宿屋めぐり | |
町田康 | |
講談社 |
パンク侍、斬られて候 (角川文庫) | |
町田康 | |
角川書店 |
最近、町田康の小説『宿屋めぐり』『パンク侍、斬られて候』を読んで、大変な目に遭った。
私は別に文学には全然詳しくないが、日本の現代作家で天才と呼べる人がいるとすれば、それはやはり町田康だと思う。二冊とも内容が哲学的で、今、私たちの目の前の現実がどこまで本当なのか、虚構なのか、何が本当で何が本当でないのか、強烈にわけのわからない文体で解き明かそうとしている。デカルトのコギトエルゴスム(我思う、ゆえに我あり)を日本語に翻訳して、長編小説にしたらこうなるんだろうなあ、という感じだ。
『パンク侍』の高橋源一郎の解説が秀逸で、この小説はもうすごすきて訳が分からないという感想を吐露して、解説自体、訳が分からなくなっている。
この人の小説を読むたびに、なんでノーベル文学賞をとらないんだろうと不思議になるが、でもよく考えたら、こんな文体、外国語に翻訳できないから当たり前なのかもしれない。翻訳されてるのだろうか。その辺はよく分からない。
大変な目に遭ったというのは、一つは『パンク侍』に出てくる腹ふり党に感化されて、時々、家で腹を振ってしまうことである。とりわけ酔っぱらって時は腹を振ってしまう。今も酔っぱらっているので、これから振ろうと思うのだが、腹ふり党の実践活動はふざけているように見えて、実は意外と奥が深いんじゃないかと私はにらんでいる。単調な動作を連続させるという行為は、世界における自己の存在を認識する上で極めて有用な身体活動のような気がするのだ。
ということで、私は『パンク侍』を読んでから、時折、家で思い立ってように腹を振ってみるのであるが、これが実に難しくて、人間、なかなか腹は振れないということに気づかされる。腹を振っていると思っていても、実は振っているのは腰で、腹ってどうやってふるのか、全然わからないのだ。しかも私は腰痛持ちなものだから、腹を振ろうとして、腰を振って、腰が痛くなったりしている。
もう一つは、実務上の問題だ。
現在、私はあるエッセーを書いているのだが、それがたまたま『パンク侍』の読書期間と重なり、町田康の文体に思いっきり引きずられてしまったのだ。もう書いている間は変に覚醒していて、腹を振るがごとく、ポンポン言葉が出てきて、もう俺って天才なんじゃないかとすごい勢いで二日間、のりのりで文章を書いていた。そして恥ずかしいことに、実際、知り合いに、俺って天才かもしれないと言ってしまったりもしていた。
しかしパンク侍の洗脳が解けた後に読み返してみて、私は愕然とした。この文章、終わっている……。終わっているし、終わりすぎている。こんなもの、絶対に人目に触れさせてはいけない。ああ、恥ずかしすぎる! そう思って、すっかり落ち込んでしまったのである。
あのノリノリだった二日間は何だったのだろう。町田康の小説は絶対に自分の作品を書く時に読んではいけない。
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週末は沼田のS野さんと、米子不動の黒滝を登って来た。ばっちり氷ってました!