今日、日本山岳会から「山」という会報が送られてきた。私は同山岳会の会員ではないので、なぜかなと思ったが、私の『空白の五マイル』が梅棹忠夫・山と探検文学賞を受賞したことを記事にしたので送ってくれたらしい。
その記事に小長谷有紀さんという、国立民族学博物館教授の方が書いた文章が掲載されていた。読んでみると、この文章には、いくつか看過できない点がみられる。日本山岳会の会報くらいなら、黙って見過ごしてもいいが、もともと産経新聞(8月4日朝刊)に掲載された記事らしいので、一応指摘しておく。
文章は『空白の五マイル』が梅棹賞などを受賞したことと、本のおおまかな内容を伝えて、次のように続いている。
本人のブログには「書くことを前提に冒険行為をした場合、原稿に書くことを常に意識して行動するため、行為がどうしてもそこにひきずられてしまう。わたしの場合は書くことを前提に探検や冒険をするので、よって行為としては純粋ではない」とある。
彼にとって、探検と冒険は同義であり、どちらも純粋だが、書く目的があると不純になるというわけだ。さしずめ、結婚を前提としたおつきあいは純愛にはならないということか。
梅棹なら、行きたい、見たい、知りたいという衝動と同じくらい、書きたい、伝えたいという衝動があることを、きわめて純粋に愛でたのではないかと想像される。
指摘しておきたいのは2点。
ひとつめは、わたしは探検と冒険を同義に扱ってはいない。ブログの文章では、純粋な行為として探検と冒険を文章上並列に扱っているにすぎず、意味まで同じであるとは考えていない。
議論が込み入って恐縮だが、私なりの定義を示すと、本多勝一がかつて示したように、広義の冒険は①命のリスクがともない、②主体性のある行為であると理解できる。しかしこの定義は現代的ではない。例えば、エベレスト登山はリスクがあり、主体的な行為だが、極めてシステム化がすすみ、登頂するためにはシステム化したマニュアルを守るのが近道という、極めて非冒険的な行為となっている。よって現代の冒険の定義には③現場でのクリエイティブな試行錯誤がともなうこと、という三つ目の条件を設定する必要がある。本質的に先がよめないこと、といってもいい。
一方、探検とはそうした冒険の一種であり、冒険の三条件に加えて、社会的未知の追求が条件として加わった行為ととらえるべきだ。一般的には、探検にはリスクは不必要という議論が主流だと思うが、私にいわせれば探検にリスクは必要である。なぜならば、探検の条件にリスク要因を含めなければ、探検行為の枠組みがなし崩し的にどこまでも広がるからである。インド旅行は探検ではないし、奥多摩でモンシロチョウの未知をしらべることも基本的に探検ではない。ヒマラヤの氷河で雪氷の研究をすることも危険でなければ探検ではないし、南極の昭和基地で安全を確保しながら観測調査をすることも探検でない。もし危険のないヒマラヤの雪氷研究を探検と定義するなら、モンシロチョウの調査との境界線はどこに設定するのだろうか。リスク要因を探検の条件にしなければ、あらゆる野外調査は探検になってしまう。
そもそもナンセンだって、スコットだって、ヒラリーだって、河口慧海だって、昔の本当の探検はそのまま冒険の最前線だった。冒険の定義にあてはめて考えると、当然、②の主体性だってあてはまるし、そもそも未知の世界をいくのだから、③の現場での試行錯誤の条件も、ほぼ自動的に含まれる。
長くなったが、指摘しておきたい点の二つ目。行為は書く目的があると不純になる、という点。これは特に間違っていないが、補足しておく。
冒険や探検が個人的な行為である場合、それは無償であることを、条件ではないが特徴とする。いや、純粋でなくても冒険や探検になり得るが、本来は純粋であるべきだ、と私は考える。純粋でなければ、なぜそうした危険行為を行うかという問題がぼやけてしまうからだ(ちなみに、探検は社会的な未知を追求するものであるが、そこに文章や映像といった表現行為が付随しない限り、行為としては個人的なものにとどまる)。
だがそこに書くこと、あるいは映像をとること、といった表現行為が伴う場合、行為は大なり小なり表現にひきずられる可能性が高くなる。表現を前提とした行為の場合、ルート設定自体もそれを前提に決められる。たとえば山野井泰史のように純粋な登山家が行為を終えた後に書く本とちがい、私の場合は一度の行為で一冊の本にすることを目的にしている。そうすると設定自体が物語ることを前提に規定されるため、その中で繰り広げられる行為そのものは、随所で表現結果を求めることになり、その意味で百パーセントの純粋性は失われる。表現と行為の関係は極めて難しく、表現は純粋な行為に、どこまでいっても完全には追いつかないという問題から逃れることはできない。
なお、小長谷さんの文章には、「梅棹なら、行きたい、見たい、知りたいという衝動と同じくらい、書きたい、伝えたいという衝動があることを、きわめて純粋に愛でたのではないかと想像される」と続くが、これは日本語としておかしい。私が問題にしているのは探検や冒険という行為そのものの純粋性なのに対し、この文章では行為を愛するかどうかの純粋性を問うている。自分の行為を愛するかどうかという問題は、どこまでも個人的な領域に属する問題で、一般論に発展しないのでどうでもいい。何が純粋であるべきかの対象が私とずれているので、指摘しておく。
ついでにこの文章では末尾に「リスクといえば、わたしたちは今、山にのぼらずとも、十分に大きなリスクとともに生きることを強いられている」とある。しかし、生活上ののぞまないリスクと、登山や冒険などの主体的な行為で自ら引き受けるリスクは、本質がまったく異なる。生きていく限りリスクはともなうが、基本的に我々はそれを避けたいと思っている。しかし冒険者はリスクがあることを了解した上で行為をする。だから双方のリスクは、当事者の態度のレベルでまったく異なるので、同列に扱うことはできない。
小長谷さんの文章を読むと、知的でない人間がリスクに酔って、勢いで冒険し、賞をとった、との論旨に読めてしまう。読者にバカだと思われるのは癪なので、一応、自分が普段考えていることを簡単に記した。