東京さまよい記

東京をあちこち彷徨う日々を、読書によるこころの彷徨いとともにつづります

夏目漱石旧居跡(千駄木)

2012年02月12日 | 文学散歩

漱石旧居跡 漱石旧居跡 前回の根津裏門坂上の交差点(日本医大前)を坂下から進んで右折し、ちょっと北へ歩くと、一枚目の写真のように左側(西)に夏目漱石旧居跡がある。二枚目の写真のように、石碑と説明板が立っている(その内容は下二、三枚目の写真のとおり)。

前回の根津裏門坂の標識にも「坂上の日本医科大学の西横を曲がった同大学同窓会館の地に、夏目漱石の住んだ家(“猫の家”)があった。『我輩は猫である』を書き、一躍文壇に出た記念すべき所である。」と紹介されている。

漱石は、明治33年(1900)英国へ留学し、明治36年(1903)1月に帰国した。漱石夫人の「漱石の思い出」には、帰国のことは家族に知らされなかったが、当時、神戸入港などの汽船で帰朝する人々の一覧が新聞に載ったようで、その中に夏目の名を見つけた人がいて、それで知ったとある。

帰国したとき、家族は夫人の実家(牛込区矢来町)のちっぽけな離れに住んでいたので、漱石は毎日借家探しに出かけ、本郷、小石川、牛込、四谷、赤坂と山の手は所かまわず探し歩いた。その結果、運よく探し当てたのがここであったという。本郷区千駄木五十七番地の斎藤阿具という漱石の大学時代からの知り合いの家で、その当時、斎藤は仙台の第二高等学校の教授であったため空屋であった。

この家には森鴎外も明治23年(1890)10月から住み、同25年1月に千駄木二十一番地に転居している。漱石が鴎外と同じ家に住んだことは今回はじめて知った(下二枚目の写真の碑文、下三枚目の説明板にも説明されている)。ここに3月に転居し、4月に第一高等学校の講師となり、同時にラフカデオ・ハーン(小泉八雲)の後任として東京帝国大学英文科講師を兼任した。

尾張屋板江戸切絵図(小石川谷中本郷絵図) 漱石旧居跡石碑 漱石旧居跡説明板 一枚目の尾張屋板江戸切絵図(小石川谷中本郷絵図(文久元年(1861))の部分図を見ると、日本医大付属病院のあたりは大田備中守の屋敷で、その向かい(西側)が有馬邸、海蔵寺であるが、この漱石旧居跡のある道はのっていない。実測明治地図(明治11年)にはのっており、北へ延び、現在のように団子坂上から延びる道へつながっている。

二枚目の写真の漱石旧居跡石碑は、道路に対し直角に立っているが、その道側の側面に「題字 川端康成書」「碑文 鎌倉漱石会」と刻まれている。上二枚目の写真のようにそのわきの文京区教育委員会の説明板は道路に面して立っているので、どうでもいいことだが、なにか妙な具合である。

この家で漱石は『我輩は猫である』を書いたが、それは、その当時、神経衰弱が昂じ、高浜虚子にすすめられ神経を静めるためであったという。

漱石は、明治39年(1890)12月本郷区西片十番地ろノ七号に移るまで、この家に住んだ。この家は、当時のごく普通の家であるというが、現在、愛知県犬山市の明治村に移築され保存されている。実際の地にではなくともいまなお残っていることに驚くが、百年以上前の日本の木造家屋を残すにはこういった方法しかないのであろう。
(続く)

参考文献
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)
デジタル古地図シリーズ第一集【復刻】江戸切絵図(人文社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図集 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
「江戸から東京へ明治の東京」(人文社)
「古地図・現代図で歩く明治大正東京散歩」(人文社)
夏目鏡子述 松岡譲筆録「漱石の思い出」(文春文庫)
「新潮日本文学アルバム 夏目漱石」(新潮社)
「新潮日本文学アルバム 森?貎外」(新潮社)

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