東京さまよい記

東京をあちこち彷徨う日々を、読書によるこころの彷徨いとともにつづります

禿坂(西五反田)

2015年03月08日 | 坂道

禿坂下 禿坂下 禿坂下 禿坂下 前回の旧桐ヶ谷坂下から坂上に戻り、右折し、桐ヶ谷通りを北西へ進む。途中、桐ヶ谷斎場があるが、明治44年(1911)の地図を見ると当時からあることがわかる。

かなり歩くと、信号のある大きな通りにでる。その左右に延びている坂が禿坂(かむろざか)である(現代地図)。西五反田四丁目9番と27番との間を西へ上る。

左折し坂上まで歩いてから引き返し、坂を下ったが、坂下から順に写真を並べる。

この坂は、勾配がかなり緩やかになる坂下側が長く、坂下がどこかはっきりしない。坂下方向へどんどん歩いていくと、やがて山手通りにいたるが、ここの交差点を横断してから、振り返って撮ったのが一枚目の写真である。これからわかるように、この交差点が「かむろ坂下」であるので、ここからはじめる。この坂のある道はかむろ坂通りとなっている。

山手通りの坂下からちょっと進んだところで撮ったのが二枚目で、品川百景の「かむろ坂」のプレートである。このような標識がここにあることも、このへんが坂の一部であることの証左といえるかもしれない。

さらに坂上側に進んでから坂上側を撮ったのが三枚目、そのあたりから振り返って坂下側を撮ったのが四枚目である。 一、三、四枚目を見ると、山手通りからちょっと入ったところから坂上側に向かってわずかであるが上りの勾配になっていることがわかる。

禿坂下 禿坂下 旧禿坂周辺明治44年地図 禿坂周辺昭和16年地図 上三枚目に見える信号のある交差点を通り過ぎてから坂上側を撮ったのが一枚目の写真で、そこから坂上側に進み、振り返って坂下側を撮ったのが二枚目である。信号の手前とそこを過ぎてから、ともに緩やかにカーブしている。このあたりは、ほぼ平坦なため、坂下とされてもおかしくはない。

三枚目は、明治44年(1911)発行の地図のこのあたりの部分図である。右上(北東)に流れている目黒川はかなり蛇行しているが、一ヵ所に橋が架かっている。その橋から川沿いに細い道が南西へ延び、ちょっと大きめの四差路に至り、そこから左下(南西)に延びている道が、この禿坂のある通りと思われる。目黒不動側にある安養院の位置を四枚目の昭和地図や現代地図と比べるとそういえる。

四枚目は、昭和16年(1941)の地図でこのあたりの部分図である。右上(北東)の目黒川は改修されて蛇行していない。目蒲線が開通し、不動前駅があり、その上(北)に目蒲線とほぼ平行に延びる道がかむろ坂通りで、現在とほとんど同じである(現代地図)。

禿坂中腹 禿坂中腹 禿坂中腹 禿坂中腹 坂上側に進んで坂上側を撮ったのが一枚目の写真で、このあたりでちょっと勾配がつきはじめているが、この先のカーブしているあたりから本格的な上りになる。

そのあたりから坂下側を撮ったのが二枚目である。このあたりの左側(南)歩道わきにかむろ坂公園がある。

さらに坂上側に進んで坂上側を撮ったのが三枚目で、このあたりでようやく坂らしくなる。そこから坂上側に進んでから坂下側を撮ったのが四枚目で、上り勾配の中間である。

この坂名の由来は、品川区HPに次のように説明されている。

『白井権八-小紫伝説にからむ名称で、遊女小紫の使っていた禿(かむろ)が付近の池に身を投げたことから、この名が起こったという。いつとはなしに、地域の人びとから通りの名称として呼ばれるようになった。』

禿坂中腹 禿坂中腹 禿坂中腹・坂標識 禿坂中腹 そのあたりから坂上側を撮ったのが一枚目の写真で、このあたりがこの坂でもっとも傾斜している。この先の信号のある交差点を左折すると、先ほど通ってきた桐ヶ谷通りである。

さらに交差点に近づいてから坂上側を撮ったのが二枚目で、そのちょっと上側にある坂の標識を入れて撮ったのが三枚目である。

その交差点を渡ってから坂上側を撮ったのが四枚目で、このあたりで緩やかな勾配になっている。

三枚目に写っている品川区教育委員会の坂標識に次の説明がある。

『江戸時代の延宝七年(一六七九)、辻斬り強盗を重ねていた元鳥取藩士平井(白井)権八が鈴ヶ森刑場で処刑され、権八なじみの遊女小紫はこれを悲しんで自害した。
 このとき、帰りの遅い小紫を探しにきたお付きの禿が帰り道でならずものに襲われ、逃げ場を失い桐ヶ谷の二ツ池に身を投げたという。
 これをあわれんだ近くの人が、なきがらを池の傍らの丘に葬り、その後、この一帯の丘陵をかむろ山、これに通じるこの坂を禿坂と呼ぶようになったと伝えられている。』

詳しい説明で権八・小紫伝説がよくわかる。この話は、歌舞伎「浮世柄比翼稲妻」(うきよつかひよくのいなづま)になっているとのこと(品川区HP)。

禿(かむろ)とは、むかし、遊郭で遊女のそばでその見習いをする十二、三才の女の子をいった。髪を「おかっぱ」(お河童)にしていたので禿とよんだ。禿とは河童のことで、河童が大入道やかわいい女の子の姿に化け、人にいたずらをしたので、その化けた場所が坂なら、そこを禿坂、橋なら禿橋、屋敷なら禿屋敷、路上なら禿横丁や禿小路などとよんだ(横関)。この禿坂が、横関説や河童伝説とどう関係するのか不明だが、唯一関係がありそうと思われるのは、その禿が身を投げたのが池ということである。

二ツ池は、第四日野小学校の西側で、旧地名の谷戸窪(やとくぼ)にあった(岡崎)。上記の明治44年地図を見ると、禿坂の道の下側(南)にそういう字名がある。

禿坂上 禿坂上 禿坂上 禿坂上 坂上側に進み、振り返って坂下側を撮ったのが一枚目の写真で、桐ヶ谷通りとの交差点が見える。

さらに坂上側に歩き、坂上側を撮ったのが二枚目で、そのあたりから坂下側を撮ったのが三枚目である。

さらに坂上側に進み、進行方向を撮ったのが四枚目で、ほとんど平坦であるので、このあたりが坂上と思い、引き返した。

この先を右折すると、林試の森公園で、その前の石古坂を下り(現代地図)、さらに進むと、目黒不動尊の西側の三折坂にいたる。

この坂は、目黒川流域から目黒台地に西へと上る坂で、上流側の石古坂金毘羅坂、下流側の峰原坂百反坂と同様である。

同名の坂が、都内のあちこちにあり、新宿区の東京医科大学の門前から東へ富久町方面に下る禿坂、文京区春日通りから北へ宗慶寺の方に下る坂(吹上坂の別名)など。

官版東京大絵図明治四年(1871)禿坂周辺 左の図は、官版東京大絵図(明治四年(1871))の禿坂周辺の部分図である。この地図の左上端(西北角)で、これから西北は描かれていないが、上側左端の目黒川東岸に行人坂権之助坂が見える。その下流中頃に橋があり、そこから左に川西岸へと延びる道がこの坂のある道と思われるが、その周囲は田のみで、その池も描かれていない。明治はじめ頃の地図であるが、江戸時代はまったくの田園地帯で、夜になればさみしかったところと想像される。

上(北)に目黒不動が大きく描かれているが、その下の「養安院」は、安養院の誤りと思われる。

品川区HPによれば、この坂は、延長が約480m、最大勾配が約3.5%(2.0度)で、かなり長い。どの辺を坂上にするかで変わってくるが、坂下は、山手通りの交差点から西にちょっと入ったあたりとしているようである。
(続く)

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
「東京市15区・近傍34町村⑱荏原郡品川町・大崎町全図」(人文社)
「地形社編 昭和十六年 大東京三十五區内⑯品川區詳細図」(人文社)
「東京人 april 2007 no.238 特集東京は坂の町」(都市出版)
デジタル古地図シリーズ第二集【復刻】三都 江戸・京・大坂(人文社)

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