加計学園問題で文部科学省が文書の再調査をすることを発表した。最近のテレビ報道なんかでは、菅の官房長官会見で鋭い質問をする記者が現れて答弁に矛盾やほころび、動揺がみられる様子を何度かみた。「その指摘はあたらない」みたいな、いわゆる〈菅話法〉といわれる木で鼻を括ったような態度で議論をシャットアウトして、まったく質問にまともに答えてこようとしなかった官房長官菅だが、最近のこういう鋭い質問にたじろぐ姿をみていると、やはり官房長官会見という公の場での記者の質問は重要であり、公の場で権力者を追及してその欺瞞を明らかにすることが記者の責任なんだということを改めて実感する。
個人的に安倍政権の一番怖いところは、自分たちの都合のいいように言葉を勝手に解釈して、議論を封じ込めてしまう点だと思う。社会は言葉からなっている。法律だって言葉の羅列だし、政治家だって公の場で言葉を発して、その言葉を守ることではじめて、民衆との間に信頼関係を構築することができる。失言した政治家が追及をうけるのは、このような信頼できない言葉を発する政治家に国民の代表者たる資格があるのか、その正統性が疑われるためだ。
しかし安倍政権はこの言葉をことのほか軽視している。安保法制しかり、共謀罪法案しかり。「そもそも」という言葉に「基本的な」という意味があると国会の場で答弁して、そのような意味はないといろいろ追及されて、こまった挙句、「そもそも」の言葉の意味を閣議決定して、なかった言葉の意味を勝手にあることにしてしまうような態度を見ていると、お前らは神かと突っ込みたくなる。言葉は社会や人間関係を構築しているベースであるわけで、その言葉そのものを勝手に解釈できたり意味を変更できたりするなら、それまでわれわれの社会で普通に使われてきた言葉の意味が通用しなくなるということであり、逆にいえば、これまでの意味や慣習を無視して自分の都合のいい世界を構築できるということだ。安倍政権が独裁的なのは、このように言葉を軽々しく扱うからである。
政治家は信頼に値する言葉を発して国民と約束することで、はじめて職務を遂行できるわけだが、このようにひたする言葉を軽視する態度に出てしまうと、もう何を言っても信用できない。共謀罪で一般人は対象とならないと言われても、どうせ適当に解釈変更するんだろと思うし、今村復興大臣が失言で辞任したときに安倍が「任命責任は私にあります」と、いかにもカッコいい感じで言っておきながら、具体的に何の行動も起こさなかったときなんかのことを思い起こしても、お前の言葉には何の内実もないと思ってしまう。だからこういう人たちがどんな主張をしても全然信用することができないし、このように信頼できない人たちが政権を担っているのは国民の不幸以外の何物でもない。
で、話は加計問題にもどるわけだが、文部省が再調査したら文書は見つかるだろうとみられている。これまでの経緯をみていると、まあ出てくるんだろうなと誰もが思うし、そのうえで出てきた文書の中身は信頼に値しないみたいな結論を出すんだろうな、出来レースで行く気なんだなと思う。
それに対抗するには、やはり彼らの言葉の正統性を突っこむ以外、方法はないのではないか。菅はたぶんまた「菅語法」を炸裂させて、議論を封じ込めようとする。しかし、この人は最初、文書を「怪文書」「出所不明」とまで断言していた。今では戦略が失敗したと反省したのか、文部省の問題に矮小化しようとしているが、しかし彼が言った言葉は変えられない。もし彼が怪文書とまで断言していた文書が実際に見つかり、前川次官が正しかったことが証明されれば、当然、国民は菅の発言というのは信頼に値するものではないのではないかという印象をもつ。なぜ官房長官ともあろう立場の人が、怪文書とまで断言できたのか。それはあることをなかったことにしようとする、まさにそういうことではなかったか。そうした彼の言葉の正統性を官房長官会見という超公の場で汽車がガンガン突っこめば、菅だってたじろぎ、気色ばみ、言葉につまる場面も出てくるだろう。取材なんて警察の取り調べと似たようなもので、細かいところをついて矛盾点を明らかにするのが基本だから、彼の言葉の矛盾点をつけば、どこかで化けの皮がはがれてボロがでる。それがテレビで放映されて、彼らの正体が国民の前にさらされる。さすがに、お前らいい加減にしろよと皆思いはじめて支持率がさがって、支持率頼みだった安倍があのときみたいにまた顔面蒼白になって退陣する。
私も記者をやっていたのでよくわかるが、日本の記者は当局に食いこんで情報とることばかり考えているので、公の記者会見を軽視する傾向がある。公の場では大人しくしていて、会見が終わった後にこそこそっ裏から近づいて、自分が本当に聞きたい質問をする。しかし権力監視という点ではこんなことやっても全然意味がない。やはり国民が注視している公の会見の場で、厳しい質問をくりだし、追及して、彼らの言葉に矛盾点がないか監視するのが記者の重要な責務だ。「その指摘はあたらない」みたいなこと言われて、自分がバカにされていることにも気づかず、大人しく、それが大人の態度だ、みたいにシーンと静まり返る記者に存在価値などない。
個人的に安倍政権の一番怖いところは、自分たちの都合のいいように言葉を勝手に解釈して、議論を封じ込めてしまう点だと思う。社会は言葉からなっている。法律だって言葉の羅列だし、政治家だって公の場で言葉を発して、その言葉を守ることではじめて、民衆との間に信頼関係を構築することができる。失言した政治家が追及をうけるのは、このような信頼できない言葉を発する政治家に国民の代表者たる資格があるのか、その正統性が疑われるためだ。
しかし安倍政権はこの言葉をことのほか軽視している。安保法制しかり、共謀罪法案しかり。「そもそも」という言葉に「基本的な」という意味があると国会の場で答弁して、そのような意味はないといろいろ追及されて、こまった挙句、「そもそも」の言葉の意味を閣議決定して、なかった言葉の意味を勝手にあることにしてしまうような態度を見ていると、お前らは神かと突っ込みたくなる。言葉は社会や人間関係を構築しているベースであるわけで、その言葉そのものを勝手に解釈できたり意味を変更できたりするなら、それまでわれわれの社会で普通に使われてきた言葉の意味が通用しなくなるということであり、逆にいえば、これまでの意味や慣習を無視して自分の都合のいい世界を構築できるということだ。安倍政権が独裁的なのは、このように言葉を軽々しく扱うからである。
政治家は信頼に値する言葉を発して国民と約束することで、はじめて職務を遂行できるわけだが、このようにひたする言葉を軽視する態度に出てしまうと、もう何を言っても信用できない。共謀罪で一般人は対象とならないと言われても、どうせ適当に解釈変更するんだろと思うし、今村復興大臣が失言で辞任したときに安倍が「任命責任は私にあります」と、いかにもカッコいい感じで言っておきながら、具体的に何の行動も起こさなかったときなんかのことを思い起こしても、お前の言葉には何の内実もないと思ってしまう。だからこういう人たちがどんな主張をしても全然信用することができないし、このように信頼できない人たちが政権を担っているのは国民の不幸以外の何物でもない。
で、話は加計問題にもどるわけだが、文部省が再調査したら文書は見つかるだろうとみられている。これまでの経緯をみていると、まあ出てくるんだろうなと誰もが思うし、そのうえで出てきた文書の中身は信頼に値しないみたいな結論を出すんだろうな、出来レースで行く気なんだなと思う。
それに対抗するには、やはり彼らの言葉の正統性を突っこむ以外、方法はないのではないか。菅はたぶんまた「菅語法」を炸裂させて、議論を封じ込めようとする。しかし、この人は最初、文書を「怪文書」「出所不明」とまで断言していた。今では戦略が失敗したと反省したのか、文部省の問題に矮小化しようとしているが、しかし彼が言った言葉は変えられない。もし彼が怪文書とまで断言していた文書が実際に見つかり、前川次官が正しかったことが証明されれば、当然、国民は菅の発言というのは信頼に値するものではないのではないかという印象をもつ。なぜ官房長官ともあろう立場の人が、怪文書とまで断言できたのか。それはあることをなかったことにしようとする、まさにそういうことではなかったか。そうした彼の言葉の正統性を官房長官会見という超公の場で汽車がガンガン突っこめば、菅だってたじろぎ、気色ばみ、言葉につまる場面も出てくるだろう。取材なんて警察の取り調べと似たようなもので、細かいところをついて矛盾点を明らかにするのが基本だから、彼の言葉の矛盾点をつけば、どこかで化けの皮がはがれてボロがでる。それがテレビで放映されて、彼らの正体が国民の前にさらされる。さすがに、お前らいい加減にしろよと皆思いはじめて支持率がさがって、支持率頼みだった安倍があのときみたいにまた顔面蒼白になって退陣する。
私も記者をやっていたのでよくわかるが、日本の記者は当局に食いこんで情報とることばかり考えているので、公の記者会見を軽視する傾向がある。公の場では大人しくしていて、会見が終わった後にこそこそっ裏から近づいて、自分が本当に聞きたい質問をする。しかし権力監視という点ではこんなことやっても全然意味がない。やはり国民が注視している公の会見の場で、厳しい質問をくりだし、追及して、彼らの言葉に矛盾点がないか監視するのが記者の重要な責務だ。「その指摘はあたらない」みたいなこと言われて、自分がバカにされていることにも気づかず、大人しく、それが大人の態度だ、みたいにシーンと静まり返る記者に存在価値などない。