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『3・11の未来 日本・SF・創造力』第一部「SFから3・11への応答責任」

2012年04月26日 23時40分53秒 | 日記・エッセイ・コラム
四部構成で多くのコラムから成り立つので、感想も分けて書こうと思う。

第一部は、笠井潔「3・11とゴジラ/大和/原子力 ”ニッポン”イデオロギー批判」、笠井潔/巽孝之/山田正紀による鼎談「3・11とSF的想像力」、豊田有恒「原発災害と宇宙戦艦ヤマト 事故の核心とは何か?」、スーザン・J・ネイピア「津波時代のポニョ 宮崎駿監督に問う」の四編から成る。
ページ数的に一部の半分以上を占める鼎談とこの本の監修者でもある笠井の論考をメインに感想を述べたい。

鼎談の結論として日本のムラ社会批判が挙げられている。
笠井は論考の中で、日本人のアニミズムに根差す世界観が、海外から入ってくる絶対的理念を相対化し、現世利益的な観念へと換骨奪胎する様を描いている。にも関わらず、「ムラ」を断ち切ることが必要だと述べる。

日本人の精神の近代化は、明治維新以来インテリの悲願と呼べるものだ。様々な立場から多くのインテリが日本人大衆の前近代性を嘆き、その革新を求め続けた。近代化から150年以上経ってもその図式は変わらない。
戦後、日本のインテリは左翼化したが、平和や平等といったお題目こそ民衆に支持されたが、現実的な面では自衛隊や日米安保が支持された。やっかいな問題を先送りし、責任の所在を明らかにしない精神構造は、確固たる理念に基づいた近代的自我とは相容れないものだ。

ムラ社会もまたそうした精神構造が基盤となっている。明治維新や敗戦を経てもなお変わらない日本人の精神構造が「たかが」3・11で変わるだろうか。
あれから1年が過ぎたが、果たしてどれだけの変化があったのか。少なくとも私には「終わりなき日常」にほんのわずかな変化さえも訪れたように見えない。(もちろん変化そのものはある。ただそれは変えようと望まれた結果としてとは見えないということ。)

この鼎談を読んで、SFうんぬんはともかく、日本のインテリの歴史を繰り返しているだけにしか感じなかった。特に戦後のインテリは左翼的な立場から反権力を志向しているが、それは社会の安全な外部から批判のための批判を繰り返しているだけに過ぎない。
社会運動家の湯浅誠が内閣府参与として権力側で働いたことに批判する意見があるが、社会を変えようと思えば権力の側から変えるのが本筋だ。権力に取り込まれる危険もあるし、少数の声を集めることも社会運動の役割なのは確かではある。しかし、権力を批判しているだけでは大したことはできないし、権力の内部からでなければできること、できないことの見分けは難しい。
日本のインテリの系譜は理念が先行し、大衆を教化しようとする試みばかりが行われてきた。しかし、インターネット上でもムラ社会はあちこちで見つけることができる。

日本人の精神構造が日本人を規定するのであれば、その精神構造を根本から変えようなどとしても虚しいだけだ。ムラ社会はなくならない。それを前提に少しでもより良い社会を作るしかない。そのためにいかに権力を利用するか。いまその最前線にいるのが橋下徹と湯浅誠だと思っている。作家という立場では海堂尊もまたそれに近いだろう。
SFとしては、小川一水『復活の地』が権力側からの復興を描いており、3・11後として重要だと思うが鼎談内では触れられていない。

本書に限らないが、距離感への違和もどうしても持ってしまう。鼎談でも東京とフクシマでの捉え方の違いは述べられているが、福島以外の被災地、東京以外の都市部、福島以外の原発所在地、それ以外の地方それぞれで感じ方は異なるだろう。どうしても東京=日本というイメージで語られることにもどかしさを覚える。




豊田有恒の論考は非常に腑に落ちるものだった。原発事故があっても技術力を武器にすべきという意見は納得できる。しかし、私には納得できるものであっても、多くの人を納得させられるものかどうかは疑問だ。
放射能の問題であったり、原発の安全性であったりは明確な正解が存在していない。科学者であっても言っていることはバラバラだし、どこまで分かっているのかさえ怪しかったりする。「絶対の安全」が有りえないのはもちろんだが、確率的な安全性をどう捉えるかも非常に難しい問題だ。
一方で、名誉欲や金儲けのために危険を煽る人々が多数存在する有様だし、他方で、専門家と呼ばれる人たちへの信頼は失墜している。複雑な社会において何が正しいのか見極めることは困難だが、原発にまつわる言説はそれを顕在化した。

誰もが納得する解決は存在しない。それはこの問題に限らず当たり前のことだ。それを調整するのが政治の仕事だが、政治家と呼ばれるその専門家はまともに機能さえしていない状況だったりする。
ムラ社会では調整役が重要な存在なのだが、それすら機能不全に至っている。ひとりひとりの市民が自立して判断し選択するのが理想なのだろうが、あくまで理想に過ぎない(たとえ自立できたとしても判断することは困難だが)。

どんな解決法であっても、リスクとコストは存在する。未来から見れば最善から最悪まで選択肢に幅があったとしても、現在の視点では選択肢の幅はそう大きくは見えない(もちろん正しい選択肢があると思っている人にとってみれば大きく異なるだろうが)。
原発問題であっても、新規原発建造という推進派の極みから原発全ての即時廃炉という反原発派という幅の中であれば、最終的なリスクとコストはそんなに変わらないと私自身は思っている(経済や環境問題と広くリンクするがゆえだが)。未来から振り返ればこうすべきだったという最善解があるかもしれないが、それすら定かではない。

SFがSF的視点を持って役割を果たすとしたらそういうことじゃないかと思う。時代の空気に流されるのではなく、時代を超越する視点があるかどうか。

他にも書きたいことがないではないが、第二部以降を読んでからとしよう。


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