2013年1月の読書メーター
読んだ本の数:12冊
読んだページ数:3705ページ
ナイス数:100ナイス
無花果とムーンの感想
主人公がバカで愚かでワガママで、でも、身近な人の死という衝撃を受け入れることはキレイゴトなんかじゃなく、等身大の姿で描いてみせた作品。オロオロするばかりだった父親や兄貴の視点で読んでしまった。ある意味、月夜は理解の対岸にいる感じだし。だからこそドキドキして読めたわけだけど。(☆☆☆☆☆☆)
読了日:1月4日 著者:桜庭 一樹
夏服パースペクティヴ (樋口真由“消失”シリーズ)の感想
エンタテイメントにとって過剰さは売りではあるけど、この作品の場合刺激的な演出は書き手の空回りというか痛々しさに繋がっているように感じてしまう。前作同様の叙述ミステリの部分や、リアルと虚構の構図は非常に上手いだけに、キャラクターが致命的に借り物っぽいところなどの欠点が際立ってしまう。惜しい気はするけど、次回作が出たら手に取ろうと思う惜しさじゃない感じだね。(☆☆☆☆)
読了日:1月4日 著者:長沢 樹
マツリカ・マジョルカの感想
微妙。キャラクターの造型が悪くないだけに、よりそう感じてしまう。現実離れした設定を使うのはいいけど、もう少しそれを演出でどうにかできなかったものか。あと、「さよならメランコリア」の謎の伏線があまりにも見え見え。日常の謎系ミステリと呼ぶには全体にミステリ色が弱すぎ。かといって「青春」の部分は手垢が付き過ぎて読む価値があるとも思えないし。ラノベ的な割り切りがあった方が良かったかもしれないが・・・。なんにせよ微妙。(☆☆☆)
読了日:1月11日 著者:相沢 沙呼
青空の卵 (CRIME CLUB)の感想
文章は悪くないが、いろいろと青臭さや生硬な感じが至る所で感じられた。『和菓子のアン』の肩の力の抜けた感覚に達するまでには時間が掛かるのだろう。シリーズ続編を読みたいかというと、なかなか悩ましいところ。日常の謎は好きなんだけど、ミステリとしての提示の仕方が巧くないんだよね。(☆☆☆)
読了日:1月11日 著者:坂木 司
まもなく電車が出現します (創元推理文庫)の感想
どんどんハーレム化しているんですけど(笑)。著者は女性不信かなにか?って気も。短編だからというわけでもないが、伊神さんが簡単に謎を解き過ぎ。もう少し捻りが欲しいところ。「嫁と竜の~」のようなアイディアものは良い感じだったけどね。(☆☆☆☆☆☆)
読了日:1月12日 著者:似鳥 鶏
いわゆる天使の文化祭 (創元推理文庫)の感想
ミステリとしては悪くないんだろうけど、トリックのために日常の謎的な面白さが失われてしまった。再読すれば印象が変わるかもしれないが、第二章あたりで投げ出そうかと思ったくらいだ。伊神さんが万能すぎて、いかにして伊神さんの登場を遅らせるかとなってしまっているし。視点移動を使ってまでこのシリーズで書く内容だったのかは激しく疑問。(☆☆☆)
読了日:1月15日 著者:似鳥 鶏
浜村渚の計算ノート (講談社Birth)の感想
数学をないがしろにする国なんて滅びていいよね、私も黒い三角定規に何を措いても参加するよ!って感じなんですけど(笑)。ジュブナイル・ミステリ風の連作短編。『ちごうた計算』はまずまずの出来。ただフィボナッチ数列だともろに『数学ガール』を思い出してしまうわけだけど(苦笑)。(☆☆☆)
読了日:1月17日 著者:青柳 碧人
職業としてのAV女優 (幻冬舎新書)の感想
たいへん興味深く読んだ。金に関してかなり具体的な数字が書かれていてリアリティがある。悲惨な歴史の末に現在はかなりクリーンな業界へと変貌を遂げていることや、数多くのAV女優志願者がいること、成功しているごく一部を除くと決して稼げる職業ではなくなったということ、承認欲求等の理由からそれでも続けたいと願う人たちがいること、などなど。性産業とセーフティネットの関連性など更に踏み込んだものが読みたくなる。(☆☆☆☆☆☆)
読了日:1月17日 著者:中村 淳彦
とっさの方言 (ポプラ文庫)の感想
東京に出て来て何年。方言を話さなくなったけど~って話より、子供の頃の体験談の方が平均して面白いと感じた。あと、方言と認識されずに使っている言葉というのは興味がある。知られていないだけで相当あるはず。執筆陣が豪華で、巧い人は巧いね。(☆☆☆☆)
読了日:1月18日 著者:小路幸也,大崎善生
聴き屋の芸術学部祭 (ミステリ・フロンティア)の感想
文章は巧みだし、キャラ立ても上手い。トリックも悪くないのだけど、メリハリに欠ける。ミステリは、もったいをつけたり、ケレンを散りばめてこそ盛り上がるもの。もっと面白くなりそうなだけにもったいないと感じる。日常の謎かユーモアミステリかその辺りもはっきりした方が良かったような。惜しいなあ。(☆☆☆☆☆)
読了日:1月19日 著者:市井 豊
家庭料理の近代 (歴史文化ライブラリー)の感想
社会階層や地域性が今よりもはるかに大きい明治・大正期だけに、女学校や料理教室、料理書、婦人向け雑誌だけでは全体像を捉えるのは難しく感じた。新しい食材に関しては流通量のデータなど経済学的側面がもっと欲しい。男女分業の意識の徹底や良妻賢母思想の誕生など幕末から明治期にかけての日常生活への見方の変化と、この本に記されている研究成果がどのようにリンクしていくのか。明治期の暮らしも今では想像できないものになったのだと強く感じた。(☆☆☆☆)
読了日:1月29日 著者:江原 絢子
アウトブレイク・カンパニー 萌える侵略者5 (講談社ラノベ文庫)の感想
ヌルさや浅さも含めて「軽小説」としてよく出来ている。ただラノベであっても一人称はつまんないよなあと再認識。ミュセル視点は面白かったけど、同じ手は使えないだろうし。ロイクとロミルダでもってるような感じになってきただけに、もうちょいテコ入れが欲しいような・・・。(☆☆☆☆☆☆)
読了日:1月31日 著者:榊 一郎
読書メーター
12冊。ノルマには達したものの、もう少し読みたかったという思いは残る。
「日常の謎」は、元祖とも言える「円紫さん」シリーズにおいて、時間経過とエピソード主体による主人公の成長を描くというスタイルを打ち出したため、後続作品の多くがそのスタイルを追随している。
これはコミック・アニメにおける「空気系」のスタイルと近い(中心人物としての主人公の存在が大きく異なるが)。どちらにとっても大切なことは、キャラクターの立て方であったり、魅力的な日常会話のやりとりであったりする。
『マツリカ・マジョルカ』はミステリ色が弱い点は大きな問題ではない。キャラクターの立て方も悪くなかった。ただキャラクターの関係性が主人公とヒロインのマツリカだけといった感じで、広がりを欠いた。シチュエーションも突飛過ぎてもうひとつ。
『青空の卵』はキャラクターの魅力不足に感じた。全体に説明口調が多く、感想にも書いたように硬さが際立っている印象だ。ミステリ部分よりも日常こそが肝だと思うだけに、読んでいて辛いものがあった。
『まもなく電車が出現します』はシリーズ4冊目で、連作短編というより、普通の短編集のおもむき。著者の最大の魅力は畳み掛けるような展開だと思うので、その点では物足りなさがあった。しかし、キャラクターはよくできているし、会話の楽しさは素晴らしい出来。
『いわゆる天使の文化祭』はシリーズ5冊目。長編で、初めての視点切り替えもあり。ミステリとしては頑張っていると分かるのだが、日常の謎としては楽しみが半減している印象を受けた。天使のネタは面白いだけに、別の展開が見たかった。
『聴き屋の芸術学部祭』は連作短編だが、日常の謎と殺人事件がごちゃまぜとなっている。キャラクターはたいへん素晴らしく、日常の謎として一貫してくれれば相当な作品となっていたかもしれない。今後に期待の作家と言える。
以前、『放課後探偵団』というアンソロジーを読んだ。相沢沙呼、市井豊、鵜林伸也、梓崎優、似鳥鶏の5人が書いている。梓崎優はその直前に『叫びと祈り』を読んでいた。鵜林伸也はいまだ本は出ていない。
相沢沙呼、市井豊、似鳥鶏の3人は自身の「日常の謎」のシリーズから短編を掲載している。しかし、アンソロジーを読んだ時はまだ作品は読んでいなかったので、もうひとつといった印象だった。シリーズを読んだ今なら違った感想になるだろう。近いうちに読み返したいと思っているのだが……。
残るミステリ。
『夏服パースペクティヴ』は著者のデビュー作『消失グラデーション』より時間的には前の話となっている。刺激的な素材をふんだんに織り交ぜながら密度の濃いサスペンス風のミステリが展開するのは前作同様。ただ痛々しい感じがしてしまうのが困ったところで、そういう作風なんだろうけど、もう少しなんとかならないものか。
『浜村渚の計算ノート』はユーモアミステリといった感じだが、子供だましに近い印象だった。『数学ガール』と比ぶべくもないのは分かっていても、それでも比べてしまうわけで。困ったものだ。
その他。
『無花果とムーン』は読書メーターのコメント見ていると賛否両論というかやや否定派が多い感じ。ただ桜庭一樹の読み方としては、ストーリー性ではなくシーンごとのエピソードの魅力が売りだと思うので、十分に楽しめる作品だった。ファンタジーだけど心は地に足がついているしね。
『とっさの方言』でいちばん印象に残ったのは「さきっぽだけ」(違。それはともかく、執筆陣が豪華なので一読の価値はあるかも。
『家庭料理の近代』は以前読んだ『きょうも料理』とも重なるものだが、歴史学的内容。正確だが堅いのは仕方ないとしても、もう少し踏み込んだ見方を示して欲しかった。西洋料理の普及の話よりも、女性が料理する意味や価値について押さえておかなければ内容が薄いものとなってしまう。例えばそれぞれの社会階層ごとにどれだけ主婦が家事に時間を割いていたのかといったデータとかないのだろうか。
『職業としてのAV女優』は1月に読んだ本の中で最も読み応えがあった作品。一昔前のAV業界から様変わりした話や、女性の意識の変化などとても興味深かった。日本は宗教的な戒律があまりないので性風俗は時代の影響を受けやすい。もともと性に開放的な国民性だったが、明治期以降は意識も大きく変化した。
先日Twitterで、「日本は「えっちな情報は18歳未満はNG」だけど「セックスは18歳で経験済みじゃないと人格に問題」(以下略)」なんてコメントを見かけたけど、意識の変化を定量化して歴史的変遷として比較することができたら面白そうなんだけど。
経済学的アプローチが効果的なんだけど、いまネットで見たら風俗産業の規模は出典が一冊の本だけで、どうも怪しい(苦笑)。一方、一般人の意識の部分はフィクションに投影されやすいとされるが、今はジャンルごとに細分化してしまっているしね。
この本のようにひとつの業界に絞って金銭を中心に説明されるとかなり説得力がある。もちろん、あくまでも一面的な見方に過ぎないけど。ただこういう話が表に出て来ない世界だしねえ。
『アウトブレイク・カンパニー 萌える侵略者5』は主人公視点とヒロインのミュセル視点が交互に表示される形式になっている。これまで主人公の一人称でずっと進行していたが、ストーリー的にそれでは話が進まないため変更された。『いわゆる天使の文化祭』はそれで作品の魅力が損なわれたが、この作品はさすがに手慣れた仕事という感じ。
ただ、やはり一人称オンリーだとどうしてもストーリーが限定されてしまう。「小市民」シリーズでごく一部だけ三人称になったりと、結構みっともない構成があった。日常の謎も一人称形式が多い。
ライトノベルでも、『フルメタル・パニック』や『スクラップド・プリンセス』など三人称の作品はいくらでもある。ただ最近は一人称が多い印象を受けている。『涼宮ハルヒ』のように独特の書き回しであればともかく、漫然と一人称という作品も少なくないように感じる。『れでぃ×ばと』や『ベン・トー』では視点を変えたり人称を変えたりする試み(というか仕方なくの場合も多いが)があった。
『マリア様がみてる』はほぼ三人称で通していて、神視点ではなく一元視点方式となっている。作品によっては視点の切り替えが多く、非常に効果的に利用しているケースもある。視点によって地の文でのキャラクターの呼び方が変わったりするのも面白い。
一人称の作品がアニメ化などですっきりするのは視点が変わる影響も大きい。映像的・ドラマ的に見せるという意味でも三人称の方が秀でていると言える。一人称は主人公に共感できるかどうかによって作品への入り込みに違いが出る。そして、ライトノベルで共感できるケースは非常にマレだったりする。その点でも三人称の方がありがたいように思う。
2012年に読んだ本
2011年に読んだ本
2013年1月に読んだコミック
『恋愛ラボ』7巻(宮原 るり)
『大東京トイボックス』1-9巻(うめ)
『らいか・デイズ』15巻(むんこ)
『みなみけ』10巻(桜場 コハル)
『はじめの一歩』102巻(森川 ジョージ)
『グラゼニ』7-8巻(アダチ ケイジ)
『銀の匙 Silver Spoon』6巻(荒川 弘)
『侵略!イカ娘』13巻(安部 真弘)
『みそララ』6巻(宮原 るり)
『鬼灯の冷徹』6巻(江口 夏実)
『じょしらく』3巻(ヤス)
計20冊。どれも素晴らしい。特に宮原るり。いちばん好きな漫画家と言い切れるほど。『みそララ』は6巻読んだ後に1巻から読み直したしね(笑)。
前作『東京トイボックス』を読んでいるので新作とは言えないが、語るべきは『大東京トイボックス』だろう。
上下巻で終わった『東京トイボックス』と異なり長期連載前提でストーリーを作ったため敵を外部に置く手法を取っている(業界内・企業内ではあるが論理として外部)。この手法が成功するかどうかは終わってみての判断となるだろう。ゲームファンにとって必読のマンガなだけに成功して欲しいところだ。
読んだ本の数:12冊
読んだページ数:3705ページ
ナイス数:100ナイス
無花果とムーンの感想
主人公がバカで愚かでワガママで、でも、身近な人の死という衝撃を受け入れることはキレイゴトなんかじゃなく、等身大の姿で描いてみせた作品。オロオロするばかりだった父親や兄貴の視点で読んでしまった。ある意味、月夜は理解の対岸にいる感じだし。だからこそドキドキして読めたわけだけど。(☆☆☆☆☆☆)
読了日:1月4日 著者:桜庭 一樹
夏服パースペクティヴ (樋口真由“消失”シリーズ)の感想
エンタテイメントにとって過剰さは売りではあるけど、この作品の場合刺激的な演出は書き手の空回りというか痛々しさに繋がっているように感じてしまう。前作同様の叙述ミステリの部分や、リアルと虚構の構図は非常に上手いだけに、キャラクターが致命的に借り物っぽいところなどの欠点が際立ってしまう。惜しい気はするけど、次回作が出たら手に取ろうと思う惜しさじゃない感じだね。(☆☆☆☆)
読了日:1月4日 著者:長沢 樹
マツリカ・マジョルカの感想
微妙。キャラクターの造型が悪くないだけに、よりそう感じてしまう。現実離れした設定を使うのはいいけど、もう少しそれを演出でどうにかできなかったものか。あと、「さよならメランコリア」の謎の伏線があまりにも見え見え。日常の謎系ミステリと呼ぶには全体にミステリ色が弱すぎ。かといって「青春」の部分は手垢が付き過ぎて読む価値があるとも思えないし。ラノベ的な割り切りがあった方が良かったかもしれないが・・・。なんにせよ微妙。(☆☆☆)
読了日:1月11日 著者:相沢 沙呼
青空の卵 (CRIME CLUB)の感想
文章は悪くないが、いろいろと青臭さや生硬な感じが至る所で感じられた。『和菓子のアン』の肩の力の抜けた感覚に達するまでには時間が掛かるのだろう。シリーズ続編を読みたいかというと、なかなか悩ましいところ。日常の謎は好きなんだけど、ミステリとしての提示の仕方が巧くないんだよね。(☆☆☆)
読了日:1月11日 著者:坂木 司
まもなく電車が出現します (創元推理文庫)の感想
どんどんハーレム化しているんですけど(笑)。著者は女性不信かなにか?って気も。短編だからというわけでもないが、伊神さんが簡単に謎を解き過ぎ。もう少し捻りが欲しいところ。「嫁と竜の~」のようなアイディアものは良い感じだったけどね。(☆☆☆☆☆☆)
読了日:1月12日 著者:似鳥 鶏
いわゆる天使の文化祭 (創元推理文庫)の感想
ミステリとしては悪くないんだろうけど、トリックのために日常の謎的な面白さが失われてしまった。再読すれば印象が変わるかもしれないが、第二章あたりで投げ出そうかと思ったくらいだ。伊神さんが万能すぎて、いかにして伊神さんの登場を遅らせるかとなってしまっているし。視点移動を使ってまでこのシリーズで書く内容だったのかは激しく疑問。(☆☆☆)
読了日:1月15日 著者:似鳥 鶏
浜村渚の計算ノート (講談社Birth)の感想
数学をないがしろにする国なんて滅びていいよね、私も黒い三角定規に何を措いても参加するよ!って感じなんですけど(笑)。ジュブナイル・ミステリ風の連作短編。『ちごうた計算』はまずまずの出来。ただフィボナッチ数列だともろに『数学ガール』を思い出してしまうわけだけど(苦笑)。(☆☆☆)
読了日:1月17日 著者:青柳 碧人
職業としてのAV女優 (幻冬舎新書)の感想
たいへん興味深く読んだ。金に関してかなり具体的な数字が書かれていてリアリティがある。悲惨な歴史の末に現在はかなりクリーンな業界へと変貌を遂げていることや、数多くのAV女優志願者がいること、成功しているごく一部を除くと決して稼げる職業ではなくなったということ、承認欲求等の理由からそれでも続けたいと願う人たちがいること、などなど。性産業とセーフティネットの関連性など更に踏み込んだものが読みたくなる。(☆☆☆☆☆☆)
読了日:1月17日 著者:中村 淳彦
とっさの方言 (ポプラ文庫)の感想
東京に出て来て何年。方言を話さなくなったけど~って話より、子供の頃の体験談の方が平均して面白いと感じた。あと、方言と認識されずに使っている言葉というのは興味がある。知られていないだけで相当あるはず。執筆陣が豪華で、巧い人は巧いね。(☆☆☆☆)
読了日:1月18日 著者:小路幸也,大崎善生
聴き屋の芸術学部祭 (ミステリ・フロンティア)の感想
文章は巧みだし、キャラ立ても上手い。トリックも悪くないのだけど、メリハリに欠ける。ミステリは、もったいをつけたり、ケレンを散りばめてこそ盛り上がるもの。もっと面白くなりそうなだけにもったいないと感じる。日常の謎かユーモアミステリかその辺りもはっきりした方が良かったような。惜しいなあ。(☆☆☆☆☆)
読了日:1月19日 著者:市井 豊
家庭料理の近代 (歴史文化ライブラリー)の感想
社会階層や地域性が今よりもはるかに大きい明治・大正期だけに、女学校や料理教室、料理書、婦人向け雑誌だけでは全体像を捉えるのは難しく感じた。新しい食材に関しては流通量のデータなど経済学的側面がもっと欲しい。男女分業の意識の徹底や良妻賢母思想の誕生など幕末から明治期にかけての日常生活への見方の変化と、この本に記されている研究成果がどのようにリンクしていくのか。明治期の暮らしも今では想像できないものになったのだと強く感じた。(☆☆☆☆)
読了日:1月29日 著者:江原 絢子
アウトブレイク・カンパニー 萌える侵略者5 (講談社ラノベ文庫)の感想
ヌルさや浅さも含めて「軽小説」としてよく出来ている。ただラノベであっても一人称はつまんないよなあと再認識。ミュセル視点は面白かったけど、同じ手は使えないだろうし。ロイクとロミルダでもってるような感じになってきただけに、もうちょいテコ入れが欲しいような・・・。(☆☆☆☆☆☆)
読了日:1月31日 著者:榊 一郎
読書メーター
12冊。ノルマには達したものの、もう少し読みたかったという思いは残る。
「日常の謎」は、元祖とも言える「円紫さん」シリーズにおいて、時間経過とエピソード主体による主人公の成長を描くというスタイルを打ち出したため、後続作品の多くがそのスタイルを追随している。
これはコミック・アニメにおける「空気系」のスタイルと近い(中心人物としての主人公の存在が大きく異なるが)。どちらにとっても大切なことは、キャラクターの立て方であったり、魅力的な日常会話のやりとりであったりする。
『マツリカ・マジョルカ』はミステリ色が弱い点は大きな問題ではない。キャラクターの立て方も悪くなかった。ただキャラクターの関係性が主人公とヒロインのマツリカだけといった感じで、広がりを欠いた。シチュエーションも突飛過ぎてもうひとつ。
『青空の卵』はキャラクターの魅力不足に感じた。全体に説明口調が多く、感想にも書いたように硬さが際立っている印象だ。ミステリ部分よりも日常こそが肝だと思うだけに、読んでいて辛いものがあった。
『まもなく電車が出現します』はシリーズ4冊目で、連作短編というより、普通の短編集のおもむき。著者の最大の魅力は畳み掛けるような展開だと思うので、その点では物足りなさがあった。しかし、キャラクターはよくできているし、会話の楽しさは素晴らしい出来。
『いわゆる天使の文化祭』はシリーズ5冊目。長編で、初めての視点切り替えもあり。ミステリとしては頑張っていると分かるのだが、日常の謎としては楽しみが半減している印象を受けた。天使のネタは面白いだけに、別の展開が見たかった。
『聴き屋の芸術学部祭』は連作短編だが、日常の謎と殺人事件がごちゃまぜとなっている。キャラクターはたいへん素晴らしく、日常の謎として一貫してくれれば相当な作品となっていたかもしれない。今後に期待の作家と言える。
以前、『放課後探偵団』というアンソロジーを読んだ。相沢沙呼、市井豊、鵜林伸也、梓崎優、似鳥鶏の5人が書いている。梓崎優はその直前に『叫びと祈り』を読んでいた。鵜林伸也はいまだ本は出ていない。
相沢沙呼、市井豊、似鳥鶏の3人は自身の「日常の謎」のシリーズから短編を掲載している。しかし、アンソロジーを読んだ時はまだ作品は読んでいなかったので、もうひとつといった印象だった。シリーズを読んだ今なら違った感想になるだろう。近いうちに読み返したいと思っているのだが……。
残るミステリ。
『夏服パースペクティヴ』は著者のデビュー作『消失グラデーション』より時間的には前の話となっている。刺激的な素材をふんだんに織り交ぜながら密度の濃いサスペンス風のミステリが展開するのは前作同様。ただ痛々しい感じがしてしまうのが困ったところで、そういう作風なんだろうけど、もう少しなんとかならないものか。
『浜村渚の計算ノート』はユーモアミステリといった感じだが、子供だましに近い印象だった。『数学ガール』と比ぶべくもないのは分かっていても、それでも比べてしまうわけで。困ったものだ。
その他。
『無花果とムーン』は読書メーターのコメント見ていると賛否両論というかやや否定派が多い感じ。ただ桜庭一樹の読み方としては、ストーリー性ではなくシーンごとのエピソードの魅力が売りだと思うので、十分に楽しめる作品だった。ファンタジーだけど心は地に足がついているしね。
『とっさの方言』でいちばん印象に残ったのは「さきっぽだけ」(違。それはともかく、執筆陣が豪華なので一読の価値はあるかも。
『家庭料理の近代』は以前読んだ『きょうも料理』とも重なるものだが、歴史学的内容。正確だが堅いのは仕方ないとしても、もう少し踏み込んだ見方を示して欲しかった。西洋料理の普及の話よりも、女性が料理する意味や価値について押さえておかなければ内容が薄いものとなってしまう。例えばそれぞれの社会階層ごとにどれだけ主婦が家事に時間を割いていたのかといったデータとかないのだろうか。
『職業としてのAV女優』は1月に読んだ本の中で最も読み応えがあった作品。一昔前のAV業界から様変わりした話や、女性の意識の変化などとても興味深かった。日本は宗教的な戒律があまりないので性風俗は時代の影響を受けやすい。もともと性に開放的な国民性だったが、明治期以降は意識も大きく変化した。
先日Twitterで、「日本は「えっちな情報は18歳未満はNG」だけど「セックスは18歳で経験済みじゃないと人格に問題」(以下略)」なんてコメントを見かけたけど、意識の変化を定量化して歴史的変遷として比較することができたら面白そうなんだけど。
経済学的アプローチが効果的なんだけど、いまネットで見たら風俗産業の規模は出典が一冊の本だけで、どうも怪しい(苦笑)。一方、一般人の意識の部分はフィクションに投影されやすいとされるが、今はジャンルごとに細分化してしまっているしね。
この本のようにひとつの業界に絞って金銭を中心に説明されるとかなり説得力がある。もちろん、あくまでも一面的な見方に過ぎないけど。ただこういう話が表に出て来ない世界だしねえ。
『アウトブレイク・カンパニー 萌える侵略者5』は主人公視点とヒロインのミュセル視点が交互に表示される形式になっている。これまで主人公の一人称でずっと進行していたが、ストーリー的にそれでは話が進まないため変更された。『いわゆる天使の文化祭』はそれで作品の魅力が損なわれたが、この作品はさすがに手慣れた仕事という感じ。
ただ、やはり一人称オンリーだとどうしてもストーリーが限定されてしまう。「小市民」シリーズでごく一部だけ三人称になったりと、結構みっともない構成があった。日常の謎も一人称形式が多い。
ライトノベルでも、『フルメタル・パニック』や『スクラップド・プリンセス』など三人称の作品はいくらでもある。ただ最近は一人称が多い印象を受けている。『涼宮ハルヒ』のように独特の書き回しであればともかく、漫然と一人称という作品も少なくないように感じる。『れでぃ×ばと』や『ベン・トー』では視点を変えたり人称を変えたりする試み(というか仕方なくの場合も多いが)があった。
『マリア様がみてる』はほぼ三人称で通していて、神視点ではなく一元視点方式となっている。作品によっては視点の切り替えが多く、非常に効果的に利用しているケースもある。視点によって地の文でのキャラクターの呼び方が変わったりするのも面白い。
一人称の作品がアニメ化などですっきりするのは視点が変わる影響も大きい。映像的・ドラマ的に見せるという意味でも三人称の方が秀でていると言える。一人称は主人公に共感できるかどうかによって作品への入り込みに違いが出る。そして、ライトノベルで共感できるケースは非常にマレだったりする。その点でも三人称の方がありがたいように思う。
2012年に読んだ本
2011年に読んだ本
2013年1月に読んだコミック
『恋愛ラボ』7巻(宮原 るり)
『大東京トイボックス』1-9巻(うめ)
『らいか・デイズ』15巻(むんこ)
『みなみけ』10巻(桜場 コハル)
『はじめの一歩』102巻(森川 ジョージ)
『グラゼニ』7-8巻(アダチ ケイジ)
『銀の匙 Silver Spoon』6巻(荒川 弘)
『侵略!イカ娘』13巻(安部 真弘)
『みそララ』6巻(宮原 るり)
『鬼灯の冷徹』6巻(江口 夏実)
『じょしらく』3巻(ヤス)
計20冊。どれも素晴らしい。特に宮原るり。いちばん好きな漫画家と言い切れるほど。『みそララ』は6巻読んだ後に1巻から読み直したしね(笑)。
前作『東京トイボックス』を読んでいるので新作とは言えないが、語るべきは『大東京トイボックス』だろう。
上下巻で終わった『東京トイボックス』と異なり長期連載前提でストーリーを作ったため敵を外部に置く手法を取っている(業界内・企業内ではあるが論理として外部)。この手法が成功するかどうかは終わってみての判断となるだろう。ゲームファンにとって必読のマンガなだけに成功して欲しいところだ。
似鳥鶏は「理由あって冬に出る」だけ読み直したので、このついでに「まもなく電車が出現します」だけ読んどいてもいいかなと。六点は大きいですw
>一人称
前に漠然と考察したことはあるんですが、メモがどこかへw
ただ、しっかりとした要請上の理由、という意味からではないのかもしれませんね。
ミステリだと構成やトリック直結で否応なくそうしなければならない場合も多々有りますが、基本、それ以外だと視点のブレを技法的に嫌うのかなという印象が強かったです。
長編であれ、と思うのは、全体のペース配分で一部分一人称、一人称視点の三人称、三人称が混じった上、それが巧く機能してない時なんかでしょうか。
たとえば百鬼夜行シリーズだと一人称で事件を描写して、それを場面転換で伏線としてパッケージしたり、「必要だからやる」という姿勢は明確でした。
それ以外だと群像劇では一人称系三人称がラノベでは強い感じでしょうか(ジャンルは違いますが、少し読んだ感じ、フルメタもそうでしょうか)。一般エンタでもこの傾向は出てきてると感じます。
内面を書きつつ、場面を書くのに向いているからなんじゃないかとは思いますが。
まあでも、ラノベかつ三人称でコメディだと、会話と地の文の行間で笑いを取ることになったりと、掛け合いなんかにはやや一人称優勢って気はしますね。
なぜ一人称か、と考えたとき、前にどこかで「通例として視点は絞られているべきだ」みたいな話を読んだことがあるんですが、構成を優位に使うなら視点ごと、場面ごとに技巧が凝らされていた方がいいというのはありますね。
そういえば西尾維新は前にインタビューで一人称であることの意味を語ってた気がします。
>人称
ミステリはまさに構成に直結しますし、大事ですよね。フェアに描きながら読者をうまく騙すためにも視点がもっとも重要ですし。
ラノベの場合、最近は一人称がデフォのように扱われることもあり、書き手がどこまで意識しているのかなと思うこともあります。
海外のエンターテイメントでは三人称神視点が多いように思うので、一人称がベストだとは思わないのですが、それでも一人称でなければ描き切れないものがあるというのであればいいのですが。
三人称は場所や時間が違う場面での出来事が収束して物語が紡がれて行くような小説に多いような印象ですね
一人称と三人称が交互に来る変り種もありますが、数自体は多いとは言えないですね
最近はあまり読んだことない手法ですけど、手紙形式の小説とかは完全一人称ですねー
アルジャーノンとか一人称が小説全体の仕掛けになってるとか、奇天さんの言う小説の仕掛けに直結しているタイプも多いですね
SFの短編とかだと感情表現を排して淡々とした三人称視点の描写に終始するなんてのもありますね
長編でそれやられると緊張感が続かないってのもありそうですが
ニンジャスレイヤーとか、中身のバカバカしさと徹底した三人称視点のギャップがまたいい味だしてる気がしますw
おお、そういうことですか。
了解しました。
>人称
新本格時代で一つ上げるなら、ハサミ男が完璧に「人称物でしか存在し得ない」作品の白眉だったと思いますw
他、黎明期のでは島田御大の異邦の騎士もでしょうけど。
ラノベだとどうなんでしょうね……読み終わったときに構成を振り返ると、周りがそうだからそうする、みたいな印象は受けますね。
これは影響受けてる作家の人称がだからかなーというパターンも結構あるようには感じます。
極端な話、~という作家のような話から書き始めたからこうなったんじゃないかというようなパターンで、書き手にとって人称は文法を構成する骨組みとしての役割があるので、感覚的に変えづらい何だろうなと言うのは考えられます。
三人称だと間を持たす為に矢鱈と重かったりとか、そうしたのもありますし。
場面を描写するにしても、三人称は空間をしっかり把握できてないと難しいというのはあるかもしれませんね。視点人物の視界+状況の推移を描く一人称では、視点人物の思考に周囲の状況が追随すればそれでいいですが、三人称だとそれが許されないので。
海外の作品はノワールなんかだと一人称ばっかりですけどw、割に三人称は多いですよね。児童文学なんかもそうですし。内面をどう扱ってるかが理由じゃないかなとは思いますけれど。
イーガン作品は両方ありますけど、ネタが意識変容だったりすると一人称モノが多い気がしますねw
一人称と三人称が交互に来る、または場面によって変わる、というパターンだと、前述の京極作品の一部とかで思い出したりします。
瀬名秀明のデカルトの密室とかも同様で、こっちは割合に人称に意識的な作品(ネタバレですがw)だったかなと。
ただ、意識的でもない限り、なんでそうしたんだろう、という疑問は付きまとってしまうので、作者にとっては相当に気を配らなければならない手法ではあるのでしょうけどね。
許された尺が長いレーベルの長編ならいいですが、そうでもなければ難しいですし。
短編でこれがある場合、物語の後日談ってパターンとかでしょうか。
SFで空気優先のサイバーパンク(系統)だと、淡々とガジェットを列ねることで緊迫感を出せてる事はあるなあと思います。そういうのは世界観の説明に終始するんじゃなくて、どこまでその徹底に努められるかが巧さに繋がるかなと。
ニンジャスレイヤーは色々パロディしながらも、あのセンテンス運びに全てが収束してしまうのが凄いですよねw
イヤーッ!
読み手側に一人称の方が主人公の感情に同調しやすいという効果が本当にあるのかどうかもなかなか判定しにくいことだと思います。書き手が思っているほどの有効性があるのかどうか、小説にまつわる「幻想」だったりしないのか。
海外作品の場合は、翻訳を通すことで人称が変わるケースってあるのでしょうか?
一時期「超訳」なんてうたって、エンターテイメント作品を翻訳していたこともありましたが、日本語化する過程で人称をどう扱うのかはどのように捉えられているんでしょうね。(人称が作品構成上重要であれば動かしがたいわけですが、そうした作品ばかりではありませんし)
内面描写を行う場合、著者と異なる性別の内面を的確に描いているのかというのもかなり意識して読んだりします。内面描写がなくとも行動・言動で表されるわけですが、やはり内面描写はキャラクターを描く上で非常に大きなウェイトを占めます。リアリティがなくても、そういうキャラとして割り切るケースは多いですが、作品への評価・面白さに直結するものですしね。(一般向けでは女性とすぐに分からないペンネームの作家は多い。覆面作家なら余計な先入観を持たずに済むのでなお良いかもしれない)
視点切り替えのある三人称一元視点では、「マリみて」が試行錯誤のあとも見えて非常に興味深く感じています。内面描写表現の積み重ねとして、少女小説は少女マンガの影響を多分に受けています。技法は根本的に異なりますが、内面を表現しようという意識はこうした中で積み上げられてきたように思います。
男性向けライトノベルのキャラクターが主人公もヒロインも記号化していくのは仕方ないことですが、そこをはみ出すための試行錯誤が私の欲するものかもしれません。だからこそ、ライトノベルに限りませんが、安直な一人称にはつまらなさを感じてしまうのでしょう。
自分の持ってる限りでは原著と訳書で変わってる人称は見ないですね。
向こうの作品を翻訳する、こちらの作品を翻訳する、と言った過程で文化的グループの解り辛い要素なんかをオミットしたり、置き換えたりすることは結構あるっぽいですが。
だからそういうところをどう伝えるかが訳者の腕の見せ所で、黒丸氏の訳文が他の訳者とは代え難い力があったって言われるのはだからじゃないかなあと。
単語をどう当てるか、とか、本気で凄い難しいですしねw
それにしても人称まで変えれば読後感すら変化してしまうわけで、そこまで行くと翻訳と言うよりは創作に近いかもしれません。
人称が変える場合は、作者がそれを良しとするか、みたいな話にもなりそうな気がしてしまいますね。
それこそ超訳、と言われる部類ならわかる気がします。
>記号化と要請
これは同感です。
男性主人公で記号化ヒロインだと、どんな反応をするかというパターンの入れ替えに終始するような印象が強いんですよね。
ステロタイプとかいう話ではなく、もはやその「何に入れ替えるか」という違いだけでしかないと感じるので。
ある程度記号化しておいた方が進めやすい話もありますが(要点が人間関係よりマクロ化されるような話など)、人間関係そのものが要点のラブコメにしても未だにレイヤーの差を楽しむというのは動いてませんしね。
私小説が散々やってきてますが、内面はある程度はテーマやテンプレートを踏襲していないと、かなりパーソナルなものになってしまうというのが難しいのかもしれません。
だからこそ読者から見てテーマやガジェットから引いた、工夫された人称の作品が読みたい、というのはありそうですね。
これからはもう少し意識して人称を確認したいと思います。
>内面の発展
近代的自我の確立が文字通り近代の所産だとすると、人の内面が複雑化したのはたかだかここ数百年のことですし、時代・地域・階層によってもその深度は異なります。日本では純文学において主に私小説で蓄積されてきたわけですが、そこにどこまでの普遍性があったのかは疑問です(特に男性作家がほとんどだったことによる性別の偏りは顕著でしょう)。
エンターテイメントではテンプレ的な扱いをするケースも目立ちますが、現実には内面描写はまだとっかかり程度だと感じています。ただ単純に内面を追求するだけでは面白くありませんし、読むに耐えるレベルで人の心をこれまでよりも深く描こうという試みは容易いことではないでしょう。それでも、そういう挑戦がエンターテイメントのレベルで行われていって欲しいという思いは強く持ちます。
社会的テーマ性も大切ですが、表現としての新しさの追及はエンターテイメントにとっても不可欠なものだと思うのですが。
エンタメで丁度いい例を思い出したのですが、ハルヒが海外翻訳された当時、「原作派」から否定された翻訳の特徴として、主人公がハルヒのガールズエンターテイメントになってしまっている、という意見を見た事があります。
海外版ハルヒを持っていないので何とも言えないのですが、これなんかは人称が影響を与えた例なのかなと想像してます。
よく言われることだと思いますが、日本語の一人称が多用であるために、あの行間をどう再現するかという問題は出てきそうですから。
といっても、ラノベでも古風な言い回しをするキャラの人称に古語を当てたりする例もあるらしいですし、これはもう訳者の技量になってくるんでしょうけどね(苦笑)。
考えてみれば多彩な人称やキャラの役割を担う語尾まで存在するラノベの場合、翻訳は一般エンタメよりも難易度が高いのかもしれません(厳密にやるなら)。
海外作品の日本語翻訳だと、舌っ足らずな喋り方をしているキャラは、あちらでは日本語文法のそれと同じようにつっかえている訳ではないだろうな、と言う想像はできますね。
>近代のテンプレート
読み方の慣習と、その制度性の問題、とかでしょうね。
人物偏重の読書習慣は近代独自のものなので、それを引き摺ったまま源氏物語なんかを読んでも本当に「理解の根底は共通しているか」みたいな例は出てくるので。
私小説の「私」は、作者のそれとは別であるのに、それが一致しているように読ませるのが物語の効果だ、みたいな話を読んだことがあります。
そこで方向性が提示されていない場合、それはもはや小説とは言えませんし、そこで何を語るかが、物語が物語たる所以ではあるのでしょうね。
仰るように、そこで構築された共有可能な知識の層が偏っているのはあると思います(それによって何かしらの意図付けを感じつつ読んでいる、というのも)。
普遍化可能された読みが存在するか、という話とはまた違うかもしれませんが、ある規準があって、そこに読みの解法がある、みたいな手順を(比較的に、ですが)追ってきたようには感じてますね。
これは読書環境がそう習慣付けられていたからではあるんですが。
エンタメの場合、記号的な要素の連鎖からテーマを書き出せるという意識は強いのでしょうね。
逆に、テーマから必要不可欠な内面を引き出すことで、深く書き出すという事は可能だとも思います。
そうした要素は端々で感じますし、これはエンタメが内面を書く上では必要な手法の一つなんじゃないかなと。
それが「手法レベルで新しい」ものとなると、それを「面白い」と感じられるかどうかにもなってしまうというのは大きいかもしれませんね。
表現が前衛化してしまっていいのかということではないでしょうし。
>エンターテイメントの進化
昨年ドラクエの最新作がMMORPGとして発売されました。ナンバリングタイトルとして10作目に当たります。1作目が発売されて26年になります。
ゲーム機の進化と共に、作品も進化しました。しかし、一方で、そうした新しいドラクエについていけない、昔の方が良かったという声も少なくありません。
過去の作品は携帯ゲーム機や携帯電話などに向けて移植されています。ファミコン時代のシステムで新作を作っても一定程度の需要はあると思います。ゲームは進化の果てに一部のゲームマニアだけのものになってしまった感があります。他方、古いシステムのまま続編を生み出し続けているようなタイトルもあったりしますが。
以前にも書きましたが、コミックも進化した末に理解するのに必要なリテラシーが高度に要求され、それについていけない層がライトノベルに流れているという指摘があり、実際に一部のコミックはライトノベルよりも遥かに読むのに集中力を求められたりします。
どのジャンルも進化が過ぎると一部のファン以外はついていけずに先細りしてしまうという現象は生じます。かといって進化のないジャンルはすぐに飽きられたり、広くファンを獲得するのが難しかったりします。要はバランスですが、それをコントロールするのは不可能かもしれません。
エンターテイメント小説の場合、出版点数の多さ、多様性が袋小路から救っていると言えるでしょう。それでも、エンターテイメントの中で表現の新たな可能性を追求しようとすれば、自ずと限られた読者層を対象にすることになります(村上春樹など例外あり)。
コミックも小説もそうした試みは一部の作品・作家によってのみ行われているので、大勢としてはバランスは取れているように感じます。
ライトノベルの場合、ハーレム系ラブコメは一種独特のリテラシーを要求されるような世界になりつつありますが、それは表現の新しさを求めてというより、楽屋落ち的な分かる人だけ分かればいいという方向で、先行きは不安です。ただ今はライトノベルの主流がハーレム系ラブコメだとしても、今後もそうだとは言えず、ライトノベル自体の先行きは大丈夫だろうと思っていますが。
純文学的試みも含めて内面、人の心に対する表現は日々ほんの少しずつ積み上げられているような状況ですが、人の心を砂浜に譬えればたどり着いたのはひと掬いの砂程度に感じます。砂浜の広さに対しても極めてわずかばかりですが、深さに対しても本当に微細と言わざるをえないようなものだと思います。
完璧なAIが完成して、小説を書いたなら、どんな内面を描いてくれますかねw
ハルヒの場合、アニメから入った読者が大半のようで、だからすぐ翻訳に違和感を感じ取ることになったのかもしれませんね。
アニメはキョンの一人称を比較的忠実に提示してくるので、キョンから見たハルヒの言動と話の動きに敏感になるのだと思えますから。
文化圏を越えて忠実に、というのが難しいところで、翻訳者にもオタ的な市場の視点が必要なんだろうなとw
>リテラシの問題
これは凄く思いますねw
特に月刊で感じるのですが、コメディでも少年漫画と違って「ある程度の知識はあるだろう」と見越した作品は多いですね。
サブカルネタがそうですし、神話ネタなんかもそうですね。
最近だとドリフターズとか、平野作品だとヘルシングがモロにそうなんですが、物語そのものを楽しむ以上のレベルで、オタク的な背景の彫り込みがあり、それが週刊作品と全く違った読書環境を作ってるなあと(歴史ネタに説明がないとか)。
それらを「楽しめるだろう」と判断して出して行くのが月刊だとすると、週刊漫画はゼロから動きや話の動きで楽しませる、或いは説明の過程そのものを物語にする、もしくはその時点で流行しているガジェットを使うことで読者に負担を強いることのない作品が多いような気はしますね。
極論、アメコミのノベル系作品なんかだとコミックとは言え日本のそれと比べると全く違った読書環境を持っているので、そのまま以降できるか、というとこれは違うと思います。
この進化は数十年掛けて起こった物で、おいそれと国境を越えたリテラシを獲得できるかと言えば、絶対に違うでしょうしね。
海外で日本のコミックが受ける理由として、アメコミのそれよりも敷居が低い(題材の)というのはあるんじゃないかなと毎度思っています。
これは音楽にも広範で言える事なので、いつも比較して考えたりしますw
一部の受容者向けに特化した結果(一部のマーケティングに引き摺られたり、ジャンルが構成されることでパイを獲得できる環境が生まれたり、そもそもそこから出てきたりなどして)、それぞれのフレーム内で受容が完結する例ですね。
メタリカとボンジョヴィを比べたとき、後者の方が圧倒的にマスな市場で強いのは間違いなく、これで国境を越えて売られる事になるとその状況は益々強化されると言った状況がありますしね。
日本のインディ/オルタナティヴが海外では普通にオルタナの一分野、或いはエレクトロニカやフォークなどに分類されてしまう状況を見ると、これはあるんじゃないかな、と。
日本の市場だけで考えても、「市場が売りやすい」ジャンルというものは流れの中でもう(マーケティングのしやすさから)決定されていて、そこに沿って作られていく市場は確実に存在していると思えます。
今だと日本では初音ミクがこれの最たる例なんじゃないかと思います。
基本的にはファン向けの閉じたサークル内で環境を構築しながら、同人市場と連動しつつ、話題になると表のランキングでも話題を浚うことができるような状況ですが。
>小説の場合
販売状況が固有の位相を持ってるような村上春樹は例外ですよね。
今のエンタメ自体がジャンルを分割して総体として存在してるような市場ですし、読書好きでもない限り、全体を横断して読んでいるという自体は稀だと思います。
ミステリが他のジャンルに寄りかかるのと、一般エンタメの土壌からミステリの手法を用いて出てくる作品は境界が曖昧になってくることもありますし、或いは「広い意味での一般読者」よりに市場が変化してるようにも感じますけど。
作家の特質は代え難い物だと思いますし、「このジャンルでこそこの作家は活きた」と思える状況があるからこそ、ある環境を切り開ける作家はそこから出てくるしかないのだろうなと思います。
なんでも書ける技量を備えている作家がいるとして、あるジャンルに特化した作家とどう比べるかという話にもなりますが、書けるものを書いた結果その作家の名前が挙がるようになってきたのだとしたら、ジャンルに合わせて作家が書くような状況にはやはり無理があるでしょうしね。
少し前のエントリでカルトコミックを紹介されてましたけど、あれなんかは市場の隙間から生まれた例だなと思います。
ああした作品があるので、市場のラインナップに微妙な差異が生まれ、そこに「少しだけ」影響を受けた作品がメジャーからも出てきたりするのだろうなと。
ラノベは……ハーレム系だと、もはやハーレム自体がメタ化される状況になってしまったからなんじゃないかなあというのは大きいと感じます。
リテラシもそうなんですが、常にそれ自体が皮肉化されるような状況を感じるしかないのが今だと思うので。
これはどちらにしろ楽屋オチなんですが、楽屋オチでもいいや、と言えるだけのパイが十分か、ということなのかなあと(苦笑)。
とはいえ、最近新創立されたレーベルではハーレムや俺Tueeeを意識的にやることを主張した場所なんかもあって、この方向性は案外とギャルゲー(エロゲー?)的な、読者の欲望を即座に充填できる方向性も今からラノベに求められていくのか、或いは徒花なのか、ちょっと気になってはいますね。
物語(に限らず、エンタメとしての)の強度を求める場合、否応なくテンプレ化した構造から動きづらいそれらの要素はパイを狭くしてしまうように感じますので。
SAOなんかだとバランス取れてて、「そう言った読み方もできる」でいいんですけれど。
心象なんかは時代にモロに影響を受ける部分ですしね。
これが正しい、と言った感覚の移ろいそのものが描写の対象となるので、技法や解釈の積み重ねが主体になるのは仕方ない面もあるかとは思います。
だからこそ「その今」をどう書くか、が常に問われるのでしょうけど、同時に「新しさ」はオミットされてしまうかなと。
AIは……少し前、星新一でそんな話が出てましたねw
人間の自我を基礎としてないのなら、それこそ人間とは疎通可能な部分が少ない、異質な文学にもなりそうですがw