東京さまよい記

東京をあちこち彷徨う日々を、読書によるこころの彷徨いとともにつづります

禅林寺(森鴎外の遺言碑・墓)

2011年12月14日 | 文学散歩

禅林寺?貎外遺言碑?貎外遺言碑 前回の太宰治文学サロンから禅林寺まで行くことにする。

本町通りを南へ歩く。三鷹の道は、新開地のためか、どれもまっすぐにつくられているが、この通りもまっすぐに南へ延びている。

ひたすら歩くと、連雀通りに突き当たる。ここを右折し、西へ歩くと、右手に禅林寺の入り口が見えてくる。

通りから一枚目の写真の山門までちょっと距離がある。山門から入ると、二枚目の写真のように、参道の右手に横長の石碑が建っている。よく見ると、三枚目の写真のように、森鴎外の遺言を刻んだものである。

禅林寺には、太宰治の墓があるが、森鴎外の墓もある。しかもきわめて近くである。鴎外の遺言碑は、禅林寺のホームページによると、昭和45年(1970)建立とある(このHPには太宰と鴎外の墓の案内もある)。

鴎外の遺言は次のとおりである。

余ハ少年ノ時ヨリ老死ニ至ルマデ
一切秘密無ク交際シタル友ハ
賀古鶴所君ナリコヽニ死ニ
臨ンテ賀古君ノ一筆ヲ煩ハス
死ハ一切ヲ打チ切ル重大事
件ナリ奈何ナル官憲威力ト

雖此ニ反抗スル事ヲ得スト信ス
余ハ石見人 森 林太郎トシテ
死セント欲ス 宮内省陸軍皆
縁故アレドモ 生死別ルヽ瞬間
アラユル外形的取扱ヒヲ辭ス
森 林太郎トシテ死セントス
墓ハ 森 林太郎墓ノ外一

字モホル可ラス 書ハ中村不折ニ
依託シ宮内省陸軍ノ榮典
ハ絶對ニ取リヤメヲ請フ手續ハ
ソレゾレアルベシ コレ唯一ノ友人ニ云
ヒ殘スモノニシテ何人ノ容喙ヲモ許
サス 大正十一年七月六日
        森 林太郎 言
        賀古 鶴所 書

森 林太郎
      男     於菟

    友人
     総代   賀古鶴所
              以上

(ホームページ「小さな資料室」の「鴎外の遺言」を参考にした。)

森?貎外墓森?貎外墓鴎外は、大正11年(1922)春頃から体の衰えが目立つようになり、6月半ばから役所を休み、病臥し、死期を悟ったのか、7月6日に大学以来の友人賀古鶴所に口述し筆記させたのが上記の遺言である。その後、7月9日午前七時に亡くなっている。

「新潮日本文学アルバム 森鴎外」にのっている遺言の写真を見ると、上記の禅林寺の遺言碑文は実物のとおり刻んだものであることがわかる(ただし「賀古 鶴所 書」までで、それ以下は省略されている)。たとえば、実物では、「奈何ナル官權」の「權」を改めてその左に「憲」とあるが、遺言碑文もそうなっている。

この遺言を読むと、鴎外の覚悟のほどが伝わってくる。鴎外は、石見人(現島根県津和野出身)である森林太郎(本名)として死にたいとしている。宮内省と陸軍にはつながりがあったが、しかし、それは生きている間のことであって、死んだら終わりで、それまでの縁によるあらゆる外形的な取扱は辞する。陸軍軍医総監(軍医として最高の地位)まで出世した官僚でもあったが、宮内省や陸軍からの栄典(勲章や位階)は絶対に固辞するとしている。死が近づき意識が遠くなる中、それでもこの点に限っては覚醒していた。官僚などもうまっぴらごめんだ。この瞬間、鴎外は、単なる岩見人として死ぬことになるが、しかし、その名はいまに至るまで残り、これからも消えることはない。それは決して陸軍軍医総監の故ではない。だが、鴎外といえども後世に名を残そうと文学に打ち込んだのではない。そうせざるを得なかったなにかがあるのだ。

墓地は本堂の裏手で、左端の方から入ることができる。真ん中の小路を進むと、右手に鴎外の墓がある。

鴎外の墓は、二枚の写真のように、墓表に「森林太郎墓」とあるだけで、遺言のとおりである。はじめ向島の弘福寺にあったが、関東大震災後、昭和2年(1927)10月禅林寺に改葬された。

鴎外を敬愛する永井荷風は、その祥月命日によく墓参りに向島に赴いているが、この禅林寺にも来ている。荷風の「断腸亭日乗」昭和18年(1943)10月27日に次のようにある。少々長いが全文を引用する。

「十月念七。晴れて好き日なり。ふと鴎外先生の墓を掃かむと思ひ立ちて午後一時頃渋谷より吉祥寺行の電車に乗りぬ。先生の墓碣は震災後向島興福寺よりかしこに移されしが、道遠きのみならず其頃は電車の雑沓殊に甚しかりしを以て遂に今日まで一たびも行きて香花を手向けしこともなかりしなり。歳月人を待たず。先生逝き給ひしより早くもこゝに二十余年とはなれり。余も年々病みがちになりて杖を郊外に曳き得ることもいつが最後となるべきや知るべからずと思ふ心、日ごとに激しくなるものから、此日突然倉皇として家を出でしなり。吉祥寺行の電車は過る日人に導かれて洋琴家宅氏の家を尋ねし時、初めてこれに乗りしものなれば、車窓の眺望も都て目新しきものゝみなり。北沢の停車場あたりまでは家つゞきなる郊外の町のさま巣鴨目黒あたりいづこにても見らるゝものに似たりしが、やがて高井戸のあたりに至るや空気も俄に清凉になりしが如き心地して、田園森林の眺望頗目をよろこばすものあり。杉と松の林の彼方此方に横りたるは殊にうれしき心地せらるゝなり。田間に細流あり、又貯水池に水草の繁茂せるあり、丘陵の起伏するあたりに洋風家屋の散在するさま米国の田園らしく見ゆる処もあり。到る処に聳えたる榎の林は皆霜に染み、路傍の草むらには櫨の紅葉花より赤く芒花と共に野菊の花の咲けるを見る。吉祥寺の駅にて省線に乗換へ三鷹といふ次の停車場にて下車す。構外に客待する人力車あるを見禅林寺まで行くべしと言ひて之に乗る。車は商店すこし続きし処を過ぎ一直線に細き道を行けり。この道の左右には新築の小住宅限り知れず生垣をつらねたれど、皆一側並びにて、家のうしろは雑木林牧場また畠地広く望まれたり。甘藷葱大根等を栽ゑたり。車はわづか十二三分にして細き道を一寸曲りたる処、松林のかげに立てる寺の門前に至れり。賃銭七十銭なりと云、道路より門に至るまで松並木の下に茶を植えたり。其花星の如く二三輪咲きたるを見る。門には臨済三十二世の書にて禅林寺となせし扁額を挂けたり。葷酒不許入山門となせし石には維時文化八歳次辛未春禅林寺現住?葬宗謹書と勒したり。門内に銀杏と楓との大木立ちたれど未だ霜に染まず。古松緑竹深く林をなして自ら仙境の趣を作したり。本堂の前に榧かとおぼしき樹をまろく見事に刈込みたるが在り。本堂は門とは反対の向に建てらる。黄檗風の建築あまり宏大ならざるところ却て趣あり。簷辺に無尽蔵となせし草書の額あり。臨済三十二世黄檗隠者書とあれど老眼印字を読むこと能はざるを憾しむ。堂外の石燈籠に元禄九年丙子朧月の文字あり。林下の庫裏に至り森家の墓の所在を問ひ寺男に導かれて本堂より右手の墓地に入る。檜の生垣をめぐらしたる正面に先生の墓、その左に夫人しげ子の墓、右に先考の墓、その次に令弟及幼児の墓あり。夫人の石を除きて皆曾て向島にて見しものなり。香花を供へて後門を出でゝ来路を歩す。門前十字路の傍に何々工業会社敷地の杭また無線電信の職工宿舎の建てるを見る。此の仙境も遠からず川崎鶴見辺の如き工場地となるにや。歎ずべきなり。停車場に達するに日既に斜なり。帰路電車沿線の田園斜陽を浴び秋色一段の佳麗を添ふ。澁谷の駅に至れば暮色忽蒼然たり。新橋に行き金兵衛に飰す。凌霜子来りて栗のふくませ煮豆の壜詰を饋らる。夜ふけて家にかへる。」(芒花:すすき、簷:のき)

断腸亭日乗 禅林寺断腸亭日乗 森家墓 荷風は、この日、晴れたからか、久しぶりに鴎外の墓参りを思い立った。三鷹に移ってからは一度も行っていない。渋谷に出てそこから井の頭線に乗って、吉祥寺まで行き、省線に乗り換え、次の三鷹で降りた。その途中、車窓からの風景が目新しく、細かな観察が続く。北沢のあたりまでは家が続き、巣鴨や目黒のあたりと似ているが、やがて高井戸のあたりに至ると、空気も清涼となって、田園森林の眺望が大変よくよろこんだ。田間に小川があり、貯水池に水草が繁茂し、丘陵に洋風家屋が散在する様子は米国の田園らしく見える。

三鷹から人力車で禅林寺まで行き、「葷酒不許入山門」(葷(くん)酒山門に入るを許さず)の石柱のことなどを書き連ね、一枚目のような禅林寺のスケッチを載せている。墓地に入り、鴎外の墓に香花を供えたが、二枚目のように森家の墓のスケッチも残している。帰途は駅まで歩き、同じ電車に乗ったようであるが、その沿線の景色が田園斜陽を浴び秋色が一段と美しかった。この後、新橋の金兵衛で夕飯をとり、凌霜子(相磯凌霜)から栗のふくませ煮豆の壜詰を贈られたが、戦時中の物不足が始まっていた。

荷風は、この日、久方振りの鴎外の墓参りを終え、その沿線の秋景色を堪能し、気分がよく印象に残ったのか、上記のように日乗の記述が多くなり、二枚のスケッチも描いている。

これ以降、戦後のどさくさのためか、鴎外の墓参りには来ていないようである。
(続く)

参考文献
「新潮日本文学アルバム 森鴎外」(新潮社)
永井荷風「新版 断腸亭日乗」(岩波書店)

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