東京さまよい記

東京をあちこち彷徨う日々を、読書によるこころの彷徨いとともにつづります

志村城跡~志村城趾坂

2010年06月10日 | 散策

清水坂の坂下から進み、二本目を左折する。かなりの急坂で、ここを上り、道なりに進む。

しばらくすると、右側に熊野神社が見えてくる。

神社に入ると、すぐ左側に、志村城跡の石碑と説明板が立っている。

説明板によれば、志村城は、康正二年(1456)に千葉自胤(よりたね)が赤塚城に入城した際、一族の千葉隠岐守信胤が入城して赤塚城の前衛拠点とした。堅城であったが、大永四年(1524)に北条氏綱に攻められて落城した。

赤塚城は、ここから西側の西高島平駅の南の辺りにあったようである。

熊野神社は志村城二ノ丸にあたり、社殿は経塚と称する古墳の上に建てられた。

江戸名所図会に次のようにある。

「熊野権現の宮 同じ所清水坂の上より三町ばかり西の方、涯続きにあり。社の後は涯に臨みて、松杉等の老樹鬱蒼たり。就中樟の大樹は周囲三囲に余れり。当社は往昔千葉氏城内の鎮守たりしといふ。(今は志村より西の台までの間七ヶ村の産土神とす。)土人この地を隠岐殿やしきと字す。・・・」

境内の日陰となったベンチで一休み。暑いので水がおいしい。

神社を出て右折すると、志村小学校であるが、その前の道はかなりの下り坂であり、神社を出てまっすぐ進むと、遠くが見渡せるかなり高い階段の上にでる。この辺りはかなりの高台であることがわかる。

左折し神社のわきに沿った道を進む。突き当たりを左折すると、志村城趾坂の坂上である。

左の写真は坂上から撮ったものである。左側は神社の裏手で、右側は崖上であり、両側の樹木で鬱蒼としている。坂下側で右に曲がりながら下っている。

坂下右側が細長い公園になっている。ここが志村城山公園で、崖下のきわには崖からの湧水によるものであろうか、小川ができており、子供たちが遊んでいる。こういった所を子供は大好きである。

公園を進むと、一段高くなった所に上りの階段口がある。

ここを上ると、先ほどの志村城趾坂の坂上に出る。やや急な階段だが樹木で木陰になったよい散歩道である。

階段を下り公園に戻り、ここから志村三丁目駅へ。

携帯の歩数計による総距離は12.6km。

参考文献
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
「江戸名所図会(四)」(角川文庫)

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志村坂・清水坂

2010年06月09日 | 坂道

板橋本町駅から二駅目の志村坂上駅下車。

駅A1出口から出ると、道を挟んで志村一里塚が見える。

歩道を渡ると説明板が立っている。それによると、江戸時代の始め徳川家康の命により、約9m四方、高さ約3mの塚が江戸日本橋を起点として一里(4km弱)ごとに、道を挟んで二基ずつ築かれた。ということで道を挟んでもう一基ある。

志村一里塚は本郷森川宿、板橋宿平尾宿に続く三番目の一里塚である。 このような一里塚は都内に現存するものではここと北区西ヶ原にしかないとのこと。

中山道を進むと交番があるが、このあたりが志村坂の坂上である。

志村坂はかなり長く、坂上から見るとはるか下まで続いている。

まっすぐに続いている歩道を下り、坂下近くの環八通り手前の歩道橋まで行く。

左の写真は、歩道橋の上から撮ったものである。

志村坂は、昭和8年に現在の中山道がつくられたときの坂で、昭和の新坂である。

歩道橋から坂上まで戻る。

坂上から戻るようにして交番を左に見て旧中山道を進む。

しばらく歩くと、坂名を刻んだ大きな石柱が歩道わきに立っている。

このあたりが清水坂の坂上である。

隠岐坂、隠岐殿坂、地蔵坂ともいう。

坂上から緩やかに下るが、しだいに勾配を増し、左に大きく曲がりながらかなり急になってまっすぐに坂下まで下っている。

坂下にある石柱わきの説明板によると、この清水坂は旧中山道で日本橋を出発してから最初の難所であった。街道で唯一富士を右手に一望できる名所であったという。

江戸名所図会に次のようにある。

「清水坂 志村にあり。世に地蔵坂とも号く。旧名は隠岐殿坂と呼べり。昔隠岐守何某闢かるる故なりといふ。この地嶮岨にして往還の行人大いに悩めり。依って寛保年間大善寺の住守直正和尚、僧西岸と力をあはせ、勧進の功を募り、木を伐り荊を刈りて、石を畳みて階とす。しかありしより行人苦難の患ひを遁る。」

難所は寛保年間に和尚さんなどにより改修が図られて通り易くなったらしい。

坂下には、板橋・蕨両宿をつなぐ合の宿があり、志村名主屋敷や立場茶屋などがあって、休憩や戸田の渡しが増水で利用できないときの控えの場所として利用されていたとのこと。

江戸名所図会に、清水薬師如来が清水坂の下にあり、医王山大善寺と号す、とある。

坂下は、昭和三十年代頃まで旧街道の面影を残していたが、都営地下鉄線の開通などで変わったとのことである。

この坂の近くで都営地下鉄が地上に出ているようである。電車の音がし、電車が通っているのが見える。
(続く)

参考文献
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
「江戸名所図会(四)」(角川文庫)

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上宿~縁切榎・岩の坂

2010年06月08日 | 散策

板橋から旧中山道を進むと、ほどなくして「中山道板橋宿 ここは上宿」と刻んだ石柱が立っている所につく。

石柱のわきに立っている説明板によると、板橋宿は中山道の第一番目の宿場であり、日本橋方面から平尾宿・中宿・上宿に分かれており(前回の記事参照)、板橋からいまの環七通りのあたりまでが上宿であったとのこと。

少し歩くと縁切榎の交差点につく。

交差点の脇に縁切榎の石柱と説明板が立っており、その周囲に幟が立ち、奥に小さな祠がある。

説明板によると、この近くに旗本近藤登之助の抱屋敷があったが、その垣根のきわに榎と槻の古木があり、そのうちの榎がいつの頃からか縁切榎と呼ばれるようになった。嫁入りの際には、縁が短くなることをおそれ、その下を通らなくなったとのことである。文久元年(1861)の和宮下向のときは榎を避けるために迂回路がつくられたらしい。

男女の悪縁を切りたいときや断酒を願うとき、この榎の樹皮を削ぎとり煎じ、ひそかに飲ませると、その願いが成就するとされ、霊験あらたかな神木として庶民の信仰を集めたという。

この縁切榎のような禁忌(タブー)を迷信などといって笑うことはできない。現代の人々も同じような禁忌で行動を決めることがあるからである。例えば、結婚式や葬式の日取りを決めるときを考えてみればよい。

縁切榎の場合、そのような禁忌が民衆の信仰にまで変貌したということであろうか。男女の仲や酒などを断ち切りたいという願いはいつの時代にもあるようである。

縁切榎の手前側あたりから緩やかな上りとなるが、ここが岩の坂である。

右の写真の右端に縁切榎の幟が見える。

岩の坂は、上記の縁切榎の伝説から「縁切坂」、結婚するものはいやがって樹の下を通らなくなったことから「いやの坂」ともいわれた。

坂上を進むが、日ざしが強く、かなり暑い。この季節、このような日は坂巡りに適さない。

途中左折して板橋本町駅へ。
(続く)

参考文献
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)

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旧中山道~板橋

2010年06月07日 | 散策

板橋区の坂巡りにでかけたが、主に旧中山道に沿って歩くことになる。

午後埼京線板橋駅下車。

西口に出て駅前から旧中山道を歩く。商店街になっている。まっすぐ進み、現在の中山道(国道17号線)を横断し進むと、旧中山道仲宿の交差点に至る。ここから先が板橋仲宿商店街となっていてなかなかにぎやかである。

やがて緩やかな下りになって、石神井川にかかる板橋につく。

橋のたもとに「距日本橋二里二十五町三十三間」の柱が立っており、その傍らの説明板によると、この橋が板橋という地名の由来とのことである。

旧中山道では、この橋から京よりを上宿、江戸よりを中宿、平尾宿と称し、この三宿を総称して板橋宿と呼んだらしい。

板橋宿の中心は、本陣、問屋場、旅籠が軒を並べる中宿とのことだが、中宿とは、仲宿のことであろう。先ほど通ったが、いまも人通りが多く、また古そうな建物の商店(米屋さんか)があったりしてむかしの雰囲気がわずかに残っている。

橋の近くから石神井川緑道が延びている。

ここに入って進むと、道の側が池や小川となっていて子供たちが水遊びをしている。

ここを通り抜けると、石神井川わきの遊歩道にでる。半周ほどで終わり、わずかな距離である。

地図を見ると、この緑道は、石神井川が以前、蛇行していたときの川筋のようである。その跡を緑道にしたものであろう。この緑道が町と隣の町との境界になっているが、このことは石神井川~王子の記事で書いた。 

同じようなところが近くにあるようなのでいってみる。

板橋から石神井川に沿って上流に向かうとすぐに新板橋であるが、近くの横断歩道を渡り、公園に入ると、そこが釣り堀となっている。たくさんの人たちが釣り糸を垂れている。

ここを進み橋の下をくぐり、やがて公園の端につき外に出ると、そこは石神井川わきの遊歩道である。

細く延びた釣り堀公園で、先ほどの緑道と同じく短い。この公園も石神井川の蛇行跡のようで、町と隣の町との境界となっている。

板橋まで戻り、左折して旧中山道をさらに進む。
(続く)

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善福寺池とスイレン

2010年06月05日 | 散策

原寺分橋をすぎて進むと、途中、善福寺川沿いの遊歩道が通行止めとなっており、迂回して一般道を通り、すぐに遊歩道に戻る。

しばらく歩くと、善福寺公園につく。

この公園内の善福寺池が善福寺川の水源である。

善福寺池には下の池と上の池があるが、左の写真は、善福寺川への流れ口付近で撮った下の池である。

池には睡蓮(スイレン)や蘆などが生育している。

下の池は、上の池よりも面積が小さく、そのうえ蘆などが生育しているため、いっそう狭く見える。

池の周囲は樹木で濃い緑となっている。

睡蓮の葉が水面に浮かび、その間に赤い花、白い花が咲いて浮かんでいる。

大きな赤い花がきれいである。

花が夜に閉じ昼に開き、蓮(ハス)に似た形のためにこの名があるとのこと。

下の池のわきを通って上の池に向かう。

途中公園内に広場があって子供たちが野球遊びをやっている。

青梅街道の井草八幡宮の前から西に延びてきた道路を横断するともう上の池である。

上の池の左側の遊歩道を進む。

上の池はかなり広く、下の池から来るとせいせいとした感じがする。途中かなり大きな水鳥がいた。

 しばらく進むと、樹木で鬱蒼としたところに小さな池があり、ここに水が小さな滝となって流れ出ている。

説明板によると、往時の湧水の湧き出し口遅野井を滝の形で復元したものらしい。水は地下水の汲み上げと思われるが、ここが善福寺池の水源であろう。遅野井の由来も書いてあり、源頼朝伝説らしい。

滝の反対側の小島に弁財天がある。

さらに進み、手摺りが横に延びている池の端で誰かが鯉に餌をやっている。大きな鯉がたくさん集まって奪い合うようにしていると、鴨が二羽この岸を目指して一直線に泳いでくる。この餌やりを遠くで見つけたらしい。餌取り合戦に加わりすぐゲットしていた。ちょっと離れたところにも鯉がいたがこの餌やりを見つけることができない。水鳥は水に浮いている分水面までしか出られない魚よりも有利である。

池の周りをさらに進み、一周してもとの所に戻る。

公園内の道を通り下の池まで戻る。公園の左端に上の池から下の池まで通ずる川が流れているが、水量は少ない。

来たときと反対側を歩いて下の池の流れ口につく。

右の写真は、下の池から出てすぐのところにある美濃山橋から善福寺川下流側を撮ったものである。水量はかなり少ない。

善福寺池は二つの池をあわせるとかなり広く、その周囲に散歩道があり、水辺の散歩に適したところである。なによりも井の頭池などと比べて訪れる人はかなり少ないため静かな散歩が楽しめる。

ここから下流側に歩いて西荻窪駅へ。

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シラサギ・薬罐坂

2010年06月02日 | 散策

紫陽花の咲いていた大谷戸橋を過ぎてしばらくすると、いつもの所にシラサギがいた。

立ち止まってしばらく見ていると、なにかを見つけたらしく、頭を水の中に突っこんで捕らえたようである。

このシラサギは、体も大きく、コサギではなさそうで、ダイサギかチュウサギであるが、どちらであるのかよくわからない。

チュウサギはくびもあしも長いが、くちばしが短いとの説明があり、このシラサギはくちばしが長いので、この点でチュウサギとはいえないのかもしれない。

以前の記事でチュウサギとしたものもダイサギかもしれない。両者の違いをもっと調べる必要がありそうである。

今回遭遇したシラサギは、なぜか、わたしと同じ方向に移動し、計3箇所で見かけることになる。

始めの2箇所は環八通りの手前であるが、次は環八通り・中央線を越えたところである。

環八通りを越えてしばらく歩き、中央線のガード下をすぎるとすぐに置田橋があるが、ここを右折すると、薬罐(やかん)坂の上りとなる。

薬罐坂は「豊多摩郡誌」に次のように書かれている(石川悌二「江戸東京坂道辞典」)。

「薬罐坂 大字荻窪字本村に俗称薬罐坂と呼べる傾斜路あり。昔雨の夜毎に坂の中程に薬罐の転がり居れる奇怪事ありてこの名を得たるよし。雨の夜など今も時として薬罐の出づるなど云ふものあり」

少しうねりながら緩やかに上っている。

中央線にほぼ沿っているが、上の方で左に大きく曲がっており、そこから先は、ほぼ平坦で、上荻本町通りの商店街となっている。この通りは環八通りの四面道の交差点近くまで続いているようである。

石川の著書には、杉並区上荻二丁目の真言宗光明院の西方15番と16番の間あたりから南に善福寺川流域に下る坂とあり、15番と16番の間に上記の商店街があるので、ここが坂上と思われる。

同名の坂は、都内に他に三箇所あるようである。
①文京区小日向一丁目10番、生西寺の北わきの坂
②文京区目白台二丁目6番と三丁目18番の間を不忍通りから南に上る坂
③新宿区若葉一丁目のあたり(いまはない)

石川には、野狐のことを野かん(豸+干)といったので、それが薬罐の字に転じ、野狐が出没して人をたぶらかすようなもの寂しい坂が薬罐坂と呼ばれたという説が紹介されている。

善福寺川に戻り進むと、先ほどのシラサギにふたたび遭遇する。

 しばらくながめてから、さらに歩くと、原寺分橋手前の湧水箇所に至るが、今回はかなり湧き出ており、前回よりも湧水量が多いように感じた。
(続く)

参考文献
吉野俊幸「ヤマケイポケットガイド⑦野鳥」(山と渓谷社)
横関英一「江戸の坂 東京の坂」(中公文庫)

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善福寺川と紫陽花

2010年06月01日 | 散策

善福寺川を上流側へ善福寺池まで歩いた。

午後自宅を出て善福寺川に沿って歩く。

曇りでちょっと肌寒い感じであるが、散歩にはちょうどよい天候である。

川沿いの緑もすっかり濃くなっている。

梅雨入り前のこの季節、樹々の下を散歩するのが気持ちよい。

善福寺川に沿った善福寺川緑地公園は、上流側では神通橋で終わり、これから先、終点の善福寺池まで一部を除き川沿いのフェンスと民家との間にできた遊歩道を歩くことになる。

途中の大谷戸橋近くにもう紫陽花(あじさい)がきれいに咲いていた。

紫陽花は梅雨時の花である。

うっとうしい雨が続いてもこの花をみると、そうでもなくなるから不思議である。梅雨の季節にこの花が咲くことはなにか天の配剤といってもよいように思えてくる。

紫陽花というと、なぜか三好達治の『測量船』にある「乳母車」を思い出してしまう。以下、その「乳母車」である。

 母よ――
 淡くかなしきもののふるなり
 紫陽花いろのもののふるなり
 はてしなき並樹のかげを
 そうそうと風のふくなり

 時はたそがれ
 母よ 私の乳母車を押せ
 泣きぬれる夕陽にむかって
 轔々(りんりん)と私の乳母車を押せ

 赤い総(ふさ)ある天鵞絨(びろおど)の帽子を
 つめたき額にかむらせよ
 旅いそぐ鳥の列にも
 季節は空を渡るなり

 淡くかなしきもののふる
 紫陽花いろのもののふる道
 母よ 私は知つてゐる
 この道は遠く遠くはてしない道

この詩は中学時代の国語の教科書にのっていた。「紫陽花いろのもののふるなり」「泣きぬれる夕陽にむかってりんりんと私の乳母車を押せ」というのを覚えている。

紫陽花いろにまつわる母のイメージに乳母車に乗った私が重なり合うことで幼き頃の私と母の世界が浮かび上がってくる。

悲しき母を回想することで自らの存在を確かめているようにも思えてくる。母の悲しみに私のもの悲しさが重なってくる。

当時のわたしにとって理解を超えた不思議な詩であり、それ以上の感想を持ち得なかったが、もの悲しさだけが伝染したのであろうか。それが記憶の底に沈殿したのか、忘れ得ぬ詩である。
(続く)

参考文献
三好達治詩集(岩波文庫) 

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