ホトケの顔も三度まで

ノンフィクション作家、探検家角幡唯介のブログ

教育勅語雑感

2017年04月08日 08時02分33秒 | 雑記
最近、一番うんざりしたのは、政府が教育勅語の教材使用を政府が閣議決定したこと。昨日も文部副大臣義家弘介が幼稚園などの教育現場で教育勅語を朗読することは「教育基本法に反しないかぎり問題ない行為」と意味不明、内容皆無の答弁をして話題となった。この答弁は犯罪をおかしてもそれが刑法に違反しないかぎり問題がないと言っているようなもんで、日本語としてまったく意味をなさず、この人は本当に教師をしていたのだろうかと疑いたくなる。それに文部副大臣という立場にあろう人が、こんな法の精神を骨抜きにするような発言をして許されるのだろうか。即刻辞任に値する発言だと思うのだが。

それにしても教育勅語の復活、治安維持法の予防拘禁制度を彷彿とさせる共謀罪法案の国会審議入り、銃剣道の学習指導要領入りと、いよいよこの国は戦前の国家体制に復古しつつあることが如実になってきた。戦前の国家体制に復古して一番嫌なのは、国が戦争を起こすとかそんなことではなくて、国民の個人性が公権力によって否定されることだ。教育勅語に何が書いてあるかというと「万一危急の大事が起ったならば、大義に基づいて勇気をふるい一身を捧げて皇室国家の為につくせ。かくして神勅のまにまに天地と共に窮りなき宝祚(あまつひつぎ)の御栄をたすけ奉れ。かようにすることは、ただに朕に対して忠良な臣民であるばかりでなく、それがとりもなおさず、汝らの祖先ののこした美風をはっきりあらわすことになる」(ウィキペディアより)なんてことが書いてあるわけで、こんな国民の個人的人格を否定して国家に命ごと隷属させるようなことを命じているテキストを、まだ善悪の基準やモラルが十分に確立されていない子供たちに美風として教え込むような教育なんて、想像しただけでゾッとする。たとえば稲田朋美みたいに教育勅語に書かれていることの核の部分は取り戻すべきだみたいなことを言う人たちは、教育勅語の徳目が戦前のファシズム日本を建設することにどれだけ大きな機能を果たしたかという歴史の教訓をいったいどう評価しているのだろうか。

子供をもつ一人の親として切実に思うのは、こんな文章を教材で扱うような教育機関には絶対に通学させたくないということだ。先日、娘がテレビで首相安倍を見たときに「この人知っている」と何か偉い人だと思っているようなことを言ったので、マズイと思い、「こいつはね日本で一番悪いやつなんだよ。日本で一番の嘘つきだから」とちゃんと本当のことを教えてあげた。将来、学校で教育勅語の精神を吹きこまれた娘に、「おとうさん、そういう国家にたてつくようなことをブログで書いたりしたらダメだって先生が言ってたよ」とか言われたらどうしようと真剣に心配になる。もし娘が森友学園でわけのわからないことを言わされていた子供みたいに精神を変造され、目を純真にキラキラさせて国家に忠誠を誓うようなことを平然と口にするようになったら可哀相だし、個人の自律、モラルの確立を公権力によって取り上げられた人間ほど憐れなものはない。子供にはそんな人間になってほしくないし、上から押しつけられた忠誠心にしたがって生きるのではなく、自分だけの信念を自分の力で探す、そんな生き方をさせてあげたい。少なくともそういう環境で育ってほしい。

ゆえあって、今年のうちに引っ越さなくてはならなくなり、今、移住先を探しているのだが、こういうニュースを聞くたびに、マジでこの国から逃れて海外移住を検討したくなる。教育勅語に象徴される戦前回帰傾向に、冬山登山禁止にみられる危険回避、責任回避を根底にした「あれをやったらダメ、これを言っちゃいけない」という風潮。本当にこの国はクソみたいな国になりつつあるし、私はそんなこの国が最近心底嫌いだ。でもこの国に住んでいる以上は公的な責任があるので、この国はクソみたいだし薄気味悪い腐臭をはなちつつあるということだけは積極的に発言していきたいと思う。
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