ホトケの顔も三度まで

ノンフィクション作家、探検家角幡唯介のブログ

最近の反省から

2011年09月28日 11時13分26秒 | 雑記
最近の反省から二つ。

その1。先日、一緒に北極に行った荻田くんの報告会があり、出席した。報告会は滞りなくおわり、その後、懇親会に移った。わたしは彼と一緒に冒険していたこともあり、乾杯のあいさつを任された。ひとまず、荻田くんは非常に能力が高く、北極点単独無補給徒歩到達も彼なら十分可能です、と持ち上げたところまではよかったが、その後、ついつい面白いエピソードを紹介しようと思ったのが失敗だった。出てきた話がおしっこの話で、彼はちょっとおしっこが近くて、寝袋の中でPボトルに何回もおしっこしていて、そんなのぼくには考えられません、などとまくしたててしまったのだ。もちそんその時、出席者の皆様方の右手にはビールがしっかり握られていた。ひどく複雑な味のビールになったに違いない。しかもあんまりうけなかった。反省。

その2。その北極圏の話を来年1月から集英社の文芸誌「すばる」で連載することになっている。1回あたり80枚程度という約束で、連載に向け現在執筆中だ。だが、いつものように、書き始めると、書きたい話がいっぱい出てきて、原稿がどんどん長くなる。話はまだ最初の村を出発してから10日目くらいなのに、すでに原稿用紙100枚をゆうに超えた。ちなみに旅は103日間かかった。しかも物語の佳境はキングウイリアム島というところに上陸してからで、今はまだ話のさわりの部分を書いているだけなのに。このままだと1500枚くらいの原稿になってしまいそうだ。どうしよう。反省。

他にもいっぱい反省はあるが、それはまた今度。

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大相撲9月場所千秋楽

2011年09月25日 19時37分04秒 | 雑記
両国国技館で大相撲の千秋楽を見てきた。

お目あてはもちろん関脇琴奨菊。昨日は日馬富士を圧倒し、来場所の大関昇進を確実にしたので、変なプレッシャーから解放されて把瑠都には勝てると思っていたが、立ち合いで右四つに組み止められ、強引にがぶったところをぶんなげられてしまった。館内から大きなため息。

結びは白鳳が負けたら、稀勢の里、琴奨菊との巴戦になるので、すごい日馬富士コールが起きた。だが、さすがそこは横綱。危なげなく日馬富士を仕留めた。

今場所は久しぶりに面白い場所だった。琴奨菊はここ数場所は安定した力を見せていたので、12勝は妥当だが、稀勢の里は完全に一皮むけた感じがする。左から突きというか、はず押しは、半端ではない。強力な突き落としで戦局を一気に逆転する力がある。今日も豪栄道を左からの突き一発で土俵に沈めた。今場所12勝をあげたことで、来場所の大関昇進ラインは11勝。十分可能だろう。

琴奨菊が優勝できなかったのは残念だが、盛り上がったので非常に満足して帰宅。夕食はもちろん、永谷園煮込みラーメンコクうま鶏塩ちゃんこ風。秋になり、販売が開始になりました。今年もよろしく。




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地平線報告会

2011年09月22日 13時17分31秒 | お知らせ
明日、地平線会議で今回の北極行の報告会をおこないます。興味のある方はぜひおこしください。

9月23日(金) 18:00~21:00
¥500
於:新宿区立新宿スポーツセンター(03-3232-0171)

詳細は地平線会議HPをご覧ください。
http://www.chiheisen.net/

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さっき書いた自分の文章について

2011年09月22日 02時54分52秒 | 雑記
さきほど「日本山岳会会報「山」と産経新聞に掲載された国立民族学博物館小長谷教授の文章について」という、長ったらしい記事を書いた。しかし、その後、小長谷さんという方について調べてみると、女性の方だった。失敗した。文章がてっきり男性っぽかったので、「アリノリ」という男かと思い込み、頭にきてながながと書いてしまった。しかし、うーん、女性だったとは!

女性だったら印象はぜんぜん違う。たとえばさっき批判した最後の「リスクといえば、わたしたちは今、山にのぼらずとも、十分に大きなリスクとともに生きていることを強いられている」という部分も、そうだよなあ、女性的なやさしい発想だよなあ、と納得できた。「純粋に愛でた」という部分も、そりゃそうだ! となったのだが……。

男と女というだけで、こんなに文章から受ける印象が違うとは。これは知らなかった。確かに読み直してみると、女性っぽい表現がみられる。下調べが足りなかった。というか、やはりわたしはバカだったのか……?

記事を削除しようと思ったが、でもまあ、せっかく書いたので、一応残しておく。

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日本山岳会会報「山」と産経新聞に掲載された国立民族学博物館小長谷教授の文章について

2011年09月22日 01時26分05秒 | 雑記
今日、日本山岳会から「山」という会報が送られてきた。私は同山岳会の会員ではないので、なぜかなと思ったが、私の『空白の五マイル』が梅棹忠夫・山と探検文学賞を受賞したことを記事にしたので送ってくれたらしい。

その記事に小長谷有紀さんという、国立民族学博物館教授の方が書いた文章が掲載されていた。読んでみると、この文章には、いくつか看過できない点がみられる。日本山岳会の会報くらいなら、黙って見過ごしてもいいが、もともと産経新聞(8月4日朝刊)に掲載された記事らしいので、一応指摘しておく。

文章は『空白の五マイル』が梅棹賞などを受賞したことと、本のおおまかな内容を伝えて、次のように続いている。

本人のブログには「書くことを前提に冒険行為をした場合、原稿に書くことを常に意識して行動するため、行為がどうしてもそこにひきずられてしまう。わたしの場合は書くことを前提に探検や冒険をするので、よって行為としては純粋ではない」とある。
彼にとって、探検と冒険は同義であり、どちらも純粋だが、書く目的があると不純になるというわけだ。さしずめ、結婚を前提としたおつきあいは純愛にはならないということか。
梅棹なら、行きたい、見たい、知りたいという衝動と同じくらい、書きたい、伝えたいという衝動があることを、きわめて純粋に愛でたのではないかと想像される。


指摘しておきたいのは2点。

ひとつめは、わたしは探検と冒険を同義に扱ってはいない。ブログの文章では、純粋な行為として探検と冒険を文章上並列に扱っているにすぎず、意味まで同じであるとは考えていない。

議論が込み入って恐縮だが、私なりの定義を示すと、本多勝一がかつて示したように、広義の冒険は①命のリスクがともない、②主体性のある行為であると理解できる。しかしこの定義は現代的ではない。例えば、エベレスト登山はリスクがあり、主体的な行為だが、極めてシステム化がすすみ、登頂するためにはシステム化したマニュアルを守るのが近道という、極めて非冒険的な行為となっている。よって現代の冒険の定義には③現場でのクリエイティブな試行錯誤がともなうこと、という三つ目の条件を設定する必要がある。本質的に先がよめないこと、といってもいい。

一方、探検とはそうした冒険の一種であり、冒険の三条件に加えて、社会的未知の追求が条件として加わった行為ととらえるべきだ。一般的には、探検にはリスクは不必要という議論が主流だと思うが、私にいわせれば探検にリスクは必要である。なぜならば、探検の条件にリスク要因を含めなければ、探検行為の枠組みがなし崩し的にどこまでも広がるからである。インド旅行は探検ではないし、奥多摩でモンシロチョウの未知をしらべることも基本的に探検ではない。ヒマラヤの氷河で雪氷の研究をすることも危険でなければ探検ではないし、南極の昭和基地で安全を確保しながら観測調査をすることも探検でない。もし危険のないヒマラヤの雪氷研究を探検と定義するなら、モンシロチョウの調査との境界線はどこに設定するのだろうか。リスク要因を探検の条件にしなければ、あらゆる野外調査は探検になってしまう。

そもそもナンセンだって、スコットだって、ヒラリーだって、河口慧海だって、昔の本当の探検はそのまま冒険の最前線だった。冒険の定義にあてはめて考えると、当然、②の主体性だってあてはまるし、そもそも未知の世界をいくのだから、③の現場での試行錯誤の条件も、ほぼ自動的に含まれる。

長くなったが、指摘しておきたい点の二つ目。行為は書く目的があると不純になる、という点。これは特に間違っていないが、補足しておく。

冒険や探検が個人的な行為である場合、それは無償であることを、条件ではないが特徴とする。いや、純粋でなくても冒険や探検になり得るが、本来は純粋であるべきだ、と私は考える。純粋でなければ、なぜそうした危険行為を行うかという問題がぼやけてしまうからだ(ちなみに、探検は社会的な未知を追求するものであるが、そこに文章や映像といった表現行為が付随しない限り、行為としては個人的なものにとどまる)。

だがそこに書くこと、あるいは映像をとること、といった表現行為が伴う場合、行為は大なり小なり表現にひきずられる可能性が高くなる。表現を前提とした行為の場合、ルート設定自体もそれを前提に決められる。たとえば山野井泰史のように純粋な登山家が行為を終えた後に書く本とちがい、私の場合は一度の行為で一冊の本にすることを目的にしている。そうすると設定自体が物語ることを前提に規定されるため、その中で繰り広げられる行為そのものは、随所で表現結果を求めることになり、その意味で百パーセントの純粋性は失われる。表現と行為の関係は極めて難しく、表現は純粋な行為に、どこまでいっても完全には追いつかないという問題から逃れることはできない。

なお、小長谷さんの文章には、「梅棹なら、行きたい、見たい、知りたいという衝動と同じくらい、書きたい、伝えたいという衝動があることを、きわめて純粋に愛でたのではないかと想像される」と続くが、これは日本語としておかしい。私が問題にしているのは探検や冒険という行為そのものの純粋性なのに対し、この文章では行為を愛するかどうかの純粋性を問うている。自分の行為を愛するかどうかという問題は、どこまでも個人的な領域に属する問題で、一般論に発展しないのでどうでもいい。何が純粋であるべきかの対象が私とずれているので、指摘しておく。

ついでにこの文章では末尾に「リスクといえば、わたしたちは今、山にのぼらずとも、十分に大きなリスクとともに生きることを強いられている」とある。しかし、生活上ののぞまないリスクと、登山や冒険などの主体的な行為で自ら引き受けるリスクは、本質がまったく異なる。生きていく限りリスクはともなうが、基本的に我々はそれを避けたいと思っている。しかし冒険者はリスクがあることを了解した上で行為をする。だから双方のリスクは、当事者の態度のレベルでまったく異なるので、同列に扱うことはできない。

小長谷さんの文章を読むと、知的でない人間がリスクに酔って、勢いで冒険し、賞をとった、との論旨に読めてしまう。読者にバカだと思われるのは癪なので、一応、自分が普段考えていることを簡単に記した。



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マイ・バック・ページ

2011年09月17日 09時44分32秒 | 書籍
マイ・バック・ページ - ある60年代の物語
クリエーター情報なし
平凡社


川本三郎『マイ・バック・ページ』を読む。当時、筆者は朝日新聞の週刊誌記者。取材で付き合っていた左翼活動家が、過激な行動に走り、自衛隊員を殺害してしまった。事件の前後に犯人を取材していた筆者が、この事件にどう対応するかが物語のポイントだ。筆者は結果的に証憑隠滅の容疑で埼玉県警に逮捕され、朝日新聞をクビになるのだが、こうした場合、ジャーナリストにとっての金科玉条とされている「取材源の秘匿」の原則は適用されるのかどうか。

当時の筆者は、この犯人は左翼思想に基づき事件を引き起こしたのだから、ただの殺人事件ではなく思想犯であり、「取材源の秘匿」は適用されうると考えた。だから逮捕されても最初は口を割らなかった。しかし一緒に取材した先輩記者は、これはただの殺人事件であり、思想犯ではないので、「取材源の秘匿」は適用されないと判断し、市民の義務として警察に通報した。

読者としては、この犯人は思想犯ではなく、60年代的な時代の雰囲気に追いつきたいという、犯人の勝手なルサンチマンが引き起こしたただの殺人事件であるとの印象を受けた。だが、「取材源の秘匿」が適用されるかどうかという問題は、犯人が思想犯であるかどうかということと、何か関係あるのだろうか。事件が政治的事件であろうとなかろうと、たとえどんなにおぞましい殺人事件であっても、ジャーナリストが取材者として事件の当事者と接触した限り、そのことを記事にしたとかしなかったとかも関係なく、「取材源の秘匿」は適用されてしまうのではないだろうか。

私は60年代や70年代の雰囲気を知らないので、当時の時代の雰囲気を肯定するか否定するかという観点では読まなかった。取材者と取材先との人間関係の仁義の難しさについて考えた。しかし、こうした仁義の問題に思想犯かどうかという尺度が導入されてしまうあたりが、60年代的だったということなのかもしれない。

映画は見ていない。



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週刊読書人・青春と読書

2011年09月15日 23時47分34秒 | 雑記
松山で高校2か所で講演し、本日帰宅。アパートにつくと週刊読書人から9月16日号の紙面が届いていた。「ノンフィクション作家角幡唯介氏インタビュー 探検-“生”の輝く瞬間を」という見出しで、私のインタビューが二面ぶちぬきで掲載されている。インタビュー時間はたしか2時間ほどだったと記憶するが、紙面はその時のやり取りがほとんど載っている。探検の意義や、『雪男は向こうからやって来た』で書きたかったテーマについて答えている。

週刊読書人
http://www.dokushojin.co.jp/

青春と読書10月号も届いた。『雪男――』発刊にあわせたエッセー「現象としての雪男」を書いた。アマゾンや他のネットのレビューをみると、この本で私が書きたかったテーマが、どうもうまく読者に伝わっていないような気がして残念だ。小心な私は自分の作品がどのように評価されているか気になり、ついつい検索してしまう。

http://seidoku.shueisha.co.jp/seishun.html

話は変わるが、あの伝説的登山家ワルテル・ボナッティ氏が亡くなられたそうである。

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北西航路2

2011年09月13日 01時15分58秒 | お知らせ
ナショナルジオグラフィックの日本版に、北西航路の第2話が掲載されました。
地図のことについて書いています。よかったら、ご覧ください。

http://nng.nikkeibp.co.jp/nng/article/20110908/283359/index.shtml

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スライドトークなどのお知らせ

2011年09月03日 16時58分12秒 | お知らせ
以前、チベット語を習っていたカワチェンで、スライドトークを開きます。『雪男――』について写真を見てもらいながら、捜索の様子について話す予定です。

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角幡唯介スライドトーク『雪男は向こうからやって来た』

日時:2011年10月1日(土) 14:00~16:00頃(開場13:40)
会場:東京都品川区小山4-9-15 唯称寺2F 参加費:1,000円
定員:70名(前日までに要予約 定員になり次第締め切り)
参加費:1,000円

詳細やお申し込み方法はカワチェンのホームページ
(http://www.kawachen.org/event.htm)をご参照ください。
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また9月23日に地平線会議で報告会を開きます。こちらは北極圏の報告がメーンになろうかと思います。
午後6時から、500円です。場所は新宿区スポーツセンター2F大会議室です。近々、地平線会議のサイトに情報がのると思います。

地平線会議
http://www.chiheisen.net/

   *   *

どうでもいいが、アマゾンで『雪男――』がノンフィクションではなく、オカルト本として扱われている。しかもそのジャンルで3位の売れ行きらしい。他にはスピリチュアル系の書籍がずらりと並んでいる。真面目にノンフィクションを書いても、雪男ってだけでこれだ。そういえばこの間まで海外旅行の本にジャンル分けされていた。この本のどこが海外旅行本なんだ? アマゾンの連中も中身を読まずに、適当に分類してるんだろう。ネット企業なのにネットの影響力をわかっていない、いい加減な会社であることがよく分かった。あんなに本、買ってやっているのに。頭に来たから、もうアマゾンで買わない。紀伊国屋で買う。

でもアファリエイトは小遣い稼ぎになるから続ける。


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