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4月22日(月)のつぶやき

2019年04月23日 06時31分36秒 | Twitter

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3 コメント

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Unknown (名無し)
2019-05-15 19:13:17
>嫌いと言っても~

「それ」は否定的な文脈でのみ存在し得る、はフェミニスト議論でも結構問題になる(?)場所ですね。
自分は後追いで知ったんですが、キズナアイが女性のコードを規定する役割を背負わされたかどうか、みたいな議論になったことがあったみたいで。

あるフレームがなにがしかの差別に繋がり得る/繋がり得るか、みたいな。
触れる時間もなく、ざっと洗っただけになるのですが、表現界隈でもフェミニスト的な議論では例えばラブコメのパンチラ表現や女子高生(というか女学生)ヒロインを「戦わせる」ことへの(性を「消費」する?)疑義から、年の差カップルネタ、ハーレムラブコメネタ、その他無数の作品への疑義とかもあるみたいで。

「嫌いと感じたものを嫌ってはいけない」という同語反復的な思考に陥る必要はないと思います。仰るように、それはオーウェル的な検閲ですし。
「嫌いと感じたから排除してやろう」に繋がるのは問題というだけで。

嫌う者を生み出し得る余地(前述の話なら「女性の性を消費していいと男性に思わせ得る作品で「あろう」それら)の存在が問題、という主張になってしまうと、結果的にフェミニスト議論は賛同を得られてないような感じも受けるんですよね。
先鋭化し過ぎて関わるにはリスクが大きいと取られるのかもしれませんし、包摂する範囲が大き過ぎて賛同できないようにも感じます。
(銃器論争から発展したFPS叩きとか、ゲーム内の表現規制とかもそうかもしれません)

「萌え系の作品は女性の性を消費的に用いているので嫌い」までは個人の自由として、「なので排除しろ」となるべきか、と。さらに言うと、そこに(消費以外の)価値を見出しているユーザー(女子も多く含む)を切り捨てるような議論になる場合、有耶無耶の内にそこは排除されていたりして。

ここらへんって程度の問題になってしまって、価値として昇華し得るものが公共的であるかどうか、その公共が公共の範囲として受け止めるかという面と直結してるなと。
「表現的にエグい少女が戦うバトル物」とかはニッチでギリギリの範囲だとしてもきちんと存在するし(というか、大昔からあったのではとすら)、DE DE MOUSEのbe yourselfのPVとかポカリのCMがOKなのは、女学生(も登場する)を青春という側面でのみ捉えた「価値」だからということも言えるのでしょうし。言い方を雑にすると、「ポップかどうか」の話になってしまってる感覚というか。

ただ、多分に消費的な文脈を素地にして、それを無数に重ねた先にポップさに昇華されているような例としてはニーアオートマタの2Bのデザインなんかもあると思います(ゴス+少女+巨大剣+バトル+ロボ)。
それが生れた素地から脱却して、ポップなものはポップな文脈でのみ発展していけばよいとしても、それはたぶん不可能なんですよね。少なくとも創作として成長は不可能だ、というか。男性側の例になりますが、V系も初期のゴス文脈から多様化してきてますし、一つのジャンル内だけで発展するのは難しいと感じます。

ポップなもの、価値ある公共として認められたものへのネガ(でもないのですが)として付随する視聴側の視線を丸ごと検閲することは可能か、不可能であるならそうした「完全に健全な作品」だけが許されるべきかとなると、これはどう考えても違うぞ、となってしまって。

人間そのものを変えてしまう事でしか成立しない(このテーマはほぼharmonyでやられてたと思いますw)ですから。

理想的な社会はこうだ、なので理想的でない物は排除されなければならないし理想であるべき思想は広められなければならない、という主張は「広められなければならない」理想そのものは尊くても、それと衝突し得る思想の存在を排除してしまえば独りよがりですし(マッチョな思想がいいとか悪いとかではない)。
突き詰めていくと、これって自分が肯定し得る属性が肯定されるか排除されるかの駆け引きみたいになってしまうのかな、と。
偶々マッチョ/フェミニスト側にいる時、生まれ持った環境や育った環境で得た思考を他者が審判する権利はあるか(国家と相互作用したとしても)と。

「お前の(生まれと生活の環境によって得られた)思想はおかしいのでこう矯正されるべきだ」となってしまうと、これはもう私刑と変わりませんし。

SNSやってなくても書ける場所でこういうことを書いたらマッチョ側だと叩かれたことがありまして、「中立を気取る」ように見える自分のような態度はただ「外側にいたい」と思わるのかもしれません。とはいえ、それ以上できることもなければ、加担し得る何某かの主張を持たない自分のような人も少なからずいるとは思います。

リベラル「である以上は」みたいな括りでここは前提化されてしまって、ともすると「~を認めないお前はリベラルじゃない」みたいにやられてしまって。もっとも、であれば定義としてのリベラルでなくても構わない(そもそもそう名乗る必要もない)というだけではあるのですけど。
ただ、著名人だとその影響力や繋がりの範囲の中で、発言の傾向をマウントとして取り合うような事態を見てなんだかなと思うこともあり、最近は「同じ側」にいる為の試験としてあれこれの議論が機能してるようにすら感じることがありますね(苦笑)。

反面、実際問題として、「貴方は嫌いでも自分は好きだ」と公然と主張できるかとなると、それも難しい世の中なのかな、と。

仮に無数の主張を併存させるコミュニティが無数に作られても、違いを認め合って笑い飛ばせるような社会を作りましょうというのは、恐らく無数の段階を経た社会でないと不可能だろうなと。
SNS一つでさえ内側で醸成され得る悪意はありうるし、ある場所での叩きが別の場所に表出することはありうる(コミュニティの成員が別の場所にその主張を出せば)わけで。

住んでる場所で叩き合うあれこれとか(地域dis)、性別や学校、コミュニティ、果ては乗ってる車やバイクまで要素は無数にあり、平然と悪意は滲んできますし、主張を主張として出していくのは難しく感じます。

それがどこまで延長するか、ではあるのですけど。
地域の話で言えば、佐藤亜紀先生が書いてたように、中央or周辺でしかこの国を捉えないことへの疑義、みたいな視点は普通にあると思いますし、素朴な意味での各地の再発見とかでなく、「中央(主流派)以外」みたいな視点に対するオルタナティヴはあっていいし、あるべきだと思います。
Unknown (名無し)
2019-05-15 19:16:49
(続いてしまいました、汗)

カタコトの外国人を描くことへの違和感とか最近は可視化されてますけど、金田一耕助シリーズの因習モノになるような書き方はdisなのかとか、なにがしかの表現は地域を侮蔑するものなのか、となっていくと、恐らくこれは日本で受け止めてきた文脈としてはまた別の話で。
disというのではなく、隔絶された舞台装置としてや、ある種の憧憬を込めて描かれていることすら普通にあります(京極先生の作品とか)。

もちろん、明らかに表現がまずく、ただのdis以外の何物でもない表現になってしまっている(意図以前に表現がまずく)場合もあるでしょうし、何も意図されていない場合もあると思います。
方言を嘲笑う(ネタにする、という段階の度を越えた)ような番組が放送されればその番組の良識を疑うことにもなりかねませんし。

こういうのは当然、テンプレ的に対象を「劣ったもの、賑やかし役」のように描いていけば(描いていく「だけなら」)、そうしたスタンスそのものが作品の精度として俎上に乗るでしょうし、それらは失敗した俺TUEEとなってしまうでしょうし。

審判されるというのであれば、ティファニーで朝食をの日本人(というかアジア人)への偏見が今否定的な見方をされているように、評価の中でそれはされるのではないか、と。実際、そういうもの抜きでティアファニーで朝食をそのものの評価はありますし。

こういうのは、大上段に属性で「これはこういう表現が含まれていたからアウト」にしてしまうと、零れ落ちるものが多いだろうなと。

ネットメディアがビュー稼ぎでやるような「この地域はこうだ」の拡大視(疑問の提示ではなく、明らかに扇動的なもの)なんかが拙さとしては最たるものだと思います。
福島の例を出されていて思い出しましたが、今でもある例として「~産は危ない」の連鎖は福島から東北全体、周辺にも広がり、少なからずネットで共有された知識になっていたこともあります。問題は安心を求めて暴走してしまう個々人というよりそれに乗っかったカルトのような動きでしたし、歯止めの効かない「~は危ない」の連鎖だったと思います。唐突に「自分達は危ないのだろうか」となってしまうわけで。
国が(研究機関が)出している前提の安全の先に自分の平穏を求めようとしたとき、どこかで境界線を引きたい、というのはあると思います。
ただ、その先に差別が待っていては問題でしかないな、と。

>中国

政策の転換がトップダウンで完全に管理されている分、研究の強みなんかがそこにある、という話は以前からされてましたね。
反面、クリエイターにとってなんだかんだ規制きついとか、ドローンの例で身内同士で秘密主義的になり過ぎるため、分野が完全に開放されると欧米に負けるところも多い、とか(日本は完全にその轍を踏んでましたし)。ナイフなんかでも欧州・欧米=全体的に高品質、ハンドメイドは高い、中国=安価で品質も良くなってきた、一部工作機械の集中で高品質も、みたいな状況とかありますし(日本はハンドメイドで金額が跳ね上がる感じで)。
インフラの大転換でいきなり工場群が寂れることもあるとか、マクロ以外で見ていくと国なりの事情をどう制御していくかなのだな、というのは結構意識させられます。
まあ個別の事例というより全体を見てどういう傾向があるかとかになってくるとは思いますけど。

ゲーム(というかあの種のエンタメジャンル)については、勝ち負けというより独自性が出てきたなって印象を受けてます。

ソシャゲとかは「そもそもソシャゲじゃないと海賊版の乱立で利益あげられない」ような状態が以前はあったらしく(今も?)、そこらへんの改善はあるかなとも。
STEAMでも中国製のゲーム結構見ますし。

コンテンツ的には二次創作「的な」要素を一次から突っ込む印象が強いのが特徴的で、それも味、というか、ぱっと見でこれは中国のかな、とわかるような感覚にはなってきました。
少し前はアズールレーンとか話題でしたけど、属性を敢えてカリカチュアライズすることで前面に押し出してる(その意味で同じくフォロワーの戦艦少女とかと差別化されていった)ような感じを受けてます。
で、それが日本では二次創作的なモノ、として受け止められるより、ポップな感触で受け止められていったなと。
中国や台湾のイラストレーターさんだと「lain」的な緻密な書き込みの世界にキャラクター的なキャラの対比みたいな作風の人を良く見ているので、全体の印象としてそれとも合致した感じで受け止めています。
ドルフロなんかは出た時期もあっていい成長してきてるな、という気はしますね。(声優についてはむしろあっちの声優のが高いとかなんとか)
まあドルフロは日本のイラストレーターさんも参加してるようで、イラスト的な特徴でどこがどう、とは言えませんけど。

SEKIROとかでも感じるのですけど、最近の日本のゲームジャンルとかはビッグタイトルだと普通に海外製の洋ゲーを凌ぐ作品とかあったりして、汎用性を高くするよりニッチに行った方が面白いような気がします。
ある意味、ニッチに特化しまくってHENTAIから日常系から掘り下げまくったひたすら濃い環境アニメ状態の押井作品からのオタク方面のそれに特化した作品のが強みは強みになってる気がしますね。拗らせた性癖や趣味嗜好、人間の関係性(多くは土地に由来して生まれるもの)は、その国独自のものですし。
拗らせ具合の強さで言うと、フロムゲーとか正にそんなんですしw
二次創作の傾向を見ても感じますけど、嗜好のインフラとして積んできたコードを利用していく環境があるのだと思います。
パロディ→パロディの脱臼→オリジナル化みたいなループとかもですね。

クール単位で消費されてくドラマの方が惰性感とか凄く感じたりしてます。
もちろん、その瞬間の日本を切り取っているので、それはそれで意味はあると思うのですけど。

涼月の話はちょっと前に偶然聞いて驚いたんですけど、ちょっと好きな人がいる、程度じゃなくて話題になる程度に好きな人がいた、ということでしょうか。
だとしたらなんか興味深いというか、艦これの特徴もあるのかなあと。
仮想戦記的な(仮想戦記の在り方の是非は置いといて、になりますけど)要素をベースに持ってるがゆえに、擬人化していく際に付随した要素、ネットミームと連動する日本の環境、基本軍ネタであるがゆえにそこで付いてきた要素、あと艦種単位・艦型単位でキャラ化される先輩後輩的なイメージの連鎖と学校モノのコード、同型艦を敢えて記号化から遠ざけるようなデザインとか、昨今のソシャゲを見ると、ともすれば「地味」なのでw

>ハルヒ

原作、もう半ば完結みたいな投げっ放しで終わっちゃったんですよね……。
作者にもコントロールできないか、やることはやった、という時点に到達してしまったのかもしれませんが。

ガチ文藝本にも検証される数少ない「ラノベど真ん中のラノベ」だったと思います。

連綿とそれまでの文脈を引き継いでライトに描く、という古典的な意味合いを含めてですけども。
Unknown (奇天)
2019-05-16 05:25:23
>フェミ

フェミうんぬんに関しては、そもそも「性的な眼差し」なんてものは現実的に計測不能で、人を傷つけるという意味では女性が人を蔑むような視線を投げかけることだって同じ問題だと思います。

快不快にしても何をそう感じるかは人によりけりですし、誰かひとりでも不快に感じたらNGなんて言いだしたら何も表現できません。

また現実には絵や写真よりも、性別による役割の固定化を前提としたストーリーみたいなものの方が問題だと思いますし、それに加担しているのは男性だけではありません。

性犯罪者像ひとつとっても、現実の性犯罪者の統計的データとフェミニストの間の性犯罪者像との差違はかなりあるように感じます。自分の頭の中のイメージだけで語ることの理不尽さが反発を招きやすいというのもあると思います。

一方、江戸時代であれば若い女性がひとりで外を歩いていたらレイプされても仕方がない世界でした。貞操概念があるのは武家や大店の商家くらいで、そのためには常に護衛が必要でした。そういう世界では力のない者は男も女も理不尽に耐えるしかありませんし、それこそイヌに噛まれたと思うしかない状況だったと思います。

今でも世界の国や地域によってはそういうところもありますし、日本もそういう世界から少しずつ良くなっている段階にあるといった感じで、完全に安全な男女同権の世界になったとは言えません。

最近は女性を主人公に小説を書くことが多いので、その目線で今の日本を見ると、様々なリスクを感じてしまいます。それは単なるリスクというだけでなく、実体験としての恐怖を伴っている女性が多いということもSNSを通して知ることができます。

その傍ら、AEDを女性に使うことのリスクがここ数日話題とされていますが、度が過ぎた潔癖さが引き起こす問題も次々と生まれていて、今後それが更に進んでいくのか、或いは移民などの影響で維持できなくなるのか、なかなか予断が許さない時代だと思います。

>悪意

人には悪意や怒り、正義の感情など様々なものがあり、それをどうコントロールしていくのかがこれまで以上に大切だと思いますが、SNS上ではそのコントロールに失敗している事例に事欠きません。

特に悪意以上に正義感で人を断罪する人は危険に感じます。そこに右や左の違いは感じません。日本人に限ったことではなく、人間の性なのかもしれませんが、本人がコントロールしようと努力すればある程度は身に付くはずです。実際には知識人の中にもコントロール不可な人が少なくないのが哀しいですね。

>中国

自由度って国や地域によってそれぞれに自由な部分・不自由な部分があり、日本があらゆる点で中国を上回っているとは思いません。それは他の国も同様だと思います。自由度の高低は多少差はありますが、経済でも文化でもそういう違いを背景に独自性が生まれていくのかとも思います。

歴史的な経緯もありますが、今はアメリカや韓国より指導者の個性という点では日本にとって付き合いやすい(対処しやすい)相手かと思います。一部の国民感情に流されることなく、実利を求め合っていければWin-Winの関係が築けるのではないでしょうか。

>ハルヒ

すべてKADOKAWAが悪いということでw

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