ホトケの顔も三度まで

ノンフィクション作家、探検家角幡唯介のブログ

沈黙の山嶺

2015年10月27日 09時01分03秒 | 書籍
沈黙の山嶺(上) 第一次世界大戦とマロリーのエヴェレスト
クリエーター情報なし
白水社


ウェイド・デイヴィス『沈黙の山嶺』を読む。because it is there(そこに山があるから)の言葉で有名なジョージ・マロリーを軸に、1920年代の英国のエベレスト挑戦を描いた歴史大河山岳ノンフィクション。本編だけで上下巻700ページ、かつ二段組の大作だが、時差ボケでどうしても目が覚めてしまう早朝の長い時間を利用して一気に読み終えた。ヒマラヤ登山の話を、これほど壮大な叙事詩にまとめあげた作品はないのではないか。登山史に関心がある人でなくとも、豊かな読書を体験できること請け合いの素晴らしい作品だった。

1924年の遠征でマロリーは若い隊員アーヴィンとともに最後の登頂への挑戦に出発する。隊員のノエル・オデルは第五キャンプから、予定より大幅におそい時間に、頂上につづく北東稜をゆく二つの黒い人影を認める。その後、稜線にはガスが立ちこめたためオデルは二人の姿を見失い、そして二人が山を下りてくることはなかったのだが、マロリーはこのとき自らの死と引き換えにエベレストに永遠に解かれることのない謎を残すことになった。もしかすると彼はエベレストの頂上に立っていたのではないかという謎だ。

本書はこの謎に正面から取り組んでいるわけではなく、1924年の遠征に関しては最後の2章があてられているだけだ。それでも全体的な物語の構造は、マロリーが最後に頂上に向かうことに決めた、その行動に収斂されるように書かれている。実際にこのときの遠征隊の隊員が成し遂げた成果は、当時の貧相で劣悪な装備や、高所順応のタクティクスに関する知見がほとんどなかったことを考えると、ちょっと信じられないものだった。マロリーの前に頂上を目指したノートンは酸素ボンベなしで8573メートル地点まで到達し、そこから引き返しているが、この驚異的な記録は1952年のスイス隊まで破られることはなかったのである。

いったい、この1924年の英国隊というのは何だったのか。本書の視点が独特なのは、1921年、22年、24年とつづいたエベレスト遠征隊を、第一次大戦と絡ませて描いている点だ。第一次大戦についてほとんど何の知識もない私は知らなかったのだが、当時の欧州の若者は戦争に駆り出されて、ほとんどが死んだらしい。ヘミングウェイが『日はまた昇る』で描いた‟失われた世代”というやつだが、この失われた世代という意味は、戦争で精神が荒廃し、心に闇をかかえてしまったという意味の‟失われた”ではなく、文字通り戦死してその世代の多くが存在しなくなってしまったという意味での‟失われた世代”だった。マロリーをはじめとした20年代の英国隊の隊員の多くはこの世代にあたり、彼らのほとんどが戦場に駆り出されて、奇跡的に生き延びた男たちだった。そのことを強調するため、著者は本書の序盤と、また個々の隊員を紹介するくだりで、必ず彼らの戦争体験について詳しく触れ、彼らが見た戦場の死を執拗なまでに生々しく描写する。

20年代のエベレスト隊員がバーバリーのツイード地の服を着て、ゲートルを足の巻き、何十キロもの重さのキャンバス地のテントを担いでエベレストの‟死の領域”に踏み出せたのは、戦場を経験した彼らにとって死というのはあまりにもありふれたものだったからだ。それが著者の言いたいことで、生の内側に死を取りこんだ人間に特有の死生観が、マロリーが最後、頂上に向かって足を踏み出した理由なのだということを、この本は700ページにわたって述べているわけだ。

こうした観点が冒険になじみのない読者にどれほど受け入れらるのかよくわからないが、私個人としては納得のいくものだった。一度、死を取りこんだ生は、死を感じることができないと輝くことはない。頂上に吸い寄せられるように向かったマロリーには、死を絶対悪として忌避する心性はすでに失われていた。たとえそれが死の淵にあるものだとしても、生を燃焼させることができるなら、それを避けるべき理由は彼にはなかったのである。

マロリーの遺体は1999年に米国の探検隊に発見され、センセーショナルに報道された。その調査の一部始終を描いた本も出ており、マロリーの謎の詳細について知りたい人はこちらもお薦めである。

そして謎は残った―伝説の登山家マロリー発見記
クリエーター情報なし
文藝春秋






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松本竜雄「初登攀行」

2015年10月20日 00時19分08秒 | 書籍
帰国の途上で松本竜雄「初登攀行」を読む。

一般にはなじみが薄いかもしれないが、松本竜雄は昭和三十年代に活躍した日本登攀史にのこるクライマーだ。穂高や谷川や彼が開いたルートが「雲表ルート」として沢山残っており、今も多くのクライマーを惹きつけている。日本の岩壁の初登攀時代の最後を飾った、すさまじい山行記録をつづった作品だが、うーん、ちょっと刺激を受けてしまった。

登山家には名文家がすくなくないが、彼もその例に漏れない。とくに風景描写や比喩表現が巧みで、読んでいて唸らされる文章がすくなくなかった。適切な言葉がなにげなく、スポっとはまりこんでいる。登山に対する心情も率直で、山に対する真剣味が伝わってくる。

松本竜雄が一ノ倉のコップ状岩壁初登攀の際に初めてエクスパンションボルトを使用したことは有名だが、正直いって、当時のクライマーがここまでボルトの使用に関して悩み、非難を覚悟のうえで使用に踏み切っていたことは知らなかった。現在、烏帽子岩奥壁や衝立岩にのこる古びた残置ボルトの数を思うと、昔の人たちは何も気にせずガンガン打ちまくっていたのだとばかり思っていたが、どうやら違ったらしい。登山家のモラルは昔から試されいたんですね。

松本竜雄をふくめ登山家の文章がうまいのは、登山という行為が本質的にもつ切実さと無縁ではないのだろう。登山は命がかかっているだけに、なぜ自分は山に登るのかという自省を促す。生きることそのものに真摯にならざるをえないし、登山をつうじて、山以外のあらゆる事象についても考察するから、それが独自の思想と言葉を生み出すのだと思う。思考の末に獲得された言葉こそが、本物の知恵である。松本竜雄は学歴とは無縁の社会人クライマーだったが、彼が誇る語彙の豊かさには、自らが格闘して思考した跡が見えて、これこそが本物の学なのだと考えさせられた(ちなみに現在とちがい、当時の社会人という言葉には中学や高校を卒業してそのまま就職した、大卒のインテリと対極な位置にある労働者階級という意味合いを含んでいた、たぶん)。

刺激を受けたというのは、山に登りたくなってしまったことだ。

今から帰ったら、ちょうど十一月。冬山シーズンが始まる時期だ。そういえば去年は結局、錫杖岳1ルンゼしか登れなかった。今冬はせっかく日本に帰るんだから、去年登れなかった一ノ倉沢中央奥壁や剱岳白萩川フランケや明神の氷壁ルートに行きたいなあ。しかし左肘の古傷の状態が思わしくなく、帰ったらまずそれを手術しなければならない。左腕を伸ばそうとするとゴリゴリするうえ、神経が圧迫されて小指の感覚がほとんどマヒしているのだ。以前、専門の先生に診てもらったところ、手術で確実に回復はするが、術後三カ月は安静にする必要があり、さらた登山のような激しい運動は半年間は控えなくてはならないと言われた。まあ、半年は五カ月ぐらいに短縮するとして、十一月に手術したら、三月末にはリハビリが終わるから、谷川や唐幕など北アルプス低山系岩壁は無理でも、剱や滝谷なら行けるかもしれんぞ……。

そんなことを考えている自分がいた。そのときにふと、そうだ、来年4月はカナダに行くつもりになっていたんだと思い出した。この間のブログで、山よりも極地のほうが面白くなったと書いたことなど、すっかり忘れていたのだった。

なお、松本竜雄は穂高でサードマンを見ているようだ。夜中に屏風岩のルンゼを加工中、岩なだれが発生したときの文章に次のようなものがある。

〈ぼくは、その下山路についた時から、だれかがぼくを見つめ、ぼくにより添っているような感じにとらわれていた。
 岩の灼ける匂いや、岩粉の充満するルンゼの下降は急峻で、二つの涸滝では懸垂下降をしなければならなかった。
 灰色の汚れた暗がりでのアプザイレンで、ぼくは、先輩二人の他にぼくらのパーティでない四人目の男を意識した。あとで富田先輩にそのことを告げると、先輩も同じような幻覚に襲われていたことを話してくれた。〉

サードマンについては、ジョン・ガイガー「サードマン」(新潮文庫)参照のこと。







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極夜探検の延期について

2015年10月16日 22時11分27秒 | 探検・冒険
長らくブログの更新できず、申し訳ありませんでした。ビーパルの連載でも書きましたが、シオラパルクの家が無電状態で、その後、電気は通ったのですが、ネットは使えないままで、知り合いの家で結構高額な料金を支払って回線を借りてたまにメールを見る程度だったので、ブログまで手が回りませんでした。

さて、唐突ですが、今、私はコペンハーゲンにいます。じつはこの十一月出発で準備していた極夜の探検ですが、来年冬に延期せざるをえない状況となりました。

理由は、これ以上長期にわたる在留資格が取れなかったことです。長期滞在については出発前からこの計画の成否にかかわる悩ましい問題で、6月から断続的にグリーンランド警察当局とささやかな手紙のやり取りをつづけてきました。その詳細についてここで明らかにすることはできませんが、7月の段階でいったん、この問題はクリアできたと思っていたのですが、じつはダメだったようです。

三月下旬にシオラパルクに着て、四月から五月に橇を引いてイヌアフィシュアクに一カ月分のデポを作り、村に戻ってアッパリアスを600羽近く取って保存食を作り、さらに六月から八月には山口君の協力を得て三カ月分のデポを運んで、村に帰ってきて橇と毛皮服の製作を進め、ようやくすべての準備が整え、あとは太陽が沈んで出発を待つばかり……という段階に至って帰国せざるをえないこととなり、無念極まりありません。

大島育雄さんはじめ、シオラパルクの村人たちも橇作り、毛皮服作りで親身になって協力してくれていただけに、残念でなりません。本当に悔しいの一言です。

準備した装備、食糧は村と無人小屋に配置したままなので、来年は自分の身体だけ現地に運べばすぐに旅に出発できる状態にあるのですが、しかしやはり一年間通して家族と離れて探検をつづけることに、今度の旅の大きな意義を見出していただけに、その構造が崩壊することが自分としては最も悔しいところです。


せっかく新しい橇も完成したのですが、使用は一年後ということになってしまいました。

ただ、帰国が決まったときはかなり落ち込みましたが、その後精神的には持ち直し、今ではトレーニングと夏に失敗したカナダデポの再設営をかねて、四月頃にカナダのエルズミアにでも行こうかななどと妄想できるようになりました。しかし、そのことを妻に伝えると電話口の向こうで声が凍りついたので、どうなるかはまだ分かりませんが……。

そもそもモチベーションがフル充電されて出発準備OKの状態で梯子を外されるかたちになったうえ、シオラパルクにいると村人が毎日、ボートで猟に出かけてアザラシ狩りをしているので、見ているこっちも身体がウズウズしてきて、今は一年間、何もしないで待っているというのは難しい状態なのです。


浮き氷の上で小型のヒゲアザラシを解体する村人


浜でイッカクを解体する村人……ではなくて、私。

毎日、こんなことをしていると、自分のなかにわずかに残っていた野生が呼び起こされるのか、早く荒野に出たくてたまらなくなってしまいます。地図のない世界という極夜探検のつぎの新しい旅の計画案が私のなかで芽生え始めており、一年間待つ間にそっちを先にやっちゃおうかなーなんてことも、時折、考えてしまいます。

バカは死んでも治らないのでしょうか。








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