ムカデとことこ

 ひとが幸福になること・意識の成りたち・物理と心理を繋ぐ道
       ・・そんなこと探りたい

「思う」という言葉 ③

2013-01-31 14:52:55 | 言葉
常に『今ここ』からの発信が日本語の表現・・・か???考えよう。

前にも何回か書いた気がするけど、

「歩く」という動詞の形は現在形でも、使い方は未来の状況について語る時にそれを使う。

私は歩く、これは今ここではない、未来のこと。一瞬先のことでもそう。

私は走る・・いつ?明日?一分先?のように。

現在、歩いている時は「私は歩いている」と表現するしかない。

ing。現在完了形。継続を表わしている。

今ここの瞬間を表わす言葉ではない。

今ここという瞬間の動作は表現不能。

「私は明日は走ると今思った」・・これを発したのはそう思った瞬間よりコンマ何秒か後だから、(思った)と過去形で表現したのである。

まことに日本語の用法は事実を捉えている。論理的である。


目に見える形ある現象はいっときも止まってないという事実がある。

形あるもので今ここという一瞬を表わす動詞が無いということは、

いっときも止まっていない事実と日本語の用法が一致している、と言えないか・・??


けれど、今を表わす動詞がある。「在る」コレ。

今という現在を表わす動詞は「在る」だけか?

ここに机が在る もそうだけど、こういう考えが在る もそうだ。

「思う」「わかる」という動詞は、今という時、そういう認識が在ると言ってもいい。

「思う」も「わかる」も認識を表す言葉で、言葉そのものは認識。

認識である言葉が発信されるのは常に“今ここ”である。

~月~日にその会議を行うことを決定した・・これはそれが発信されたその時空での言葉・認識。

実際の~月~日にそれが行なわれるという目に見える現象になるかどうかは、

その時点ではわからない。未定。

あの大震災で予定がその通り現象化しなかったことなど限りなくあるだろう。

ただ、そういう認識が在った、そういう約束が在った、のは事実だ。

在るもの、存在は存在する。形あるものも形の無いものも。

在るものはなってきたもの。形あるものも認識も




「思う」という言葉 ②

2013-01-31 10:29:19 | 言葉
「会議を始めたいと思います」という言葉について、

自分はこう思っているけれど、会場の皆さんの都合はそれでいいでしょうか、という含みがあるのかと思う。

もう少し待って欲しいという声があれば、待ちましょうというような暗黙の心が現れている言葉なのかと思う。

会議は皆でするものだから、皆の同意のもとでやりたいという心が言葉に表われている。

私はそんなふうに思う。

・・・一昨日かな、これ書いたの。もう少し考えたい。

桜井邦朋氏は、こういう言い方が謙譲の気持ちでなかったとしたら、

個人的に思うだけだから、“始めたい”のなら、勝手にどうぞということになってしまう、とあった。

だからこそ、その後に(思います)を付けるのだと思う。

個人的には始めたい・・が、(皆さんはどうか?)があるからこそ、

(思います)がついてしまう。

「始めたい」と(思うこと)が個人的であるということが予めわかっているし、

人それぞれでそれぞれの(思い)が在る、ことを、

“日本語の使い方”はわかっているからこそ、こういう表現になってしまうのではないかと思う。

「思います」は不要だと著者は言っていて、

だが、さすがに書かれた文章にはこういう用法はほとんど見られない、とも云っている。

それは当然だと思う。書き言葉と話し言葉は違う。

書き言葉はその時の自分の認識を表現しているだけで、

その場で他者と何かを為す場ではないから。コミュニケーションの場ではない。

コミュニケーションのために書かれた文章はあるだろうけど、

書き言葉それはコミュニケーションの場ではない。

論文を書くのに、これから論文を書こうと思います、なんていう場違いな表現はしない。

でも、個人的な手紙だったら、あるだろうな。

あなたに手紙を書こうと思います・・・前からあなたが好きでした・・とかなんとか。

この場合の(思います)には何が込められているか?

思い切って書く、という決心が感じられるな。

冒頭から、前からあなたが好きでした、だったら、与えるニュアンスはまた違う。

こういうのを行間を読む、というんだろうか・・・


また、会議は~時から始めるということになっているのだから、

何故「始めます」としないのか、それは不思議だと著者は云っている。

けれど、ここが又日本語の“言葉の使い方”に感服してしまうところだ。

会議は何日の何時からと決めたが、それはその時決めたことで、

予定は常に未定であり、なんらかの都合によっては幾らでも変わる可能性はあるもの。

変わるのは当然、という含みがその言葉の使い方に表われている。

常に現象は動き続けているということを“日本語の使い方”は知っているかのようだ。

常に『今ここ』からの発信が日本語の表現だ。

・・表現だ、と今言い切ったわたし。

明日になって、それは間違いだったと言うかもしれないな。

でも今そう書いてしまった。書き直そうかな・・

何でそう思うんだろう?

例外もあるかもしれない・・言い切れない・・とりあえず、言い換えよう。

・・・表現かと思う。もっとよく考える。