東京さまよい記

東京をあちこち彷徨う日々を、読書によるこころの彷徨いとともにつづります

安養寺坂~念仏坂~暗闇坂

2010年06月19日 | 坂道

永井荷風旧居跡の説明板のある歩道を進む。そのまま余丁町の大きな通りを道なりに進むと、歩道の左に小さな祠が立っている。

右の写真の右下に見えるように青峰観音と刻まれた小さな石碑が建っている。

前回の記事のように、明治8年(1875)に江戸時代の小伝馬町の牢獄が市谷監獄(はじめは市谷獄所といった)に移された。その当時、まだ斬首刑が残っており、このあたりに斬首の処刑場があったといわれているようである。高橋お伝も明治12年(1879)1月この獄所で処刑されたという。

台町の坂上十三番の八百屋の裏庭に通称八百屋観音という小さな観世音像が祀られていたらしく、この八百屋観音が現在の青峰観音であろう。

青峰観音(八百屋観音)は刑死者を弔うためのものと思われるが、いつだれが建てたものであろうか。

このまま余丁町の通りを進めば、台町坂に至るが、そうせず引き返し、次を右折し狭い道を進む。

やがて住吉公園の手前あたりから下りになるが、ここが安養寺坂である。

坂上側と坂下に標柱が立っている。

この坂も古くからの坂らしく緩やかにうねっており、坂下に向け左に湾曲している。

標柱の説明によると、『新撰東京名所図会』に「安養寺坂は念仏坂の少しく北の方を西に大久保余丁町に上る坂路をいふ。傍に安養寺あるに因れり。」とある。安養寺は浄土宗知恩院末の寺院で、もと市谷左内町富士見坂のあたりにあった。そこが明暦二年(1656)、尾張藩上屋敷となるため現在の地に移ったという。

安養寺は、この坂の坂下に向かって右手にあるが、この坂からは見えない。この坂を下り、右折し、あけぼのばし通り商店街を進むと、右に安養寺の石柱の門とともに寺に至る道がある。

坂下を右折し、途中、左折すると、念仏坂の坂下になる。

石段からなり、かなり急で、途中左側に曲がると、さらに急になって坂上に至る。

むかしもかなり急で、途中、曲がっているので、危険な所だったように想われる。

坂上は、すぐに車道で車がよく通り、せわしない所で、ゆっくり写真も撮っていられない。坂下はそうでもないが。

坂下に標柱が立っており、途中の踊り場に低い石柱が立っている。

標柱の説明によると、『新撰東京名所図会』では、昔この坂に老僧がいて昼夜念仏を唱えていたことにちなむという。また、この坂は左右を谷に臨み、屈曲しており、危険だったので、仏名を念じて往来する人がいたことにちなむともいう。

 『新撰東京名所図会』は、「されども明治以前まで乞食僧の木魚を鳴らして念仏し居るを目撃したり者あれば、前説真なるがごとし。」としているとのこと。

永井荷風は、「日和下駄」「第十 坂」の最後に、念仏坂のような石段の坂について次のように書いている。

「市ヶ谷谷町から仲之町へ上る間道に古びた石段の坂がある。念仏坂という。麻布飯倉のほとりにも同じような石段の坂が立っている。雁木坂と呼ぶ。これらの石級(せききゅう)磴道(とうどう)はどうかすると私には長崎の町を想い起すよすがともなり得るので、日和下駄の歩みも危くコツコツと角の磨滅した石段を踏むごとに、どうか東京市の土木工事が通行の便利な普通の坂に地ならししてしまわないようにと私は心窃(ひそか)に念じているのである。」

左の写真は、ことし1月に撮影した、荷風のいう麻布飯倉の雁木坂である。両坂とも普通の坂に地ならしされずにすんだようである。

坂下から進み、左折しさきほどの商店街を進むと、住吉町の大きな交差点にでる。

右側から大きな通りが下っており、交差点はその坂下である。ここが台町坂である。

さきほどまでの余丁町の通りであり、右の写真の歩道を上って進むと、上記の青峰観音、荷風の旧居跡に至る。

goo地図の明治地図を見ると、安養寺のすぐ北側まで市谷監獄の敷地があり、この通りと坂はない。

市谷監獄は市谷谷町にあり、その後、市谷監獄が閉鎖されてから、一部が台町となり、この通りと坂ができたと思われる。

靖国通りを横断し、そのまま進むと、新坂の坂下に至る。

まっすぐに上下している。

新宿区荒木町と舟町との間を南側に上る坂であり、坂上を進むと外苑東通りに至る。

このあたりにあった寺が明治初年に廃絶し、その後、寺の地所を削り取って切り通しにしたのがこの新坂であるとのことである。

新坂というのは、都内のあちこちにあり、新しいといっても、当時のことであり、江戸時代にできた新坂もあるようである。

例えば、白山通り近くの本郷一丁目の新坂(石段)は外記坂ともよばれる江戸時代の坂である。

新坂の坂下を右折して進むと、いったん靖国通りにでるが、すぐに左に入る道があり、上り坂となる。ここを上ると、左手に道が続き左側に標柱が立っている。右手に靖国通りに下る階段があり、ここにも標柱が立っている。

このあたりが暗闇坂(くらやみざか)である。

右の写真は、暗坂(暗闇坂)の標柱を坂上側から撮ったものである。中央左寄りに階段の降り口と標柱が見える。

明治地図には、さきほど通った写真右手に下る坂はなく、当時は標柱の前を下り現在石段となったところを下っていたと想われる。

標柱には次の説明がある。四谷北寺町に出る道で、坂の左右に樹木が繁って暗かったためこの名がついた(『再校江戸砂子』)。別名「くらがり坂」ともいう(『江戸名勝志』)。江戸時代、坂上一帯は多くの寺院が並び、四谷北寺町と呼ばれていた。

荷風は同じく「日和下駄」で、この暗闇坂を次のように書いている。

「坂はかくの如く眺望によりて一段の趣を添うといえども、さりとて全く眺望なきものも強(あなが)ち捨て去るには及ばない。心あってこれを捜らんと欲すれば画趣詩情は到る処に見出し得られる。例えば四谷愛住町(よつやあいずみちょう)の暗闇坂、麻布二之橋向の日向坂(ひゅうがざか)の如きを見よ。といった処でこれらの坂はその近所に住む人の外はちょっとその名さえ知らぬほどな極めて平々凡々たるものである。しかし暗闇坂は車の上らぬほど急な曲った坂でその片側は全長寺の墓地の樹木鬱蒼として日の光を遮り、乱塔婆に雑草生茂る有様何となく物凄い坂である。二の橋の日向坂はその麓を流れる新堀川の濁水とそれに架った小橋(こばし)と、斜に坂を蔽う一株の榎との配合が自ら絵になるように甚だ面白く出来ている。」

現在の暗闇坂は荷風のいうような物凄い坂ではない。

左の写真は、同じく1月に麻布二の橋近くの日向坂を坂下側から撮ったものである。荷風のいうような風情はないが、坂上側はお寺や大きい古風な建物が続き、静かなところである。

暗闇坂の坂上をまっすぐに進むと、やがて新宿通りにでる。左折して四谷三丁目駅へ。

携帯の歩数計による総距離は13.4km。

参考文献
石川悌二「江戸東京坂道事典」(新人物往来社)
「荷風随筆集(上)」(岩波文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)

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