東京さまよい記

東京をあちこち彷徨う日々を、読書によるこころの彷徨いとともにつづります

芥川龍之介と忠臣蔵(3)

2011年09月29日 | 文学散歩

前回の築地訪問の後、芥川龍之介が幼年時代から十代後半まで過ごした本所小泉町を訪ねた。

両国橋東側 回向院前 芥川龍之介生育の地の標柱 芥川家跡 柳橋の方から両国橋を渡って、東へ京葉道路の北側の歩道を進む。一枚目の写真は、両国橋を渡り、振り返って撮ったもので、欄干のわき遠くに神田川の河口にかかる柳橋が見える。

橋からちょっと歩き二つ目の信号のところが、二枚目の写真のように、回向院前である。この横断歩道を渡り、進むとまもなく、左手に横綱横町の小路が見えてくる。ここの歩道の右側(車道側)に三枚目の写真のように「芥川龍之介の生育の地」の標柱が立っている。四枚目の写真は、標柱の背面と、その向こうの龍之介が育った芥川家跡を撮ったものである。現在、食堂となっている。

尾張屋板江戸切絵図(本所絵図)を見ると、回向院の北側に小泉丁、横綱丁があり、東側に土屋平八郎邸がある。その北側に道を隔てて細川若狭守の屋敷がある。この本所絵図は、三版中最終版(1863)で、初版が嘉永五年(1852)であるが、この嘉永の本所絵図に、細川若狭守邸はなく、芥川などの小さな屋敷がある。近江屋板を見ると、回向院東側の土屋佐渡守邸、その東側の本多内蔵助邸の北側に、ひとまとめにして多数の姓が記してあり、その右の筆頭に「芥川」とある。芥川家は、代々御奥坊主をつとめた家柄で、この回向院の近くに屋敷があったものと思われる。

横綱横町と芥川家跡付近 芥川龍之介生育の地の説明板 説明板の写真 芥川龍之介文学碑 一枚目の写真は、横綱横丁の門構えの看板と、その左側の芥川家跡のあたりを撮ったものである。その看板の下右側に、二枚目の写真のような芥川龍之介生育の地の説明板が立っている。この説明文の下に、本所小泉町芥川家の写真がのっているが、三枚目は、その拡大写真である。私的には説明文よりもこの写真の方に興味がある。

芥川家は、本所区小泉町十五番地にあったが、明治地図を見ると、同番地は、両国橋から延びる電車通りに面し、そのわきに小路があるが、これがいまの横綱横町であろう。上記の説明板の写真は、明治時代の芥川家であるが、当時の雰囲気がよく伝わってくる。龍之介の養父道章は、東京府の土木課に勤務していたというが、これが当時の中産階級にふさわしい家なのであろうか。

標柱の所から東へちょっと歩くと信号があるが、ここで京葉道路を横断し、そのまま南へ直進し、一本目の左角に、四枚目の写真のように芥川龍之介文学碑が建っている。これが上記の説明板にある小学校前の文学碑と思われる。石碑には「杜子春」の一節が刻まれている。

吉良邸跡 本所松坂町公園由来 吉良邸跡 吉良邸跡 芥川龍之介文学碑を左に見て南へ進み、二本目を右折し、西へ歩くと、すぐの四差路の右側に、一枚目の写真のように吉良邸跡が見えてくる。ここは、二枚目の写真の説明板(三枚目の写真に写っている)のように、元禄15年(1702)12月14日赤穂浪士が討ち入った吉良上野介の上屋敷があったところである。昭和9年(1934)地元の有志が旧邸跡の一画を購入し史蹟公園とし、現在、墨田区管理の本所松坂町公園となっている。中に入ると、稲荷社があり、四枚目の写真のように、奥隅に上野介のみしるしを洗ったという井戸が再現され、吉良上野介の座像などがある。

吉良上野介の屋敷は、もちろんもっと広く、東西73間(133m)、南北35間(64m)、2550坪(約8400平方m)ほどで、この邸跡は86分の1程度という。この邸宅が本所松坂町一丁目、二丁目(現、両国二丁目、三丁目)にあったが、芥川家のあった本所小泉町十五番地の近くで、歩いて3~4分程度である。

芥川家は、下町的な江戸趣味の濃い一家で、家族全員が文学や美術を好んだというが、こういう雰囲気の中で、たとえば、大正5年(1916)2月作の短篇「孤独地獄」の冒頭に「この話を自分は母から聞いた」とあるように、龍之介は養母や伯母たちからいろんな物語や歴史話を聞いて育ったと想われる。そんな中に忠臣蔵物語もあったことは想像に難くない。なんといっても討ち入りの現場はすぐ近くであるから、話が真に迫りリアルであったに違いない。

上記の本所松坂町公園由来の説明板に「赤穂義士」とあるが、これが世間一般の忠臣蔵感であったし、いまでもまだそうであろう(「忠臣蔵」という言葉も「赤穂義士」とほぼ同義であるが)。勧善懲悪的な物語は世間に受けるものであるが、大石内蔵助ら赤穂浪士が艱難辛苦の末、主君の仇を討ったという忠臣蔵物語は、その最たるものである。龍之介の聞いた話もそういったニュアンスの濃いものであったであろう。

芥川龍之介は、前回の記事の短篇小説「或日の大石内蔵之助」を書いた大正6年(1917)8月当時、「鼻」(大正5年1月作)の発表後、師の漱石から讃辞を受け、大正5年(1916)12月から横須賀の海軍機関学校の英語教師の職を得て、その後漱石の死に遭遇したが、養父母らの実家から離れて鎌倉に住んで創作に打ち込んでいた。

そんな中で書かれた「或日の大石内蔵之助」は、単に歴史上の人物を俎上に載せて独自の解釈を加えただけのものではなさそうである。それは少年時代に聞いた物語を元にしながら、そんな物語を育む江戸から明治へと綿々と続く下町的な固定観念や親和的な雰囲気、それはおそらく、龍之介がもっとも馴染んだものであったに相違ないであろうが、そういったものを対象化した結果のように思えてくる。

誕生の地(鉄砲洲)がかつて赤穂藩浅野家の屋敷であったことを、感受性が強く人一倍鋭敏であったに違いない少年は、知ったのではないだろうか。それと育った近所が仇討ちの現場であったこととが結びついて少年の心に深く残った。そういったことが、この短篇を書くきっかけになったように思えて仕方がない。二つの偶然性が芥川の内部で必然性に転化したのである。

時津風部屋 吉良邸跡から両国駅方面にもどるが、写真は、その近くにある相撲部屋の時津風部屋である。
(続く)

参考文献
芥川龍之介全集1(筑摩書房)
新潮日本文学アルバム「芥川龍之介」(新潮社)
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
「古地図・現代図で歩く明治大正東京散歩」(人文社)

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