与楽寺坂の坂上側の四差路を坂上から来て右折すると、前回の上の坂の記事のように、ちょっとした上り坂となる。ここを坂下側から撮ったのが一枚目の写真である。ここを直進すると、上の坂の坂上が左に見えてくるが、そのあたりから進行方向(北西)を撮ったのが二枚目で、ここを進んで突き当たり付近が芥川龍之介旧宅跡である。さらに進むと、三枚目のように、左手に芥川龍之介旧宅跡の説明板が見えてくる。
道順は、散策マップを見るとよくわかる(これは田端文士村記念館でもらったパンフレットにあるマップと同じものである)。
芥川家は、大正三年(1914)10月末、北豊島郡滝野川町字田端435番地に新築した家へ移転した。前年九月、龍之介は、東京帝国大学英文科に入学し、ここに養父母などと住んだ。芥川家は、もともと本所小泉町にあったが、明治四十三年秋、内藤新宿二丁目71番地に引っ越ししていた。養父の道章は新宿に住みながら土地探しをし、「田端にきめたのは、当時、田端三四三番地に道章と一中節の相弟子であった宮崎直次郎がいて、天然自笑軒という会席料理の店を出していたからであった。」(近藤富枝「田端文士村」)
芥川家の田端の家への坂道という写真が「新潮日本文学アルバム」にのっている。これが一枚目の与楽寺坂の四差路から北西へ上る坂と思われる(確証はないが)。この写真の坂道は、かなり荒れているが、当時の郊外の閑静な住宅地にできた坂道はこんな状態であったのであろうか。
一枚目の写真は、芥川龍之介旧宅跡の説明板で、ここには、大正三年から亡くなる昭和二年まで住んだととあるが、大学卒業後の大正五年(1916)12月横須賀の海軍機関学校の英語教師となったため、この間、鎌倉、横須賀に住んだ。教師と作家の二重生活であったが、大正八年3月辞職して、この田端の家に帰り、以降、作家専業となった。
二枚目は芥川龍之介旧宅跡の説明板を別の角度から撮ったもので、この左側の道を進むと、やがて、切り通しの道路を見渡すことのできるところに出るが、その向かい側が東覚寺坂である。三枚目は、芥川龍之介旧宅跡を背にして東南方向を撮ったもので、直進すると下り坂の先が与楽寺坂の四差路である。
田端駅前の田端文士村記念館に行って見たビデオにこの芥川の家も出てきたが、おかしかったのは、龍之介が庭の木に登ってそこから屋根へと移って、得意そうな表情になっているシーンがあったことである。素早い動作ではないが、確実に木へ屋根へと登っている。
龍之介が田端に住みはじめた大正三年当時、田端には画家、陶芸、彫刻などの美術家は多数住んでいたが、文学者はほとんどいなかった。しかし、龍之介がやがて文壇の寵児となったために文学者も多く住むようになり、田端文士村とよばれるようになったという。上記の散策マップにあるように、室生犀星、萩原朔太郎、堀辰雄、平塚らいてう、菊池寛などが住んだ。
参考文献
「新潮日本文学アルバム 芥川龍之介」(新潮社)
近藤富枝「田端文士村」(中公文庫)