早稲田では、曜日に関わらず毎年4月1日に入学式が行なわれることになっています。
そして、もちろん、多くの企業でも入社式が行なわれます。
私が早稲田を卒業した1979年(昭和54年)4月1日は、たまたま日曜日でした。
このために、多くの企業が入社式を4月2日(月)に開催しました。
しかし、私が就職した銀行の入行式は3月31日(土)。
(多くの銀行では入社式ではなく入行式と呼びます)
まだ、銀行が土曜日午前中に支店のシャッターを開けて営業している時代だったからです。
3月25日に卒業式を終えた私は、銀行マンとなる期待と不安を抱きながら、学友たちと一緒に、夜な夜な飲み歩いていました。
入行式前日の3月30日(金)の夜も、JR品川駅近くで集まって、シャビイな居酒屋で飲みました。
私以外のメンバーは、みんな月曜日が入社式ですから気楽なもの。
『お前が銀行員になるとは、世の中もおしまいだね』
『そういうお前は、XX銀行、XX海上火災、あらゆる金融機関の会社訪問で全滅だっただろ』
『合宿研修が一ヶ月間もあるとはなあ。毎朝7時起床なんて、ぞっとするよ』等々と他愛もないことを話しながら、時間を忘れて杯を傾けていました。
女将さんから『ラストオーダーです』と言われて、はっと気が付くと時計は早くも午後10時。
私たちは、『それじゃあ、お互いに頑張ろうな』『配属先が決まったら、連絡してくれ』と言葉を交わし、帰宅の途についたのです。
午後11時を回った時分に自宅に着いて、『ただいまー』と言いながら居間を通りかかったら、家族が暗い表情で私の方に振り向きました。
『ちょっと、ここに座れ』
父親が険しい表情で言いました。
何ごとかと父親の前に座った瞬間、食卓の上にある鯛の尾頭付きが私の目に飛び込んできました。
家族は、私が新社会人になる前夜をみんなで祝おうと、夕方から私の帰宅をずっと待っていたのです。
『しまった~!』と思いましたが、もう後の祭り。
『こんな時間まで、どこで何をやっていたか』
『だいたいお前は、社会を甘くみていないか』
『そんな心構えのまま職場に行って、お前に期待してくださっている銀行の方々に申し訳ないと思わないか』
コッテリと絞られました。
思えば、大学四年間で父親に説教されたのは、この一度だけ。
よほど、腹に据えかねたのでしょう。
この日ばかりは、私も心底から申し訳なく思いました。
そして、その日を最後に、現在に至るまで、父親から説教されたことはありません。
「親の説教と冷や酒は、あとになって効いてくる」
銀行マンとして、現在までそれなりに勤めてくることのできた理由の一つに、あの晩の父親の説教があるかもしれません。
今年も4月1日が近づいてきました。
そして、もちろん、多くの企業でも入社式が行なわれます。
私が早稲田を卒業した1979年(昭和54年)4月1日は、たまたま日曜日でした。
このために、多くの企業が入社式を4月2日(月)に開催しました。
しかし、私が就職した銀行の入行式は3月31日(土)。
(多くの銀行では入社式ではなく入行式と呼びます)
まだ、銀行が土曜日午前中に支店のシャッターを開けて営業している時代だったからです。
3月25日に卒業式を終えた私は、銀行マンとなる期待と不安を抱きながら、学友たちと一緒に、夜な夜な飲み歩いていました。
入行式前日の3月30日(金)の夜も、JR品川駅近くで集まって、シャビイな居酒屋で飲みました。
私以外のメンバーは、みんな月曜日が入社式ですから気楽なもの。
『お前が銀行員になるとは、世の中もおしまいだね』
『そういうお前は、XX銀行、XX海上火災、あらゆる金融機関の会社訪問で全滅だっただろ』
『合宿研修が一ヶ月間もあるとはなあ。毎朝7時起床なんて、ぞっとするよ』等々と他愛もないことを話しながら、時間を忘れて杯を傾けていました。
女将さんから『ラストオーダーです』と言われて、はっと気が付くと時計は早くも午後10時。
私たちは、『それじゃあ、お互いに頑張ろうな』『配属先が決まったら、連絡してくれ』と言葉を交わし、帰宅の途についたのです。
午後11時を回った時分に自宅に着いて、『ただいまー』と言いながら居間を通りかかったら、家族が暗い表情で私の方に振り向きました。
『ちょっと、ここに座れ』
父親が険しい表情で言いました。
何ごとかと父親の前に座った瞬間、食卓の上にある鯛の尾頭付きが私の目に飛び込んできました。
家族は、私が新社会人になる前夜をみんなで祝おうと、夕方から私の帰宅をずっと待っていたのです。
『しまった~!』と思いましたが、もう後の祭り。
『こんな時間まで、どこで何をやっていたか』
『だいたいお前は、社会を甘くみていないか』
『そんな心構えのまま職場に行って、お前に期待してくださっている銀行の方々に申し訳ないと思わないか』
コッテリと絞られました。
思えば、大学四年間で父親に説教されたのは、この一度だけ。
よほど、腹に据えかねたのでしょう。
この日ばかりは、私も心底から申し訳なく思いました。
そして、その日を最後に、現在に至るまで、父親から説教されたことはありません。
「親の説教と冷や酒は、あとになって効いてくる」
銀行マンとして、現在までそれなりに勤めてくることのできた理由の一つに、あの晩の父親の説教があるかもしれません。
今年も4月1日が近づいてきました。
ay1881さんのお父上のお気持ち、何となく、分かる年になってきました。何時の世も、「親の心、子知らず」なのかもしれません。
「親の説教と冷や酒は、あとになって効いてくる」その通りです。子供が、大きくなるに連れて、”当時の親父も同じ様な心配をしたのかな?”とか”こんな時、親父だったら、なんて声をかけただろう?”等と考える機会が多くなりました。
そうです、1979年4月1日は日曜日でした。ay1881さんに負けず劣らず、その日は、友人や後輩と”社会人前夜祭”で飲み明かし、翌朝、品川のホテルで行われた入社式には友人のアパートから”二日酔い”の”眠気まなこ”で駆けつけました。
入社式の中で、緊張を解く為か、当時はやっていた(?)西城秀樹さんのYMCAを全員で立ち上がって踊るセッションがあったのですが、リラックスどころか酔いが回ってクラクラした事も思い出します。
入社式が終わった後、たまたま入った食堂に流れていたラジオから永六輔さんの声が聞こえてきました。
「今日はたくさんの方が社会人としての一歩を踏み出した事でしょう。そんな皆さんに贈りたいのは、”忙しい”という言葉を安易に使わないで!という事です。忙しいという字は、心を亡ぼすと書きます。忘れるという字と同じ語源ですね。忙しさにかまけて大切なものを忘れ、心を亡ぼしてしまうと言うとても恥ずかしい言葉なので、決して人前で”忙しい”と言わないで欲しいんですね。」
入社式で、誰がどのような話をしたのか?は全く記憶にありませんが、街角の大衆食堂のラジオで聞いた永さんの言葉だけはあの独特の語り口とともに、今も、はっきりと覚えています。
ご訪問いただき、本当にありがとうございます。
ご紹介くださった永六輔さんのお話、なかなか味わい深いですね。
実は、私も入行式における頭取訓示がどのような内容だったのかは全く記憶していません。
会場で、たまたま隣席となったYくん(都立九段高校-早大商学部)と、当日配布された新入行員名簿を見ながら、『早稲田がXX名、慶応がXX名、、、ふーん、東大や一橋も結構いるんだね』などと、同期生の出身大学を調べたりしていた場面だけを記憶しています。
新社会人にまつわるお話では、”マエタケ”こと、放送作家の前田武彦さんが、ご自身の新入社員時代の思い出をお話しされていたラジオ番組が耳に残っています。
(思えば、当時はAMラジオが、とても重要な情報源でした。)
「社会人となって初めての給料日を迎えた時のことです。夕方に給料袋をもらってニコニコしていたら、そこに先輩が近づいてきて、こんなことを言ったんです」
『おい、お前は今日が初めての給料日だったな。』
『だまされたと思って、すぐその給料袋を持って酒屋に行け。そして酒を一本買って、親父さんのところに持っていけ』
「この先輩は何を言ってるのかなあという感じでしたが、とりあえず酒屋が閉まる前に行かねばと大急ぎで会社を飛び出して、先輩の言ったとおり一升瓶を買って帰宅しました」
「帰宅したら、既に親父も家にいました。”親父、初任給で酒を買ってきたから、一緒に一杯やろう”と、私は茶碗に酒をついで一緒に飲み始めました」
「飲み始めた途端、何と親父がボロボロと嬉し涙をこぼし始めたのです。親父が泣いているのを見るのは生まれて初めてでした」
「それを見て、”ああ、先輩は、息子を社会に送り出した時の父親の心境を良く分かっていたんだな。だから、アドバイスを僕にくれたんだな”と、心から先輩に感謝しました」
「あれから何年も経ちましたが、毎年4月1日が来るたびに、私は若い人に向かって、このエピソードを紹介しているんです。」