東京さまよい記

東京をあちこち彷徨う日々を、読書によるこころの彷徨いとともにつづります

荷風の同名異人(2)

2010年07月25日 | 荷風

荷風の同名異人に関し、続いて、「断腸亭日乗」大正12年9月26日に次の記述がある。

「九月廿六日。本月十七八日頃の新聞紙に、予が名儀にて老母死去の広告文ありし由、弔辞を寄せらるゝ人尠からず。推察するに是予と同姓同名なる上野桜木町の永井氏の誤なるべし。本年五月同名異人とは知らずして、浅草の高利貸予が家に三百代言を差向けたることもあり。諺にも二度あることは三度ありといへば、此の次はいかなる事の起来るや知るべからず。此日快晴日色夏の如し。午後食料品を購はむとて澀谷道玄阪を歩み、其の辺の待合に憩ひて一酌す。既望の月昼の如し。地震昼夜にわたりて四五回あり。」

これまた同じ人違いで、その同名異人の母が亡くなったらしく、その新聞広告を見た何人かが誤って荷風にお悔やみをよこしたことを少し驚きを持って記述している。

借金取りのときと同じく、永井尚志の家を継いだ上野桜木町の永井氏の誤りで、二度も同じような人違いが起きて、次は何が起きるかわからないなどと書いている。(三回目はなかったようであるが。)

この月1日に関東大震災が発生しており、余震が続いている。荷風は、食料品を買いに渋谷道玄坂まで出かけ、その辺りで一杯やっているが、地震も含め色々なことがあってやれやれという感じが伝わってくる。

ペリー来航などがあった江戸末期、老中阿部正弘は、幕府の外交対策の一環として人材登用をさかんに行い、勝麟太郎(海舟)や岩瀬忠震(ただなり)などを抜擢した。永井尚志(なおむね)は、旗本で小禄の者であったが、俊秀であったらしく、このときの抜擢組であった。

永井尚志は、目付、長崎海軍伝習所の総監理、外国奉行、軍艦奉行に次々と任ぜられた。安政の大獄で一橋派であったため失脚したが、その後、一橋慶喜が徳川15代将軍となり、京都町奉行として復帰し、大目付となり、さらに、それまでは大名でなければ任命されなかった若年寄に大抜擢された。若年寄であったことは荷風が日記に書いているとおりである。幕府瓦解の後、榎本武揚らとともに蝦夷へ向かって函館奉行となり、五稜郭で新政府軍と戦ったが、敗れて降伏した。その後、明治政府に出仕し、明治24年(1891)76歳で没した。

この永井尚志の養子大審院判事岩之丞尚忠とその配松平氏高子との間に生まれたのが、荷風と同名異人の永井壯吉であり、その妹夏子である。

夏子は、樺太庁長官平岡定太郎に嫁ぎ、その息子が梓で、その孫が公威、すなわち、三島由紀夫である。

三島由紀夫からみると、荷風と同名異人の永井壯吉は父方の祖母の兄にあたる。

参考文献
永井荷風「新版 断腸亭日乗」(岩波書店)
小西四郎「日本の歴史19 開国と攘夷」(中公文庫)
秋庭太郎「永井荷風傳」(春陽堂)

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 荷風の同名異人(1) | トップ | 御組坂(1) »

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

荷風」カテゴリの最新記事