ムカデとことこ

 ひとが幸福になること・意識の成りたち・物理と心理を繋ぐ道
       ・・そんなこと探りたい

同じ?温泉行き

2013-01-20 15:52:51 | 日々の暮らし・思い出
遠い所に住んでいる弟が来て、しばらく滞在しているので、

昨日はみんなで温泉に行った。

義父は、かかるお金はみんな自分で出すからと、何度か言っていた。

高速道路を使ってその温泉に行った。

ちょうど1週間前にも家族3人でそこへ行ったんだけど、

その時、義父は「ここは近くてええなぁ」と言っていた。

温泉の質も気に入っているし、

義父が近くてええなぁと言ってるしと、今回もそこへ行こうとなって行った。

だが、面白いことに、昨日その温泉からの帰り道に、

「ここは遠いなぁ、次はカンタラの傍のナンタラの湯がええなぁ」と言った。

感覚というものは本当にそのつど違うものだと感心した。

先週と同じように同じくらいに家を出て、同じ高速道を走って、

同じくらいの時間にその温泉に着いたけど、

義父の中ではまるで違った。

遠くから来た久しぶりの息子を温泉に連れて行ってやりたい、ご馳走もしたい、

・・という気持ちが強かったのかと思った。

なので、まだかまだかと温泉に着くのを待っていたんじゃないかと思った。

まだかまだかと待っているとなかなか着かないと感じるのは、

ここでも何回か書いてるけど、そんなことかなと思った。

実際義父がそう思っていたかどうかはわからないけどね。


ツナミちゃん ②

2013-01-20 15:32:35 | ひとの幸福
前にツナミちゃんというネーミングだったか、ここに書いた。

今、探して来たよ、コレ。

「防潮堤は津波からその地域の住民を守る為に設置されているものだけど、

言い方を変えれば、津波を「ここからは入らないで下さい」と

拒否、拒絶しているものと言える。

波という目に見える海水は防潮堤という目に見える物に拒否され、反発する。

人間の場合も、ひとから拒否された時、

頭に来て、八つ当たりしてしまう、ということもある。

もう一人のツナミちゃんは、

ひとが拒否の気分でツナミちゃんに接しても、

拒否と受け取らず、

「何を言っているのかな、何をしたいのかな」と受け取る。

拒否の気分でツナミちゃんに向かったひとは、

その拒否気分がしゅーっと消えてしまう。

そういうこともある。」

・・・コレなんだけど、ここで云ってる人間のツナミちゃんという現象は、

もしかして『正しい認識』釈迦の云う『見ない』ではないかな・・・


ひとが拒否の気分で・・・、とこの時は書いたけど、

それは攻撃とか、否定的意識と言ってもいいな。

それがツナミちゃんには見えない。

攻撃的意識、それが究極の在りようではないものなので。

ひとが自分を責めて(攻めて)来たときに、

(責められた)と認識するのは正しい認識だ、というのは高速思考かな。

「何を言ってるのかな、何をしたいのかな」と受け取ったツナミちゃん・・とコレに書いている。

これはなんなのか??見えないからこそ、何?という?が生まれる。

見えない、見ないということは自分の中に(責める)それが無いということを示している。

究極的な在りようからは究極的な在りようしか見えない。


「見るもの聞く声みな楽しく美しく飽くるを知らず・・」

という山岸さんの文章が云っているのも同じ内容だろうと思う。

そのような境地(究極的な在りよう)からはそのように見える。

正しい認識 ★・・・ ②

2013-01-20 10:39:12 | 本を読んで
見られる側が、これはなんだろう???という邪心のないまなざし

(釈迦の云う『見ない』)

を感じても消えない・無くならないのは、

対象物が究極的な在りようのものだろう。

例えば、ひとに100%親切な気持ちで何かしているときに、

「これはなんなんだろう???」と邪心なく見つめられても

その現象は消えないと思う。

親切な気持ちで何かしてるその人の中にも邪心が無いからじゃないか。

赤ちゃんが昼日中井の頭公園で裸でいて、

ひとからなんだろう?と観られてもその現象は消えないだろう。

あの時空での性器出し男は邪心無く見つめられて、

自分で性器をズボンの中にしまった(その現象が消えた)のは、

その男が自分に邪心が在ることをわかっていたからだろう。

そしてそれが在ることを恥ずかしく思ったのではないか・・・

だからこそ、公園で性器をズボンに入れた。


“見ない”ことをしたので、見えなくなった。


邪心が元々のひとに在る性質、究極的な在りようではないからこそ、

自発的、自動的に消えるのかと思う。

仏陀の言う、これ・・・

「正しい認識が対象物を見たなら、

それが「ある」という定義であり、

正しい認識が対象物を見出さなかったなら、

それが「ない」という定義であるとされています。」

(この「ある」「ない」は究極的にという意味で)

・・この言葉がよくわかる例かと思う。



そして、又

その邪心のないまなざしという現象は自性によって成り立ったものじゃない。

その人の外部からなんの影響も受けずに、

たった一人でそうなったわけではないから。

『共に』というなり方でそうなったもの。

そういうなり方しかないから。




正しい認識って・・・★

2013-01-20 10:09:42 | 本を読んで
・・・もうちょっと考えたい。

釈迦の『見ないことが、究極のありようを見たことである』という言葉についての解釈でこういう表現があった。

「正しい認識が対象物を見たなら、それが「ある」という定義であり、

正しい認識が対象物を見出さなかったなら、

それが「ない」という定義であるとされています。」

(この「ある」「ない」は究極的にという意味で)

“正しい認識”とはどういうことか・・・

このブログの何日か前に空の本質やら空の見解というタイトルで引用した例題で考えると、

昼日中大勢の人が居る井の頭公園の中での性器出し男という現象を、

どう認識するのが正しい認識なのか。

よくある高速思考では、「その行為はよろしくない」という認識かと思う。

なにをするのもその人の自由なのだからという理由で「その行為はよい」という認識も、

上に書いた認識と似たり寄ったり。同じ。そう思う。

(よろしくない)という否定認識が成り立つのは、

その行為・現象が究極的に存在するという認識が予めあるという前提がある。

存在するからこそ否定できる。

無いものは否定できない。

そこに花が無いのに、綺麗じゃないとは否定できない。

そこに在るからこそ否定できる。

否定も肯定も全く同じ。無い花を綺麗だと肯定も出来ない。

その性器出し男現象を存在すると認識するから、否定も肯定も出来る。

・・と考えるとやはり、“否定も肯定もない”認識を正しい認識という・・のか。

でもこれは認識というネーミングが相応しいんだろうか?


そのように認識している状態の意識の在りよう・・というふうが相応しい感じがしてしまう。

その瞬間において、そういうふうに認識している“心の状態で在る”から、

その時空での性器出し現象を「これはなんなんだろう???」と認識する。

う~ん、この方がぴったり来るなぁ。