長引く不況の影響で、学生への仕送りが減少の一途だという調査結果が、不動産賃貸業界から発表されています。
1995年頃には、月の平均仕送り額が10万円台であったものが、直近の調査では8万円前後まで落ち込んでいるそうです。
ご子息を大学へ送り出す地方在住の親御さん達がご苦労されていることが、この金額からも想像できます。
何とか仕送りを減らさずにできないか、親御さん自身の飲食費や服飾費を、まずは徹底的に切り詰めるはず。
それが親心というものです。
仕送りが2万円減ったということは、その裏側で親御さんご自身の出費が2万円の何割増か削られているということでしょう。
一方、学生さんたちも苦労されています。
先日、中堅コンビニ・チェーンの社長さんとお話ししたら、弁当の売上が減り、代わっておむすび・カップ麺の単品を買う若者が増えているとのことでした。
食べ盛りの学生さんたち、特に運動部員たちは、本当に苦労していると、私も肌で感じています。
ご飯だけは自分で炊いて、おかずはコンビニで買った惣菜のコロッケだけ、
あるいは、夕食は単価100円台のハンバーガー単品を2つ食べるだけ、という野球部員が最近もいましたから、これでは、いくら練習しても体が強くなりません。
さて、親元を離れて大学に通う若者たちの月々の出費で、もっとも大きな費目の一つに家賃があります。
私達の世代あたりまでは、三畳や四畳半一間のアパートあるいは賄い付きの下宿屋さんが早稲田界隈にも数多く存在しました。
中には、「借りる方も借りる方だが、貸す方もどんなものか」と思えるぐらい老朽化した建物もありましたが、青雲の志を持つ若者たちにとっては楽しい空間で、私も何度となく泊めてもらい、試験対策を練ったり、酒を飲んだり、マージャンしたり。
いつの頃からか、そのような下宿屋さんが姿を消し、ワンルームマンションあるいは風呂付きアパートを借りる学生さんが一般的になってきていました。
ところが、その家賃を少しでも節約しようと、このところ地方出身者向けの学生寮の人気が再び高まっているようです。
地方出身者向けの学生寮とはどんなところなのか、東京出身の私には今ひとつピンときません。
そこで、ネットで情報を検索していたところ、「米沢有為会」という社団法人に行き当たりました。
米沢有為会
この社団法人は、山形県米沢市出身の大学生向けの学生寮を、東京・調布市と宮城県仙台市で運営しており、「東京興譲館寮」と「仙台興譲館寮」と名前がついています。
月々の家賃は東京・調布市の寮で3万円台から4万円台と、民間アパートの半分ほどの水準ですから、学生さんも親御さんも大助かりでしょう。
同じ山形の県立米沢興譲館高校は、1618年7月に上杉景勝家老の直江兼続が創設した学問所を起源とし、1697年に建立された藩校から現在に至るという、現存する高校の中で日本最古の高校と言われていまして、学問所から起算すると392年、藩校建立からでも313年という圧倒的な歴史を有しています。
そのような名門校ですから、卒業生の顔ぶれも凄いです。
軍人であれば、真珠湾攻撃の機動部隊の司令官であった南雲忠一海軍大将、学者でいえば民法の大御所・我妻栄さん、プロ野球では南海ホークスで200勝をあげた皆川睦夫投手といった歴史上の人物の名前がずらりと並びます。
我妻栄さんは民法研究では歴史に残る大学者で、我妻さんが民法を解説された書籍(写真)は「ダットサン民法」という愛称で呼ばれ、多くの学生や社会人に読まれました。
ちなみに、その愛称「ダットサン」は、かつての日産自動車のブランド。
我妻さんの民法解説書が手頃な大きさで持ち歩きやすかったことから、小回りがきくダットサンのような本だと学生たちが名づけたそうです。
我妻栄さんは、東京帝大在学中から天下の大秀才との呼び声が高く、期末試験での我妻さんの答案内容があまりに素晴らしいと担当教授が驚き、答案用紙を額縁に入れて飾ったという逸話が残っています。
そんな大秀才の我妻さんですが、私が大昔に買ったダットサン民法の序文には、我妻栄さんが「私の司法試験での成績順位は二番だったらしい。一番は岸信介くん(後の総理大臣)だったようだ」と書いていらっしゃいます。
法律の神様のような存在であった我妻さんより司法試験の点数が上というのですから、岸さんがカミソリのように頭がキレる総理大臣と言われたのも納得ですね。
早稲田の野球部に目を転じると、田中幸長くんの同期生であった情野(せいの)亮くんが、米沢興譲館高校の出身でした。
「一年生の時の監督だった野村さんは僕のことを、いつも“ジョーノ”と呼ぶんですよ」と苦笑する情野くんは、グラウンド整備などの作業を骨惜しみせずに黙々とこなす男でした。
そして人懐っこい性格で、東伏見の地元ファンの方々にも可愛がられていまして、私も一年生の頃から卒業するまで何度も彼と食事に行きましたし、引退後はラグビー早慶戦を並んで観戦した思い出もあります。
新人戦を除き、神宮のベンチ入りの機会は巡ってきませんでしたが、情野くんは最後まで野球部の練習と学業を立派に両立し、卒業後は地元の銀行に就職しました。
山形県出身の現役部員が帰省する際には、いつも地元で待ち合わせして慰労会をしてあげるそうです。
さすが興譲館出身。
今や彼は、早稲田マンの心意気を実践する、立派なOBの一人です。
1995年頃には、月の平均仕送り額が10万円台であったものが、直近の調査では8万円前後まで落ち込んでいるそうです。
ご子息を大学へ送り出す地方在住の親御さん達がご苦労されていることが、この金額からも想像できます。
何とか仕送りを減らさずにできないか、親御さん自身の飲食費や服飾費を、まずは徹底的に切り詰めるはず。
それが親心というものです。
仕送りが2万円減ったということは、その裏側で親御さんご自身の出費が2万円の何割増か削られているということでしょう。
一方、学生さんたちも苦労されています。
先日、中堅コンビニ・チェーンの社長さんとお話ししたら、弁当の売上が減り、代わっておむすび・カップ麺の単品を買う若者が増えているとのことでした。
食べ盛りの学生さんたち、特に運動部員たちは、本当に苦労していると、私も肌で感じています。
ご飯だけは自分で炊いて、おかずはコンビニで買った惣菜のコロッケだけ、
あるいは、夕食は単価100円台のハンバーガー単品を2つ食べるだけ、という野球部員が最近もいましたから、これでは、いくら練習しても体が強くなりません。
さて、親元を離れて大学に通う若者たちの月々の出費で、もっとも大きな費目の一つに家賃があります。
私達の世代あたりまでは、三畳や四畳半一間のアパートあるいは賄い付きの下宿屋さんが早稲田界隈にも数多く存在しました。
中には、「借りる方も借りる方だが、貸す方もどんなものか」と思えるぐらい老朽化した建物もありましたが、青雲の志を持つ若者たちにとっては楽しい空間で、私も何度となく泊めてもらい、試験対策を練ったり、酒を飲んだり、マージャンしたり。
いつの頃からか、そのような下宿屋さんが姿を消し、ワンルームマンションあるいは風呂付きアパートを借りる学生さんが一般的になってきていました。
ところが、その家賃を少しでも節約しようと、このところ地方出身者向けの学生寮の人気が再び高まっているようです。
地方出身者向けの学生寮とはどんなところなのか、東京出身の私には今ひとつピンときません。
そこで、ネットで情報を検索していたところ、「米沢有為会」という社団法人に行き当たりました。
米沢有為会
この社団法人は、山形県米沢市出身の大学生向けの学生寮を、東京・調布市と宮城県仙台市で運営しており、「東京興譲館寮」と「仙台興譲館寮」と名前がついています。
月々の家賃は東京・調布市の寮で3万円台から4万円台と、民間アパートの半分ほどの水準ですから、学生さんも親御さんも大助かりでしょう。
同じ山形の県立米沢興譲館高校は、1618年7月に上杉景勝家老の直江兼続が創設した学問所を起源とし、1697年に建立された藩校から現在に至るという、現存する高校の中で日本最古の高校と言われていまして、学問所から起算すると392年、藩校建立からでも313年という圧倒的な歴史を有しています。
そのような名門校ですから、卒業生の顔ぶれも凄いです。
軍人であれば、真珠湾攻撃の機動部隊の司令官であった南雲忠一海軍大将、学者でいえば民法の大御所・我妻栄さん、プロ野球では南海ホークスで200勝をあげた皆川睦夫投手といった歴史上の人物の名前がずらりと並びます。
我妻栄さんは民法研究では歴史に残る大学者で、我妻さんが民法を解説された書籍(写真)は「ダットサン民法」という愛称で呼ばれ、多くの学生や社会人に読まれました。
ちなみに、その愛称「ダットサン」は、かつての日産自動車のブランド。
我妻さんの民法解説書が手頃な大きさで持ち歩きやすかったことから、小回りがきくダットサンのような本だと学生たちが名づけたそうです。
我妻栄さんは、東京帝大在学中から天下の大秀才との呼び声が高く、期末試験での我妻さんの答案内容があまりに素晴らしいと担当教授が驚き、答案用紙を額縁に入れて飾ったという逸話が残っています。
そんな大秀才の我妻さんですが、私が大昔に買ったダットサン民法の序文には、我妻栄さんが「私の司法試験での成績順位は二番だったらしい。一番は岸信介くん(後の総理大臣)だったようだ」と書いていらっしゃいます。
法律の神様のような存在であった我妻さんより司法試験の点数が上というのですから、岸さんがカミソリのように頭がキレる総理大臣と言われたのも納得ですね。
早稲田の野球部に目を転じると、田中幸長くんの同期生であった情野(せいの)亮くんが、米沢興譲館高校の出身でした。
「一年生の時の監督だった野村さんは僕のことを、いつも“ジョーノ”と呼ぶんですよ」と苦笑する情野くんは、グラウンド整備などの作業を骨惜しみせずに黙々とこなす男でした。
そして人懐っこい性格で、東伏見の地元ファンの方々にも可愛がられていまして、私も一年生の頃から卒業するまで何度も彼と食事に行きましたし、引退後はラグビー早慶戦を並んで観戦した思い出もあります。
新人戦を除き、神宮のベンチ入りの機会は巡ってきませんでしたが、情野くんは最後まで野球部の練習と学業を立派に両立し、卒業後は地元の銀行に就職しました。
山形県出身の現役部員が帰省する際には、いつも地元で待ち合わせして慰労会をしてあげるそうです。
さすが興譲館出身。
今や彼は、早稲田マンの心意気を実践する、立派なOBの一人です。
私立でも早稲田や法政は寮がありましたが無くなりましたし、長野県人寮もいくつかありますが、一つはアパートと何ら変わらないようになりました。
東大ファンの私としては前主将の高橋君が米沢興譲館の選手として思い入れがあります。
和敬寮をネット検索しますと、東京・巣鴨、横浜・戸塚、名古屋、長崎と各地に、和敬寮と名付けられた学校や企業の施設がありました。
きっと今時分は、どの和敬寮でも入居者の入れ替わりが次々にあって、管理人さんたちは大忙しでいらっしゃることでしょう。
東大の高橋主将も興譲館でしたね。
私は面識がありませんが、天下の東大で主将に選ばれた人物ですから、彼もきっと「さすが興譲館」と言われるような、ひとかどの人物だろうと思います。
びっくりです。
南雲忠一中将が米沢興譲館出身だなんて!
何故なら、その上官の山本五十六海軍司令長官は、新潟県長岡市出身ですよ(旧長岡藩士の子孫)。
長岡市には戦国時代に与板城があり、直江兼続は16年間そこの城主でした。(やはり治水工事をして新しい産業開発を奨励して、年貢を低く抑える善政をしていた、と聞きます)
奇遇すぎます!
すいません、あまりの偶然にコメントさせて頂きました。
失礼します