに学説の内容は面白かったが、本としてはデータと学説の羅列がつづくため、ちょっと読みにくい。もう少し面白くまとめることができたはずなのだが。集英社のkotobaのノンフィクションの書評を頼まれており、それで読んだ本だったが、ノンフィクションの書評対象としてはボツかな。

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冒険歌手

2015年11月15日 10時10分45秒 | 書籍
冒険歌手 珍・世界最悪の旅
クリエーター情報なし
山と渓谷社


峠恵子さんの『冒険歌手』がHonzのレビューで取り上げられて、好調な売れ行きをしめしているらしい。うらやましい話である。

言うまでもなく、というわけではないが、峠さんは十四年前の私の旅の相棒。つまり私は2001年に登山家の藤原一考さんが計画したニューギニア探検隊の隊員だったのだが、峠さんもその一人で、私たち3人は半年以上にわたり、特殊非現実的、非日常的時空をともにした間柄だった。この旅の目的はかなり野心的なもので、ヨットで日本を出てニューギニア島まで航海し、ボートでマンベラモ川を遡って、さらにオセアニア最高峰カールステンツ峰の北壁に新ルートを開拓するという、当時はほかに聞いたことがないようなハイブリッドエクスペディションだった。

しかし、今、考えると、私にとってはニューギニアよりも藤原さんと峠さんが、この特殊時空をつくりあげていた張本人だったと思う。個性的という言葉の意味では到底とらえきれない強烈な二人のお人柄。人間の限界という言葉が思い浮かんでしまうほど、かなり端っこのぎりぎりを行っている感じ。若かった私はすっかり藤原さんの毒っ気に参っていたが、15年近くがたった今、言えることは、あの毒っ気は藤原さんからのみ出ていたものではなく、峠さんからも同じぐらい分泌されていた可能性が高いということだ。どっちがどっちというわけではないが、二人は隊における太陽と月、白夜と極夜、生と死、ゴジラとモスラ、月とスッポン、目くそ鼻くそみたいなものだった。私は精神が引き裂かれるような存在の耐えられない軽さに煩悶して、中途脱退して帰国。もうこんなバカなことは二度としないぞ(もうこんな妙な大人たちには近づかないぞ)と誓ったものだった。

この本は峠さんが帰国後に書き下ろした作品で、以前、小学館から出た『ニューギニア水平垂直航海記』の復刊版である。作品のなかでは私もユースケという名前で登場します。

ニューギニア水平垂直航海記 (小学館文庫)
クリエーター情報なし
小学館


なおhonzの書評では「結果、大学生のユースケ隊員が愛想をつかして、一人飛行機で帰国。じつは彼こそ、ある著名な作家の若き日の姿であったのだが、この旅はあまりに黒歴史だったのか、氏のプロフィールから省かれていた、らしい。」と書かれているが、別にこの旅は私の黒歴史ではないし(ちょっと濃い灰色ぐらいかな)、デビュー作である『空白の五マイル』の著者プロフィールでもこの遠征のことは触れている(それに私は著名ではない)。たしかに帰国後は挫折だと感じていたが。

『冒険歌手』として再刊されるにあたり、峠さんと対談して、その原稿が本書に巻末に収められているが、彼女は相変わらずパワー全開で、ちょっと太刀打ちできなかった。この本は彼女の目から見たニューギニア探検の一部始終なのだが、むしろ、ニューギニア探検を語ることで彼女本人の破天荒な生き方が語られる一種の私小説ともいえる。だからタイトルは前の本よりすごくよくなったと思う。

このニューギニアのことは、私もそのうち本にしようと目論んでいる。もう一回、私なりのニューギニア探検を実施して、十五年以上時間が離れた二つの遠征を抱き合わせにして一つの作品というイメージだが、極地にはまっている現在、ニューギニアに行く時間がまったくとれない。早くしないと、当時の藤原さんの年齢に追いついてしまうのがおそろしい。


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沈黙の山嶺

2015年10月27日 09時01分03秒 | 書籍
沈黙の山嶺(上) 第一次世界大戦とマロリーのエヴェレスト
クリエーター情報なし
白水社


ウェイド・デイヴィス『沈黙の山嶺』を読む。because it is there(そこに山があるから)の言葉で有名なジョージ・マロリーを軸に、1920年代の英国のエベレスト挑戦を描いた歴史大河山岳ノンフィクション。本編だけで上下巻700ページ、かつ二段組の大作だが、時差ボケでどうしても目が覚めてしまう早朝の長い時間を利用して一気に読み終えた。ヒマラヤ登山の話を、これほど壮大な叙事詩にまとめあげた作品はないのではないか。登山史に関心がある人でなくとも、豊かな読書を体験できること請け合いの素晴らしい作品だった。

1924年の遠征でマロリーは若い隊員アーヴィンとともに最後の登頂への挑戦に出発する。隊員のノエル・オデルは第五キャンプから、予定より大幅におそい時間に、頂上につづく北東稜をゆく二つの黒い人影を認める。その後、稜線にはガスが立ちこめたためオデルは二人の姿を見失い、そして二人が山を下りてくることはなかったのだが、マロリーはこのとき自らの死と引き換えにエベレストに永遠に解かれることのない謎を残すことになった。もしかすると彼はエベレストの頂上に立っていたのではないかという謎だ。

本書はこの謎に正面から取り組んでいるわけではなく、1924年の遠征に関しては最後の2章があてられているだけだ。それでも全体的な物語の構造は、マロリーが最後に頂上に向かうことに決めた、その行動に収斂されるように書かれている。実際にこのときの遠征隊の隊員が成し遂げた成果は、当時の貧相で劣悪な装備や、高所順応のタクティクスに関する知見がほとんどなかったことを考えると、ちょっと信じられないものだった。マロリーの前に頂上を目指したノートンは酸素ボンベなしで8573メートル地点まで到達し、そこから引き返しているが、この驚異的な記録は1952年のスイス隊まで破られることはなかったのである。

いったい、この1924年の英国隊というのは何だったのか。本書の視点が独特なのは、1921年、22年、24年とつづいたエベレスト遠征隊を、第一次大戦と絡ませて描いている点だ。第一次大戦についてほとんど何の知識もない私は知らなかったのだが、当時の欧州の若者は戦争に駆り出されて、ほとんどが死んだらしい。ヘミングウェイが『日はまた昇る』で描いた‟失われた世代”というやつだが、この失われた世代という意味は、戦争で精神が荒廃し、心に闇をかかえてしまったという意味の‟失われた”ではなく、文字通り戦死してその世代の多くが存在しなくなってしまったという意味での‟失われた世代”だった。マロリーをはじめとした20年代の英国隊の隊員の多くはこの世代にあたり、彼らのほとんどが戦場に駆り出されて、奇跡的に生き延びた男たちだった。そのことを強調するため、著者は本書の序盤と、また個々の隊員を紹介するくだりで、必ず彼らの戦争体験について詳しく触れ、彼らが見た戦場の死を執拗なまでに生々しく描写する。

20年代のエベレスト隊員がバーバリーのツイード地の服を着て、ゲートルを足の巻き、何十キロもの重さのキャンバス地のテントを担いでエベレストの‟死の領域”に踏み出せたのは、戦場を経験した彼らにとって死というのはあまりにもありふれたものだったからだ。それが著者の言いたいことで、生の内側に死を取りこんだ人間に特有の死生観が、マロリーが最後、頂上に向かって足を踏み出した理由なのだということを、この本は700ページにわたって述べているわけだ。

こうした観点が冒険になじみのない読者にどれほど受け入れらるのかよくわからないが、私個人としては納得のいくものだった。一度、死を取りこんだ生は、死を感じることができないと輝くことはない。頂上に吸い寄せられるように向かったマロリーには、死を絶対悪として忌避する心性はすでに失われていた。たとえそれが死の淵にあるものだとしても、生を燃焼させることができるなら、それを避けるべき理由は彼にはなかったのである。

マロリーの遺体は1999年に米国の探検隊に発見され、センセーショナルに報道された。その調査の一部始終を描いた本も出ており、マロリーの謎の詳細について知りたい人はこちらもお薦めである。

そして謎は残った―伝説の登山家マロリー発見記
クリエーター情報なし
文藝春秋






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松本竜雄「初登攀行」

2015年10月20日 00時19分08秒 | 書籍
帰国の途上で松本竜雄「初登攀行」を読む。

一般にはなじみが薄いかもしれないが、松本竜雄は昭和三十年代に活躍した日本登攀史にのこるクライマーだ。穂高や谷川や彼が開いたルートが「雲表ルート」として沢山残っており、今も多くのクライマーを惹きつけている。日本の岩壁の初登攀時代の最後を飾った、すさまじい山行記録をつづった作品だが、うーん、ちょっと刺激を受けてしまった。

登山家には名文家がすくなくないが、彼もその例に漏れない。とくに風景描写や比喩表現が巧みで、読んでいて唸らされる文章がすくなくなかった。適切な言葉がなにげなく、スポっとはまりこんでいる。登山に対する心情も率直で、山に対する真剣味が伝わってくる。

松本竜雄が一ノ倉のコップ状岩壁初登攀の際に初めてエクスパンションボルトを使用したことは有名だが、正直いって、当時のクライマーがここまでボルトの使用に関して悩み、非難を覚悟のうえで使用に踏み切っていたことは知らなかった。現在、烏帽子岩奥壁や衝立岩にのこる古びた残置ボルトの数を思うと、昔の人たちは何も気にせずガンガン打ちまくっていたのだとばかり思っていたが、どうやら違ったらしい。登山家のモラルは昔から試されいたんですね。

松本竜雄をふくめ登山家の文章がうまいのは、登山という行為が本質的にもつ切実さと無縁ではないのだろう。登山は命がかかっているだけに、なぜ自分は山に登るのかという自省を促す。生きることそのものに真摯にならざるをえないし、登山をつうじて、山以外のあらゆる事象についても考察するから、それが独自の思想と言葉を生み出すのだと思う。思考の末に獲得された言葉こそが、本物の知恵である。松本竜雄は学歴とは無縁の社会人クライマーだったが、彼が誇る語彙の豊かさには、自らが格闘して思考した跡が見えて、これこそが本物の学なのだと考えさせられた(ちなみに現在とちがい、当時の社会人という言葉には中学や高校を卒業してそのまま就職した、大卒のインテリと対極な位置にある労働者階級という意味合いを含んでいた、たぶん)。

刺激を受けたというのは、山に登りたくなってしまったことだ。

今から帰ったら、ちょうど十一月。冬山シーズンが始まる時期だ。そういえば去年は結局、錫杖岳1ルンゼしか登れなかった。今冬はせっかく日本に帰るんだから、去年登れなかった一ノ倉沢中央奥壁や剱岳白萩川フランケや明神の氷壁ルートに行きたいなあ。しかし左肘の古傷の状態が思わしくなく、帰ったらまずそれを手術しなければならない。左腕を伸ばそうとするとゴリゴリするうえ、神経が圧迫されて小指の感覚がほとんどマヒしているのだ。以前、専門の先生に診てもらったところ、手術で確実に回復はするが、術後三カ月は安静にする必要があり、さらた登山のような激しい運動は半年間は控えなくてはならないと言われた。まあ、半年は五カ月ぐらいに短縮するとして、十一月に手術したら、三月末にはリハビリが終わるから、谷川や唐幕など北アルプス低山系岩壁は無理でも、剱や滝谷なら行けるかもしれんぞ……。

そんなことを考えている自分がいた。そのときにふと、そうだ、来年4月はカナダに行くつもりになっていたんだと思い出した。この間のブログで、山よりも極地のほうが面白くなったと書いたことなど、すっかり忘れていたのだった。

なお、松本竜雄は穂高でサードマンを見ているようだ。夜中に屏風岩のルンゼを加工中、岩なだれが発生したときの文章に次のようなものがある。

〈ぼくは、その下山路についた時から、だれかがぼくを見つめ、ぼくにより添っているような感じにとらわれていた。
 岩の灼ける匂いや、岩粉の充満するルンゼの下降は急峻で、二つの涸滝では懸垂下降をしなければならなかった。
 灰色の汚れた暗がりでのアプザイレンで、ぼくは、先輩二人の他にぼくらのパーティでない四人目の男を意識した。あとで富田先輩にそのことを告げると、先輩も同じような幻覚に襲われていたことを話してくれた。〉

サードマンについては、ジョン・ガイガー「サードマン」(新潮文庫)参照のこと。







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紋切型社会

2015年05月25日 09時55分28秒 | 書籍
紋切型社会――言葉で固まる現代を解きほぐす
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朝日出版社


武田砂鉄『紋切型社会』を読む。

唐突だが、著者の武田さんは河出書房新社の元編集者で、一度、仕事で絡んだことがあった。そのときに彼の書いた文章を読んで、おそろしく筆力のある編集者だな、あんなに若くて、こんなに筆力があったら社員編集者なんかやめて、そのうち独立して自分で文章書きたくなるだろうな、などと勝手に想像していたら、案の定まもなく退職の知らせが届き、私は河出との唯一の接点を失った。やっぱり辞めましたかとメールを出すと、じつは社員時代から武田砂鉄という筆名で文章を発表していたんですとの返事がとどき、さもありなんと妙に納得したものである。

その武田さんの初の単行本が、私の留守中に自宅に送られてきたというので、ほかの荷物と一緒にシオラパルクに送ってもらった。タイトルをみても想像がつくとおり、紋切型の言葉をいくつも集めて、それを突破口に、思考を停止して安易に生ぬるい全体的な空気に流されたがる現代の日本の風潮を鋭く批評した作品だ。本人は「はじめに」の序文のなかで揚げ足を取ってみたみたいなことを書いているが、全然、揚げ足ではない。正面からばっさばっさと斬っている。最近は読者に迎合する本ばかりが売れ、読者も自分のことを癒してくれたり、慰めてくれたりする本ばかりを望んでいる節があるが、当たり前ですが、この本にはそんな遠慮は一切ありません。私も数カ所で斬られて、血を吹き出し、苦しい思いをしました。

登山の分野でもそうだが、最近は急速に自由であることが敬遠されている。自由であるということは自分で思考し判断しなければならず、それが面倒くさいからだ。自由な状態よりも、何者かに緩やかに管理されている状態のほうが人間としては楽なわけで、八ヶ岳に人が殺到するところなどを見ると、その管理化された状態の希求が近年は特につよくなっていると感じる。原因は分からんけど。紋切型のフレーズを使うということは、自由な思考を忌避して、管理された状態に自ら落とし込むということであろう。

そういえば新聞記者をしていたとき、私と同世代か下の世代のなかに、自分の言葉を持っている記者がまったくといっていいほど見当たらず、それが不思議だった。言葉とは背骨から出てくるものである。どんなに独りよがりであっても、言葉は背骨がないと出てこない。みんな記者としては私より優秀だったが、背骨のある者はいなかったわけだ。紋切型のフレーズが安直に使われているとするなら、それは日本人から背骨が無くなっていることの証である。本書に対する唯一の懸念は、みんな背骨がなくなってぐにゃぐにゃだから、案外、この本で斬られても、ぐにゃぐにゃっとして何も感じないかもしれないということだ。

それにしても、こういう本の感想文を書くと、「角幡さん、紋切型ですねえ」とか言われそうで、それがなんかいやだ。

話は全然かわるけど、照の富士が優勝したなあ。

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千の顔を持つ英雄、などなど

2015年05月15日 21時05分30秒 | 書籍
千の顔をもつ英雄〈上〉
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人文書院


千の顔をもつ英雄〈下〉
クリエーター情報なし
人文書院



今回の旅は一年以上の予定なので、村に滞在中などに読むための本を大量に持ち込んできた。実際に来てみると装備の整備だとか情報収集だとかで結構時間がなく、本なんか読む暇ないなあと思っており、実際にそのような内容のエッセイもどっかで書いてしまったのだが、なんだかんだと言って読了した書籍がじわじわと目の前に積み上がってきた。

以下、簡単に言及。

ジョン・ターク『縄文人は太平洋を渡ったか』…途方もないカヤックの冒険記。二年かけて北海道から千島をわたり、カムチャッカからアリューシャン、アラスカへと到達する。縄文人は丸木舟でアメリカ大陸へ渡っていたとの説を、自ら実証しようというのが旅立ちの動機である。

著者は何度も、縄文人が舟で海に漕ぎだしたのは食糧が足りなくなったとか、居住地が狭くなったとか、そういう必然性に迫られたからではなく、未知へのロマンが引き金になったからではないかとの自説を記している。たしかに私もいろいろと自分の本で冒険とか探検への動機について書いてきたが、結局なんだかんだいって、地の果てに対する本能的、直観的な感情がその根底にあるのではないかという気もする。腹が減ったらご飯をたべたくなるのと同じように、人間にはある一定の割合で、知らない島を見たら行きたくなる人間がいるのだ。その気持ちを、そうではない人々に言葉を尽くして説明するのは非常に難しい。この本の著者はそのことを何度も繰り返し言及している。われわれみたいな人間は縄文時代もいて、そういう人間にとって知らない土地を知ったら行きたくなるのは当たり前で、その感情は止められない。そういう俺たち変人が、人類の居住地を拡散して、歴史を動かしてきたんだ! ということである。

同じ変人としては同感だが、気になった点が一つだけあった。どうも、縄文人がアメリカ大陸に渡った時代は、陸橋によってベーリング海が陸続きだった時代らしい。だとすると縄文人は舟ではなく、歩いて渡ったのでは? どうも著者も途中からこの点に気づいていた節があるのだが、そこに触れると遠征の意義が崩壊しかねないので、この問題にはちょっと触れただけで蓋をして一気にアラスカまで渡ってしまっている。それが正解だと思います。

辻邦生『嵯峨野明月記』…圧巻の文章。芸術の崇高性を謳っている。辻邦夫の本は何冊目だろう。五冊目、六冊目ぐらい? 基本的には真実を希求する無償な人間をすさまじい文章力、叙述力で一気に語りつくすのが辻邦生の物語である。この本も素晴らしいが、個人的には『西行花伝』のほうが上と感じた。

車谷長吉『赤目四十八瀧心中未遂』…著者が実際に大阪の下町でモツの串サシを延々としていた頃の体験をモチーフにした私小説ということであるが、物語の展開力、それに人間存在の深みに迫るようなスリリングな文書は、読者を打ちのめすこと必至である。素晴らしい小説を読ませていただきました。それにしても、これはどこまで実体験なのだろう。全部だとしたら、すごい。

あとは大沢真幸『自由という牢獄』、吉岡忍『M/世界の、憂鬱な先端』、佐藤泰志『海炭市叙景』、山本七平『空気の研究』、R・ドーマル『類推の山』、ミル『自由論』、メルロ=ポンティ『知覚の哲学』、オリヴァー・サックス『色のない島へ』など。全部、ひとこと言及しようと思ったのだが、力尽きましたので書名だけにします。ちなみに最近、自由という概念について考察することが多く、サルトルの自由論を知るためについついアマゾンで『存在と無』をぽちっと押してしまった。三巻で五千数百円。それが最近自宅にとどいたらしく、さっそくスカイプで妻から嫌味を言われた。たしかにこんな本、読んでいたら、シオラパルクでは何もできない……。

ところで、書きたいのはジョゼフ・キャンベル『千の顔をもつ英雄』について。いやあ、この本は私の執筆にかなり深い影響を与えそうだ。

キャンベルの本は『神話の力』を読んで、非常に感銘を受け、そのエッセイを日々本々のなかにも書いたが、こちらの『千の顔をもつ英雄』はより具体的に神話がもつ物語上の構造と、神話が共同体の個人に与える認証について解きあかす内容になっている。

内容は神話における英雄の冒険の物語が第一部で、第二部が神話が説明する宇宙創成の構造で、第一部のほうが私には面白かった。テーマは神話についてなのだが、これは冒険や旅に出る現代の旅人の動機の説明にもなっている。つまり、古代の神話の英雄譚のなかに込められた行動の原理は、現代のわれわれにも当てはまるということである。

この本を読んで、私は自分が何を書きたいのかはっきりと整理された。私が今、書いているのは、マグロ漁師の漂流の物語と、自分自身の極夜の探検の話で、この両者がどのように自分のなかで関連しているのか、もやもやっとしており明確に言葉で説明できなかったのだが、そうか、そういうことだったのかと合点がいきました。たぶん、読んでいる人は何のことかさっぱりわからないと思うのだが、まあ、勝手に想像してください。言えるのは、この本はすごい。物語に興味がある人なら、読んで損はないでしょう。

それにしてもジョゼフ・キャンベル恐るべしである。この人は私が何をやりたいのか、何を求めているのか、全部知っているのではないか。



縄文人は太平洋を渡ったか―カヤック3000マイル航海記
クリエーター情報なし
青土社



嵯峨野明月記 (中公文庫)
クリエーター情報なし
中央公論社



赤目四十八瀧心中未遂 (文春文庫)
クリエーター情報なし
文藝春秋





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私のように黒い夜

2013年11月24日 10時19分54秒 | 書籍
私のように黒い夜
J・H・グリフィン
ブルースインターアクションズ


ひさしぶりに本の紹介。最近、朝日新聞やPR誌の書評、それに文庫の解説の仕事が多くて、自分が読みたい本がなかなか読めなかったが、この本は久しぶりに強い読後感に打ちのめされた。先日、朝日新聞紙上で高野さんと対談した時に教えてもらった本だが、こんな名著のことを今まで知らなかったことを恥じ入るばかりだ。

この本は1959年に、白人である著者が人工灯による太陽光照射と薬物で肌の色を焼いて、つまりまるっきり黒人になりきって、当時人種差別の激しかった米国南部を旅した記録である。黒人になることで著者は白人の時にはまったく体験しなかった差別、嫌悪を体験することになる。

驚くべきことに当時の南部において黒人は公衆便所を使うことさえ認められていなかったらしく、トイレを求めて町を横断するといったことはざらだったらしい。バスや店先で浴びせられる汚いものを見るような視線、侮蔑的な罵声、人間を動物以下としか見なさない、白人に対する時からは想像もできない人種差別主義者たちの人間性の欠如を体験することになる。

これは絶対に白人だったら見えなかった、書き記すことのできなかった現実である。この時の対談は探検・冒険本特集で、高野さんはこれをそういう本の一冊として選んできていたのだが、著者は命の危険も感じているので、まさに冒険である。体を張って別の位相にある世界に切り込んでいくという意味では『狼の群れと暮らした男』に近いものを感じた。もちろん社会の不正義を告発しているのだがから、それ以上にジャーナリスティックである。



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世界しあわせ紀行

2013年03月10日 10時50分22秒 | 書籍
世界しあわせ紀行
エリック・ワイナー
早川書房


エリック・ワイナー『世界しあわせ紀行』を読む。不幸な国の不幸な人々ばかり取材してきたアメリカのジャーナリストが、幸せな国を求めて世界を旅する旅行記である。オランダの幸福学の教授などが算出した幸福度調査を基準に、幸福度の高い国や、逆に幸福度の低い国を訪れ、彼らは本当に幸せなのか、幸せとは何なのかを問い続ける。

と簡単にいうとそういう本なのだが、なんといってもこの本の魅力は文章にある。

とにかく文章は面白い。アメリカのノンフィクションにはユーモアをきかせた作品が少なくないが、これは群を抜いている。群を抜いているというより、度を越しているというのに近い。しかし不快ではない。どんなにユーモアのきいた本でも、通常は読んでいてニタニタ笑いが抑えられない箇所は、一冊の中で4、5か所ぐらいだろうが、この本はほぼ全ページにわたって散りばめられている。

文章自体が面白すぎるため、内容に関してはほとんどどうでもいいとさえ思えてくる。読み終わった時に、そういえばこの本はいったい何が言いたかったんだっけ、と忘れてしまい、その結果、本の全体的な価値を少し下げてしまっているという珍しい本である。

発行は昨年10月だったかな。今までこんな本が出ていたことに気付かなかったことが不思議でならない。たまたま早稲田に用事があり、その帰りに高田馬場の芳林堂に寄って見つけたからよかったものの、芳林堂に行かなかったら、読むことはなかっただろう。そういえば、芳林堂に寄ったのは、kotobaの最新号で本屋特集をやっていて、その中で読書家で知られるピースの又吉直樹が、通りかかった本屋は絶対に立ち寄るというようなことを言っていたことを思い出し、わざわざ早稲田から芳林堂まで足を延ばしたのだ。そう考えると、この本と出会えたのも、ピース又吉のおかげである。ありがとう、ピース又吉!


kotoba (コトバ) 2013年 04月号 [雑誌]
クリエーター情報なし
集英社


あと、お知らせですが、BEPAL最新号で石川直樹くんとの対談が載っています。小学館が開高健の全集を電子書籍で出すようで、その記念で開高賞出身の二人ということで呼ばれました。開高さんの本のことはもちろん、旅や冒険や書くことなどについて語っています。

BEーPAL (ビーパル) 2013年 04月号 [雑誌]
クリエーター情報なし
小学館




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メモワール

2013年03月02日 13時03分15秒 | 書籍
メモワール 写真家・古屋誠一との二〇年
小林紀晴
集英社


小林紀晴『メモワール』を読む。

新聞書評やテーマの重さから、ものすごい本だというのは想像していた。それだけに、うちのめされるのが怖くて読む気が起きなかったが、読んでよかった。ものすごい本だった。写真家はなぜ写真をとるのかを問いつめた作品だ。

写真家である著者は、同じく写真家である古屋誠一を二十年にわたりおいかけた。出発点は古屋はなぜ自殺した妻の最後の姿を写真に収めたのか知りたかったからだ。

そこにあるのは業としかいいようのない写真家の呪われた目だ。当然、同じ写真家である筆者の目も呪われている。プロローグとエピローグでは、9・11と3・11の現場に赴く写真家のエピソードも織り交ぜられているが、彼らもみんな呪われた目をもっている。妻の生と死に執拗にこだわり続ける古屋を通して、筆者はおのれの、そして写真家の呪われた目に深い考察を向ける。

文体もテーマにぴったり、こんな文体ははじめて読んだ。写真を一枚一枚きざむように、筆者は古屋の動きを丹念に記述する。その動きが古屋の内面を浮かび上がらせるようで、なんだか怖いのだ。簡潔で重苦しい。コツン、コツンと病院の廊下で靴音がつめたく響くような文章だ。写真家の文章とはかくもおそろしいものなのか。

こういう本を読むと、どうしても自分のことにひきよせて考えてしまう。文章を書くことも、表現であるという点で考えると写真とかわらない。3・11の時、私はカナダにいたが、被災地を訪れたいという欲求に悩まされた。あれは被災地をルポすることで、何かを表現したいという欲求があったのだろうか。

登山も冒険も表現であることには変わらない。私が危険を顧みず衛星電話もGPSも持たずに北極に行くのは、それにより自分の世界観が表現できると考えているからだ。友人の舐め太郎氏は那智の滝を登って逮捕され、社会的制裁を受けたが、それもこれも那智の滝を登ることが彼らの表現だったからだ。表現とは狂気をはらむものなのである。

しかし写真家ほど自分が呪われていると感じる表現はないのかもしれない。カメラは暴力だし、他人の領域にずかずかと踏み込んでいかざるを得ないから。

今年のナンバー1決定! と思ったら、去年の本だった。そういえば年末年始は北極に行ってたんだった。

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