ホトケの顔も三度まで

ノンフィクション作家、探検家角幡唯介のブログ

高校生冬山登山 「禁止」ではなく「断念」にすべきでは

2017年03月31日 22時05分40秒 | 雑記
栃木県那須町の雪崩事故で、栃木県教育委員会が高校生の冬山登山全面禁止を検討しはじめたというニュースが波紋をひろげている。野口健はツイッターが「あまりに安易な発想」と一刀両断し、今日、TBSラジオの「荒川強啓デイ・キャッチ」でもコメンテーターの宮台真司がこの問題をとりあげ、問題があったらなんでもかんでも禁止措置をして蓋をする日本的な風潮をはげしく批判していた。私もこのニュースをきいたときは非常に強い違和感をおぼえたので、ちょっとこの問題について考えてみたい。

まず、事故そのものについては、まだ詳しい状況や原因がわかっていないので安易なコメントは慎むべきだと思う。だが、これまでの報道を読む限り、雪崩の予見性にかんしてはかなりきわどい判断だったと思う。少なくとももし自分が登山者として同じ現場に立っていたら、高校生が事故にあったあの樹林帯の斜面は、登れる(=雪崩は起きない)と判断したのではないかという気がする。しかし今回の事故は個人の登山で発生した事故ではなく、教員が生徒を引率する講習会で起きた事故だ。当然、主催者側には個人登山とは別の次元の予見責任と安全責任が問われる。結果として教育の場で事故が起き、前途有望な生徒を死なせてしまった以上、今後、刑事、民事の両面で高校と教育委員会の責任がきびしく問われるのはやむをえない。

だが、それと、今回話題にしている冬山登山禁止措置とは別問題だ。そりゃあ登山を禁止したら事故はなくなるだろう。誰も登れなくなるのだから。しかし、人間社会というのはある程度のリスクを許容したうえで成りたっているわけで、リスクが完全にない社会などありえない。リスクをそんなに取りたくないなら、家のなかでポテチでもぼりぼり食べて外に出ないのが安全なのだろうが、そんな人生は全然面白くないからみんな大なり小なりリスク込みで活動するわけである。いわば冬山もその一つ。そもそも冬山という厳しい自然のなかに入りこむ以上、絶対的な安全などありえないわけで、栃木県教委にしても、そのリスクをふまえたうえで、それでも冬山登山に教育的な価値があると考えていたからこそ、これまでは春山講習を認めてきたのではないか。

だとすると、事故の原因も何もまだわかっていない段階で禁止を検討するのは態度としては矛盾しており、冬山登山を一部認めてきたこれまでの判断はいったい何だったのかということになる。今までは冬山のリスクについてあまり深く認識してませんでした。こんな危ないフィールドだと知っていたら、とうの昔に止めていたんですが、実際、今回事故が起きるまで、僕ら、全然気がつかなかったんです……。ということなのだろうか。だとしたらあまりに無知、何も考えてなさすぎるが、さすがにそんなことはあるまい。事故のデカさにびびって検討を開始したのが実情だろう。いずれにせよ重要なのは、今の段階で禁止するのではなく、今回の事故の状況と原因を究明して、それでも雪山登山に教育価値があるかどうかを真摯に議論することだ。さらに考えなければならないのは冬山登山には最終的に絶対リスクが伴うことを認めたうえで、それを高校生に認める自由を、われわれの社会が共有できるかどうかという視点だ。しかし、県教委がすべての議論をフっ飛ばして禁止という決定をくだしてしまえば、これらの視座をすべて奪うことになりかねない。

結局のところ、今回露呈したのは、非難や責任追及につながる面倒くさいことは、とっとと蓋をするという役所の体質である。禁止というのは要するに責任回避の発想そのものである。高校生が大勢死ぬような危険なフィールド活動をそのまま継続するとは何事か、という社会的批判を避けたい一心で出てきた話にしか聞こえない。冬山が高校生の人格をどのように豊かにし、陶冶するのかという教育的観点が皆無であり、見えてくるのは責任回避と自己保身だけだ。

と思う一方、役所なんて責任逃れしか考えてない組織なんだから、こういう事故の後ではそういう反応も出るだろうな、という冷めた視線もある。だとすると県教委が検討すべきなのは禁止ではなく断念なのではないかという気がする。

どういうことかといえば、登山は危険がつきもの。3月30日の新聞を読むと、栃木県高体連の登山専門部の専門委員長が「絶対安全と判断した」と会見で述べたらしいが、冬山登山に絶対安全なんてありえず、われわれ登山をしている者の感覚から言うと「絶対安全」なんて言葉は口が裂けても出てこない。普通は「たぶん大丈夫」として言えないものだ。しかし、この専門委員長は「絶対安全」といわざるをえなかった。なぜかといえば前提としての「絶対安全性」に言及しておかないと、今回の事故を想定外の出来事だとすることができないからだ。要するに、教育委員会、高体連という無謬性を前提とする典型的な日本の役所組織では、本質的に危険性をはらむ登山活動は扱えきれないのだ。

登山を教育の場で扱う以上、絶対に事故は避けられない。しかし事前に書類のチェックをしておけばトラブルの責任は回避できるという発想しかない日本の役所組織の論理では、人の生死がからむ登山教育は責任が巨大すぎて扱いきれない。言いかえれば教育委員会のような組織にしてみると、冬山は原発と同じでわけのわからないシンゴジラのような想定外の化け物なのである。そうであるなら、禁止などという上から目線の言葉は使わずに、「自分たちには冬山登山はもう手に負えません。今回の事故でそれがわかりました」ということを率直に認め、「学校教育の場としては冬山登山はもう行いませんが、それでも登りたいという生徒は山岳会などに加盟し、学校とは別の場所で各自、自主的におこなってください」と宣言すべきである。つまり禁止ではなく、断念だ。そっちのほうがよっぽど実情を表わしており、スッキリする。脱原発ならぬ脱登山である。

それに禁止という言葉を使われると、なにか登山が命を粗末にする悪い行為で、そのような悪い行為をしている登山者はろくでもない奴らという印象を非登山者に与えかねない。禁止には「それはダメだ」という否定的語感が伴う。冬山には冬山でしか得られない素晴らしい価値があり、自分たちに扱いきれないからと言って、トータルに否定する禁止という言葉を使われるのは釈然としない。

ということで栃木県教育委員会におかれましては、勇気をもって禁止ではなく断念の決定をくだしていただきたいと思います。




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