香川も長友もベンチスタートか・・・(ー∇ー;)
オフゲーのRPGはもう、最初から2周目の強さでもいいと思うんだけどなあw そんなのないものか?
バルサはもっとおばさんがいいな・・・(ぉぃ
RT @NHK_PR: 【再掲】放送90年 大河ファンタジー「精霊の守り人」の制作が発表になりました。
主人公・バルサ役は綾瀬はるかさんです。総合テレビで2016年春から3か年にわたって全22回放送予定です。詳しくは→http://t.co/uMqA9SExVV
RT @KanColle_STAFF: 今夏実施の「艦これ」夏イベント:期間限定海域は【AL作戦 / MI作戦】です。本作戦は、【8/8(金曜日)】の作戦開始を予定しています。※作戦開始日は、止むを得ず変更される場合もあります。予めご了承頂けますと幸いです。
#艦これ
カードだけなら本大会準決勝でもおかしくなかったけど、いかんせん初回の5点が重かったね・・・。<大阪桐蔭 対 履正社
柿谷ベンチ外じゃなあ・・・見ても仕方ないか(ー∇ー;)
フォルランひとりで戦った試合。残りの選手はなにしてるんだって話。 #cerezo
楠神・健勇がなにしに入ってきたか分からん・・・ #cerezo
キムソンジュンの良さがまだよく分かんない・・・決定力あるでもなく・・・まあ楠神も似たようなもんだけど(ー∇ー;)
前半の運動量あるうちに得点欲しかったね・・・(ー∇ー;) #cerezo
鳥栖相手に走り勝てる気がしないしなあ・・・(ー∇ー;)
まあすごいシュートだこと・・・
マイルハイだから、ボール飛ぶのねw
ハーフウェイよりはるか手前からゴール決めるとかwww
香川悪くはないんだけど、シュートがなあ・・・
マンUは後半頭から9人交代かw 別のチームだな
香川は今日もセンターハーフっぽいね
香川は後半からかw
RT @masuzone: ハーフナー右膝負傷 練習で交錯と地元紙
http://t.co/XsrlNL5Xy6
マルカ紙(電子版)によると、コルドバへ移籍したハーフナー・マイクが、
キャンプ3日目となった26日の練習でチームメートと交錯し、右膝を負傷。
練習を途中で切り上げた…
マンU強いなあ・・・去年の今頃とは全然違うしw
ブログの記事の大半はひとに読んでもらうためというより、自分がいま何を考えていたかの記録という側面が強い。だから、公開しなくてもいいんだけどね。
珍しくブログに書きたい記事が3本あって、そのうち2本を書いた。最近は書きたいことがあっても、色々考えているうちにもういいかってなることが多い。あと1本は、書くかどうか分かんないけどw
「大きな物語」の終焉をフィクションの世界で象徴的に表した作品が『新世紀エヴァンゲリオン』だった。
「大きな物語」後の世界のあり様に対して新たな道を示した作品が『高機動幻想ガンパレード・マーチ』だった。
世界(国家・社会)の意味を読み解き、個人が「成長」していく構造が「大きな物語」だった。
個人が他の人々と繋がることで、世界(国家・社会)に関わりを持っていくという手法が、『ガンパレ』が『エヴァ』に対する回答だった。
コミュニケーションを武器に世界を変える。それは、ゲーム内のシステムだけでなく、『ガンパレ』の発売手法とさえなった。
宣伝費ゼロ、まったく無名の作品が、ウェブを中心に口コミで広まり、アニメ化や続編が生まれる人気作になった。
こうした人とのコミュニケーションをゲームシステムに取り入れた作品としては『ペルソナ3』『ペルソナ4』がある。
それ以上に、リアルにコミュニケーションが重要になるのがMMORPGなどのネットゲームだった。
『ファイナルファンタジーXI』では、ソロではできることはわずかだ(のちには増えていったが)。レベルを上げるだけなら、誘われ待ちでもできるが、それ以上となるとゲーム内での人間関係を構築していく必要があった。
デュナミスというコンテンツが実装されてしばらくして、私が入った攻略LS(ギルドのようなもの)は100人近く(越えていたかも)のメンバーが所属していた。このコンテンツは1度に最大64人が参加可能。常にそれくらいの人数で突入しようと思えば、当日都合が悪い人が出ることを考慮するとそんな数が必要となる。当時は64人いても全滅が当たり前の難易度だった。
それだけの人数のLSを運営するのは容易ではない。結局、そこもメンバー同士の対立からボス攻略を果たせずに解散してしまう。
MMORPGは待っているだけでは得られるものは少ない。何かを得ようと望むなら、行動が、コミュニケーションが必要だった。
ゲームの話ではなく、現実で、人々が繋がり、世界を変えることはできたのか。
前世紀の終わりに人々はインターネットというツールを手に入れた。今世紀に入り、このツールは国の形を変えることもやってのけた。
ただし、それは世界での話。日本の話ではない。日本では残念ながら、暇つぶしの道具以上の働きはしてこなかった。むしろ、人々の生産性を下げ、堕落せしめたかもしれない。
その最大の要因は匿名性だろう。
匿名で語られた言葉に力はない。(この言説も同様だけれど)
MMORPGも匿名だが、そのキャラクターはプレイヤーの分身であり、その名前は簡単に変えることはできない。長い時間を掛けて築き上げられたキャラクターだから、MMORPGの中ではその名前はある程度の重さを持っていた。
インターネット黎明期、匿名であってもハンドルネームにはある程度の重さがあったと思う。しかし、2ちゃんねるが浸透したあと、ハンドルネームという文化さえ廃れた感じだ。
Twitterなどの多くのSNSは、複数のアカウントが取得でき、アカウント名の重さはウェブ全般とそう変わりない。
Facebookなどの一部の例外を除くと、日本では匿名性が重視され、それが変わることはなさそうだ。日本でのインターネットの文化が大きく変わる可能性は低い。それを望まない人々もいるだろう。
インターネット以外で、現実の世界でコミュニケーションを重視し、周囲の環境を変えようとしている人々はいるだろう。ただそれが大きな力を持つには至っていない。
現状をあまり変えたくない人たちがいる。既得権を持っていたり、変えることが不利益になると思っている人たち。変えないでいいのなら、それでもいい。しかし、日本に変えないでいいと言っている余裕があるようには見えない。
以前から、家畜化している若者たちというイメージを抱いている。今の若者は、それ以前の世代より、真面目で真剣で従順だ。だから、食い物にされている。ネトウヨの愚かさは涙なしには語れない。
最近、バトル系フィクションに人気作が増えている印象だ。目新しい存在ではないが、「戦うこと」が必要な時代なのかもしれない。問題は、なにと戦うのかだが。巨人やゴキブリ、ゾンビだけでなく、戦うべき敵を描く作品に出会いたい。
全く話は変わるが、「セカイ系」というものがずっとピンと来なかった。
エヴァ以降の話の流れとして、通常は「セカイ系」が語られる。
「セカイ系」と呼ばれる作品群をほとんど読んでいないし、読みたいとも思わないのだけれど、ふと思い付いたのは、エヴァによって突き付けられた「物語」の終焉を回避しようという試みだったのかなと。
世界に意味がなくとも、世界そのものと対峙すれば物語化するだろう。そんな発想。
違う?
よく分からないね。ほんと思い付いただけなんだけど。
「大きな物語」後の世界のあり様に対して新たな道を示した作品が『高機動幻想ガンパレード・マーチ』だった。
世界(国家・社会)の意味を読み解き、個人が「成長」していく構造が「大きな物語」だった。
個人が他の人々と繋がることで、世界(国家・社会)に関わりを持っていくという手法が、『ガンパレ』が『エヴァ』に対する回答だった。
コミュニケーションを武器に世界を変える。それは、ゲーム内のシステムだけでなく、『ガンパレ』の発売手法とさえなった。
宣伝費ゼロ、まったく無名の作品が、ウェブを中心に口コミで広まり、アニメ化や続編が生まれる人気作になった。
こうした人とのコミュニケーションをゲームシステムに取り入れた作品としては『ペルソナ3』『ペルソナ4』がある。
それ以上に、リアルにコミュニケーションが重要になるのがMMORPGなどのネットゲームだった。
『ファイナルファンタジーXI』では、ソロではできることはわずかだ(のちには増えていったが)。レベルを上げるだけなら、誘われ待ちでもできるが、それ以上となるとゲーム内での人間関係を構築していく必要があった。
デュナミスというコンテンツが実装されてしばらくして、私が入った攻略LS(ギルドのようなもの)は100人近く(越えていたかも)のメンバーが所属していた。このコンテンツは1度に最大64人が参加可能。常にそれくらいの人数で突入しようと思えば、当日都合が悪い人が出ることを考慮するとそんな数が必要となる。当時は64人いても全滅が当たり前の難易度だった。
それだけの人数のLSを運営するのは容易ではない。結局、そこもメンバー同士の対立からボス攻略を果たせずに解散してしまう。
MMORPGは待っているだけでは得られるものは少ない。何かを得ようと望むなら、行動が、コミュニケーションが必要だった。
ゲームの話ではなく、現実で、人々が繋がり、世界を変えることはできたのか。
前世紀の終わりに人々はインターネットというツールを手に入れた。今世紀に入り、このツールは国の形を変えることもやってのけた。
ただし、それは世界での話。日本の話ではない。日本では残念ながら、暇つぶしの道具以上の働きはしてこなかった。むしろ、人々の生産性を下げ、堕落せしめたかもしれない。
その最大の要因は匿名性だろう。
匿名で語られた言葉に力はない。(この言説も同様だけれど)
MMORPGも匿名だが、そのキャラクターはプレイヤーの分身であり、その名前は簡単に変えることはできない。長い時間を掛けて築き上げられたキャラクターだから、MMORPGの中ではその名前はある程度の重さを持っていた。
インターネット黎明期、匿名であってもハンドルネームにはある程度の重さがあったと思う。しかし、2ちゃんねるが浸透したあと、ハンドルネームという文化さえ廃れた感じだ。
Twitterなどの多くのSNSは、複数のアカウントが取得でき、アカウント名の重さはウェブ全般とそう変わりない。
Facebookなどの一部の例外を除くと、日本では匿名性が重視され、それが変わることはなさそうだ。日本でのインターネットの文化が大きく変わる可能性は低い。それを望まない人々もいるだろう。
インターネット以外で、現実の世界でコミュニケーションを重視し、周囲の環境を変えようとしている人々はいるだろう。ただそれが大きな力を持つには至っていない。
現状をあまり変えたくない人たちがいる。既得権を持っていたり、変えることが不利益になると思っている人たち。変えないでいいのなら、それでもいい。しかし、日本に変えないでいいと言っている余裕があるようには見えない。
以前から、家畜化している若者たちというイメージを抱いている。今の若者は、それ以前の世代より、真面目で真剣で従順だ。だから、食い物にされている。ネトウヨの愚かさは涙なしには語れない。
最近、バトル系フィクションに人気作が増えている印象だ。目新しい存在ではないが、「戦うこと」が必要な時代なのかもしれない。問題は、なにと戦うのかだが。巨人やゴキブリ、ゾンビだけでなく、戦うべき敵を描く作品に出会いたい。
全く話は変わるが、「セカイ系」というものがずっとピンと来なかった。
エヴァ以降の話の流れとして、通常は「セカイ系」が語られる。
「セカイ系」と呼ばれる作品群をほとんど読んでいないし、読みたいとも思わないのだけれど、ふと思い付いたのは、エヴァによって突き付けられた「物語」の終焉を回避しようという試みだったのかなと。
世界に意味がなくとも、世界そのものと対峙すれば物語化するだろう。そんな発想。
違う?
よく分からないね。ほんと思い付いただけなんだけど。
【ゴースト≠ノイズ(リダクション) (ミステリ・フロンティア)/十市 社】ミステリと思って読んだら、ただのライトノベルだった。そう悪くはないが、もう少し終盤の見せ方に工夫が欲しかった。全体の構成やキャ... →http://t.co/YWXFQH8G9i #bookmeter
@shizulukun 俺物語はずっと読みたいと思いながらまだ手を出してなくて・・・早く読まないといけませんね!まあ「ふやけた男子にダメ出し」するのも女性作家というあたりがw
エアコンちょっと切ってただけで汗だらだらに(´Д⊂
@marukinX @shizulukun 面白かったですねー最近は『銀の匙』読むたびに『じゃじゃ馬』思い出しちゃいますがw
ラノベでもコミックでも、まともに恋愛を描こうとしてるのは女性作家で、ラブコメの類型に逃げずにちゃんと描こうとしてる男性作家自体あまり思い浮かばないのが、なんとも・・・(ー∇ー;)
@shizulukun ひとむかし前なら少年向けでもフツーにあったとは思うんですけどねーw 『じゃじゃ馬グルーミンUp!』とか。・・・もう「ひとむかし」じゃないですかね^^;
RT @lubitanaka: めっちゃええ話。
フンメルスの手が私の手に当たり、ICレコーダーが地面に落ちてしまったのである。フンメルスは私の顔を見るや、
「すみません」
きれいな日本語だった。場が和んだ。ドルトムント時代のチームメート、香川が教えたものだろう
http:/…
『校閲ガール』の主人公は24歳女性。そんな彼女がコーヒーショップで偶然見かけた男性に恋をする。その理由は、イケメンだから。
彼女は子供のころからファッション雑誌の愛読者で、自分に対しても他人に対してもファッションに対する感覚は鋭い。くだんの男性も駆け出しとはいえファッションモデルだった。
『人は見た目が9割』なんて本もあったが、実際に身だしなみや服装を含めた外見にその人となりは如実に表れるものだ。外見を装うことなんてくだらない、内面を磨けなんていうのは、妄言といっていい。
だから、主人公がひとめ惚れすることに異議はない。異議はないのだが、ひっかかりはある。
その後ふたりは知り合いとなり、恋が実りそうなところで終わる。その中で男性の内面が描かれることはない。その人となりすらほとんど描かれない。主人公が好きになった理由もイケメンだからだったと自分自身で納得している。
最近の少年向けライトノベルやラブコメ系コミックで、主人公がひとめ惚れする場面が思い浮かばない。これらは、「主人公」だから無条件で周囲のヒロインに好意を持たれるため、主人公が積極的に好きになった相手にアプローチするという展開がほとんどない。
ヒロインがあまりに絶世の美女だった場合、主人公が気後れしたり、釣り合いが取れているか気にすることがあると思う。俺TUEEE系の主人公であればともかく。
男性がヒロインに求めているのは、かわいいことは絶対条件だが、容姿よりも関係性であったり、なにより「無条件に自分を愛してくれるという母親の代わり」的なものだったりする。
「現代日本のエンターテイメントでは、男の子が空から降ってきた美少女にすべての願いを叶えてもらうのはありだけど、女の子はすべて自分で道を切り開かなきゃ許されない。男がヘタレという事実をみなが気付いているから・・・。」と先日ツイートした。
男がヘタレでマザコンでもいいという女性もいるにはいるだろうが、多くの女性はいまの日本の男性に幻滅しているんだろうなとは思う。
『校閲ガール』で主人公の同世代の女性が男性に求めているのはカネと容姿。身も蓋もないけれど、それくらいしか求めるものがない。
この本の中に出てくる男性で、「いい男」と呼べるのは、イケメンの彼と、主人公の先輩のゲイ(?)のふたりだけ。作品的にファッションセンスのない人物はバッサリ切られるのでより顕著だが、現在の日本社会の縮図としては正しい感じもする。
ただ以前Twitterで見かけたのだけれど、「スーフリ」のような(そこまでひどくなくても)男たちを、男なら見た目である程度判別できるが、女にはできないという話があった。
外見から、その人となりや所属する集団を識別するリテラシーは同性に対しての方が高くなると思う。服装などは異性に対してであっても、それをよく見ているのは同性の方だ。経験を積んでいけば、異性の外見へのリテラシーも向上するのだろうが、若いうちは限界があるだろう。
カネもない、容姿も恵まれない男は、生きる価値がないのが現在の日本だ。そのためのオタク産業であるとも言える。
私のオタクの定義は、異性に対する外見的(あるいはそれ以外の)努力よりも自分の趣味に時間・労力・お金をかける人というもの。実際には、イケメンでなくてもモテる方法はあるが、どちらにせよ、何もせずに愛されるなんて幻想は、大金持ちか美形かでなければありえないという、当たり前の話に行き着く。
というか、「リア充、爆発しろ!」って結論しかないよねw
以前、宮下奈都『スコーレNo.4』を読もうとした。主人公の中学、高校、大学、就職という4つの時期を描いた作品なのだが、最初の中学時代までしか読めなかった。
主人公はひとりの少年にひとめ惚れする。遠くから見て、一瞬で射ち抜かれるように。
それだけのこと。だけど、どうしても主人公に気持ちが寄り添えなくなってしまった。
描き方などに引っ掛かりがあったのかもしれないが、続けて読もうという気持ちは失せてしまった。
ひとめ惚れしたことがないから?
それでもフィクションとして書くのはありだと思うのだけれど、この作品だけは割り切れなかった。それだけよく描けていたからなのかもしれない。
結局、「リア充、爆発しろ!」と呪詛を吐くしかないわけだが。
彼女は子供のころからファッション雑誌の愛読者で、自分に対しても他人に対してもファッションに対する感覚は鋭い。くだんの男性も駆け出しとはいえファッションモデルだった。
『人は見た目が9割』なんて本もあったが、実際に身だしなみや服装を含めた外見にその人となりは如実に表れるものだ。外見を装うことなんてくだらない、内面を磨けなんていうのは、妄言といっていい。
だから、主人公がひとめ惚れすることに異議はない。異議はないのだが、ひっかかりはある。
その後ふたりは知り合いとなり、恋が実りそうなところで終わる。その中で男性の内面が描かれることはない。その人となりすらほとんど描かれない。主人公が好きになった理由もイケメンだからだったと自分自身で納得している。
最近の少年向けライトノベルやラブコメ系コミックで、主人公がひとめ惚れする場面が思い浮かばない。これらは、「主人公」だから無条件で周囲のヒロインに好意を持たれるため、主人公が積極的に好きになった相手にアプローチするという展開がほとんどない。
ヒロインがあまりに絶世の美女だった場合、主人公が気後れしたり、釣り合いが取れているか気にすることがあると思う。俺TUEEE系の主人公であればともかく。
男性がヒロインに求めているのは、かわいいことは絶対条件だが、容姿よりも関係性であったり、なにより「無条件に自分を愛してくれるという母親の代わり」的なものだったりする。
「現代日本のエンターテイメントでは、男の子が空から降ってきた美少女にすべての願いを叶えてもらうのはありだけど、女の子はすべて自分で道を切り開かなきゃ許されない。男がヘタレという事実をみなが気付いているから・・・。」と先日ツイートした。
男がヘタレでマザコンでもいいという女性もいるにはいるだろうが、多くの女性はいまの日本の男性に幻滅しているんだろうなとは思う。
『校閲ガール』で主人公の同世代の女性が男性に求めているのはカネと容姿。身も蓋もないけれど、それくらいしか求めるものがない。
この本の中に出てくる男性で、「いい男」と呼べるのは、イケメンの彼と、主人公の先輩のゲイ(?)のふたりだけ。作品的にファッションセンスのない人物はバッサリ切られるのでより顕著だが、現在の日本社会の縮図としては正しい感じもする。
ただ以前Twitterで見かけたのだけれど、「スーフリ」のような(そこまでひどくなくても)男たちを、男なら見た目である程度判別できるが、女にはできないという話があった。
外見から、その人となりや所属する集団を識別するリテラシーは同性に対しての方が高くなると思う。服装などは異性に対してであっても、それをよく見ているのは同性の方だ。経験を積んでいけば、異性の外見へのリテラシーも向上するのだろうが、若いうちは限界があるだろう。
カネもない、容姿も恵まれない男は、生きる価値がないのが現在の日本だ。そのためのオタク産業であるとも言える。
私のオタクの定義は、異性に対する外見的(あるいはそれ以外の)努力よりも自分の趣味に時間・労力・お金をかける人というもの。実際には、イケメンでなくてもモテる方法はあるが、どちらにせよ、何もせずに愛されるなんて幻想は、大金持ちか美形かでなければありえないという、当たり前の話に行き着く。
というか、「リア充、爆発しろ!」って結論しかないよねw
以前、宮下奈都『スコーレNo.4』を読もうとした。主人公の中学、高校、大学、就職という4つの時期を描いた作品なのだが、最初の中学時代までしか読めなかった。
主人公はひとりの少年にひとめ惚れする。遠くから見て、一瞬で射ち抜かれるように。
それだけのこと。だけど、どうしても主人公に気持ちが寄り添えなくなってしまった。
描き方などに引っ掛かりがあったのかもしれないが、続けて読もうという気持ちは失せてしまった。
ひとめ惚れしたことがないから?
それでもフィクションとして書くのはありだと思うのだけれど、この作品だけは割り切れなかった。それだけよく描けていたからなのかもしれない。
結局、「リア充、爆発しろ!」と呪詛を吐くしかないわけだが。
【校閲ガール/宮木あや子】校閲とは渋いところを・・・と思ったけれど、校閲である必然性はあまり感じず。おもしろく読めたので、いいんだけど。「人は見た目が9割」なんて本もあるけど、実際に身だしなみやファッ... →http://t.co/XNrV3e8D26 #bookmeter
まめFileが起動に時間がかかり過ぎてどうしようもなくなったので、何度目かのAsrの導入。しかし、使いにくい。起動は早いが、おそろしく使いづらい。他のファイラーを検討すべきか・・・。
柿谷の抜けた分への補強はないの?外国人枠まだあるのに・・・(ー∇ー;)
PCトラブルに気を取られてJリーグを忘れてた_| ̄|○