東京さまよい記

東京をあちこち彷徨う日々を、読書によるこころの彷徨いとともにつづります

願行寺(駒込)~団子坂(1)

2012年09月19日 | 文学散歩

九月に入ったが、残暑が続き、いつものような街歩きになかなか出かける気になれない。昨年の今ごろはどこに行っているのかと見ると、築地からはじめて、隅田川に沿って勝鬨橋から上流へ新佃大橋~佃島まで歩いている。そのときの記憶からやはりことしの残暑は去年よりも厳しいと思う。 それでも、午後になって少し雲もでてきたので、出かけた。最近、森鴎外と芥川龍之介の記事で出てきた細木香以の墓のある駒込の願行寺である。

本郷通りから東 西教寺前 西教寺門前 願行寺手前 午後地下鉄南北線東大前駅下車。

駅の一番出口から出ると、眼の前が本郷通りで、ここを右折し、次を右折すると、一枚目の写真のように東へ向かう道がある。この右側の塀の向こうは東大農学部である。L字形の道で、すぐに突き当たり、左に曲がると、二枚目のように、北へまっすぐに延びている。その角に、三枚目の西教寺がある。

四枚目は、その門前からちょっと進んで、北へ続く道を撮ったものである。東大側の樹々が日に照らされてきらきらしており、暑さをいっそう感じさせる風景となっている。 この通りは南北線の東大前駅から近く、これができたため、この付近へのアクセスはきわめて便利である。本郷通りの裏道といった感じで、人通りも車も少ない。

願行寺門前 願行寺門前 小石川谷中本郷絵図(文久元年(1861)) 御江戸大絵図(天保十四年(1843)) ちょっと歩くと、左手に、一、二枚目の写真のように、願行寺の門前が見えてくる。ちょっと古びたいかにも昔からのお寺といった雰囲気である。田舎にはこのようなお寺がよくあり、どこかなつかしい気がしてくる。過去のある時点から時が止まったような感じがしてくるから不思議である。

森鴎外は、「細木香以」で、この寺を訪れたことを次のように記している。

『本郷の追分を第一高等学校の木柵に沿うて東へ折れ、更に北へ曲る角が西教寺と云う寺である。西教寺の門前を過ぎて右に桐の花の咲く寄宿舎の横手を見つゝ行けば、三四軒の店が並んでいて、また一つ寺がある。これが願行寺である。
 願行寺は門が露次の奥に南向に附いていて、道を隔てて寄宿舎と対しているのは墓地の外囲である。この外囲が本は疎な生垣で、大小高低さまざまの墓石が、道行人の目に触れていた。今は西教寺も願行寺も修築せられ、願行寺の生垣は一変して堅固な石塀となった。ただ空に聳えて鬱蒼たる古木の両三株がその上を蔽うているだけが、昔の姿を存しているのである。』

「十三」の冒頭である。本郷通り追分からこの道に入り、角の西教寺の門前を通り過ぎ、願行寺に至るコースを説明している。寺の外囲いは、むかしはまばらな生垣で、道から墓石が見えたが、これが石塀となったと記している。鴎外にとってこのあたりは以前から馴染んでいるところであった。鴎外「青年」の主人公が東京に出てきて訪ねた知り合いの下宿屋があったのは、ここからちょっと北へ進んだT字路のあたりである。

三枚目の尾張屋板江戸切絵図 小石川谷中本郷絵図(天保十四年(1843))の部分図を見ると、追分から入ったすぐのところに、西教寺があり、その先に、願行寺が見える。四枚目は御江戸大絵図(天保十四年(1843))の部分図であるが、上記二つのお寺が見える。近江屋板も同様である。江戸時代から寺の位置は変わっていないようである。

願行寺 細木香以の墓 細木香以の墓 願行寺に入り、右手に進むと、一枚目の写真のように前方に本堂が見えてくる。この正面を右に入ると、墓が並んでいるが、本堂の東わきに沿ってちょっと進んで右折し東に向くと、二枚目のように、墓の間にできた狭い道の突き当たりに真四角の墓石が見える。これが細木家の墓である。

こう書くと、いかにもすぐ見つかったようであるが、実はそうでなく、なかなか見つからないまま奥の方に行き、うろうろしていたら、掃除をしていたおばさんがいたので、尋ねると、親切にも墓前まで案内をしてくれたのである。三枚目が細木家の墓の全体写真である。

鴎外「細木香以」にもどると、次のように続いている。

『わたくしはある日香以が一家の墓を訪おうと思って、願行寺の門を入った。門内の杉の木立の中に、紺飛白(こんがすり)の浴衣を著た壮漢が鉄唖鈴を振っていて、人の来たのを顧みだにしない。本堂の東側から北裏へ掛けて並び立っている墓石を一つづつ見て歩いた。日はもう傾きかゝって来るに、尋ぬる墓表は見附からなかった。
 忽ち穉子(おさなご)の笑う声がしたので、わたくしは振り向いて見た。顔容の美くしい女が子を抱いてたゝずんで、わたくしの墓表の文字を読んで歩くのを見ていた。
 わたくしは捜索を中止して、「あなたはお寺の方ですか」と問うた。 「はい。どなたのお墓をお尋なさいますのです。」女の声音は顔色と共にはればれとしていて、陰鬱なる周囲の光景には調和していなかった。
 「摂津国屋と云うものです。苗字はさいきでしょうか。」魯文の記事には「さいき」とも「ほそき」とも傍訓がしてあるが、わたくしは「さいき」が正しい訓であるのを、たまたま植字者が「ほそき」と誤ったものかと思っていたのである。
 「では細いと云う字を書くのでしょう。」この女は文字を識っていた。
 
「そうです。御存じでせうか。」 「ええ、存じています。あの衝当(つきあたり)にあるのが摂津国屋の墓でございます。」抱かれている穉子はわたくしを見て、頻に笑って跳り上がった。
 わたくしは女に謝して墓に詣った。わたくしはなんだか新教の牧師の妻とでも語ったような感じがした。
 本堂の東側の中程に、真直に石塀に向って通じている小径があって、その衝当に塀を背にし西に面して立っているのが、香以が一家の墓である。
 向って左側には石燈籠が立てゝあって、それに「津国屋」と刻してある。
 墓は正方形に近く、稍(やゝ)横の広い面の石に、上下二段に許多(あまた)の戒名が彫り附けてあって、下には各(おのおの)命日が註してある。

 十四
 摂津国屋の墓石には、遠く祖先に溯(さかのぼ)って戒名が列記してあるので、香以の祖父から香以自身までの法諡(ほうし)は下列の左の隅に並んでいる。
 詣で畢って帰る時、わたくしはまた子を抱いた女の側そばを通らなくてはならなかった。わたくしは女に問うた。
 「親類の人が参詣しますか。」
 「ええ。余所(よそ)へおよめに往った方が一人残っていなすって、忌日には来られます。芝の炭屋さんだそうで、たしか新原元三郎と云う人のお上さんだと存じます。住職は好く存じていますが、只今留守でございます。なんなら西教寺とこちらとの間に花屋が住っていますから、聞いて御覧なさいまし。」
 わたくしは再び女に謝して寺を出た。そして往来に立ち止って花屋を物色した。』

鴎外がこの寺を訪ねて、細木香以一家の墓を探し当てるまでの顛末が記してある。墓の位置は、たぶん、いまと同じと思われるが、左側にあったという「津国屋」と刻した石燈籠はなかった。このあたりも戦時中は空襲にあって焼かれたと云うから、そのときなどに損傷したのかもしれない。

鴎外が墓参りに来る人を尋ねたときの「新原元三郎と云う人のお上さん」が香以の孫のえいで、芥川龍之介の実父新原敏三の弟元三郎の妻である(前回の記事)。

細木香以の墓 願行寺石塀 一枚目の写真のように、墓石の広い正面にたくさんの戒名が刻されているが、上記の鴎外の記述によれば、香以の祖父から香以の戒名は下列の左隅にあるとのことだが、なかなか読むことができない。おまけに、左端部分は風化したのか、焼けたためか、欠けている。

ところで、お墓の場所を教えてくれた掃除のおばさんと話していたら、この寺の縁者に当たるおばあさんが九十七、八で長寿を保っていると云うことであった。鴎外が上記のように願行寺を訪れたのは、香以伝の執筆中と考えると、大正六年(1917)であるが、鴎外に細木家の墓を指し示した顔容の美くしい女がこの寺の人で、幼子を抱いていたと云うから、その子がその長寿のおばあさんかもしれないと想像してしまった。そのとき一、二歳程度と考えると、年齢的にもちょうどあうからである。「抱かれている穉子(おさなご)はわたくしを見て、頻に笑って跳り上がった」と書いているように、鴎外の印象に残ったようである。

願行寺を出て左折し、門前の道を北に向かったが、二枚目の写真は、北側を撮ったもので、左側に願行寺の石塀が写っている。
(続く)

参考文献
「鷗外選集 第六巻」(岩波書店)
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図集 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
デジタル古地図シリーズ第一集【復刻】江戸切絵図(人文社)
デジタル古地図シリーズ第二集【復刻】三都 江戸・京・大坂(人文社)

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