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シリーズ第2巻『涼宮ハルヒの溜息』を読了。
涼宮ハルヒシリーズは男子高校生「キョン」の一人称で書かれているのが特徴。ぶっとんだ世界の中で常識外れなキャラクターが跋扈する様を、一般人の視点から眺めている。それはもちろん読者の視点と重なる。当然ながら、彼の行動が読者に受け入れられなければ作品自体が危うくなる。そして、読者として想定されたメインターゲットは10代や20代の若者だ。
想定から外れた読者としては、「キョン」の行動に違和感を覚える。それは作品を否定するようなものではない。むしろいまどきの感性を知る機会となる。
戦後日本の若い世代の潮流を10年ごとにひとくくりにすることはもちろん乱暴な話だが、それでも世代の気分というものは常にあった。
60年代は、体制反体制どちらの側に立つにせよ、まだ明るい未来の存在を信じることができたと言われる。それが一転して絶望へと変わる70年代。成長の限界、公害の多発、ベトナム戦争、オイルショックに至る様々な問題は、それまで信じていた未来への希望を打ち砕き、人間というものへの不信へと繋がった。
日本経済は危機を乗り越えバブルに突入する。80年代は一見ばら色のようだが、しかし、そこには夢や未来への希望が欠落していた。まさに刹那の時代。絶望を受け入れた先の刹那的な明るさは、無理にはしゃいだような空騒ぎだった。今をどう楽しく生きるかということしか選択肢のない時代。
バブルが弾けた90年代は、20世紀という人類未曾有の激動の時代の世紀末として恐ろしいほどの閉塞感に苛まれた時代だった。世界は社会主義諸国の崩壊という大変革に見舞われていたが、日本は取り残され、足掻き苦しんでいた。自民党が下野するなど変化を求める声は募ったが、それすら変化に繋がらず、オウム真理教のような破壊的思想を否定できない時代だった。
21世紀となり閉塞感は開放され、政治的には小泉の登場で古い体制が一掃された。経済的にも持ち直し、本来であれば再び希望が見出せる時代となってもよさそうだが現実は決してそうではない。インターネットと携帯電話が普及し社会に深く影響を及ぼすようになったのがこの2000年代だ。まだ10年経過したわけではないので、今後決定的な変化が訪れるかもしれないが、この本を読んだことをきっかけに漠然と感じていた時代の気分を一つの言葉で語りたくなった。それが「思考停止」の時代。
例えば、これまでの時代にはなかった膨大な情報の海が非常に身近なところにあり、考える間もなくそれらの情報に触れていく時代。例えば、雇用不安の中で、過去の時代にないほどに自分を殺し組織に従う時代。例えば、集団の中で目立つことがいじめに繋がる時代。例えば、ゆとりの名の下に考えることを重用されない時代。例えば、議論を避ける、キャッチフレーズの政治が支持される時代。
この本で「キョン」は議論に与しない。もちろん語り部としてニュートラルな存在ゆえでもあるが、それでも違和感を覚えるほどだった。世界の危機をめぐり、キャラクターたちが語る言葉を分からないで済ます。自ら謎を解こうとはしない。もちろん作者が思考停止しているわけではない。現代の読者のモデルとして描いた存在がそうだっただけだ。
一方で、彼は10年後を見据えた醒めた視線も持っている。80年代や90年代のキャラクターからは窺えない視点だ。誰でも今が永遠に続かないことは知っている。ただ今を大切に思い、将来は将来でどうにかなるというある種の楽観(あるいは諦観)をしていたものだ。「キョン」の場合それよりも更に醒めている。これもまた時代の気分だが、この醒めた視線も思考の末に導かれたものではなく、変化への意思を放棄した見方に過ぎない。
「思考停止」は時代の気分であり、それをもって若い世代を責めることは不当だろう。考えることよりも行動することが求められる場面も少なくないので、時には積極的な思考停止も必要なことだ。ただ無自覚な思考停止には怖さを覚える。ネット上では特にこれらの思考停止が繰り返されている。
陰謀説、アメリカや中国、韓国、北朝鮮その他外部の集団が悪であり、それによって不当な状態にあるという考え方。占い、霊魂、死後の世界などへの逃避、癒しへの依存。科学への誤謬、批判の欠落、或いは自己客観視できずに批判しまくる態度。数え上げればきりがない。もちろん、これらは昔から存在した。だが、ネットを通して増幅しているように感じている。果たして時代の気分で終わるのか、それとも。
シリーズ第2巻『涼宮ハルヒの溜息』を読了。
涼宮ハルヒシリーズは男子高校生「キョン」の一人称で書かれているのが特徴。ぶっとんだ世界の中で常識外れなキャラクターが跋扈する様を、一般人の視点から眺めている。それはもちろん読者の視点と重なる。当然ながら、彼の行動が読者に受け入れられなければ作品自体が危うくなる。そして、読者として想定されたメインターゲットは10代や20代の若者だ。
想定から外れた読者としては、「キョン」の行動に違和感を覚える。それは作品を否定するようなものではない。むしろいまどきの感性を知る機会となる。
戦後日本の若い世代の潮流を10年ごとにひとくくりにすることはもちろん乱暴な話だが、それでも世代の気分というものは常にあった。
60年代は、体制反体制どちらの側に立つにせよ、まだ明るい未来の存在を信じることができたと言われる。それが一転して絶望へと変わる70年代。成長の限界、公害の多発、ベトナム戦争、オイルショックに至る様々な問題は、それまで信じていた未来への希望を打ち砕き、人間というものへの不信へと繋がった。
日本経済は危機を乗り越えバブルに突入する。80年代は一見ばら色のようだが、しかし、そこには夢や未来への希望が欠落していた。まさに刹那の時代。絶望を受け入れた先の刹那的な明るさは、無理にはしゃいだような空騒ぎだった。今をどう楽しく生きるかということしか選択肢のない時代。
バブルが弾けた90年代は、20世紀という人類未曾有の激動の時代の世紀末として恐ろしいほどの閉塞感に苛まれた時代だった。世界は社会主義諸国の崩壊という大変革に見舞われていたが、日本は取り残され、足掻き苦しんでいた。自民党が下野するなど変化を求める声は募ったが、それすら変化に繋がらず、オウム真理教のような破壊的思想を否定できない時代だった。
21世紀となり閉塞感は開放され、政治的には小泉の登場で古い体制が一掃された。経済的にも持ち直し、本来であれば再び希望が見出せる時代となってもよさそうだが現実は決してそうではない。インターネットと携帯電話が普及し社会に深く影響を及ぼすようになったのがこの2000年代だ。まだ10年経過したわけではないので、今後決定的な変化が訪れるかもしれないが、この本を読んだことをきっかけに漠然と感じていた時代の気分を一つの言葉で語りたくなった。それが「思考停止」の時代。
例えば、これまでの時代にはなかった膨大な情報の海が非常に身近なところにあり、考える間もなくそれらの情報に触れていく時代。例えば、雇用不安の中で、過去の時代にないほどに自分を殺し組織に従う時代。例えば、集団の中で目立つことがいじめに繋がる時代。例えば、ゆとりの名の下に考えることを重用されない時代。例えば、議論を避ける、キャッチフレーズの政治が支持される時代。
この本で「キョン」は議論に与しない。もちろん語り部としてニュートラルな存在ゆえでもあるが、それでも違和感を覚えるほどだった。世界の危機をめぐり、キャラクターたちが語る言葉を分からないで済ます。自ら謎を解こうとはしない。もちろん作者が思考停止しているわけではない。現代の読者のモデルとして描いた存在がそうだっただけだ。
一方で、彼は10年後を見据えた醒めた視線も持っている。80年代や90年代のキャラクターからは窺えない視点だ。誰でも今が永遠に続かないことは知っている。ただ今を大切に思い、将来は将来でどうにかなるというある種の楽観(あるいは諦観)をしていたものだ。「キョン」の場合それよりも更に醒めている。これもまた時代の気分だが、この醒めた視線も思考の末に導かれたものではなく、変化への意思を放棄した見方に過ぎない。
「思考停止」は時代の気分であり、それをもって若い世代を責めることは不当だろう。考えることよりも行動することが求められる場面も少なくないので、時には積極的な思考停止も必要なことだ。ただ無自覚な思考停止には怖さを覚える。ネット上では特にこれらの思考停止が繰り返されている。
陰謀説、アメリカや中国、韓国、北朝鮮その他外部の集団が悪であり、それによって不当な状態にあるという考え方。占い、霊魂、死後の世界などへの逃避、癒しへの依存。科学への誤謬、批判の欠落、或いは自己客観視できずに批判しまくる態度。数え上げればきりがない。もちろん、これらは昔から存在した。だが、ネットを通して増幅しているように感じている。果たして時代の気分で終わるのか、それとも。