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2014年9月に読んだ本

2014年10月04日 18時37分17秒 | 本と雑誌
2014年9月の読書メーター
読んだ本の数:6冊
読んだページ数:1581ページ
ナイス数:72ナイス

基準値のからくり (ブルーバックス)基準値のからくり (ブルーバックス)感想
日本では論理的に考える訓練が十分に行われているとは言えない。文系のみならず理系ですらそう感じる。それにつけ込むように不安を煽る人々がいる。一部のマスメディアは率先してそれを行っている。本書で語られている内容は有意義だが、日本で論理的にリスクについて議論ができるのか。本書と一般の人々の心情との隔たりは大きい。それを埋めていく方法論がいま求められているのだろう。(☆☆☆☆☆)
読了日:9月5日 著者:村上道夫,永井孝志,小野恭子,岸本充生
魔法科高校の劣等生 (14) 古都内乱編 (上) (電撃文庫)魔法科高校の劣等生 (14) 古都内乱編 (上) (電撃文庫)感想
「さすおに」は下巻に持ち越しって感じだが、やはり上下巻くらいの緩い展開の方がこの作品には合っている。13巻は余裕がなくてストーリーしか描けてなかったしね。ストーリーはベタなので、その端々にあるエピソードを楽しむのが基本。サブキャラが非常に多いのでその生き残りレースとして見るのも面白いけど(笑)。(☆☆☆☆☆☆)
読了日:9月10日 著者:佐島勤
ルポ 電王戦―人間 vs. コンピュータの真実 (NHK出版新書 436)ルポ 電王戦―人間 vs. コンピュータの真実 (NHK出版新書 436)感想
第3回電王戦までのコンピュータ将棋の歴史をうまくまとめている。棋譜や難しい用語は使わず、初心者には読みやすい内容だろう。今は、人の方がミスを犯しやすいから負けることが多いという状況だと思っている。ただ、ソフトの欠点を突く勝負を見たいとも思わないので、電王戦の今後のあり方は難しいだろう。新書ということもあり、そういった踏み込んだ内容ではなく、概略を知るのに適した本だと言える。(☆☆☆☆)
読了日:9月11日 著者:松本博文
官能教育 私たちは愛とセックスをいかに教えられてきたか (幻冬舎新書)官能教育 私たちは愛とセックスをいかに教えられてきたか (幻冬舎新書)感想
先に読んだ『男子の貞操』が100という理想に近付こうとする内容だったのに対して、本書は100を越えた先の話。『男子の貞操』の副題の「僕ら」に含まれていないと感じた私にとっては、本書の副題の「私たち」は異世界の存在のように見える。一夫一婦制や結婚というシステムが時代に応じて変化していくのは当然だろうが、その前提となる人々の意識は今の日本ではかなり保守的に感じるので、劇的な変化は相当先になるように感じてしまう。あと、新書だからか知らないが、説得力のある論理性は感じず。(☆☆)
読了日:9月12日 著者:植島啓司
晴れた日は図書館へいこう ここから始まる物語 (ポプラ文庫ピュアフル)晴れた日は図書館へいこう ここから始まる物語 (ポプラ文庫ピュアフル)感想
日常の謎ではあるが、謎は必要なのかと感じてしまう。謎のためにキャラクターを動かしているように見えると少し興ざめ。「日常」成分がまだまだ足りないように思う。おもしろいだけに、もったいない印象。(☆☆☆☆☆)
読了日:9月19日 著者:緑川聖司
一〇年代文化論 (星海社新書)一〇年代文化論 (星海社新書)感想
ディケイドで時代の特徴をつかもうとするのはいい。「残念」という概念に新たな要素が加わったことも確かだろう。ただこの本で語られていることは、若者文化の中でもごく一部だし、「残念」にこじつけたと感じるところも多かった。それが著者の信じた「物語」なのだろうが、そういう物語性から脱却することが21世紀的な視点だと私は思っている。(☆☆☆)
読了日:9月20日 著者:さやわか

読書メーター

6冊。下旬に体調崩したりしたので、伸びず。文庫・新書ばかりとなった。

『一〇年代文化論』は「残念」の新たな概念の広まりをキーとした現代文化論。着眼はおもしろいが、説得力不足の印象。ちなみに、2010年5月に「残念系美少女」という記事を書いた。本書ほどの積極的意味を見出してはなかったが、サブカルにおける新たなヒロイン像の構築としてはひとつのジャンルとなっているように思う。

今更ながら論理性の乏しさを強く感じることがある。ネット上の文章にそれを求めるのもどうかと思うが、新書などだけでなく新聞やTVなどでもさほど変わらない印象だ。
日本語が論理に向いていないという主張もあるが、私は教育が十分になされていないせいだと思っている。言葉を厳密に定義した上で論理を組み立てる訓練は学校で受けた記憶がない。最近は知らないが、昔はそうだった。私自身も論理性においては未熟もいいところだと感じている。
みながみな高い論理性を身に付けるなんてことは理想論だが、日本では実のある議論がほとんどなく、時間と労力の無駄遣いになっている。生産性の低さを高い勤勉性で補っているとしたら、勤勉であることはいいことなのか、みたいな。労働時間の長さがツケとして社会のあちこちに影響を与えているわけだしね。論理性と生産性は完全なイコールではないけれど、関係はあるし。
ネット以上にTVが、そうした論理性を高めることに対する障壁のように感じるのは前からだけど、TVに何かを求めてももう無理だろうし。生産性が低くても忠実で勤勉な人々を大量生産したほうが良いという社会モデルが戦後に作られ、いまだにそれを崩せていない。ゆとり教育や能力主義・成果主義も新たなモデルになりえていない。まあ年取った人は逃げ切れるからね。苦労するのは若者。当事者がどうにかしようとしなければ、誰かが助けてくれるわけもなし。
戯言だけど。




奇天の本棚 - 2014年09月 (3作品)
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わずか3冊。




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4 コメント

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Unknown (名無し)
2014-10-08 00:02:49
>さすおに!(もうこれタイトルでいい気がしてry)
まあ流石に二次創作になりますがw
ネタとして定着してると言えばそうですが、そげぶとはまた違ったレイヤーですね。
そういうものだと見て楽しむという点は同じでも、やや素っぽいのが劣等生かなとw

溜めて溜めて→後半で万能主人公爆発、なら(万能、の定義もありますw)禁書もそうですが、あれは体裁が万能でないのと、展開を矢継ぎ早に転がしていくのを持ち味としてるのが違いなのかなと感じてます。
結局、見せ方が今の意見を作ってるのかなとは思います。

ドラマっぽくても主人公無双(というか登場人物が優秀すぎる)なら攻殻機動隊も全般的にそうですが、ドラマ>テーマ>キャラという人物の配置構造なんかはユーザーにキャラ無双感を与え辛いという割と単純なインターフェイスになりますしね。
まあ、攻殻の場合は単純にガジェットがハードなのでテーマを始点に物語が作られるというのもあるでしょうけど。

>日本語と論理
日本語の冗長性、みたいなのは前に聞かされた事があったなと(うろ覚えですが)。
とはいえ、仏教でも禅(中国経由の、思弁的と言うよりは形式を踏む事で悟りに至るのを重視した禅ですが)は日本語や漢字の抽象性の高さに支えられたものもある、というのは言えてる部分あると思います。

これは仰るように学校で基礎教育としては敷衍しないのがこれら分野だからではないかと思います。
大学では一応ディベートや対話の組み立てを重視するときにやりますけど、そうした形で触れない限りあんまり重視されないんじゃないかなと。
あとまあ、職種によってはそれがもう必要とされてない場合もあったり(トップダウン過ぎて、とか、それが内部で留保され続けてたりするとか)。
日本の民主主義「っぽさ」がそれだと言えばそれまでではあるんですが、それもまたらしいと思えたりもしてたりとかw
これ突き詰めると、「優秀な独裁者(経営者)の出現を待つ」事になるのかもしれませんw

でも現場で意見の衝突させるくらいならちゃんとプラン練り込んでこいと思う事もまあ身近であったり、部分部分では影響があるんじゃないかなとは思いますね。
紹介された本とはまた別の分野ではありますけどw
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Unknown (奇天)
2014-10-08 21:52:54
>攻殻機動隊

描きたい明確なテーマがあり、それを描くためのストーリーがあり、そのために必要なキャラクターがいる。それは物語を作る上でもっとも真っ当なやり方ですが、そのひとつひとつが優れているから名作になりえたわけです。

「さすおに」は著者がどの程度自覚しているのかは分かりませんが、こうした物語制作の手法とはかけ離れているように感じます。Web小説だったせいか、テーマやストーリーではなく、キャラクターや設定などがメインとなっています。
昨今のラノベではそれ自体は珍しくありませんが、主人公の俺TUEEEEEによって極端にバランスを崩していることがかえって他との差別化に繋がっています。

物語性から逸脱したことで、「反物語」派(笑)の私からすると非常に琴線に触れる作品となりました。主人公を窮地に陥れたり、カタルシスを与えるための展開がなくても成立するんだという捉え方です。
攻殻機動隊で全く事件が起きないと話になりませんが、「さすおに」だと別に事件がなくても構わないという感じです。というか、事件起きてもそれもまた「日常」という感じがするのがこの作品の特殊性でしょうかw

>日本語・日本人

中村修二教授がノーベル賞受賞しましたが、日本的感性からすると枠に嵌らないというか、出る杭だった方のようですね。
日本的なぬるま湯が悪いかどうかは判断が難しいところですが、論理性・合理性を重視し、白黒をはっきりつけようとすれば、住み良いところとは言えないでしょう。

社会全体として論理性・合理性に価値を認め、積極的に評価し、社会を変えようとする姿勢を見せ、その上で教育の現場でも導入していかないと、自分の不利益になるようなことを身に付けても仕方ないですしね・・・。

ノーベル賞の受賞が最近増えていますが、ノーベル賞は過去へのご褒美みたいなものです。20~30年前の日本は世界でも存在感がありましたし、ギラギラしたものもありました。『ジャパン・アズ・ナンバーワン』が世に出たのは35年前で、それからバブル崩壊までは良くも悪くも自信に満ち溢れた時代でした。その当時の成果が今ノーベル賞という結果に繋がっています(iPS細胞の山中教授は例外ですがw)。

これから20年30年後に日本からノーベル賞受賞者が出るかどうか。その頃には韓国・中国の後塵を拝しているような気がしますが・・・。
返信する
Unknown (名無し)
2014-10-09 02:22:31
テーマとキャラ、物語の関係は正にそれですね。
映画がこれを徹底してるんですが(特にハリウッド)、あらゆる要素が違いに相関して、無駄が出てはいけない、という態度があります。
まあ、実際は無駄を出してしまう場合も多多と見受けられますがw

映画でもキャラが単に駒になってしまう作品は総じて否定されがちですけど、たとえばそれが「ダークナイト」みたいなバランスだったらむしろ肯定される訳で。
「ライジング」はバランスこそダークナイトを引き継ぎつつも、差別化の為にキャラクターの決着に色気を出したせいで、どうにもどっちつかずでした。

でもって、世間的な評価においてもダークナイトが有利な事を考えると、観客は意識的でも無意識的にでも、こうした部分を感じてるんじゃないかな、と。
映画はスケールが圧倒的ですから、バランスが見てるだけで影響してくるんですよね。
相対化した善悪の中で、「よりよい」世界をどう選ぶか、というのはアメリカにおいては切実なテーマでしょうけど、ライジングではそれをぼやけさせてしまったんじゃないかなあ、と。

攻殻もこうしたバランスが卓越してて、意思の所在や人間性、世界と人間の関係と技術との触れ合い、それが齎す否応ない変革の暴力性みたいなのがそこかしこで触れられながら結実するのが見ていて判るんですよね。

で、まあ、こういうのはやはり「メソッドとして確立されてる」のはあるなと。

さすおにの場合、というか、WEB小説は全般的にそんな感じなんですけど、日常というものを読者にどれだけ提示しても怒られないんですよね。
いやまあ、流石にそれが冗長すぎれば物語というか作品たりえませんし、評価されないなら商業化もされないので目に触れませんが。
これは言い換えると、どんなテーマであってもどれだけ語ってもいいし、テーマに向かう流れの中で作者の主張がどれだけでも通せるという事だと思います。
日常系は総じてこういうものかもしれませんが、これまでの大抵の日常系(はがないにしろ俺ガイルにしろ)にしても、やっている事そのものは同じであると思います。

いやまあ、さすおにはそれでもテーマを語ろうとしてるかと言えば、どうだろう、と思いますけどw

だからというとヘンですが、仰る事には納得できるなあとw
差別化するポイント(TUEEEE)がそもそも「他のラノベ」とで、作品の構造自体は最初から通常の物語のそれには則ってないと。
バトルはカタルシスを求める構造があるからこそ入ってくる物で、俺TUEEEEはその極端化ですが、それが行き過ぎるとカタルシスを逆に否定してしまうというw
こういうパターンがあるから特殊だ、というのはわかる気がします……とは言えまあ、作者が望んでネタ化したかはわからないのですが(話のモチーフやキャラの考え方などを見るに)(苦笑)。

>ノーベル賞と論理性
最近の理工系は、というのはありますねー。

中国はこれからのサポートに掛かって来てるでしょうね。
良くも悪くも一極集中構造があるため、長期的な研究をしたい研究者には向いてるみたいな研究所もあるようで、サポートが長期的に(してくれる場合に限りますが)受けられるというのは、なるほど強いなと思います。
とはいえ、構造からして分野が限られてくるのも間違いないですけど(これ、イーガンが「ルミナス」でちょっと書いてたことがあって、「少し違うけど当たったな」とかw)。
あとはそれが全体として続けられるかどうかじゃないかな、と。
スパコンとか実際もう結果を出してますけど、アレなんかは正に中国という国家構造が求めた結果ですしね。

韓国は……今回候補が出てましたが、状況とすると日本と似たような感じか、もしかすると状況はそれより悪くなる可能性もあるかもしれませんが。
社会構造が割と短期的な研究成果を求める、みたいなのは経済誌なんかでも触れられてますけど、そうした傾向がどうにも今の日本と同じように見えます。

というか、日本の場合は業績をどういう段階でどう求めるか、という形ではあるのでしょうけど。

個人的にはインドなんかは投資によっては有望になるんじゃないかと思ってます(いや、元々論理性の高い博士が沢山いる国ですけどw)。

今日はあちこちで特集していたので少しだけ見たのですけど、日本は理工系が「評価」され始めたのがここ最近で、それまでは冷遇されてた、と紹介していて、今更か、とw
仰るように長い間を通して研究していたからこそ成果として出るのがノーベル賞ですから、色々なしがらみの中にあっても結果を出した人が受賞してるんですよね。
二~三十年前の社会風土(というか経済を回す「社会」ですね)がどうだったかは空気としてはわからないのですが、その当時から今の「日本」との同一性はある訳で、研究そのものはその経過で築かれてる流れをいかに継続発展させられるかではないかと思います。
中村博士が発言してたと思うのですが、「個人の」報償として認められるものがあるべきだ、というのはここでも言えると思うんですよね。
アメリカに行ってしまう人が多いというのも、結局は「出した成果が認められない」というか、一人の成果は全員の物、みたいな了解があったからでしょうし。
それを円滑に社会に還元できる環境があるのとないのとでは違いますし、まあ、縛られてないと巧く行かない社会というのもあるのだとは思いますが(アメリカほどの国土も資源もない日本ですから)、そこをいかに最適化するかじゃないかなと。
ある意味ではこれも「論理的に」ということかもしれません。
「全員に、とりあえず会社の為に」ではなくと。

これは科学ではなくて言葉とコミュニケーションの話だったと思いますが、日本語そのものが相手との距離感を常に探ろうとする状態になってはいるなとは思います。
アルファな経済系の人の文章が「要点だけ伝える」感じなのは、日本語からそういったコミュ要素を排除した形だと思いますし。
で、まあ、それが「ウケる」かどうかはわからないのが日本じゃないかなと。

小説ではよく会社でのしがらみや「目に見えない」妬みや、単独行動を嫌うようなニュアンスの表現が出てきますが、ああいうのもそうした感情を掬い取ってるんじゃないかなーとは。

まあ、ノーベル賞にいかに繋げるか、という点だけに限るのであれば、研究者の待遇を整備して、そもそも理工系を重視するべきだ(見返りがあると理解できる環境を作る)、というのが一番だとは思いますけどw
「自信」にしても環境が作る面は大きいので、物理的な(というか形のある)支えがあるのとないのとでは大違いでしょうから。
どう研究にモチベを保てるか、そも、第一研究者になろうとする動機を与えられるのか、という。

高校時代、ロボット研究の方向に行った同級生が居たんですが、あの頃のモチベというのは割と素朴に「ロボットが作りたい」だったので、まあ、動機自体は単純でも、それを「ちゃんと仕事にできる」という支えがあるかないかで全然違うと思います。

社会全体の論理性の向上、みたいな話になると、メディアの作った「日本という空気」というか物語があるので、全体で変えていくしかないんじゃないかなあ、というのはどうしてもありますねー。

そういうときにこそ「空気」に敏感なサブカルがそうしたものをすくい上げていけば良いんじゃないかと思うんですがw
ジャンプで「バクマン」の人にそれとなく誘導して貰うとかw

すいません、長くなりましたw
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Unknown (奇天)
2014-10-11 18:14:30
>社会全体の論理性の向上

欧米の一般市民が日本より高い論理性を持っているとは思いません。欧米の場合は、高い論理性を持ったエリートが中核として社会を動かすという構造です。最近は、ティーパーティーのようにそれに風穴が開くようになってきていますが。

日本の場合、平均値は高いもののエリートも同程度の論理性しか持っていないという印象ですね。それを担うべき官僚が、無能というより自分たちの利益優先となっている形です。
空気というより文化と言ったほうが適切かと思いますが、そういう論理性を尊ぶ文化が日本になく、結論のために論理を組み立てるような逆立ちばかり行われています(戦前なんか特にそう感じます)。

社会全体の論理性を向上した方が得だという明確な認識が生まれない限り、それは望めないでしょう。為政者側からすると、過度に国民全体の論理性が高まることはメリットとは言えませんしw

エリート教育も戦後の日本では好まれていません。欧米のようなスタイルを日本に持ち込むのは難しいでしょう。戦争などの大きな変革があればともかく。
論理性の向上が必要なのは、目先の利益と将来の不利益のどちらを優先するべきかという点だと思うのですが、現在の日本の年齢構成から言っても将来の不利益なんてどうでもいいことですしねーw

本当に危機が訪れると、泥縄的であれ論理性が尊ばれるかもしれません。東日本大震災や原発事故でさえ国家存亡の危機ではなかったので、あと半世紀くらいは起きないとは思いますが・・・。
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