子供から大人へと、人は成長する。肉体的にも。精神的にも。
しかし、思春期以降、ある程度成熟してから、人は成長するのか。
もちろん、外的環境、社会人となり、結婚し、子供を持つといったことに、適応していくだろう。それが成長と呼べるのかどうかはともかく。
昔は、立派な大人になることが求められた。そこに段階的に近づいていくことが成長と言えた。
価値観が多様化している現代において、立派な大人像もまた多様化している。誰もが認めるような、社会的に成功し、家庭でも役割を担い、地域においても活動し、博識多才で趣味も豊富、健康で真面目、ウィットに富み、友人が多く……と、そんなスーパーマンに誰もがなれるわけではない。それを目指している人が多いのかどうか分からない。
フィクションにおいてさえ、そこまでの大人はファンタジーすぎる。段階的に近づいていく様を思い浮かべることさえ難しい。
フィクションにおいて、成長を描くことは本当にむつかしい時代だ。
ゲームは当初、スポーツと同じようにプレイヤーの成長が求められた。繰り返しプレイすることで少しずつ上手くなる。その過程こそが楽しみと言えた。
今でもそんなアクション系のゲームは存在するが、RPGの登場以降プレイヤーではなくゲーム内のキャラクターが成長するゲームが特に日本では主流となった。
多くは時間さえかければ強くなる。手軽に成長を実感できる。それが受けた。
先日、記事の中でゲーム系ファンタジーについて書いた。決して新しいジャンルというわけではないが、最近ライトノベルで非常に目立っていると。
フィクションにおいて、成長を描くことは本当にむつかしい。ならば、RPG的な要素を取り入れることで、RPG的成長を描けばいい。ゲーム的な要素を取り入れる理由は様々だが、そのひとつにRPG的な成長を成長として描くというものがある。
その現時点での到達点が「ダンまち」こと『ダンジョンで出会いを求めるのは間違っているだろうか』だ。
ダンジョンRPGの世界をファンタジー小説化した設定。レベルやステータスの存在を設定に取り込んでいる。だが、この作品の魅力はそんな設定にあるのではない。
ライトノベルらしい多数の魅力的なキャラクター。特に、人間だけでなく、エルフや神様に多彩なキャラクターを配置している。それでも、この小説の肝はそこではない。
ウィザードリィなどのダンジョンRPGや、FF11、PSOなどのMMO、MORPGにハマった人なら、この作品に引きずり込まれるかもしれない。そこにある冒険の香りと、RPG的な強さへの憧れ。
読書メーターの感想にこう書いた。「圧倒的。あえて言おう。日本のファンタジーRPGの歴史はこの一冊のためにあったのだと! 」
エンターテイメントに成長の苦悩なんて別にいらない。嘘っぱちでも、楽しませてくれる成長の物語こそが最高のエンターテイメントだ。
私は物語性を求めない。非物語的なフィクションを好んでいる。そうした方向性をより志向した作品を評価している。
それでも、この物語の持つ魔力を否定はできない。こうした物語に出会ってしまうから、主人公の成長に引き込まれてしまうから、たいていの物語をミソクソに貶していても全てを否定することはできない。
ストーリーは王道中の王道。先の展開がすぐに読めるが、あえてひねらないところが良い。1巻2巻のうちはまだいろいろと粗さがあったが、書き手もまた成長している印象だ。
ライトノベルでは、どんどんとスケールアップすることで見せた『羽月莉音の帝国』や、伏線の一気の収束で引き込まれた「戦う司書」シリーズ、高い完成度を誇った『ソードアート・オンライン(アインクラッド編)』、古典的な正統派ストーリーの『フルメタル・パニック!』や『スレイヤーズ!』、バカバカしくも熱い『ベン・トー』など素晴らしい作品に出会ったが、それに勝るとも劣らない。
ゲーム系ファンタジーというだけでなく、ライトノベルとしてもひとつの到達なのかと感じている。マイナーレーベルだけどw
しかし、思春期以降、ある程度成熟してから、人は成長するのか。
もちろん、外的環境、社会人となり、結婚し、子供を持つといったことに、適応していくだろう。それが成長と呼べるのかどうかはともかく。
昔は、立派な大人になることが求められた。そこに段階的に近づいていくことが成長と言えた。
価値観が多様化している現代において、立派な大人像もまた多様化している。誰もが認めるような、社会的に成功し、家庭でも役割を担い、地域においても活動し、博識多才で趣味も豊富、健康で真面目、ウィットに富み、友人が多く……と、そんなスーパーマンに誰もがなれるわけではない。それを目指している人が多いのかどうか分からない。
フィクションにおいてさえ、そこまでの大人はファンタジーすぎる。段階的に近づいていく様を思い浮かべることさえ難しい。
フィクションにおいて、成長を描くことは本当にむつかしい時代だ。
ゲームは当初、スポーツと同じようにプレイヤーの成長が求められた。繰り返しプレイすることで少しずつ上手くなる。その過程こそが楽しみと言えた。
今でもそんなアクション系のゲームは存在するが、RPGの登場以降プレイヤーではなくゲーム内のキャラクターが成長するゲームが特に日本では主流となった。
多くは時間さえかければ強くなる。手軽に成長を実感できる。それが受けた。
先日、記事の中でゲーム系ファンタジーについて書いた。決して新しいジャンルというわけではないが、最近ライトノベルで非常に目立っていると。
フィクションにおいて、成長を描くことは本当にむつかしい。ならば、RPG的な要素を取り入れることで、RPG的成長を描けばいい。ゲーム的な要素を取り入れる理由は様々だが、そのひとつにRPG的な成長を成長として描くというものがある。
その現時点での到達点が「ダンまち」こと『ダンジョンで出会いを求めるのは間違っているだろうか』だ。
ダンジョンRPGの世界をファンタジー小説化した設定。レベルやステータスの存在を設定に取り込んでいる。だが、この作品の魅力はそんな設定にあるのではない。
ライトノベルらしい多数の魅力的なキャラクター。特に、人間だけでなく、エルフや神様に多彩なキャラクターを配置している。それでも、この小説の肝はそこではない。
ウィザードリィなどのダンジョンRPGや、FF11、PSOなどのMMO、MORPGにハマった人なら、この作品に引きずり込まれるかもしれない。そこにある冒険の香りと、RPG的な強さへの憧れ。
読書メーターの感想にこう書いた。「圧倒的。あえて言おう。日本のファンタジーRPGの歴史はこの一冊のためにあったのだと! 」
エンターテイメントに成長の苦悩なんて別にいらない。嘘っぱちでも、楽しませてくれる成長の物語こそが最高のエンターテイメントだ。
私は物語性を求めない。非物語的なフィクションを好んでいる。そうした方向性をより志向した作品を評価している。
それでも、この物語の持つ魔力を否定はできない。こうした物語に出会ってしまうから、主人公の成長に引き込まれてしまうから、たいていの物語をミソクソに貶していても全てを否定することはできない。
ストーリーは王道中の王道。先の展開がすぐに読めるが、あえてひねらないところが良い。1巻2巻のうちはまだいろいろと粗さがあったが、書き手もまた成長している印象だ。
ライトノベルでは、どんどんとスケールアップすることで見せた『羽月莉音の帝国』や、伏線の一気の収束で引き込まれた「戦う司書」シリーズ、高い完成度を誇った『ソードアート・オンライン(アインクラッド編)』、古典的な正統派ストーリーの『フルメタル・パニック!』や『スレイヤーズ!』、バカバカしくも熱い『ベン・トー』など素晴らしい作品に出会ったが、それに勝るとも劣らない。
ゲーム系ファンタジーというだけでなく、ライトノベルとしてもひとつの到達なのかと感じている。マイナーレーベルだけどw
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ただ、文中の意見、度々頂くコメントの傾向から漠然と考えていた奇天様の嗜好や考え方がうかがえたので、それをチェックできた感じです。
でもって、なるほどな、と。
成長と変化は世界への適応度を指標として可視化できる、とかいうとありきたりですけど、そういう話でもなくて。
自覚的に、「そうした環境そのものを楽しませる」だけの土壌が整ったか、それとも整いだしているか、でしょうか。
ベタ→メタ→自覚的にベタをやることへの衒いのなさへの到達、というか。
俺TUEEEはシチュエーション/環境として世界を消費することへと収束していくのが傾向として見えていますが、これが構造的に限界を見せ始めている(というか、それを織り込んでいた)のを考えると、今回の定義は別の可能性のようにも感じられますね。
「ベタで悪いか」とかそういう問題ですらなく、わかってるけど、そういうものなんだろう、というか。
少年漫画をそのまま少年漫画として読むという環境に近いのかな、とw
ライトノベルはこの数年、なんだかんだで一捻りし続けてメタであることを志向し続けてきましたが、その果てに多様化した価値の具体化は「どれも同じ」へと行き着いてしまっているので、なら自覚的に「同じもの」としてそれが提示されるのは自然なのかもしれませんね。
ただ「消費される為にある」成長、であるのなら、それがベタであって悪い理由などどこにもないと思いますからね。
小さい頃、図書館で読んでいた「かいけつゾロリ」シリーズをこの感想で思い出す、というとヘンでしょうかw
まあ、もちろん一般エンタ含む、世間の潮流を具体化するようなテーマや、それをメタ視できる作風は依然として必要だとは思ってますw
ライトノベルの現在としては、どんな作風であれ、「社会を書く」か、「社会と切れていることを主張する」か、その前提の上で何をやるかのレイヤーとしても作風を分けることができるように思っています(物語的であれ非物語的であれ)。
その点から見ても興味深いな、と。
どんな巨大なコンテンツでも(ユーザーをノードして流行るような一部の例外を除けば)長く大きな支持を得られない現在、ライトノベルの提示できる回答として、こうしたものが出てくるのは自然なのかもしれませんね。
キャラの「成長」は日常系においては「テーマの進攻」や「人間関係の変化」によって見えるようにされてきましたが、RPGというのはもうミもフタもなく「それ」なのかなあというか。
レベルEで戦隊ネタが出てきたとき、同じような構造だったのを思い出しましたw
俺TUEEEは基本的に主人公の成長要素を削っているわけですから、物語性を設定・環境面に求めますが、それだって必要不可欠なものだと思いませんし。物語にこだわってしまう部分を取り除いていって、それでも残ってしまうもの、それこそが物語とする価値あるものだと思っていますし、その唯一のものが主人公の成長という物語でしょう。(逆に言えば物語は主人公の成長を描くものであり、俺TUEEEは本質的には物語ではないとも言えますが。)
「ダンまち」にもMMORPGっぽさがあり、SAOやログホラもそうですが、エンターテイメントの濃度としてMMORPGというのは特別なものがある(あった)ような気がします。ただ単にプレイするだけでなく、人間関係の構築含めたものなので、簡単にできる境地ではありませんが・・・。
その感覚をフィクションとして切り取った作品に惹かれてしまいますね。高評価になるのもそれが理由でしょうw
ブリーチはこのへん割り切ってて、能力が追加されてくだけ、な感じですね。
ワンピースは人間性が最初からレベル最高になってる感じに近いですしw
ゲームだとこのへんが数値化されてるので、尚更なのかもしれません。
ペルソナ3・4の、「誰とコミュニケーションするか」なんかも数値化でしょうかね。
>残るものが何かと言う定義と成長の在り方
ああ、スッキリするわかりやすさだなとw
自分が俺TUEEEEEEについて構造的に「限界を織り込んでいる」と感じてるのもそこですね。
というより、今現在の俺TUEEEEEがそれを織り込んでいる、というだけかもw
奇天様が仰るように、「物語でないTUEEEEEE」を、今現在の読者が許容してるようには見えない、という意識に近いですね。
で、恐らくはこれからもそれはあまり変わらないように見える、というか。
>MMORPG的な要素
プレイしてる人でないとわからない独特の感覚はありますね。
昔のゲーム的なRPG作品を読んでも空気が違うので。
たしかにそれは人間関係に軸が置かれた(物語レスではないけど)環境が生み出すものだと思います。
この「っぽさ」を新たに中心に据えている、その上でファンタジー、というのがわかりやすい定義なのかなと。
SAOもメタ部分が介入しない場合、その要素が強く出てますし。
グレン的というのは何気に気になりますw