ムカデとことこ

 ひとが幸福になること・意識の成りたち・物理と心理を繋ぐ道
       ・・そんなこと探りたい

天賦の才 ②

2013-01-22 14:53:25 | ひとの幸福
天賦とは(天がわかち与える意)生まれつき。天性。

天才とは天性の才能。生まれつき備わったすぐれた才能。そういう人。

私たち全員は生まれつき持っているすぐれた性質が在る。

それは天から来たもののようだけど。

わたしたち全員は生まれついたとき、究極の在りようをしていた。

生まれたばかりの赤ちゃんを見たらわかる。

その心は無評価状態。

赤ちゃんに何をしても赤ちゃんはそれに対して評価はしない。

肯定も否定もしない。束縛心も闘争心も嫉妬心もない。

自覚はないけれど。

身体を快適に感じているとき、泣かないのは、

身体が不快状態のときに、大きな声を上げて、

周りにそれを報せる必要があることを無意識的に知っていることから来るのかと思う。

周りと共に存在していることを知っている。

無意識的に知っている。

身体は不快であってもきっと心は不快ではないと思う。

身体の苦しみを心は苦しまない状態といえるんじゃないかな・・・

そういう者だった。わたしたちは。

それを忘れているだけなんじゃないかな。

それを思い出す旅が人生。

ちょっとかっこいい言い回しだね~



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天賦の才

2013-01-22 14:27:50 | ひとの幸福
昔、横綱だった大鵬関が死に、彼の言動やらなにやらが新聞に出ていた。

大鵬さんは天賦の才があると言われていたらしいが、

彼は、誰にも多かれ少なかれ天賦の才がある。それを引き出すのは努力である・・

と言っていたよう。

天賦の才とは天才ということなのかな。広辞苑によると・・・・

天賦とは(天がわかち与える意)生まれつき。天性。

天才とは天性の才能。生まれつき備わったすぐれた才能。そういう人。

天性とは天から受けた性質。うまれつきそなわっている性質。天資。

天資とは生まれつき。

・・・・こう羅列してみると、

生まれつきというのは“天”から来るものらしい。

よく広辞苑に登場してもらうけど、

広辞苑に書かれてあることが正しい、というんじゃなくて、

この言葉はこのように使われています・・ということが広辞苑に書かれてあるのかと思う。

このように通用しています・・・

このように世の中の人は解釈しています・・・

広辞苑はその集大成といえるんだろうか。

生きて動いている私たちが使っている言葉は、

私たちの当たり前の解釈を表わしている、といっていいのかな。

「天」という意味深な字はいろんな意味を皆から持たれている。

この皆とは今までに生きた日本人全て。

天が与える性質というところの「天」はまさか空や空模様の事じゃないだろう。

天には空模様という意味もあるので。

地球をとりまく空間という意味もある。けど、これも違うよね。

天地万物の主宰者(人々の上に立ち、または中心となって物事を取りはからう者)。

造物主。帝。神。また、大自然の力。

自然に定まった運命的なもの。天国。楽園。

・・そんなのを天と日本人は解釈してきたようなんだろうけど、

それでもって、生まれつきというのは“天”から来るものらしいので、

それはどこ?












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ツナミちゃん ③

2013-01-22 11:12:24 | ひとの幸福
ひとが攻撃的になっているとき、

攻撃的意識がなかったツナミちゃんはそこで何を聴いたのか、見たのか。

相手の責める気持ちのその奥には必ず何かの意志がある。

それを聴く、見るんじゃないか・・・

責める、そのことがツナミちゃんの辞書には無いので、

それを見ないともう一つそこに在るのものが見えてくる。

ひとは結構こういう体験をしてるもんだ。

何かに腹を立ててものを言っている人にはそこになんらかの意志、気持ちがある。

具体的になんかないかな・・・

そうそう、私の母との経験、ここにも書いたことあるけど。

母に会うのが遅れたとき、なんでもっと早く来ないかっ!!

来られるはずじゃないかっ!と母はすごい剣幕で私に向かって怒った。

その時の私は、私には私の都合があって、それを実行するのは当然じゃないかっ!!

それを何言うのかっ!!!と、これまた凄い剣幕で怒った。

母の当然感と私の当然感が火花を散らした。

自分の中に(~するのが当然)が固く根を張っていたので、

それと母のそれが共鳴し合った現象だったよ。

えーっと脱線かな、そう、その時の母には(私と早く会いたい)という気持ちが在ったのだ。

でなければ、私がどんなに遅れようとへっちゃらのはず。

これは母が倒れてから気付いたことだったので、

もし、その時に気付いていたら、母のそういう気持ちが見えたと思う。

そうしたら、あ~、ごめんね。すぐにここへ来ればよかったね。

と自然に出たかなと思う。

すると母の怒りは消えたかと思う。

これも相互作用でそうなるということの一つだね。

あー言えばこう言うというのも一つの相互作用だし。

相手の怒りが消えるような、そういう意識状態から行為するのが年がら年中の人もいれば、

月に何度かの人もあるだろうし、

一日の半分くらいという人もあるだろうし。

山岸さんの、一時間或いは二時間メンバーもあるわけです。っていう文章が云っているのもこういうことかなと思う。

その文章の前にはこれがある・・・

誰が半メンバーとか、特定の人を云うのではなく、

自己を零にしてその活動に没頭している間の人の呼称であって・・というもの。

「自己を零にして」というのはその時の意識の在りようが、

無評価状態、無束縛(自由)状態、無嫉妬状態、キメツケが無い状態、謙虚状態等に

“なっている”ということかと思う。

そのような状態からの行為をしている間のことを、

その活動に没頭している間、と表現したものかなと思う。
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