2014年6月の読書メーター
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上岡龍太郎 話芸一代の感想
TVのバラエティを見なくなって久しくなるが、「話芸」を感じる機会が減ったことも一因だろう。伝統芸能を除く、芸や笑いへの扱いの軽さには昔から不満を感じていた。批評もなく、ただ消費するだけではすぐに廃れていく。なにごとも。(☆☆☆☆☆☆)
読了日:6月13日 著者:戸田学
読書メーター
ハハハ。わずか1冊。
ワールドカップの真っ只中だもの。仕方ないじゃないか!
コミックも3冊のみ。
2014年5月に読んだ本
2014年4月に読んだ本
2014年3月に読んだ本
2014年2月に読んだ本
2014年1月に読んだ本
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![上岡龍太郎 話芸一代](http://ecx.images-amazon.com/images/I/61wd5oDraVL._SX100_.jpg)
TVのバラエティを見なくなって久しくなるが、「話芸」を感じる機会が減ったことも一因だろう。伝統芸能を除く、芸や笑いへの扱いの軽さには昔から不満を感じていた。批評もなく、ただ消費するだけではすぐに廃れていく。なにごとも。(☆☆☆☆☆☆)
読了日:6月13日 著者:戸田学
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ハハハ。わずか1冊。
ワールドカップの真っ只中だもの。仕方ないじゃないか!
奇天の本棚 - 2014年06月 (3作品)
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コミックも3冊のみ。
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まあ、笑いとか現代アートなんかは、即時消費が前提になってしまってて、「後ろ盾」になるようなものを界隈が作れなかった(作ろうとしない)のもあるかもしれませんが。
依って立つ物がないのが原因なのかもしれませんね。
アートなんかだと、それこそ「主張したいこと」だけが時代というかその時々ごとに生まれては消えていくだけ、みたいな流れはよく感じたりはしますけど。
まあこれはジャンル次第ではありますがw
いくつか批評的なメディア(雑誌=HIPPON SUPER!やゲーム批評)がありましたが、事実上宣伝広告のみの場となってしまいました。ネットも、日本は2ちゃんねるのような匿名で批判を垂れ流すものが多く、フィードバックの場とはなり得なかったと思います。
>笑い
日本では「笑い」は低く見られています。泣かせたり、感動させるよりもはるかに難しい「芸」ですが、そう認識している人は少数派です。
昔はもっとひどかったですね。ドリフにせよ、ひょうきん族にせよ、低俗などと叩かれることしかなかったと思います。
M-1のヒットなどで少しはマシになったかなと思いますが、TV自体に消費して終わりという強い志向があるせいか、批評の場が成り立ちにくい感じですね。
上岡の話でもTV以外に多くを割かれていました。ラジオや舞台です。ラジオはTV以上に放送しておしまいですし、ローカル性が強いので、批評は難しいですね。今の世代はほとんどラジオ文化に触れていないと思いますが、ネット以前はそれなりにラジオの果たす役割はあったと思っています。
舞台も、古典芸能や演劇はそれなりに批評が存在している印象ですが、それ以外となるとどうなんでしょうね。あまり詳しくないのでよく知りませんが、TVなどの大きなメディアとリンクしないと話題になることはなさそうですし・・・。
スポーツ・ニュース・アニメ以外でTVをまったく見なくなってしまい、最近のコトには疎いので的外れな見方かもしれませんが、TV(民放)のバラエティは気持ち悪い感じがしてしまいます(もちろんすべてではないですが、マインドコントロールのような印象もw)
こういう点でこのゲームのここがいい、みたいなざっくりした情報の集積はフィードバックとして成立してるのではないか? ということですね。
自分自身、日本のゲーム雑誌を買っていないのでそういう点には行き着かず、申し訳ないです。
>笑い
時事ネタや「勢い」の芸が今は主流であると思いますし、それらの、ある種の「空気を読む」芸には批評を当てていくのが困難(やれなくはないのでしょうが、ネットでしか見ない)な面はあるのかもしれません。
しかもテレビは持続的に出演してる芸人でもなければ見ることができませんし。
直接トークライブを見て貰うのも大変ではないかと。
昔は、なるほどそんな感じなんですね。
てっきり昔の方がしっかりしてるかと思ったんですが。
というか、たとえばモンティ・パイソンやチャップリンを下敷きにしてるとか言われたり聞かされたりしていたので、その辺がしっかりしてたんだとは思ってるのですが、それを批評することがなかったということでしょうかね。
ラジオは……確かに難しいですね。
WEBラジオでなければ保存も難しいですし、移動中に車で聴くのが精々だったりで。
ただ、映画批評をラジオでやってるのは知ってますし、そういうのは動画サイトにも上がってるんですが、そういう文化があるのは理解できますね。
いや、これはラジオ「が」批評をするということですけれどもw
古典に関しては、近くで狂言や能を呼んでいる人がいたりすることもあり、草の根でもかなり場は構成されてる気がします。
能にしても英語能があったり、クラシックなインフラが構築されてる分だけ強いんじゃないでしょうかね。
資金の確保は必須でしょうけど。
テレビはそこは問題ないのでしょうけど、あまりにも即物的というか、その場の芸でありすぎる感じはしています。
大御所のベテランが「あいつは面白い」みたいなことを言ってたりして、そういう関係の中で評価される芸人はいるのでしょうけど、見る側がそれをどうこうと評価するような環境にはないのではないかなあと。
テレビに関しては、まあ、似たような視聴状況なんですが(苦笑)。
スポーツとアニメも見れてないぶん、自分のが疎いと思いますw
時代劇だけ時間作って見てる感じですね。
海外だとネットでのプレイがベースですし、MODなどユーザーが関与することを含めてのゲーム制作みたいなところがあって羨ましく思いますw
日本はチートはダメ、公式がすべてみたいな感じですが、決められた遊び方以外の多様性がもっとあってもと思います。
>笑い
芸と呼べるものから低俗とののしられるものまで、いろいろとあっていいと思うのですが、民放だと同じようなものばかりに感じてしまいます(見てませんがw)。
日本は批評があまり重視されませんし、何人かのコラムニストなどの言葉頼りみたいなところでしょうか。それが批評というレベルかどうかは怪しいですが^^;
批評は、昔はもっとなかったと思いますが、やっている当人は当然様々な工夫や上達を目指しますし、そこに違いはないと思います。ただ、昔はテレビはかなり自由でしたので、いろんなことができました。今は、様々な規制が厳しく、やれることが限られてきたというのはあると思います。
また、視聴率重視が甚だしく、どうしても似たような番組作りになるというのも避けられないのでしょう。
>ラジオ
昔も今もテレビに比べて自由度が高いので、それなりにユニークな試みは行われているとは思うのですが、なかなか伝わってきませんね。地域性とその場限りという足かせはテレビよりもありますしね。
>人気と批評
ヒット作が出て、似たような作品を雨後の竹の子のように出しまくるというのは悪いことだとは言いません。それ一辺倒でなく、多種多様なものを生み出す中でならと条件がつきますが。
テレビの場合、民放地上波は枠が限られているため、どうしても同じようなものばかりと見えてしまいますね。地上波以外だと予算などが限られますが、最近はあまりアイディアで見せるような番組が出てきているようにも見えませんし・・・。
批評が真っ当に機能すればそういう多様性の担保になると思うのですが・・・。音楽界は少しは機能しているようにも見えますが、どうなんでしょうね。疎いので全然分かりませんけど。
最先端突っ走るようなエンターテイメントにこそ、批評の価値があると思うのですが、批評するのも大変ですしねーw
レトロゲームは好きでyoutubeでよく見て楽しんだりするんですがw、ああいうシンプルな状況だからこそ、メーカーもいかに面白くするか、という点に注力したんだろうなというのはわかります。
任天堂は考えてみたら超クオリティを最初から維持してるんだというのにも驚きますが……。
FPSがフィードバックの対象になりやすいのは、対戦前提でユーザビリティが低いと文句が出やすいからだというのはあるかもしれませんね。
MMORPGでもこれは同じなんだと思いますが、これに関してはあまり突っ込んだことが言えませんのでまあそのw
批判も「便乗する批判」でなければ価値があるとは思うのですが、まずは場を形成しないと難しいのかもしれません。
ユーザーと作る環境、みたいなのはもうちょっとあるといいのかもしれませんね。
>笑い
ああ、少し前ですが、北野たけしの番組で、「今はこれ流せませんよ!」と、昔の番組の過激なシーンが流されてましたw
クレーンで海に沈める所だったと思いますが、今は確実に視聴者から文句が付けられるレベルの絵でw
前にほこたてのやらせ問題でも持ち上がりましたけど、今は「やれる範囲でどう視聴率を取るか」が問題なのかもしれませんね。
その中で研磨されてきた方向性として、たとえばテロップ芸の進化とかナレーションとかあると思いますが、芸人の雛壇とか、見ている側としてはあまり意識しない(自分は、ですが)環境に喋りの巧さなどが費やされてるのかもしれません。
バラエティが企画モノ偏重になってくるのは、今は例えば「ドリフ」みたいなスタイルを恒常的に面白がる環境にないからかもしれませんが。
というか、「ネタにしやすい」というか、芸人の反応を見て共感する、みたいなネタがある感じがしますね。
ラノベで主人公がネタフリしたり、メタネタ突っ込んでくる笑いに近いというか。
>音楽(ヒット作と)
ポピュラーミュージックに関しては、「レビュアーサイド=視聴者側」の意味付けというか、音楽に対するジャンルや文脈の定義付けはある感じですね。
オルタナ界隈のここがこうで、という前提を可視化することで生まれる「なんかこういうの」みたいなのはあると思います。
それが批評の機能が発揮されてるかというと話は別かもしれませんが、少なくとも、潜在的なプレイヤーや環境に影響はあるんじゃないかな、と。
ブラックメタルなんかでも、「クラシックスタイル」「アトモスフェリックな」という特徴を漠然とリスナーサイドに印象付け、それが批評の中で醸成されることで
後進が界隈を形成した、という例なんかもありましたし。
まあメタルはこんなのばっかですけどw
とはいえ、ジャンル化は必須なのだと思います。
「売れる」というのは、この理屈で言えば「ああいう音楽をやりたい」「認められたい」という即物性に支えられたとしても、それが駆動要因になりますしね。
メジャーレーベルの青田買いが嫌われた時期(今も)がありますが、それはインディーズシーンという、視聴者のリズムで成り立っている環境が破壊されたからだと思います。
90年代後半のアメリカはこれが行き着いて、メジャーとインディーズの境界線が破綻してしまいましたが、これは日本のゼロ年代の状況とそのまんま似通ってるなと。
今はネット配信によって個人化が進み、「好きな界隈で好きな人に認めて貰う」というスタイルも定着してきてるので、こういうのはまたアリかもしれませんけどね。
一番如実にこういうのが先鋭化されてたのがジャズだったと思うのですけど、nu-jazzな環境はあんまりこういうのに頓着してない気はしますね。
いずれにせよ、アーティストは「聴衆に説明する」義務を追う場合、批評は役割を果たしてると言えるのかもしれません。
こういう環境が飽和してくると、既存のパターンを少し異化してみたり、アヴァンギャルドなスタイルに行く人たちが出てきて(大抵は技量を持てあましたりで)、そこにまた批評が飛びつく、ということはあるかなと。
少し前までは同人音楽って新しいなーと思ってたんですが、これもあっという間に取り込まれたことを考えると、まあ難しく思いますがw
過剰さによって「そのジャンルを踏み越える」というのは、いつでも起こってることだとは思います。
日本でアニメ/音楽/同人の環境から出たのだと「サウンド・ホライゾン」が有名ですが、あれは(プレミア付いてるデモ持ってるんですが)、シンフォニック/エピックメタルの要素を神話からアニメ的な世界観に置き換えて、そのままメタルからアニメを接続した、というのが新しかったのだと思います。
気付けばそのフォロワーで同人音楽界隈の一部が形成されたことなどから考えても、誰かが何かをジャンルとして踏み越えると「新しい」のではなくても、「新しく聴け」て、そこに新たな指標が生まれたりするのでしょうね。
STGだと弾幕ゲームの深化がこれなんじゃないでしょうか。
まあ、ポピュラーミュージックの最近の本を読むと、AKB商法の限界などにも触れられてて、メジャーはちょっとどうにかした方がいいんじゃないって気はしますがw
最先端のエンタメは、売れてる限りは売れるように売るでしょうし、日本の場合はそうした方が効率がいいというのもあるのでしょうけど、難しいですね。
これは一度でもユーザーに背を向けられると再ヒットが難しいのではないかと。
AKBも確実に当てられる弾である以上は装填され続けるでしょうし。
こういうところに多様性を確保しておくと本来は全体が盛り上がると思うのはありますね。
日本のオルタナロックは「ロックとしてメジャー」ですが、なんだかんだ言って閉じてる空気を感じていますし……。
まあこれは世界的な現象なのかもしれませんけどねw
U2とかレディオヘッドとかメタリカとかリンキンとかスリップノット(はどうか微妙ですがw)とか、大資本に支えられて、大きく盛り上げられるバンドはこの枠外にあるでしょうから、あとはもうジャンル内で括り込まれてる感じなのかも、と。