東京さまよい記

東京をあちこち彷徨う日々を、読書によるこころの彷徨いとともにつづります

下戸塚坂~箱根山~久左衛門坂

2010年06月17日 | 坂道

夏目坂の坂上を右折し道なりに進む。途中、歩道わきに紫陽花がきれいに咲いている。

道幅が狭くなったところを直進すると、下戸塚坂の坂下に至り、右側に標柱が建っている。

それによると、江戸時代、この地は武家屋敷などで占められ、町名はつけられず、この坂も無名坂であった。明治五年(1872)下戸塚町となったことにより、この坂も下戸塚坂と呼ばれるようになった。

右の写真は、坂上の標柱を下側から撮ったものであるが、坂上近くでかなり勾配が大きくなっていて幅狭である。

坂上で大久保通りに接続するが、ここを右折する。

大久保通りをしばらく歩くと、右側に公園の案内が見えてくる。

右折すると、入口あたりでも樹木で鬱蒼としている。夏の暑い日差しを避けるのにはよいと思われる。

公園の中に入り進むと、大久保通り側は高台のようで、すこし下りながら歩く。やがて、箱根山の登り口が見えてくる。ここを登ると、すぐに頂上である。

頂上は意外に広く円形で中央に腰掛けがあり、ここで、一休みする。新宿西口の高層ビル群が見える。

登山口は、頂上の周囲3箇所にあるが、西側の階段は、左の写真のようにかなり長い。

以前の記事で紹介したように、ここは、東京23区内の超低山のうちの最高峰である。

頂上に埋め込まれた石のプレートに44.6mと刻まれている。しかし、東京23区内で海抜高度がもっとも高いのは、ここではなく、世田谷区の小田急線祖師谷大蔵駅付近の54mであるらしい。

写真の西側の階段から下りると、その地点からさらに下の道が見える。下の方からみると、かなり高い山に見えるであろう。

登り口のわきに立つ箱根山の説明板によると、この地は寛文8年(1668)尾張徳川家の下屋敷となり、戸山荘と呼ばれ、元禄年間に廻遊式築山泉水庭が完成した。明治7年(1874)から陸軍戸山学校用地となった。陸軍用地の頃から誰からともなく、この園地の築山(玉円峰)を函根山、箱根山と呼ぶようになった。

下りたところから周りを歩くと、「箱根山 陸軍戸山学校址」の石碑が立っている。

箱根山を背にして坂を下ると、もっとも低い地点と思われる所につく。戻るようにして公園の周囲を進み、途中、公園の中に入り、適当に歩いていると、明治通りにでてしまう。

新宿側に戻り、大久保通りとの交差点を渡り、左折して進みスーパーの前をすぎると、右側に椎の木坂の下りがある。

坂上の標柱によると、かつて尾張藩戸山屋敷(現在の戸山ハイツ)の内に椎の大木があり、この坂道を覆っていたため、椎木坂の名がついた。古くは、この辺りが砂利取場で、東西に上る二つの坂があったことから向坂とも呼ばれた(『新撰東京名所図会』)とのこと。

大久保通りにほぼ平行にまっすぐに下っている。 この坂を下り、直進すると、やがて椎木坂の標柱が見えてくる。そこを進むと、上りになり、坂上でふたたび大久保通りの歩道にでる。

標柱の説明のとおりここも椎木坂である。

坂を下り、低地となった道を左折し、南側にまっすぐに進み、突き当たりを左折し進むと、久左衛門坂(きゅうざえもんさか)の坂下にでる。標柱が立っている。

ここを左折し、右折し、さらに右折すると、石段からなる梯子坂(はしごさか)が見える。

坂上に立っている標柱によると、坂道が急で、あたかも梯子を登るようであったため梯子坂と名づけられた(『新撰東京名所図会』)とのことである。

同じような説明が「豊多摩郡誌」にもあるらしい。

現在、階段となっている坂は、むかしは急坂であったところが多いのであろう。

坂下をすぐに左折すると、久左衛門坂の中腹にでるが、ここを左折し、すぐに右折し、道路下のトンネルを抜けて西向天神方面に進む。

天神下の道を進むと、左に上る階段があるが、ここが山吹坂である。途中左側に大きく曲がっている。ここにも太田道灌の山吹伝説があるようである(以前の記事参照)。この伝説は各地(荒川区町屋や横浜市金沢区)にある。

坂上にある標柱によると、この坂上の大聖院境内にある「紅皿の碑」にちなみ、こう呼ばれるようになった。紅皿は太田道灌の山吹の里伝説で、雨具がないことを古歌に託して、道灌に山吹一枝を捧げた女性である。

古歌とは後拾遺和歌集の「七重八重 花は咲けども 山吹の実の(蓑)一つだに なきぞ悲しき」である。

山吹の里伝説とは、太田道灌が鷹狩りにでかけたとき俄雨になったので、蓑(みの)をかりに貧しい家に行くと、出てきた若い女性(紅皿)が蓑ではなく山吹の花一輪をさしだした。道灌はその意味がわからず、怒りながら雨の中を帰ったが、このことを家来に話すと、家来が上記の歌を引き、その娘は蓑ひとつなき貧しさを山吹にたとえたという意見をし、それを聞いた道灌は己の不明を恥じ、それからは歌道に精進するようになったという。ちょっとできすぎのような気がする。もっとも伝説とはそういうものであるが。

境内をもとに戻るようにして進み、階段を下り、久左衛門坂の中腹に戻る。右折し、坂を上ると、坂上にも標柱が立っている。

この坂は、むかしからの坂らしく、うねりながら上下しており、左の写真は坂上から撮ったが、坂下が見えない。

標柱の説明によると、この坂は、徳川家康の江戸入府以前から大久保に居住していた島田家の草創久左衛門が新しく開いた坂であったためこう呼ばれたという。先ほどの梯子坂はこの坂の裏道にあたる。

久左衛門は、市ヶ谷左内坂の名主島田左内の兄にあたり、兄弟そろってその名が坂名となったとのこと。
(続く)

参考文献
貝塚爽平監修「新版 東京都 地学のガイド」(コロナ社)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする