板橋から旧中山道を進むと、ほどなくして「中山道板橋宿 ここは上宿」と刻んだ石柱が立っている所につく。
石柱のわきに立っている説明板によると、板橋宿は中山道の第一番目の宿場であり、日本橋方面から平尾宿・中宿・上宿に分かれており(前回の記事参照)、板橋からいまの環七通りのあたりまでが上宿であったとのこと。
少し歩くと縁切榎の交差点につく。
交差点の脇に縁切榎の石柱と説明板が立っており、その周囲に幟が立ち、奥に小さな祠がある。
説明板によると、この近くに旗本近藤登之助の抱屋敷があったが、その垣根のきわに榎と槻の古木があり、そのうちの榎がいつの頃からか縁切榎と呼ばれるようになった。嫁入りの際には、縁が短くなることをおそれ、その下を通らなくなったとのことである。文久元年(1861)の和宮下向のときは榎を避けるために迂回路がつくられたらしい。
男女の悪縁を切りたいときや断酒を願うとき、この榎の樹皮を削ぎとり煎じ、ひそかに飲ませると、その願いが成就するとされ、霊験あらたかな神木として庶民の信仰を集めたという。
この縁切榎のような禁忌(タブー)を迷信などといって笑うことはできない。現代の人々も同じような禁忌で行動を決めることがあるからである。例えば、結婚式や葬式の日取りを決めるときを考えてみればよい。
縁切榎の場合、そのような禁忌が民衆の信仰にまで変貌したということであろうか。男女の仲や酒などを断ち切りたいという願いはいつの時代にもあるようである。
縁切榎の手前側あたりから緩やかな上りとなるが、ここが岩の坂である。
右の写真の右端に縁切榎の幟が見える。
岩の坂は、上記の縁切榎の伝説から「縁切坂」、結婚するものはいやがって樹の下を通らなくなったことから「いやの坂」ともいわれた。
坂上を進むが、日ざしが強く、かなり暑い。この季節、このような日は坂巡りに適さない。
途中左折して板橋本町駅へ。
(続く)
参考文献
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)