漱石公園をでて右折し、漱石山房通りを進む。早稲田通りにでるところにも漱石山房通りの標柱が立っている。
「明治大正東京散歩」(人文社)の明治地図を見ると、現在の漱石山房通りに相当する道があり、古くからの道のようである。
早稲田通りにでて左に進み、次の信号を左折すると、夏目坂の坂下で、ここから夏目坂通りが南側に延びている。
少し進むと、左側の狭い所に、夏目漱石誕生之地の石碑が立っている。その後ろに説明板もある。
夏目漱石は、慶応三年(1867)一月五日(太陽暦二月九日)、ここ江戸牛込馬場下横町(現新宿区喜久井町1番地)で生まれた。
父小兵衛直克と母ちゑ(千枝)の五男三女の末子で、本名金之助。漱石の誕生日と生まれた時刻によると大泥棒となるという迷信から、それを避けるには金の字や金偏のつく字がよいとのことで、金之助と命名されたという。
漱石は生家のあたりや実父について「硝子戸の中」(大正四年)で次のように書いている。
「此町は江戸と云つた昔には、多分存在してゐなかつたものらしい。江戸が東京に改まつた時か、それともずつと後になつてからか、年代はたしかに分らないが、何でも私の父が拵えたものに相違ないのである。
私の家の定紋が井桁に菊なので、夫にちなんだ菊に井戸を使つて、喜久井町としたという話は、父自身の口から聴いたのか、又は他のものから教はつたのか、何しろ今でもまだ私の耳に残つてゐる。父は名主がなくなつてから、一時区長という役を勤めてゐたので、或はそんな自由も利いたかも知れないが、それを誇にした彼の虚栄心を、今になつて考えて見ると、厭な心持は疾くに消え去つて、只微笑したくなる丈である。
父はまだ其上に自宅の前から南へ行く時に是非共登らなければならない長い坂に、自分の姓の夏目といふ名をつけた。不幸にして是は喜久井町ほど有名にならずに、只の坂として残つている。然し此間、或人が来て、地図で此辺の名前を調べたら、夏目坂といふのがあつたと云つて話したから、ことによると父の付けた名が今でも役に立つているのかも知れない。」
夏目家は、江戸町奉行支配下の町方名主で、神楽坂から高田馬場あたりまでの十一ヵ町を支配していた。
勢力があったようで、漱石の父が「喜久井町」の町名を夏目家の定紋の井桁に菊にちなんでつけ、「夏目坂」の命名も漱石の父がしたようである。この坂はもともと豊島坂といった。
夏目坂は、まっすぐに上下し、緩やかだが、坂上側で勾配が若干大きくなる。
標柱が坂下、中腹、坂上(反対側)に立っているが、これにも上記と同様の漱石の父のことが説明されている。
右の写真は坂上から撮ったものである。信号の合間に車のない坂の写真が撮れた。
漱石は、生後まもなく四谷の古道具屋(八百屋説もある)に里子に出されたが、すぐに連れもどされた。その後、四谷太宗寺門前の名主塩原昌之助・やすの養子となった。
上記の「硝子戸の中」に次のように描かれている。
「私は其道具屋の我楽多と一所に、小さい笊の中に入れられて、毎晩四谷の大通りの夜店に曝されてゐたのである。それを或晩私の姉が何かの序(ついで)に其所を通り掛つた時見付けて、可哀想とでも思つたのだろう、懐へ入れて宅へ連れて来たが、私は其夜どうしても寝付かずに、とうとう一晩中泣き続けに泣いたとかいふので、姉は大いに父から叱られたそうである。
私は何時頃其里から取り戻されたか知らない。然しぢき又ある家へ養子に遣られた。それはたしか私の四つの歳であつたように思う。私は物心のつく八九歳迄まで其所で成長したが、やがて養家に妙なごたごたが起つたため、再び実家へ戻るような仕儀となった。
浅草から牛込へ遷された私は、生れた家へ帰つたとは気が付かずに、自分の両親をもと通り祖父母とのみ思つてゐた。さうして相変らず彼らを御爺さん、御婆さんと呼んで毫も怪しまなかつた。向でも急に今までの習慣を改めるのが変だと考えたものか、私にそう呼ばれながら澄ました顔をしてゐた。
私は普通の末ツ子のように決して両親から可愛がられなかつた。是は私の性質が素直でなかつた為だの、久しく両親に遠ざかつてゐた為だの、色々の原因から来てゐた。とくに父からは寧ろ苛酷に取扱かはれたという記憶がまだ私の頭に残つてゐる。それだのに浅草から牛込へ移された当時の私は、なぜか非常に嬉しかった。そうして其嬉しさが誰の目にも付く位に著るしく外へ現はれた。」
少々長いが、漱石の幼年時代の哀しき回想である。この幼児体験が漱石の良くも悪くも原点なのであろう。
左の写真は前回記事で紹介した漱石公園の中に立っている夏目漱石終焉の地の説明板である。
写真の左奥にある石塔は、説明板によると、俗称「猫塚」と呼ばれているが、これは「吾輩は猫である」の猫の墓ではなく、漱石の没後遺族が家で飼っていた犬や猫、小鳥の供養のために建てたもので、昭和28年の漱石の命日にここに復元されたものとのことである。
漱石は、明治36年(1903)に帰国後明治40年(1907)まで千駄木や本郷に住んだが、最終的に実家の近くに戻ったようである。漱石山房があった漱石公園から夏目坂の坂下まで5,6分ほどである。
(続く)
参考文献
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
新潮日本文学アルバム「夏目漱石」(新潮社)
漱石全集 第十七巻(岩波書店)